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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために |
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23 鏡に向かい、そこに映り込む人をじっと見つめる。 もうずいぶんと見慣れたはずだが、こうして目の当たりにすると改めて美しい人だ、と感じる。美人は三日で飽きる、なんていうけれど、ツバサはいつまでたってもエルーシャのこの美貌には慣れそうにもない。見る度に、新鮮な驚きで心が震える気がする。 流れるような金の髪を手に取り、耳の上あたりで紐で結う。そうするとずいぶん肩口が涼しくなる。 髪に癖がつかないようゆるく結ぶように、とかつてウィラードに言われたことを思い出す。婚約者がエルーシャの髪をことのほかお気に入りだったから、という理由だった。この長い髪の理由も、エルーシャ自身の意思ではなく婚約者の好みなのかもしれない。 けれど、こうした方がツバサにとっては動きやすいのだ。もしエルーシャが髪を大事にしている人間だったなら少しだけごめん、と、鏡に向かって心の中で謝る。 髪を結んだことで白い首筋が目立ち、すっきりとした印象になる。猫のように少しだけ目尻の上がった緑色の瞳が、凜として美しかった。こうして髪を結ぶと、中性的な外見がやや少年らしくなる。美貌の少年剣士、という雰囲気だ。 「似合うよ」 鏡に向かって笑いかける。映り込んだエルーシャが、華やかに笑みを返した。 朝食をとり薬を飲んでいると、いつもどおりマティアスが部屋を訪れた。 「やあおはよう、体調も良さそうで安心したよ」 まるで何事もなかったかのような振る舞いだ。 それを見ていても、もう文句を言う気にもならなかった。魔術師には魔術師の考え方というものがあるらしい。きっとそれは、ツバサのような一般人には理解の及ばないものなのだ。 ツバサの願いも叶えて、家族の顔も見せてくれた。敵ではないのだろう。けれど完全な味方とも言い切れない。そういう相手だと思って接していくことにした。 「きみの兄上がお話をしたい、と仰っているそうだ」 マティアスは相変わらずツバサのことをエルーシャ本人として扱う。そのことも、いまは大して気にならなかった。慣れてしまったのかもしれない。 「おれに?」 「そう。カイルの口添えがあったようだね」 先日の態度を思えば、信じられないような話だった。ひとまずこちらの話を何も聞いてもらえない、という事態からは逃れられたようでほっとする。おそらく、間に入って説得してくれたカイルの力が大きいのだろう。 「きみがエルーシャ本人でないことは、ウィラード様とカイルにしか話していない。だから心配しなくていい」 「どういう意味だよ、心配って」 「司祭様は勘違いをしたままってことさ」 その名を聞いただけでうんざりしてしまう。あの司祭はエルーシャが聖水で退けられるたぐいの「悪魔」だと誤解したまま、ということらしい。けれどツバサの存在を説明したところで、とうてい受け入れてもらえそうな相手とは思えなかった。知られたら、口を開けて直に聖水を飲まされるかもしれない。それぐらいのことはしてきそうな相手だった。 「きみのことは屋敷の地下に幽閉した、と説明している。そこで帝都の迎えを待っている、とね。そうしたらすぐに納得して引き下がってくれたよ。あの方はきみのことを恐れているからね。外に出られないと知って安心したんだろう」 恐れている。確かに、あの過剰なまでの憎悪は恐怖のあらわれのような気もした。 「なんでそんなにエルーシャのことが怖いんだろう」 「例の商人の気持ちが分かるから、じゃないかな。悪魔と罵りながらも、心の底ではエルーシャの美しさに屈服したいと思っているのかもしれない。そんな自分に気付いてしまっているから、余計に反発せざるを得ないんだろう」 「はぁ……」 そんな反応しかできなかった。マティアスは推測として語るが、おそらくそれが真実なのだろう。素直に好意を寄せてくれるならまだしも、それが裏返って悪意に反転してしまう、なんて。エルーシャも良い迷惑だ、と同情したくなる。 「なのできみにはこの屋敷から出てもらっては困る。そうしないと町の人々が安心できないからね」 「あんたの工房は?」 「あまり楽しい場所でもなかっただろう。でもまぁ、無理に言うことを聞かせたんじゃない護衛付きなら、ぎりぎり許されるんじゃないかな」 ばれている。あの時はそれ以外に方法が思いつかなかったのだ。 「……帝都から迎えが来るっていうのは?」 「ウィラード様がそう言われた。それが方便なのか事実なのか、ほんとうのところはおれにも分からないよ」 直接聞いてみるしかない、ということだろうか。いよいよその現実と体面する時だ、と身震いしそうになる。 その時、扉が叩かれた。魔術師が笑う。 「ほら、お迎えだ」 どうぞ、と声をかける代わりにツバサが扉を開ける。そこにはカイルが立っていた。 窓ではなく、部屋の扉から彼を迎え入れるのははじめてだった。当たり前のことなのに、いままでの状況が特殊すぎてやけに新鮮だ。 「おはよう」 ツバサが言うと、彼はまぶしいものを見るように目を細めた。落ち着いた声で、おはよう、と返してくれる。 「ずいぶん顔色がよくなった。よく眠れたか」 「うん。ありがとう」 昨日は驚くほどよく眠れた。何の夢も見ないくらい深い、上質な眠りだった。 兄たちの姿を見られて、カイルとも話すことができた、両方のおかげだろう。目覚めた時、ひどく長かった一日がようやく終わった、という実感があった。 「薬も塗ったよ」 眠る前に、カイルにもらった薬を傷に塗った。その効能か、昨晩眠る前より手のひらの傷も薄くなっているように思えた。ほら、と手のひらを彼に広げて見せてみる。カイルは静かに目を細めて頷いた。 「髪を結んだんだな」 「珍しい?」 「あまりそういった結い方はしていなかった」 ツバサはエルーシャのことについて、ほとんど何も知らない。だからその分、親友だったというカイルから教えてほしかった。 「エルーシャは昔から髪を伸ばしてたのか」 「そうだな、そこまで長くするようになったのはここ最近だが……」 そこまで言って、ふいにカイルは言葉を切った。口元に手を当てて、何か考え込むような仕草を見せる。 「どうかした?」 ツバサが聞くと、いや、とかすかに微笑まれる。 「きみとエルーシャの話をするのは不思議な気分だ」 「そうかも」 それを聞いてツバサも笑う。 カイルがいま目の前にしているのは、エルーシャの姿かたちをしているが、中身はツバサという違う人間だ。その事実を知っても拒絶せず、なんとかして受け入れよう、とカイルが努力してくれているのが伝わってくる。 まだ心の中に罪悪感は残るし、先のことを思うと不安でたまらなくもなる。けれど、ひとりではないということがこんなに心強いのだと、いまは知っていた。カイルがツバサの存在を認め、協力しよう、と言ってくれたのだ。 ツバサにとってそれは、とても嬉しいことだった。おそらく相手がカイルだからこそ、他の誰よりも何倍も嬉しい。 「行こう。ウィラード様がお待ちだ」 「うん」 促されて、部屋を出る。マティアスも同行するものと思っていたが、彼にはどうやらその気はなさそうだった。 「あんたは来ないのか」 「おれが説明できることはすべて話したよ。いても邪魔になるだけだ。兄弟ふたりで話したらいい」 遠回しにカイルにも席を外すよう伝えている、のだろう。もとよりそのつもりだ、と言いたげにカイルが無言のまま頷いて応じていた。 またあとで、と手を振って見送られる。 扉のかたわらには昨日と変わらぬ護衛が立っていた。挨拶をして、その横をすり抜ける。 「出入り禁止を解いてもらえたんだ?」 「ああ。こんな状況だから、と仰っていただいた」 カイルはおそらく、ツバサが一日こんこんと眠っている間にウィラードと話していたのだろう。ウィラードもカイルのことを信頼している、と、以前マティアスが言っていたのを思い出す。何らかの理由でエルーシャとの接触を禁じてはいたものの、それどころではない、と考え直したのだろう。 ツバサの話に、どれだけ耳を傾けてくれるだろうか。司祭とふたりで並んで、怯えた目を向けられたことを思い出す。 「ウィラード様は決して、ものの道理の分からない人ではない」 ツバサの不安が、顔に出ていたのだろう。だからきっと分かってくれる、とカイルは励ますように言ってくる。 「ただエルーシャのことになると、少し度を越してしまうところがあるというか……。過保護というか、心配が勝ってしまうところがある。だからそれできみのことを疑う気持ちも強くなっているんだと思う」 「仕方ないよ。たったふたりの家族なんだし」 自分も同じ環境だったから、気持ちは分かるような気がした。 ウィラードのもとに向かうため廊下を歩きながら、ツバサはカイルに尋ねた。 「エルーシャはお兄さんのこと、どう思っていた?」 「大事にしていた。きみが言うとおり、たったふたりの家族なんだから、と思いやっていたと思う。喧嘩らしいことも一度もしなかったはずだ。ただ時折、愚痴は零していたな。『あの分からずや』と言ってふてくされる程度だったが」 その時の様子を思い浮かべているのか、目元をやわらかく緩めてカイルは話す。その顔を見ていると、胸が小さく引き攣れるように痛んだ。ごまかすように、そうなんだ、と明るく返す。 「エルーシャも愚痴ったりしてたんだ。なんか親近感」 「怒ることもあった。癇癪持ちというわけではなく、理不尽なことを許せないという考え方の持ち主だったから。おれやウィラード様が誰かから悪く言われたりすると、自分のことのように怒っては軽く暴れていた」 「暴れるんだ……」 あまり想像がつかない。枕を殴ったりしていた、のかもしれない。 悪いイメージがついたと慌てたのかもしれない。カイルは急いだ口調で付け加えた。 「誰にでも優しい、情に厚い人間だったんだ。気は強いが涙もろいところもあって、感極まるとすぐに泣いてしまう。そんな自分をひとに見られることを嫌がってはいたが」 感受性豊かだった、ということだろうか。 ツバサが知るエルーシャは、いつだって鏡の中でその完璧に美しい顔を不安で陰らせていた。それはツバサが持つ怯えのあらわれだった。 ツバサはエルーシャに、どこか人間離れした独特の印象を抱いていた。人並み外れた美貌のせいだろうか。あるいは、その人となりをほとんどマティアスからしか聞いていなかったからかもしれない。けれどカイルの話を聞くと、人間らしい姿が浮かび上がってくる。その顔はかつて、さまざまな姿を親密な人に見せていたのだ。 「そういう話を聞くと、ちょっと安心する。おれはエルーシャのこと、何も知らないから」 こうやってエルーシャの人柄が知れる話を聞くと、それまで靄がかかっていた輪郭が少しずつくっきりしてくるようだった。その身体の中、という誰よりも近い場所にいるはずなのに、ツバサはエルーシャという人のことを外見以外ほとんど知らなかった。彼が自分と同じように泣いたり笑ったりしていた人間だったのだ、と教えてもらうと、もう会えない友人の昔話を聞いたような、なんともいえず懐かしい気持ちになった。 カイルはまた、何か考え込むように黙ってしまう。 「何かおかしいことを言った?」 「いや。やっぱり不思議な気がして……」 生真面目な顔で言われる。親友と向き合いながら別人と話す、という状況について言っているのだろう。 「ちょっとの間の予定だから」 だから我慢してくれたら嬉しい、という気持ちを込めて言う。伝わったのか、カイルが首を振った。 「きみに非があるわけじゃない。ただ少し、なんというか……。きみは元気な人なんだな、きっと」 「元気?」 「エルーシャときみは笑い方が違う。なんというか、明るくて元気だ。見ていて気持ちがいい」 思いもしなかったことを言われる。カイルはその涼しげな目を細めた。 「ツバサ。きみが悪い人間でないことはほんとうにすぐに分かる。だから自信を持ってくれ」 誠実そのものの口調で言われ、ツバサはぎこちなく頷くことしかできなかった。意外なほどにストレートな言葉だった。不器用ではあるけれど、それ以上にまっすぐな心を持った人なのだろう。だから思ったことをひとに伝える行為に躊躇いがないのだ。 (……これはちょっと、困る、な) いまやツバサはカイルへの想いを自覚していた。決して叶うことのない、語ることさえないだろう想いだ。その心が胸にあるから、カイルに笑いかけてもらえるだけで幸せを感じられる。ささいな言葉ひとつでこんなに嬉しくなってしまう自分が面白いほどだった。 「ありがとう。頑張るよ」 やってやる、と心の中で呟く。ウィラードを説得することも、それから、エルーシャを取り戻すことも。 はじめからどうすることもできないと分かっている恋心だ。けれどツバサには、カイルのためにできることがある。それが、せめてもの救いだった。
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