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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために |
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17 「……おれをどうする?」 エルーシャを演じるにあたって、ツバサはしてはならない失敗をした。マティアスにとっては、それも時間の問題だと予想のできていたことらしいが。 「どうもしないよ。おれはきみに引き続きエルーシャとしてここに在ってほしいと望んでいる」 「ちょっと難しくなってきたんじゃないか」 子どもたちが山に向かった、と話した時の、カイルの反応が思い出される。あの時、彼は明らかに違和感を覚えていた。何か言いたそうにしていて、それでも子どもたちの捜索を優先するためにそれを呑み込んでいた。子どもたちと軽々しく話してその挙げ句危険な目に追い込むなど、どんな理由があろうと彼の知るエルーシャの行いではなかったのだろう。マティアスの話を聞いたいまなら、ツバサもそのことがよく分かった。 おそらくカイルだけではなく、ウィラードもその行動に疑問を抱くだろう。自分がエルーシャではないことを打ち明けるとしたら、この機会しかない気がした。そうすればエルーシャを呼び戻すために、彼らの協力が得られるかもしれない。甘い、だろうか。 しかしマティアスはまた別の考えを持っているようだった。 「いい案があるんだけど、聞きたい?」 「聞きたいかと言われたら絶対聞きたくないけど……」 魔術師はにこやかに微笑んでいた。こんな顔をしてされる提案なのだ、きっとろくでもない。 ツバサの返答を無視してマティアスはひとりで続けた。 「きみがほんとうにエルーシャそのものになればいい」 「それができないから、今こういうことになってるんだろ」 ひとごとだと思って簡単に言ってくれる。 「魔術師にとってどうかは知らないけど、人間は見た目だけじゃないんだ。その人にしかない性格とか考え方とか、他の人とのかかわりかたとか。そういうもの全部をあわせてエルーシャなんだ。いくら顔が同じで話し方を似せたって、限界があるに決まってる」 「だから、それをすべて引き受ければいい。きみがエルーシャになりきれない原因を取り除けばいいんだ」 「原因?」 「そう。きみの言葉を借りて言うなら、きみ自身の性格や考え方だ」 そこまで聞いて、改めてろくでもない提案だ、と思い知る。けれどマティアスにとって、それはあくまで「いい案」らしい。ひとの心というものがないのだろうか。 「きみが望むなら、きみの記憶の何もかもを消してエルーシャのものに上書きしてあげよう。そうすれば、周囲の人々を悩ませることも困らせることもなくなる」 「そんなこともできるのか。……ほんとに、なんでもできるんだな」 ろくでもない、と、もう一度心の中で呟く。ツバサ自身の意思や思い出さえ、消そうと思えば目の前の男に簡単に消し去られてしまうのだという。ぞっとした。それはエルーシャとして目覚めてからこれまでに抱いた中で、もっとも強い恐怖だった。 「できるさ。きみ自身がそう願えばね」 「……なるほど」 付け足されたその条件に、そこはかとなく腑に落ちる。何でも知っているはずのマティアスは、ツバサから尋ねなければ何も教えてくれない。エルーシャが自分の死を願えばそれを受け入れ、ウィラードが弟の復活を願えばそれを受け入れる。もしかして、魔術とはそういうものなのではないだろうか。 「あんたが勝手にひとりでできることじゃない。本人とか、誰かが願わないといけない。そうなんだな」 「まぁ、おおまかな定義としてはそうだね。心を書き換えるのなら、きみ自身が本心からそれを望まなければならない。きみがエルーシャとして目を覚ますことを納得してくれた時のようにね」 「そんな納得、した覚えないけど」 覚えのないことを言われて戸惑う。歩道橋から足を滑らせて頭を打って、気がついたらこちらの世界にいたのに。 「してくれたよ。願いを叶えてくれるならなんでもする、って」 「あ……」 詳しくその時のことを覚えているわけではない。けれど意識をなくす寸前、叶えてあげようか、という言葉を確かに聞いた気がする。最大の心残りであるこめかみの傷を、どうかなかったことにしてほしかった。その「お願い」を叶えてくれるのならなんでもする、と、あの時のツバサならそう思っていたかもしれない。 分かっていても、口をついて出てしまう言葉があった。 「卑怯者……」 「人聞きの悪いことを! ちゃんとお願いは聞いてあげたじゃないか。しかもあとふたつも残ってるんだよ。そのうちのひとつできみの心を楽にしてあげよう。身も心も完全なエルーシャになってしまえば、もう悩まなくてもいいし苦しまなくてもよくなるよ」 それの何がいけないんだ、とでも言いたげにマティアスは堂々としている。 声は通じるが、心が通じない。そんな相手だと分かっていたはずなのに、もどかしさと無力感で言葉を失ってしまう。マティアスにとって、その提案は優しさそのものなのかもしれない。ツバサを楽にしてあげよう、と、そう語る声はやけに親切で誠実だった。 だからこそ、恐ろしかった。ここでツバサが頷いてしまえば、いまものを考えている意識も過去の記憶もすべて消してしまえるのだという。そうして、おそらくはマティアスが望んでいるとおりのエルーシャに生まれ変われる。 もちろんそうなったところで、本物のエルーシャとは違う存在だ。ツバサの意思があった時よりも実物に近いのかもしれないが、あくまでよく出来た複製なのは変わらない。けれどそのエルーシャは、ツバサのように失敗したりはしないのだろう。この美しすぎる身体を扱い損ねて誰かを傷つけたり惑わせたりはしない。たぶん。 (でも、そうなったら) そうなったら、ツバサは消える。たとえ元となった魂がツバサのものだとしても、自分の意思や思い出をなにひとつ残せないのだとしたら、それはもう一度、改めて死ぬのと同じことだ。 「そうなれば安らかに輿入れして、生涯幸福に暮らせるよ。ウィラード様も大喜びだ」 「ほんとうのエルーシャなら安らかに嫁がないだろ。それが嫌で毒を飲んだんだから」 「そこはほら、ちょっとだけ物事がうまくいくように調整させてもらうけれど……」 卑怯者、ともう一度呟いてしまう。ため息しか出ない。 確かにそうなれば楽なのかもしれない。婚約者も喜ぶし、ウィラードも喜ぶ。人々やあの司祭だって、エルーシャがこの町を去って行ったら安心するのかもしれない。一見、いいことしかないように思えるが。 「そんなの、エルーシャは喜ばない」 そうして親友が喜ばないことを、カイルも喜んだりはしないだろう。 「そうかな? まぁそうだな、エルーシャはそうかもしれない。きみの考え方は驚くほど彼に似通う部分があるから」 だからこそそこまで馴染んでくれたんだろうね、と、どこか呆れたようにも聞こえる声で言われる。 ツバサは服の上から左胸に手を当てる。いつしかエルーシャのことを考える時に、そうすることが癖になっていた。緊張しているのか、鼓動が少し早い。 たとえ身も心もエルーシャになれるのだとしても、その心にはきっと欠けたものがある。安らかに輿入れするために、と選別されて消されてしまうものがあるだろう。 守らなければ、と漠然と思う。何を守りたいのか、まだはっきりと分からない。けれどこの胸の中にあったはずのものも、いまツバサの胸にあるものも、なかったことにしたくない。 だからマティアスのその案には乗らない、と告げようとした。しかしそれを制するように、マティアスがゆるく首を振る。 「返事をするのはまだ早いと思う。いまは保留にしておこう」 そこで魔術師は、一拍黙った。やけに芝居じみた沈黙ののち、ツバサの眼差しを受けたまま扉を指し示す。 「きみにお客様が見えているようだよ」 扉が叩かれたのは、その言葉とほぼ同時だった。
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