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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために |
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16 眠れるはずもなく、ツバサはそのまま寝台に座って過ごした。 窓は閉めたが、何かあったらすぐに気づけるよう、部屋の扉は開け放しておいた。ウィラードの元にも人が訪れていたらしい物音や声がかすかに聞こえていた。緊迫した空気が、離れていても伝わってくる気がした。 直接ウィラードのところに出向けば、もっと詳しく状況を知ることができるかもしれない。けれどその場に町のものもいるのだとしたら、兄はいい顔をしないだろう。邪魔をしたくなかった。子どもたちがいなくなった原因がツバサにあると知れば、ウィラードも必要以上に責められる。いまは、カイルのことを信じるしかなかった。 どのくらい時間がたっただろう。濡れた髪も完全に乾いた頃、それまで静かだった廊下の先から、慌ただしく物音が聞こえてきた。耳を澄ませて待ち構えていたので、すぐにそれに気づく。部屋を出て、暗い廊下を進む。身を潜めながら、ひとが話しているらしき声が聞こえるところまで行った。 聞こえてくる声は高揚していた。 「よかった、ほんとうによかった」 ウィラードが感極まったように繰り返している。それを聞いて、ツバサは思わずその場にへたりこんでしまった。 子どもたちが見つかったのだ。全員無事に、怪我もなく、という言葉が聞こえてくる。心の底から安心して、身体の力が一気に抜けた。よかった、と息をついたところで、ふいに背後から声をかけられる。 「安心するのは早いと思うよ」 なんの気配もなかった場所からかけられた声に驚いて、廊下に座り込んだまま飛び上がりそうになる。 「マティアス……」 ウィラードたちに聞こえないように、声だけは抑えた。そこに立っていたのは魔術師だった。エルーシャの部屋にもいなかったし、ここに来るまでの廊下にもいなかったはずだ。マティアスは手に燭台を持っている。そのほのかな灯りの中、芝居じみた仕草で口元に指を当てる。静かに、ということだろう。 「子どもたちがいなくなって、でも無事に見つかったって、いま」 「ああ。心配いらない。みんなもうそれぞれの家に帰ったよ。この天気の中で山を下りるのは危険だと判断して雨宿りしていたらしい。賢い子どもたちだね」 「やっぱり山に行ってたんだ」 無事に家に帰れたと聞いて、改めて安堵する。ようやく立ち上がれるようになって、マティアスの言うとおりそろそろと部屋に戻る。 「カイルが見つけてくれたのか」 「山に、と先導したのは彼らしい。捜索隊には町の大人たちも加わっていた。カイルだけなら良かったんだけれどね」 魔術師は珍しく、渋い顔をしていた。いつもご機嫌な男のそんな顔を見るのははじめてだった。 「時間の問題だと思ったから放っておいたけれど、いざこうなると案外面倒なものだな」 さきほど、安心するのはまだ早い、と言われた。子どもたちが怪我なく無事に家に帰れたのなら、なにも問題ないように思えるのだが。もしかしたら他に何か起こったのだろうか。 ツバサの顔に考えたことが表れていたのだろう。子どもたちじゃない、とマティアスは首を振った。その表情は、いつもの捉えどころのない飄々としたものに戻っていた。 「きみだよ。子どもたちは発見された時にエルーシャの名前を出した。なぜ山に入ったのか聞かれて、『あのきれいな人に水晶葡萄を渡したくて』とね」 それをカイルだけでなく、町の大人たちも聞いていた。 カイルに「他のものにこのことを伝えてもいいか」と聞かれ、それに頷いた時から覚悟はしていた。自分の発言が子どもたちを危険に晒すことになったのは事実だ。 ただそれは、ツバサではなくエルーシャの責任になる。 「エルーシャなら決してあんな迂闊なことは言わなかった。きみは失敗したんだ」 しばらく、どちらも無言だった。 相変わらず降り続いているらしい雨の音が、閉ざした窓の向こうから絶え間なく聞こえてくる。長い時間窓を開けていたせいで、その周辺の床も濡れている。そんなことは見なくても分かっていた、とでもいいたげに、マティアスはそこを避けて寝台のそばにたたずんだ。 座れ、と言われている気がした。疲れていることもあって、おとなしく寝台に腰を下ろす。 あんなにきっぱりと「失敗した」と言われるとは思わなかった。魔術師はツバサをエルーシャの代役として失格とみなしたのだ。これから何が起こるのだろう。まだやりなおすチャンスを貰えるのか、そもそも自分自身がまだ続けさせてほしいと思っているのか、それすら今は分からない。何も考えられなかった。 子どもたちが無事だったことは、ほんとうに良かったけれど。 「……何か話したいことがあるんだろ」 腕を組んだまま黙っているマティアスを見上げる。魔術師は青紫色の瞳でこちらを無言のまま見下ろした。側机に置いた燭台の灯りがその瞳に映って、奇妙にゆらゆらと光ってみえる。何の感情も浮かんでいないように見える眼差しの中、その光だけがもの言いたげに揺れていた。 「きみが聞きたいなら」 「聞かせてほしい。おれが何をしてしまったのか」 説教をする気はないらしい。声はいつものように軽く、別段、腹を立てている様子ではなかった。ツバサが聞きたいなら聞かせる。そのかわり、聞かれなければ何も話さない、という姿勢もいつもどおりだ。 自分が何をしてしまったのか、聞かずにいることはツバサにはできない。間髪をいれず頷くと、マティアスもひとつ頷き返した。 「子どもたちの目を見て話しただろう。その時の様子がおかしいとは思わなかったかな」 「それは……」 言われて、確かに思い当たる節がある。 ひとと話す時に目を見るのは、ツバサにとって当たり前のことだった。ましてや味方の少ないこの世界で、自分を避けずにいてくれる存在が嬉しかった。顔を見て、目線を合わせて話したい、と思うのは自然なことだろう。 けれどいま思えば、子どもたちのあの熱に浮かされたようにこちらを見上げていた眼差しに、何の違和感もなかったといえば嘘になる。ツバサではなくマティアスに声をかけられた時の、はっと夢から覚めたようだった様子も。 「エルーシャが綺麗すぎたからだと思ってた。もしかして、違うのか」 「おめでたい子だなぁ」 素直に言うと、マティアスは呆れたように笑った。もしツバサが小さい子どもだったとしたら、エルーシャににっこり微笑みかけられただけでぼうっとしてしまうだろう。それほどエルーシャは美しい。そう思ったのだが。 「まぁでも、完全に間違いとは言い切れないか。美しいから力を持つのか、力を持つがゆえに美しいのか。どちらが先なのかは分からないが、エルーシャには昔からそういった能力があった。能力というには制御のきかないものではあるけれど」 「能力……あんたの使う、その、魔術みたいな?」 別の世界で命を落とした誰かの魂を連れてきて、死んだ人間を無理矢理生き返らせる。あったはずの傷跡も消してくれた。そんな不思議な力が、いまツバサの入り込んでいるこの身体にも宿っているということだろうか。 そういえば、「ひとつめのお願い」のおまけとして、兄に感謝の気持ちを伝えてほしいと頼んでいた。あれはどんなかたちで伝わったのだろうか。気になったけれど、いまは聞けなかった。 ツバサの気が一瞬逸れたことをマティアスも感じたのだろう。苦笑して続ける。 「昔、この屋敷に帝都から来た商人が出入りしていた。もともとエルーシャたちの両親が存命だった頃に贔屓にしていた商人で、町のものたちもウィラード様も、彼が訪れることを心待ちにしていたものだ。この町にいては見られないような珍しいものを、たくさん持って来ていたからね。もちろんエルーシャもその訪れを毎回楽しみにしていた」 確かいまから三年ほど前、エルーシャのご両親が亡くなられたあとの話だ、とマティアスは続けた。 エルーシャが十四歳くらいの頃の話だろう。どんな子どもだったのかな、とこの美しい人の幼い頃に思いを馳せてみる。さぞかし愛らしい、みんなに可愛がられる子だっただろう。そんな可愛らしい子が、見るものの目を奪わずにいられないほど美しく成長した現在、何故か人々から「悪魔」と呼ばれて怯えられている。 おそらくマティアスは、エルーシャが忌避されるようになったそのきっかけを話そうとしているのだろう。 「ある時からその商人は、エルーシャに特別な贈り物を持ち込むようになった。世界中を巡る商人が、とっておきだと差し出すような品々だ。空から降った星のかけら、太古の生き物の骨、失われた言葉で記された古い魔導書……そのどれにもエルーシャは目を輝かせていた。もちろん代金は支払っていたけれど、品物の価値に比較すれば信じられないほど破格だった。おれからすればとんでもない代物ばかりだったけれど、エルーシャはまだ子どもだったからそれらのほんとうの価値なんて分からなかっただろう。おまけに変なところで謙虚な性格だから、その商人がほかの人々にも同じように親切だと思っていたんだろうな。自分だけが特別だなんて、考えもしなかった」 話しぶりからするに、その商人はエルーシャだけを特別扱いしていた、ということだろうか。いまよりも少し幼い、それでもとびきり美しい少年がきらきらと瞳を輝かせて喜んでくれるのだから、それは多少贔屓しても仕方の無い話だろう。そこまでなら、他の人々が眉をひそめる程度で済んだのだろうが。 「やがてその商人は、帝都で捕縛された。罪状は窃盗。高貴な方々をお相手に取引して築いた人脈をもとに、あちこち入り込むことが可能だったらしい」 「まさか」 「そう。エルーシャに捧げられていたのはどれも、いずれかの場所から盗まれたものだった。中には国宝も混じっていたという話だ。すべて返上したけれど、なにしろ数が多すぎて元の持ち主に戻せたかどうかは怪しいところだな」 魔術師はそう言って楽しげに笑う。その思い出が、マティアスにとっては楽しいものなのかもしれない。けれどエルーシャにとってはどうだっただろう。完全な善意だと思っていた特別な贈り物が、すべてほかの誰かの元から盗まれたと知って、少なからず、衝撃を受けたはずだ。 「取り調べを受けた商人はこう語った。『どうしても抗えなかった』、『あの緑色の瞳に見つめられると、どんなことでもしようと思ってしまう』、『どんなことをしても、あの人に笑ってもらうために……』」 それを聞いて、ツバサははっとした。あの緑色の瞳に見つめられると、どんなことでも。エルーシャの能力。 「もしかしたら、あの子たちも同じことに?」 小さな背丈の人のために身を屈めて、目をのぞき込んで会話をした。その時に見つめた瞳が、まばたきを忘れたようにこちらを強くじっと見ていたのを覚えている。とろんと溶けたような、夢見心地の表情も。 あれはまさに、何らかの魔にとらわれた瞬間だったのかもしれない。 「おそらくはね。中身が異なっても、多少の影響力はあったということだろう」 「多少……相手がエルーシャだったらもっと大変なことになってたのか」 「子どもたちはきみとの約束を果たさないまま家に帰ったんだろう。本物のエルーシャが相手だったら、どんなひどい状況でも水晶葡萄を手にしようとしただろうね。大人が何を言っても無理だったはずだ」 「そんなに……」 軽い口調で語られているが、内容はぞっとするものだった。ほんの短い時間、親しく言葉を交わしただけなのに。 「エルーシャ本人にそんなつもりがなくても、その強すぎる美しさが人を惑わせてしまう。一種の魔力だ」 それもかなりたちの悪い種類のね、とマティアスは朗らかに付け加えた。 思いもしない話だったが、それを聞いて納得できるものも多かった。 「だから『悪魔』なのか?」 「いかにも。商人の件はいつの間にか人々に広まっていた。おそらく出所はあの司祭だろうが」 ひとに顔を見せて、目を合わせて話すだけで相手に何らかの影響を与えてしまう。いうなれば、支配下におくことも可能ということだ。それは確かに、恐れる理由に値するのかもしれない。 「だからエルーシャは外に出ないで、誰とも会わずに暮らしていたんだ」 思わず、そう呟いてしまう。ツバサはその軟禁を、ウィラードの、ひいては帝都の婚約者の意向だと思っていた。それも少なからずあるのかもしれないが、ツバサがこれまで理解したエルーシャの性格から考えるに、きっと原因は別にある。自分ではなく、他人を守るために。 「そう。そしてそれは、ウィラード様も例外ではない」 「兄ちゃんまで……」 そういえば、と思い出す。外に出てもいいか、と頼んだ時、ウィラードはこちらの見上げる眼差しから逃げるように顔を背けていた。あれは、言うことをきけない、という拒絶の意ではなかったのかもしれない。 たったひとりの肉親にまで忌避されてしまうほどの力なのだ。エルーシャが悪いわけではないだろうに。 「あんたは?」 「おれは平気。だからおれを相手にするのはエルーシャも気が楽だっただろうね。信頼はされていなかった気はするけど」 それは仕方ないだろう、とツバサも思う。いろいろな遣り口がひとでなしすぎるのだ。 信頼、という言葉が胸に残る。自らを世界から隔てる中で、たったひとりだけ、心を許せていた人。 「カイルは」 マティアスに聞かなくても、その答えはなんとなく分かっていた。 「カイルは、違うんだな」 「よく分かったね。あれは珍しいほどの朴念仁だ。なにしろあの権謀術数の都で二年近く過ごしても、呪いのひとつも受けず真っ白な身で戻ってきたくらいだからな。よほど鈍いんだろう」 「そんな言い方するなよ」 「褒め言葉だ。それもある種の魔力だよ。いや、反魔力、と呼ぶべきか」 何度か面と向かって言葉を交わした時、カイルはツバサとまっすぐに目を合わせていた。あの見ているだけで心が涼しくなるような青い瞳だけが、この町で唯一、エルーシャから目を背けない。それを知ると、彼らのあいだに存在している絆がどれだけかけがえのないものなのかよりいっそう分かる。 たったひとりの親友、という言葉の重さがずしりと胸に落ちてくるようだった。ただの親友、ではない。たったひとり、なのだ。ほかの何に気を煩わされることもなく、心のままに接することのできる特別な相手。おまけに見た目も性格もいい男なのだ。 (それは、恋に落ちるなというほうが無理かも……) 心の中でしみじみとエルーシャに頷いてみせる。なんとか彼をこの身体の中に取り戻して、その秘めた恋を成就させてあげたい、という思いも強くなる。同時に、それを思うとほんの少し寂しい気持ちにもなった。たぶん、そうなったらツバサはもう必要のない存在になってしまうからだろう。
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