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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために |
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18 夜はすでに明けつつあった。 一睡もできないまま、こんな時間に訪れたという客人を出迎える。開けた扉の前に立っていたのはウィラードだった。 ほんの少し、その姿を見て落胆する。カイルが来てくれたのでは、と心のどこかで期待していた。たとえほんとうの気持ちが語れないのだとしても、いまあの人の顔が見られたらどれだけ心が落ち着くだろう、と思っている自分がいた。 「兄さん」 「起きていたのか」 すぐに扉を開けた弟に、ウィラードは驚いたようだった。眠っていると思ったのだろう。その声がどこか予想外のことに慌てているようにも聞こえた。エルーシャに眠っていて欲しかったのかもしれない。 「落ち着かなくて」 「ああ……慌ただしくしてしまったからな。すまない、おまえは繊細だから……」 言い訳をするように謝られる。そう言うウィラードの方も、一睡もできていない様子だった。子どもたちがいなくなったと連絡を受けて、ウィラードもまた眠らずに経緯を見守っていたのだろう。良き領主だとマティアスが彼のことを称えていたのを思い出す。 「子どもたちが無事で何よりでした」 ツバサが言うと、ああ、と複雑そうな顔をしながら頷く。どうやらウィラードの耳にも、子どもたちが山に向かった原因がエルーシャにあることは伝わっているらしい。 しばらく躊躇う様子を見せたあと、切り出される。 「司祭様がおまえに会いたい、と来られているんだ」 「司祭様が、このような時間に?」 どうやら客人、とは司祭のことだったようだ。カイルもあとでウィラードのもとに顔を出すと言っていたから、待っていれば会うことができるだろうか。 その前に、あの司祭と顔を合わせなければならない。ある程度、どんな対応をされるのかすでに予測はついていた。 「身体の具合が悪いようなら断ろう。わたしも、いまはその時ではないと感じているから……」 ウィラードはおそらく、エルーシャを司祭に会わせたくないのだろう。断っておくから大丈夫だ、と安心させるようなあたたかい声で言われたが、ツバサは首を振った。 「いいえ。参ります」 何もしていない状態でもあれだけ敵対的だったのに、実際に子どもたちを危険な目に晒してしまったいま、ツバサはどれだけ責められるだろう。きっと以前の何倍も罵られて、水もたっぷりとかけられるかもしれない。 それでも、行かなくてはならない。 主張を通すためではなく、気持ちを分かってほしくてウィラードの目を見上げた。その緑色の瞳は、瞬きひとつの間を挟んで、すい、と逸らされてしまった。 「……わかった。行こう」 ほんとうは会わせたくないのだ、という感情がありありと伝わってくる声で頷く。ありがとうございます、とそれに礼を言った。 「マティアスも連れていってもいいですか」 「マティアスを? いや、司祭様はあいつと相性が悪いから……」 「そんなことはないですよ。もっと親しくなりたい、様々なことについて深く語り合いたい、といつも願ってやまないところです」 それまで大人しく背後で聞いていた魔術師が、会話に割り込んでくる。 まさかそこにいるとは思っていなかった様子で、ウィラードは驚いたようだった。 「マティアス! 何をやっているんだ」 「弟君の相談に乗っていました。いろいろ悩みが絶えないようですよ」 「余計なこと言うなよ」 魔術師を小声でつつく。 「悩みがあるのか……」 マティアスの一言が気になってしまったらしい。兄として、弟のことをほんとうに気にかけている人なのだ。 「たいしたことじゃありません。気にしないでください。お客様がお待ちなんですよね?」 「ああ」 気にはなるものの、いまは司祭に対応しなければならない。そのことを思い出したらしく、ウィラードの表情が引き締まる。領主としても無下にはできない相手なのだろう。 「おれは工房に戻るよ。話の続きはまたにしよう」 「一緒に来てくれないのか」 「きみのほうが司祭様や領主様にお話したいことがあるのでは? それならおれはいない方がいいだろう」 ちらり、とそれを聞いてウィラードがこちらを目でうかがう。話したいことがある、とまで心が決まったわけではないのだが。 もしすべてを打ち明けたら、あの司祭はともかく、ウィラードはどこまでツバサの存在を受け入れてくれるだろうか。弟のことを大切に思っているからこそ、中身が別人だと知れば裏切られたと思うかもしれない。 マティアスを残して、ウィラードとともに部屋を出る。 「……どんな話をしていたんだ?」 やはりまだ心に引っ掛かっているのだろう。生前のエルーシャは、それほどマティアスと一緒に過ごしていなかったのかもしれない。 「子どもたちが無事に見つかったと聞いて安心しました。経緯を教えてもらっていたんです」 すべて把握していることを、暗に伝える。 隣を歩くウィラードが、あぁ、と呻くような声を上げた。領主として、エルーシャのしたことをどう咎めようか迷っているのかもしれない。きっと、なぜそんなことをしたんだ、と聞きたくてたまらないはずだ。 しかしそれ以上は何も言わず、無言のまま廊下を歩む。窓の外は白みはじめていた。朝の訪れを意識すると、空腹と疲れを感じる。 「何も話さなくてもいい。わたしに任せておきなさい」 客間だと聞いている部屋の前で、ウィラードは立ち止まる。ありがたい言葉ではあったが、はたしてどこまでそれが通用する相手なのだろうか、と不安になる。その不安はツバサ自身に向けたものでもあった。ツバサと本物のエルーシャが置かれた境遇について、分かってもらうよう説得することが自分にはできるだろうか。 ウィラードが扉を開けるためこちらに背を向ける。ツバサはひとつ、首を振った。 (できるかどうかじゃない。やるしかないんだ……) 自分に言い聞かせる。いまできることをやるしかない。 こちらの姿を認めた瞬間、司祭は激しく音を立てて椅子を蹴った。 開口一番、何か罵られるかと思ったが何も言わない。そのかわり、こちらを見てくる目はあまりにも雄弁だった。今日という今日は絶対に生きて帰さないぞ、とでも言いたげに強烈な憎悪が滲んでいる。 「エルーシャにご用とのことだが……」 その迫力に怯んだのか、ウィラードが曖昧に語尾を濁す。任せておきなさい、と言ったわりには弱々しい物腰だった。目に見えて苛立っている司祭を取りなすような態度で、争うつもりはない、と示しているようでもあった。 それを受けて、司祭も椅子に座り直す。ウィラードに示され、ツバサは司祭の斜め前の席に腰を下ろした。 「その目を止めさせたまえ」 司祭はツバサではなく、真向かいに座ったウィラードを見て言った。それを聞いて、ツバサは自分が無意識のうちに司祭をじっと見ていたことに気づく。つい先ほどマティアスから聞いた話を思い出し、いけない、と慌てて目を伏せた。司祭からすれば「悪魔」が自分を屈服させようとしているような、そんな仕草に受け取られかねない。 ウィラードは何も言わずにそんなツバサを見ていた。 「お話があるとのことでしたが」 沈黙が落ちる。話の口火を切ったのはツバサだった。言いたいことを言ってもらって、それからこちらの話を聞いてもらおう、と思っていた。 司祭はこちらに目もくれないまま、ウィラードに向けて話し出す。 「わたしがお話に参ったのは領主殿、あなたにお伝えしたいことがあったからです」 「しかし、エルーシャをここに呼ぶようにと仰いましたが。それは?」 「理由はあります。それは後ほど」 ツバサを無視してふたりの会話が交わされていく。およそ前向きな話し合いのできる雰囲気ではなかった。徐々に居心地の悪い思いになりながらも、意識して背筋を伸ばす。いまは口を挟まず、ふたりの話を聞くことにした。 「町の人間を代表して、単刀直入に申し上げます。あなたの弟君に、一刻も早くこの町を去ってほしいのです」 司祭は言葉を一句ごとに区切るように、はっきりと口にした。まさかいきなりそんな要求をされるとは思っていなかったらしく、ウィラードが面食らったように反論しようとした。 「しかし」 「子どもたちの件はお耳に入っておいででしょう。わたしが常々危惧していたことが、とうとう現実のものとなったのです」 まるで演説のように滔々と語られる司祭の言葉に、ウィラードが短く息を飲んだのが伝わってくる。彼らにとって、子どもたちを山に向かわせたのがエルーシャなのは事実だ。だからそれに関しては何も言い返せないのだろう。 「弟はいずれ帝都に向かう身です。いまはその支度を調えている最中で……」 「貴殿がそう言い始めてもうどれくらい月日が経ったことか。これまではその約束を信じて、みな不安に思いつつ耐えておりました。しかしその悪魔はついに本性を現し、子どもたちを惑わせ危険な目に遭わせた。ほんとうにそのような予定があるのならば、いずれと言わず今すぐに旅立たせるべきではないですか。この町のことを思うなら、それが最善策でしょう」 この町のことを思うなら。その言葉を出されると領主という立場としては弱いのだろう。司祭の話だけを聞いていると、言っていることは正しいのかもしれない、と思ってしまう。 だからウィラードの代わりに、ツバサが口を開いた。 「今回、子どもたちを危ない目に遭わせてしまったことについては心から反省しています。けれど信じてください、ぼくは決してそのつもりではありませんでした」 エルーシャ、とウィラードが小声で名前を呼ぶ。その声が驚きを含んでいて、ツバサは心の中で小さく、もしかしたらまた「失敗」しているのかもしれない、と思った。 身体が重い。目眩がしそうなほど、強く疲れを感じた。もしかしたら熱が上がってきたかもしれない。 「ぼくは普段から人々とふれ合うことができません。だから小さな人たちが屋敷に訪れてくれたことがとても嬉しかった。……とても嬉しかった、だから話したかった。それだけなんです」 それでも言葉を止められなかった。いまこの場でエルーシャを庇えるのは自分しかいない、という思いだった。 「結果として彼らを危険に晒してしまったことは事実です。そのことは、司祭様にも、町の皆さんにも、もちろん子どもたちにも謝らせてください。ほんとうに申し訳ありませんでした」 司祭は身じろぎせず、まるで動きを忘れたかのようにこちらを凝視していた。心からの言葉だと信じてほしかった。だからつい、エルーシャの力のことを忘れて、その目をまっすぐに強く見つめ返してしまう。司祭は目をそらさず、たじろいだように口元だけをわななかせていた。まるで、息ができない人のように苦しそうにも見えた。 「エルーシャ!」 かたわらから袖を引かれ、強く名前を呼ばれる。はっと我にかえり、失礼しました、と司祭から眼差しをそらした。 思っていることを伝えなければ、と夢中になるあまり、この身体が自分のものでないことを忘れそうになる。聞こえる声も、語る口調も決してツバサのものではないのに。 悪魔め、と、司祭が息苦しそうに呟いたのが聞こえた。震える手を机に添え、椅子から立ち上がる。 その声も同じように震えていた。 「これは貴殿の弟君ではありません、領主殿」 語られた言葉に、ツバサは伏せていた目を思わずまた司祭に向けてしまう。瞳が合わないように、相手の喉元に目をやった。まさか、と背筋が冷えた。すべて、見抜かれてしまったのだろうか。 「何を言うのです。エルーシャは紛れもなくわたしの弟です。いくら司祭様といえども……」 「それでは貴殿は、弟だというこのものの瞳を見て語り合うことができますか」 「それは」 痛いところをつかれた、とでもいいたげにウィラードは黙る。兄にあたる人でさえエルーシャとは眼差しが合わないよう避けていたのは事実だ。 「確かにエルーシャには他のものにはない特別な力があるかもしれません。けれど、弟は決してその力を悪用したことはありません。あなたがたが呼ぶような災いを為すものでは決して」 「これまではそうだったのかもしれません。しかし先ほどの様子を見ても、まだそんな悠長なことを言えるのですか」 司祭は懐に手を差し入れ、そこから硝子の瓶を取り出した。このあいだの物より少し大きいな、とやけに呑気に観察してしまう。瓶の蓋を取りながら、司祭は言葉を失っているウィラードに向けて続けた。 「わたしを屈服させようとしたあの目! これ以上庇い立てすれば貴殿も悪魔の同胞だと見なしますぞ」 声と同じくらい勢いよく、硝子瓶の中身がツバサに向かって浴びせかけられた。彼らが聖水と呼ぶ水だろう。大きめのグラス一杯分くらい、だろうか。それでも雨に全身ずぶ濡れになった時のように、全身がひどく凍えた。 ウィラードが様子を伺うようにこちらをじっと見ている。これ以上疑われたくなくてその表情を確かめることができない。けれど、食い入るように見つめる眼差しが注がれていることは分かった。どうして、と問いかけるような彼の強い不安を感じる。きっと目の前にいるのがほんとうに自分の弟なのか、疑いすら持ち始めている。 司祭はともかく、実の兄にそんな目を向けられるなんて、エルーシャが気の毒すぎた。 「話を、聞いてください」 こうなったらツバサの話を聞いてもらうしかない。理解してもらえるかどうかは分からないが、このまま黙っていても状況が良くなることはないだろう。そう判断して、口を開こうとした。 けれどそこから先、声が出なかった。先ほどから感じている疲労が、凍えるような寒気と合わさって全身を小刻みに震わせる。この変調には覚えがあった。そうして予想どおり、全身のいたるところが一度に痛みはじめる。 身体を起こしていられないほどの痛みと、息をすることもできないくらいの胸の苦しさ。解毒剤の効果が、よりによって今、途切れたのだ。 ちょうど朝の薬を飲まなくてはならない頃合いなのだろう。さらに、眠らずにいたことや夜の間に雨に濡れて身体を冷やしたことがいけなかったのかもしれない。先日カイルの前で倒れた時よりも早く一気に具合が悪くなる。まずい、と思った。このタイミングでは、どう見ても。 「エルーシャ」 ウィラードが椅子を立ち、こちらに手を伸ばそうとするのが見えた。弟の身体に触れる前に、その手は弱々しく戻される。怯えるような視線を、確かに感じた。 苦しみはじめたツバサを見て、司祭は勝ち誇ったような声で言い放った。 「言ったでしょう。本性を現したのです」 これではまさに、聖水を浴びたせいで苦しむ「悪魔」の姿そのものだった。
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