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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために
14


 その日ツバサは夢を見た。
 父と母、兄とツバサと四人で食事に行く夢だった。ツバサはついこの間まで生きていた自分の身体で、家族がみんな一緒で嬉しくてにこにこしていた。嬉しくてたまらないのは、これが夢だとちゃんと分かっていたからだ。もう二度と会うことの叶わない人たちと、たとえかりそめのひとときでもまた会うことができたから。
 どこに食事に向かうのか知らないけれど、四人で夜の道を仲良く並んで歩いていた。父と母はツバサが覚えている頃の姿だったので、亡くなったあと成長した兄を加えると、大人が三人にツバサがひとり、という格好だった。
 父と母はこれ以上老いることはないし、ツバサもこれ以上背が伸びることもない。兄だけが、取り残されてしまった。
 誰もそのことに気づいていないように、みんなにこやかに他愛もない話を楽しみながら歩いている。ツバサも心の中ではほんのり悲しかったけれど、にこにこ笑顔で彼らのあとをついて歩いた。ひとりだけ、どうしても歩くペースが合わずにだんだんほかの三人に遅れてしまう。どんなに急いでも歩調が揃わず、追いつけない。少しずつ、距離が開いていく。水中を進んでいるように足が重く、うまく走れなくてもどかしい。待って、と呼びかけたいのに、声が出せなかった。
 三人はどんどんツバサを置いて歩いて行ってしまう。いつの間にか、先を歩く両親と、兄はそれぞれ別の方角に向かって歩き出していた。
 行き先が違うんだ、とそれを見て思う。もう生きていないものと、いまも生きているものと。それならツバサも父と母のあとを追うべきなのだろうか。そちらに追いつけたら、両親と同じ場所に行けるのだろうか。
 でも兄をひとりにしたくない。もし間に合うのなら、今すぐにそちらに駆け寄りたいのに。足が思うように動かなくて、どちらの方角に進むこともできない。もどかしかった。せっかくみんなでまた会えたのに。それなのにこんな、もう一緒にいられないことを再確認するだけの夢なんて。鉛のように動かなくなった足で、立ち尽くしていることしかできなかった。

 そこで、目を覚ました。
 頬を冷たい雫がひとつ伝う。夢を見ながら泣いていたようだった。こんなのあんまりだ、と思いながら指先で涙を拭う。ほんの少しだけ、そのまま泣いた。
 どうせ見るのならもっと楽しい夢がよかった。生きていた頃、両親の夢なんて滅多に見たことがない。久しぶりに、顔を見ることができたのに。兄の楽しそうに笑っている顔を思い出す。ツバサがいなくなった現在でも、誰かのそばであんな風に明るく笑っていてくれるだろうか。そう願うことしかできない。
 うう、と短い声が漏れた。目をごしごしと擦ってから、これが自分の身体ではないことを思い出す。エルーシャは皮膚も薄く、繊細そうだ。あまり乱雑に扱わないよう気をつけていたのに。ごめん、と心の中で詫びる。
 部屋の中はまだ暗かった。夜明けまでにはまだ時間があるらしい。ころりと寝台に寝転がって、枕の下に隠したあの手紙を取り出す。いまのところツバサが生前のエルーシャに触れられる、たったひとつの手がかりだ。
 封筒は開かないまま、ただ手に持ってその手紙の存在そのものを見つめる。エルーシャが確かにこの世界に存在していた証がいまこの手に残されている。当たり前なのに、なぜかとても不思議なことのように感じた。
 エルーシャはいまどこにいるのだろう。自らの身体に戻ることを拒んだという魂は、まだこの世界にとどまってくれているだろうか。
 さきほど見た家族の夢を思い出す。あれはこの身体ではなく、ツバサの魂が見せたものだ。それならエルーシャの魂も、どこかで眠って夢を見ているのかもしれない。
 夢は魂で見るものなんだ、と、そんなことを思った。それなら恋は、魂と身体、どちらで落ちるものだろうか。
 答えは出ない。夜が明けるまで、そのまま眠れずに過ごした。


 それからしばらくは、兄とマティアス以外の顔が見られない日々が続いた。
 夜になると窓を開けて外を覗き込んではみたものの、待っていてもカイルは訪れなかった。マティアスに聞いたところ、ウィラードによってこの屋敷への出入りを禁ずることを以前よりも厳しく言われたらしい。理由は聞くまでもなく、前回の外出でツバサが体調を崩して帰ってきたからだ。
 彼が悪いわけではない、とツバサもウィラードに伝えた。それでも、兄の中では許しがたい何かがあったらしい。あるいは、これ以上接触してほしくない、という思いだろうか。
 叶わない恋の存在を兄もそれとなく気づいているのだとしたら、慎重にもなるのかもしれない。そもそもそれがあっての屋敷への出入り禁止、の可能性もある。
 外に出られない、カイルとも会えない、となると、ツバサにはできることが何もない。部屋にある分厚い本をひっくり返してみたりして、そこに何か手がかりがないか探す程度だ。
 手紙の文章を読み解けたのと同様、その能力は書物に対しても発揮された。けれど言葉が理解できるのと内容が理解できるのとはまた別で、それらの本が歴史書や哲学書のようなものだ、ということしか分からなかった。この世界に対する知識の土台のないツバサには、ほんとうに内容が理解できなかった。
 解毒剤だという薬の入った水を飲んでささやかな食事をして、あとは気持ちばかり身体を鍛える運動をこっそりする。時々あの手紙を取り出して、もっと何か読み取れることはないかと何度も読み返してみる。
 その繰り返しで、三日が過ぎた。


 その日はとてもいい天気だった。
 相変わらず外に出ることはできなかったので、ツバサは部屋の窓を全開にしていた。せめて日光を浴びようと思い、窓際に椅子を置いてぼんやりとそこから見える風景を眺めていた。
 一度その様子を兄に見られた時は「日に焼けるといけないからほどほどに」と言われてしまった。ツバサは知識として日光浴の大切さを知ってはいるが、こちらの世界ではどうなのか分からない。はい、と頷くしかなかった。
 マティアスは席を外していた。いまのところツバサに脱走の意志がないことが伝わったのか、たとえ逃げ出したところですぐに捕らえられる、と思われているのかもしれない。魔術師はこの屋敷の敷地内に自らの居室を与えられているらしく、何かあったらそこを尋ねてほしい、とのことだった。場所は教えられなかった。招く気がないのだろう、たぶん。
 窓枠に切り取られた空を見上げた。やわらかい青空に、千切ったような綿雲が点在している。時折頬に触れる風が爽やかで、その瞬間だけは部屋に閉じこめられていることを忘れそうになる。季節という概念があるのかは分からないが、四季に当てはめるなら春が最適な気がした。そのなかでもとりわけ気持ちのいい気候の日だ。
 窓のすぐ近くに立つ樹が、風に揺らされて葉を鳴らす。窓枠に肘をついて、目を閉じてその音を聞いていた。それ以外の音がほとんど聞こえないくらい、静かだった。
 ふとその中に、違う音が聞こえた気がして目を開ける。
 元気で騒々しい、みずみずしい生命力あふれる音だった。ずいぶん懐かしいような心地になって、外を覗き込んでその元を探す。ちょうど真下の、樹の根本あたりからそれらの声は聞こえていた。
「あっ!」
 覗き込むツバサと、そのうちのひとりとの目が合う。声を上げたのはお互いほとんど同時だった。
 そこに集っていたのは小さな子どもたちだった。ツバサの感覚でいえば、小学校に入学するかしないか、といった年頃だろうか。服装や髪型から見るにおそらく男の子が三人、よく似た表情でこちらを見上げていた。ぽかんと口をあけて、驚いたような怯えたような顔をしている。
 動くことを忘れたように固まった彼らを見て、ツバサの胸にひやりとよぎる記憶があった。町に出た時に顔を見られた人々の、あの冷ややかな反応と司祭の怒号。
 後じさって彼らの前から姿を隠したい思いの中、ほんのわずかの可能性を信じたい気持ちで窓辺に留まる。どうか、と願うように、樹のそばにたたずむ子どもたちに向けて手を振った。
 彼らはその場に立ち尽くしたまま、おずおずと小さな手を振り返してくれた。
 ツバサは嬉しさのあまり笑顔になってしまう。それを受けて、戸惑っていた子どもたちの表情も恥ずかしそうに笑った。 
「そこで待ってて!」
 考えるより先に、そう声が出てしまう。子どもたちの頷く仕草を見ると同時に、ツバサは椅子を立っていた。
 部屋を出ると、そこにはマティアスがいた。まるで待ち構えていたような間合いだったし、ちょうど部屋に入ろうとしていたようにも、どちらにも見えた。
「おや。屋敷のお散歩かい」
「ちょうどよかった。ついてきてよ」
 探しに行く手間が省けた。外に出してもらえないとはいえ屋敷の敷地内だから護衛の人たちも許してくれないだろうか、無理だったらマティアスを探しに走ろう、と考えていた。町への外出ですらお供がいれば許可を貰えたのだから、庭に出るくらいは許されるだろう。
「少し庭に出たいんだ」
「おやおや。兄上に何を言われても知らないよ」
「敷地の外には出ないから!」
 マティアスはそれ以上何も言わず、ツバサの頼んだとおりに後をついてきてくれる。勝手にすればいい、とでも言いたげだった。
 玄関の護衛たちは若干渋りつつも、マティアスの顔を見て外に出ることを許可してくれた。
「工房に用があるんだ。すぐに戻るよ」
 そんなふうに口添えもしてくれる。それを聞いて、マティアスの部屋が屋敷とはまた別の建物にあるのだとツバサは知った。工房、と言うからには何らかの施設なのかもしれない。これからは屋敷を出たい時に口実に使わせてもらおう、と思う。
 外に出られたことを喜びながら、部屋から見える樹の立つ元へと急ぐ。もしかしたらいなくなっているかも、と危惧していたが、子どもたちは所在なさげにそこにたたずんでいた。
 駆け寄るツバサの姿を見て、はっと皆揃って顔を上げる。どうか逃げないで、と小鳥の群れに近寄るような心持ちだった。彼らはぼんやりと、まるで夢でも見ているようにこちらを見上げていた。
「ありがとう、待っていてくれて」
 そう言って、子どもたちと目線をあわせるために屈み込む。その動作で、エルーシャの長い金の髪が揺れた。
「この家に何か用事だった?」
 これまで、屋敷の中でも庭でも、大人しか見たことがない。ツバサの問いかけに、三人の中でいちばん背の高い痩せた子が首を振った。
「領主様のお屋敷には、ぜったい行っちゃいけないって言われてたから……」
 叱責を恐れているように、おずおずと言葉が差し出される。ツバサに見つかって、叱られると思っているのかもしれない。そのつもりがないことを示すために、できるだけ優しい声で話しかける。
「お父さんやお母さんにそう言われてるの?」
「うん。それから教会の司祭様にも」
 嫌な記憶が蘇る。顔に出ないように気をつけながら、ツバサはできるだけ穏やかに聞こえるように続けた。
「『悪魔』がいるから」
「そう。あぶないから近寄っちゃいけないって」
 ツバサがその言葉を出すと、子どもたちは揃って頷いた。こんな小さな子どもたちにも忌むべき存在だと語られていると聞いて、ふつふつと怒りがつのる。エルーシャがいったい何をしたというのだ、と、この身体の持ち主を庇いたくなる。
 けれど目の前の子どもたちの瞳には、町に出た時に晒された恐怖も嫌悪感もなかった。どちらかというと熱に浮かされたように、目の前の光景に心を奪われて夢中になっているようにぼうっとしている。少なくともそこに敵意は見つからなかった。
 なるほど、とそれを見て気づく。彼らは「悪魔」がどんな姿かたちをしているのか、そのことは知らないのだ。


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