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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために |
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15 「だから来たんだね?」 ツバサの言葉に、子どもたちは三者それぞれ頷く。好奇心、というやつだろうか。行ってはいけないと禁じられているからこそ、行こうと思ったのだろう。大人なら門前で足止めを命じられて用件を述べずには先に進めない。けれどこんなに小さな身体の持ち主なら、護衛の目をすり抜けることも可能なのかもしれない。 「エルーシャ」 背後からそっと名前を呼ばれる。マティアスが顔を寄せて、何やら言いたげだった。 何か言われるより先に、ツバサのほうから尋ねる。 「お菓子か何か持っていない? たくさん贈られてきたんだろ」 「すべてカイルに渡していたよ。彼からこういった町の子どもたちに届けられていたはずだ。今きみの手元になければ在庫切れだ」 そうなんだ、とそれを聞いて嬉しくなる。エルーシャは子どもたちに優しかったのだ。子どもたちにお菓子を配っているカイルの姿を思い浮かべる。ほんとうなら直接エルーシャから渡せたらよかったのに、それができないから代わりにその役目を引き受けてくれたのだろう。 優しいふたりだ。そう思うと、何故か小さく胸が痛んだ。 「早く帰るよう言うべきだと思うよ」 「分かってる、少しだけ……」 マティアスの忠告に、小声で応じる。周囲の大人に禁止されているこの屋敷にいることが分かったら、この子たちは叱られるだろうし、もしかしたらウィラードも何か言われるかもしれない。エルーシャの印象も更に悪化する。 分かってはいたが、いまはもう少しだけ、自分を嫌わない誰かと言葉を交わしたかった。 「いつも何をして遊んでるの?」 子どもたちに尋ねると、彼らは誰が答えるか、と相談するように顔を見合わせる。それから、いちばん背の高い子が口を開いた。どうやらこの子が、三人の中でのリーダーのようだ。話そうかやめておこうか、と迷っている様子の彼を安心させたくて、じっと目をのぞき込んで頷く。その子の瞳は髪と同じ焦げ茶色だった。 「山に、ないしょの場所があるんだ」 秘密を打ち明けるように、そっと教えてくれる。秘密基地、のような場所があるということだろうか。ツバサにも幼い頃、そんな遊びをした覚えがあった。微笑ましいな、と頷きながら聞く。 「水晶葡萄を見たことある?」 「見たことない。聞いたこともないな」 ツバサが言うと、子どもたちはいっせいに口を開いて、口々に彼らの「ないしょ」について話してくれた。エルーシャの存在に慣れてきたのか、それまでどこか緊張していたらしい様子が一気にほどけたように見える。三人が一度に喋るので、うまく聞き取れない。 「めったに見つからない特別な果物なんだよ。宝石みたいにきれいなんだ」 「そうなんだ」 どうやら彼らの内緒の場所には、水晶葡萄、と呼ばれる果物の成る木があるようだ。これまでの経験上、水晶も葡萄もツバサに分かる語彙として選別されているはずだ。あんな風にいくつかの実が房になった果物で、それが水晶のように透き通っている、ということだろうか。ふつうの葡萄とはどう違うのだろう。 「見てみたいな」 もし自由に動ける身なら、彼らに案内をお願いして連れて行ってもらえただろうか。でも内緒の場所だからな、と内心で苦笑していると、自分がやけに大人になったような気がしてしまう。子どもたちはきらきらと光る、それこそ宝石のような瞳でツバサを見ていた。 ちらりとマティアスに目をやる。ツバサの考えていることなんてお見通しなのか、駄目に決まっている、とでもいいたげに無言で首を振られた。 そろそろ、時間的にも頃合いかもしれない。 「来てくれてありがとう。ぼくの名前はエルーシャ。みんなの名前も教えてもらっていいかな」 「エルーシャ様……」 子どもたちはそれぞれ、ミッチ、ロン、ルアス、と名前を教えてくれた。ミッチがリーダー格の子で、賢そうな目をしている。ロンは身体が小さく、ルアスは大らかな雰囲気のある子だった。友達ができたような気がして嬉しくなる。 「またおいで。次は、何かお菓子を準備しておくから」 こんな行動はエルーシャらしくないのかもしれない、と思いながら身体を起こし、三人の小さな頭をそっと撫でる。エルーシャ様、ともう一度子どもたちは呟いて、ぽかんと放心したような顔でツバサを見上げていた。なかなか去ろうとしないその様子に、それまで黙って見守っていたマティアスが割って入ってくる。 「ほらほら、もう帰る時間だよ。あんまり遅くなると怖い司祭様が迎えに来てしまうぞ」 それを聞いて、子どもたちは初めてその場にいたマティアスに気づいたような顔をした。はっと夢から覚めたような表情で小さく頷き、競うように駆けて去って行った。どこからこの屋敷に入り込んだのか、それも「ないしょ」の抜け道があるのかもしれない。エルーシャの体格ならそこを通れないだろうか、と考えながら、小さな背中を三つ見送る。子どもたちが何度かこちらを振り返ったので、それに笑顔で手を振り返した。 不気味なくらい静かだったマティアスが、何事もなかったように言う。 「雨が降る。部屋に戻るといい」 「工房は見せてくれないのか」 「またの機会に。見てもきみにとって面白いものはないと思うけどね」 魔術師の工房なるものに興味がないでもなかったが、マティアスの言うことはおそらく正しい。エルーシャの私室にある本でさえさっぱりなのに、魔術にかかわるあれこれを見せられたら知恵熱が出るかもしれない。 さあ、と促され、部屋に戻ることにする。雨が降る、と言われた空を見上げた。どこからそれを読み取ったのか、と不思議に思うほど晴れている。あの子たちが家に帰るまでは降らないといいな、と思った。 屋敷が騒がしくなったのは、ツバサが夕飯を終えた直後だった。 いつものように麦に似た穀物を煮込んだお粥と果物、そして例の薬の入った水を飲み終わったところだった。いつもならば必ず夕食時に顔を出すウィラードの姿が見えないので、今日は忙しいのだろうか、と思っていた。 マティアスの言葉通り、子どもたちと分かれてしばらくしたら雨が降り出した。はじめは小雨程度の弱々しい降り方だったのに、いつまでも止まずに、日が暮れたいまでも降り続けている。外から聞こえる雨音が徐々に激しさを増している気がして、ツバサは閉めていた窓をそっと開けてみた。外は思っていた以上の勢いで雨が降っている。 「エルーシャ」 ふと、降りしきる雨の音の中で名前を呼ばれた気がした。細く開けていた窓を、外がのぞき込めるくらいに開く。ざあざあと続く雨音の中から、ひとの声がいくつか聞き取れる気がした。風もあるらしく、開いた窓から冷たい雨が吹き込んできて顔を濡らす。それでも窓を閉めずに、じっと聞こえてきた声の続きを待った。 いま、誰よりも聞きたい相手の声だった気がした。 「カイル?」 窓の下に向けて、そう呼びかける。エルーシャの長い髪を雨に濡らしながら、ツバサは懸命に背伸びをして眼下の暗闇をのぞき込んだ。そこに会いたい人がいる気がして、そっと名前を呼ぶ。 ささやかな声だったから、きっと雨の音がかき消してしまっただろう。それでもその人には確かに届いてくれたらしい。やがて窓辺の樹が、風が揺らすのとは異なる音を立てる。髪や顔に雨を浴びながら、じっとその場を動かず待っていた。 「エルーシャ。こんな時にすまない、会えてよかった」 天候のせいで以前より時間をかけて、カイルはツバサの顔が見える位置まで樹を登ってきた。レインコートの替わりなのだろう、分厚そうな布地の上着を着てフードを被っている。部屋の奥から灯りがほんの少し届く程度で、相手の顔もよく見えない。けれどその影を目にしただけで、懐かしさに胸を締め付けられそうだった。 会えてよかった、と言ってくれた。それはエルーシャに向けられた言葉だ。でもツバサも彼に会えて嬉しかった。 「何かあったのか」 けれどそれを素直に伝えている場合ではない気がした。カイルの声には緊迫した雰囲気が漂っていた。入って、と室内に招き入れようとするが、首を振られてしまう。 「すぐに戻らないといけない。……町の子どもたちがいなくなったんだ。遊びに出たまま、戻ってこない」 「まさか」 嫌な予感がした。ツバサの知る町の子どもたちといえば、昼にはじめて出会ったあの三人しかいない。 その反応に何らかの心当たりがあると感じたのだろう。何か知らないか、とカイルが尋ねてくる。 「昨日顔を合わせた時に、この屋敷について教えてほしいと言われたんだ。もしかしたら大人の目を盗んで忍び込んだりしていないかと思ったんだが」 「ミッチと、ロンと、ルアス……」 「やっぱり来ていたか。そんな気はしていたんだが」 名前を出すと、カイルは静かに頷いた。彼らがこの屋敷を訪れたことを確認できたが、いまはもうここにいないことも、同時に理解したのだろう。きっとツバサの内心の動揺があらわれて、エルーシャの美しい顔立ちを不安に揺らがせている。 「見かけたのはいつか覚えているか」 「雨が降り出す前だから、ずいぶん時間は過ぎている。もしかしたら……」 カイルは子どもたちを「見かけた」という言い方をした。おそらく彼は、ツバサが屋敷から出ずに部屋の窓から子どもたちの姿を見たと思っているのだろう。これまでのエルーシャの行動を考えるなら、それが自然なのだ。 けれどツバサはそうしなかった。外に出て、直接彼らと言葉を交わした。 「何か心当たりがあるのか」 「……話したんだ。ぼくが庭に出て」 「おまえが?」 それを聞いて、カイルは驚いた様子だった。予想もしていなかったことを聞いた、と言いたげだった。自分がしたことがいかに「エルーシャらしくない」ことなのか、改めて思い知らされる。ひたひたと不安が胸に広がっていく。冷たい雨風を浴びて、身体だけでなく心まで凍り付きそうだった。 「どうしても話してみたかった。マティアスを口実に外に出て、彼ら三人と話した」 ツバサのものではない澄んだ声が震える。カイルが怪訝そうに眉間に皺を寄せている気がした。口には出さないけれど、何故そんなことを、と思われているのだろう。 「どんな話をした?」 「山に秘密の場所があるって。そんなことを言ってた」 エルーシャはこんな風に声を震わせることがあるだろうか。気高く美しかった彼らしくふるまえる、という魔術の力がどうしようもなく剥がれてしまっている気がした。 「水晶葡萄の話をしてくれて……」 そこで、はっと思い当たる。同じ間合いで、カイルも似たことを考えたらしい。 「山かも」 「ああ」 子どもたちはもしかしたら、彼らの内緒の場所へ向かったのではないか。ツバサが軽率に、めったに見られないという水晶葡萄なるものを見てみたいと口にしたせいで。 「どのあたりの場所か、詳しいことは話していなかったか」 「そこまでは聞いていない。ごめん」 謝る必要はない、といいたげにカイルは首を振った。親友が不安になっていることを感じ取って、落ち着かせようとしてくれているのだと分かる。 「他のものに、このことを伝えてもいいか」 子どもたちを探すためなら、有無を言わさず皆と共有しても構わない情報だろう。それでもエルーシャの立場を思いやってくれる言葉に、息が詰まりそうだった。慎重に積み上げられて守っていた何かを、自分のうかつな行動が崩してしまった気がしてならない。 「いいに決まってる」 「ありがとう」 降り続ける雨の向こうで、彼が微笑んだのが確かに見えた。そうしてその微笑みが、瞬間、揺らぐ。何かを告げようとしてためらった、そんな表情に思えた。 「……あとでウィラード様に報告に来る。あまり心配しないで、身体を休めてくれ」 優しすぎる言葉だった。何か言いたいことがあったけれど、やめたらしい。 心配しないでと言われても無理だ、と思いながらも頷く。カイルはこれから町の大人たちに声をかけて、山に捜索に向かうのだろう。そこに加われないツバサがこれ以上彼を引き留めて、時間を無駄にさせることはできない。 「気をつけて!」 窓枠からいっぱいに顔を出して、カイルを見送る。遠ざかっていく影が完全に見えなくなっても、なかなか身体をもとに戻せなかった。頭だけでなく、ほぼ全身がずぶ濡れだ。 子どもたちも暗い中で雨に濡れているのかもしれないと思うと、窓を閉められなかった。そんなことをしても何の意味もないと分かっていても、雨に降られているしかなかった。
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