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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために |
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13 次にツバサが目を覚ましたのは、ベッドの上だった。 カイルに背負われて、屋敷の門にたどり着くまではどうにか意識を保っていた。目を閉じるとそのまま自分が消えてなくなってしまいそうで、そんな恐怖心ひとつで気の遠くなりそうな苦痛に耐え続けた。 それでも道中ずっとツバサに優しい声かけをし続けてくれたカイルの、着いたぞ、という言葉を聞いた時に、ふっと気が緩んでしまった。たぶんそのまま、意識を失ったのだろう。気づいたらエルーシャの私室で、ベッドの中で眠っていた。気絶していた、というほうが正確かもしれない。 呼吸がずいぶん楽になっていた。身体中すみずみまで広がっていた痛みも、いまは神経が麻痺したようにぼんやりとした鈍い感覚に変わっている。 手のひらを胸に当てる。カイルが貸してくれた服ではない。誰かが寝間着に着替えさせてくれたようだった。 「お目覚めかい」 誰もいないと思っていた部屋に、聞き覚えのある声が響く。 横になったまま首を向けると、先ほどまでは人影がないように思えた場所にマティアスがいた。手に灯りを持って、寝台のかたわらに近づいてくる。小さな火に照らされて、青紫の瞳がやけに光って見えた。 「食事と食事の間くらいはいけるかなと思ったけど。身体を冷やして体力を奪われたのがまずかったんだろうな」 「なんの話?」 「薬の効き目についてのひとりごと。だけど聞きたいことがあるならどうぞ」 半ば開き直ったような態度にも見えた。ツバサは手を付いて身体を起こす。薬の効き目、という言葉に嫌な予感がした。先ほど味わった、消えたはずのあの苦痛のこともまざまざと思い出される。 「解毒剤を飲んだはずだ」 「そうだね」 ツバサがこの身体で初めて目を覚ました時、強引な「契約」と引き替えに解毒剤を与えてもらった。あれから今日にいたるまで、夜になると熱っぽい感覚はあったが、立っていられないほど強い痛みはなかった。あれが解毒剤であることは間違いのない事実だ。 となると、思い至ることはひとつだった。 「……定期的に飲まないといけない薬なのか」 「何をいまさら。毎日食事と一緒に飲んでいただろう」 言われて、ツバサはすぐに思いつく。あの奇妙な匂いのする妙にとろみのある飲み物。何らかの特別な効能のある、薬に近いものだとは思っていたが、病人に与える療養食のようなものだと思っていた。 「たった一度で消せるような半端な毒じゃない。長い時間をかけて少しずつ少しずつ薄めていくしかないんだ。毎日大人しく飲んでいたから、とっくに理解しているとばかり」 マティアスに鼻で笑うようにあしらわれてしまう。今までそんなこと、考えたこともなかった。 「ということは、つまり」 定期的にあの薬を飲まなければ、またあののたうち回るような激しい痛みが蘇る、ということだ。 最後まで言葉にする間もなく、魔術師が頷く。 「長い時間をかけてって、どのくらい」 「さあ……」 それまで必要以上に饒舌だったのに、ここへきて急に言葉少なくなる。明らかに答えを知りながら、教えるつもりはないのだろう。 おそらくこれも、マティアスの策略のひとつだ。はじめに「契約」とやらを結ばせ、その上で更に魔術関係なしに逃げられないようにする。強靱な意志で最初のひとくちを拒めたとしても、きっと結果は変わらなかった。 「酷な役割を押しつけてしまって、申し訳ないと思ってる。けれど薬さえ飲めば、それが効いている間は健康体といっていい状態だから」 少しも申し訳ないと思っていなさそうな顔をしたまま、魔術師が肩をすくめる。 「おれが倒れるかもしれないって分かってただろ」 「言ったはずだよ。あの程度の時間なら平気だと思っていた」 ほんとうなのかもしれないし、嘘かもしれない。たぶん両方だろう。 もしツバサがエルーシャとして振る舞うことを放り投げて脱走しようとしたら、そのままどこかでひとり倒れて苦しんでいた。その時はきっと、マティアスが笑いながら迎えに来ていたのだろう。もとからそんなつもりはなかったけれど、そうならなくてよかった。 「カイルは?」 「きみを送り届けてすぐに帰ったよ。しばらく屋敷の前にいたようだね。心配だったんだろう」 その様子が目に浮かぶようだった。ツバサにとっては会ったばかりといっても差し支えのない相手だったけれど、もう顔は覚えた。細かい表情さえ思い出せるほどだ。 カイルはエルーシャの兄によって屋敷への出入りを禁じられている、と言っていた。どこまで運んでくれたのだろうか。約束通り送り届けてくれたことに礼を言いたかったし、また、謝らないといけない。 (また心配させただろうな) 歩いて会いに行くことができて、少し安心してもらえたかもしれないのに。よりによって、彼の目の前で倒れてしまうなんて。 いま呼吸が楽で、痛みを感じていないのは、意識のないツバサに誰かが解毒剤を飲ませてくれた、ということだろう。 (あの人に、薬を飲まされるところは見られたくない) なんとなく、そう思った。貧血か何かだと言って誤魔化すことはできるだろうか。 そんなことを考えながら、指先だけで寝台の上をたぐる。枕のかたわらに、カイルに借りた洋服が畳んで置かれていた。先ほどまでツバサが着ていたものだ。 こちらを見ているのやら見ていないのやら、どちらかはっきりしない魔術師の視線から逃すため、その服たちをそっと遠ざける。 無駄な抵抗かもしれないが、カイルから受け取った手紙のことは誰にも知られたくなかった。マティアスの注意を逸らすために、話を変える。 「エルーシャに猛毒を渡したって、ほんとなのか」 苦虫を噛み潰したような顔をしたウィラードが、そんなことを言っていた。聞くタイミングを逃していたが、ずっと気になっていた。 マティアスはあっさりと頷いた。 「ほんとうだよ」 「何がしたいんだ、あんた。死ぬための毒をエルーシャに渡して、そしていざエルーシャが死んだら無理矢理にでも生き返らせようとして」 滅茶苦茶だ。死なせたくなかったなら、最初からその手段を与えるべきではなかった。 「それがエルーシャの望みだったから。彼がその望みを叶えることと、ほかのものが彼の生存を願うことはまた別の話だ」 おかしなところなど何もない、とでも言いたげにマティアスは言う。理屈として筋は通っているのかもしれないが。 「ほかの人間がエルーシャに生き返ってほしいと願わなかったら、そのまま黙って死なせてたってこと?」 「そうなるね」 燭台の火が揺れる。炎のゆらめきに呼応するように、魔術師の瞳がゆらりと青紫色に光ったように見えた。目の前にいる相手は普通の人間ではないのだと、そんなことを改めて思い知る。 魔術師の考え方、とウィラードが言っていた。同じ世界で生きている人々にとっても、その物の見方は独特なのだ。ましてや別の世界で生まれ育ったツバサに理解できるはずがない。 (だからおれの願いも叶えてくれた……) きっと、そういうことなのだろう。あれは親切心ではなく、対等を重んじる、という魔術師特有の考え方なのだ。ツバサがやり遂げなくてはならない役割があまりに重いから、その代償に。 「カイルに会ってお礼を言いたい。また外出をしたいから、あんたからも兄ちゃんにうまく言ってくれないか」 「難しいんじゃないかな。屋敷にきみたちが戻ってきた時、ウィラード様はえらくご立腹だったから」 あの男のせいではないのにな、とマティアスは笑う。 不可抗力とはいえ、ツバサがカイルの立場をより難しいものにしてしまった。 「心配しなくてもまた向こうから顔を出すだろう。話したいことがあるならその時に話せばいい」 「それはそうなんだけど」 エルーシャが帝都とやらに嫁ぐまで、あとどれだけ時間が残っているのか分からない。今日明日の話ではないだろうが、おそらくそれほど先ではないはずだ。ツバサがこの身体を鍛えて窓から出入りできるようになればいいのだが、それには時間がかかりすぎるだろう。 なんとなく、この屋敷を出て遠いところに行ってしまったらもうおしまいだ、と焦るような気持ちが胸の底にずっと燻っている。これはエルーシャの身体が覚えている焦燥感だろう。彼にとって、帝都とはそんな諦めを抱かずにいられない場所なのだ。そこがどんな所なのかは見当もつかないが、ツバサにもきっと太刀打ちできない相手に違いない。 だからそれまでに、何でもいいからひとつでも多くの手がかりを集めなければならない。そうして、彼自身をこの身体に取り戻す。 「……疲れたから、もう寝る。灯りはそのままにしておいてくれないか」 手がかりを集める。そのために、受け取ったものを確かめてみたかった。ツバサができるだけさりげなさを装って言うと、マティアスが小さく笑いながら答える。 「あまり無理をしないように。おやすみ、エルーシャ」 それはあくまでも、この身体に向けられた笑顔と言葉だった。 遠ざかる足音が完全に聞こえなくなってから、ツバサは寝台から起き上がった。 畳んでおいたカイルの洋服を手で探る。かさり、と紙の手触りを指先に感じる。安堵して、ポケットからその手紙を取り出した。 側机に置かれた燭台を、手元の方に引き寄せた。淡い橙色の火に照らされて、紅い封蝋がつやつや光を帯びる。これの剥がし方が分からない。悩んだあげく、封筒の方を破ることにした。慎重に少しずつ開封していく。 エルーシャはどんな気持ちでこの手紙をカイルに託したのだろう。きっとその役割は、カイルにしか頼めなかった。ふたりの間にある信頼関係の証のような手紙を、第三者のツバサが開封しようとしている。なんだかふたりの間に土足で割り込むような、そんな居心地の悪さを感じた。 「ごめん」 謝りながら、中の紙を取り出す。手触りのかさついた、目の粗い紙だった。畳まれた状態から黒い筆跡が透けて見える。おそるおそる、それを開いた。 (よ、読めな……いや、読める……?) そこにしたためられていたのはツバサの見知らぬ字のかたまりだった。流れるように書かれた文字は、ツバサの知るアルファベットの筆記体にも見える。けれど何ひとつ読み解けない。 そのはずなのに、書かれている内容がなぜか読み取れた。マティアスによってほどこされた、ツバサがエルーシャとしてふるまうことを助けるという魔術の影響だろう。見えている文字と心に浮かぶ内容が一致せず、頭が混乱しそうになる。 乗り物酔いにも似た目眩を感じながら、少しずつ、その記述を目に入れていく。 「『親愛なるソール様』」 声に出して音で聞くほうが理解しやすい気がした。一文ずつ指を滑らせながら、身体に任せるように読み上げる。ソール、はエルーシャの婚約者の名前だ。なんとなくそうではないかと思っていたが、やはりその人に向けた手紙だったらしい。 「『こうすることを選んだぼくをお許しください。貴方はぼくの意志の強さ、その力を何よりの魅力だと深く称えてくださいました。その力をもって、自ら道を選ぶことを決断しました。ぼくのすべてを美しいと幾度も求めてくださった貴方だからこそ、この決断も美しいと受け入れてくださると信じています。』」 すらすらと声が文字を音にしていく。エルーシャは顔かたちだけでなく、声もきれいだ。男性としては少し高めの透き通った声で、容姿によく似合っている。その声で耳にするからこそ、いまはもういないエルーシャ本人から直に話を聞いているような気持ちになった。 「『ぼくの家族が理由を知りたがるでしょう。その時はどうか、叶わない恋のために、とお伝えください。貴方のお立場のためにも』……」 淀みなく読み上げていた声が、少しずつ詰まり始める。 「『どうか、』」 手紙はまだ少し続いている。それなのに、そこから先がどうしても読み上げられなかった。喉の奥で声が詰まったように、音にできない。まるでこの身体が声にするのを拒絶しているようだった。 目で見ることで内容を掴もうとしても、もやもやとした不気味なイメージしか浮かんでこない。マティアスの術にも限界があるのか、あるいはツバサにとって理解できないような概念が書かれているのかもしれない。 気分が悪くなって、その先を追うのを止める。かわりに、ひとつの文章をもう一度読み上げた。 「『叶わない恋のために』」 黒いインクがしゅるると踊っているような文字のちいさなかたまり。そこだけ何故か光って見えた。 恋。エルーシャはそれが理由だと告げている。相手がソールという名の婚約者でないことは、内容からして明らかだ。この手紙には、エルーシャが何を決断したのか書かれてはいないが。 「恋……」 そのために、彼は自ら猛毒を飲むことを選んだのだ。 わけもなく、心に浮かぶ面影があった。頬に触れた温もりも思い出す。安心しきって身を委ねていられた、あの大きくて広い背中。エルーシャは他に彼のどんな温もりを知っているだろう、とそんな言葉が胸に浮かぶ。そうして、そんなことを考える自分自身にうろたえた。 「カイル」 名前を口にしてしまう。胸がざわざわと騒がしかった。手紙の末尾を読もうとした時とはまったく違う感覚で、漠然とした思いがふわふわと湧き上がってくる。不快の一片もなく、清々しい甘さが胸を満たす。 会いたい、と強く思った。この身体が抱く感情に名前があるのだと、いまエルーシャ本人が教えてくれた。光り輝いているような小さな文字を指先で撫でる。 エルーシャは、親友のカイルに叶わない恋をしていた。
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