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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために |
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1 ツバサには死ぬつもりなどなかった。 なのにいま、まさに自分が生の淵ぎりぎりにいるのだと分かる。これまでに経験したことのない痛みが、否応なしにその事実を突きつけてくる。頭が痛くてたまらなかった。 ほんの少し足元がふらついただけなのに。突然、思いもしなかったところから小さな影が飛び出してきて、それに驚いて階段から足を滑らせて、それで――。 運動神経には子どもの頃から自信があった。もしかしたらそれが仇になったのかもしれない。とっさに飛び出てきた影に反応して、よけようとして身体を逸らしていなければ、落ちることはなかったかも。でもあのままじゃ踏んじゃうかもしれなかったし。 小さな生きもの、たぶんまだ生まれたばかりの、小さい小さい子猫だ。だから、とっさに身体を動かした自分の選択が間違っているとは思わなかった。ただその結果がこんなことになってしまっただけで。 (頭、痛い……) 陸橋の階段のいちばん上から、前のめりになって下まで派手に一気に転がり落ちた。最初に倒れた時に頭を階段の角にぶつけてしまって、あとはその衝撃のせいで受け身どころの話ではなかった。下まで落ちきってから、やってしまった、とようやく考えられるようになった。 その意識ももう半ば曖昧だ。ぶつけてはいけないところをぶつけてしまったんだな、と、直感で分かる。 死ぬつもりなんてなかった。でも、たぶんここで死ぬ。 派手に転がり落ちたから、全身あちこちが均等に痛い。つい先ほどまで最も痛かったはずの頭の痛みが、いまはなぜか薄れて感じられる。 痛みのかわりに意識をひたひたと浸食していくのは眠気だった。午後の授業だってこんなに眠くなったことはない。たぶん目を閉じて身を委ねてしまったら、このまま二度と目を覚ますことはないだろう。それが直感で分かる、強烈な眠気だった。 死ぬってこういうことなんだ、と妙に冷静なことを考える自分がいた。 (れんらく、しないと。心配させる) 黙って家を飛び出してしまった。その時点でもう日付が変わる間近だったから、いまはもう丑三つ時といってもいい時間だろう。 喧嘩のあげく何も言わずに出て行ったきり帰ってこないツバサを、兄はきっと心配している。 兄はいつだって自分のことは二の次で、ツバサのことばかり気に掛けていた。なにか伝えなければならない。もう会えなくなってしまう。両親を失ってからずっと、ツバサを守って育ててくれた人。たった七つ年上だっただけで、十代の半ばからずっと父親と母親と兄でいてくれた。時間も金銭も愛情も、たくさん注いでくれた人。 そんな人と、もう会えなくなってしまう。 ――おれの気持ちなんてちっとも分かってくれないくせに。 最後にあんな言葉を投げつけて、悲しそうな顔をさせたきり。 (兄ちゃん、ごめん……) せめて言葉だけでも、たった三文字だけでも伝えられたら、と思うのにもう身体がほとんど動かない。冷たいコンクリートの上に倒れたまま、指先ひとつ動かすこともできなくなっていた。 熱くなっていた頭を冷やすために、ひたすら家から遠ざかろうと思って歩き続けた。遠くへ、と思って歩いてきたおかげで、あたりはしんと静まりかえって人影どころか人のいそうな建物すらない。古びた陸橋のかかる道路にも、車がまったく通らない。通りがかる人がいてくれたら、助けを求めることもできたかもしれない。 けれどこんな場所で倒れてしまったのも、すべてはツバサのしてきた行動の結果だ。兄と、つまらないことで喧嘩した。 ――おれはもう子どもじゃない。兄ちゃんに全部やってもらわないといけなかった頃とは違うんだ。 指先が冷えていく。足も、先端のほうから凍り付いていくように冷たくなりはじめていた。もうすぐ梅雨も明けて、夏もはじまる季節なのに。 真夜中の空気に湿ったコンクリートが体温を奪い取っていく。身体の中も外も凍えきっていて、寒くてたまらなかった。あまりの眠気に薄れていく意識の中でも、少しずつ自分の命が消えていくのが分かる。 ――兄ちゃんがいなくたって、ひとりでやっていけるんだよ……。 あんな言い方をしたかったわけじゃない。ただ、もうこれ以上自分を犠牲にしてほしくなかった。 両親を亡くして、高校生だった兄は進路を変えた。進学せずに就職して、働きながらツバサの生活の面倒をすべて見てくれた。 だからツバサも、同じ道を選ぼうとした。 夏休み前に三者面談で進路について話し合うことになる。その前に、兄に自分の気持ちを伝えた。兄はここのところ仕事が忙しそうで、今日も残業で帰りが遅かった。おかえり、と出迎えた顔には明らかに疲れが滲んでいて、それでも明るくただいまと返してくれるその反応に、気持ちは強くなるだけだった。これ以上、兄の負担にはなりたくない。 卒業したら、ツバサも大学には行かず就職する。そうして独り立ちして、兄には自分の人生を生きてほしかった。 けれど兄は反対した。 ――馬鹿なこと言うなよ。おれが何のために、いままで……! 荒げた言葉の最後を、兄が意識的に飲み込んだのも分かった。いままで我慢させてきた、とツバサは思っていた。それは間違いではなかったのだ。そう思うと、簡単に頷くことはできなかった。 これまでほとんど喧嘩をしたことのない、仲の良い兄弟だった。 たったふたりの兄弟で、たったふたりの家族だ。あんなにお互いに声を上げて言い合ったことはなかった。相手のことを思って言っているのに、なぜ分かってもらえないのか。たぶんどちらも、もどかしい思いでいっぱいで引っ込みがつかなくなった。 ツバサは人と争うことなんて大嫌いだった。兄もきっと同じだ。だから決して、ツバサを傷つけるつもりなんてなかっただろう。 この話はもう終わりだ、と打ち切って去ろうとした兄をツバサは引き留めようとして、兄がその手を払った。思いがけない強い力で振り払われて、ツバサはダイニングテーブルにぶつかって転んだ。弾みで落ちたグラスが割れて、その破片が右のこめかみに刺さった。 (兄ちゃん、とんでもないことしたって顔してた。真っ青になって……) あんな顔をさせたかったわけではない。ただこれまですべてを擲って自分を育ててくれたことに感謝して、もう大丈夫だと伝えたかっただけなのに。 どうしてうまく言えないのだろう、こうなってしまうのだろう、と腹立たしかったし、それ以上に悲しかった。ツバサもきっと、兄と似たような顔をしていただろう。 いたたまれなくて、こめかみから血を流したまま走って家を出た。それ以上その場にとどまっていたくない、その一心だった。 兄はきっと謝ろうとしたし、そしてその謝罪のあとには、進路についてツバサを説得してきただろう。分かっているから、一緒にはいられなかった。 兄は優しい。きっと心から、ツバサのことを思って言ってくれる。けれどツバサが兄に自由に生きてほしい気持ちだって本心だ。 頭を冷ますために人通りの少ない夜の道を、どこまでも走って家と兄から遠ざかった。こめかみの血は適当に服の袖で拭っているうちに、いつしか止まった。痛みだけが疼いて残り続けていた。 進む先に古びた陸橋が見えた時に、あの道を渡ったら家に帰ろう、と思っていた。 陸橋を昇って降りて、道を渡って。そうしたらどこかで顔を洗って血を洗い流して、家に帰ろう。心配しているだろうから、一言、いまから帰ると告げて。それとも、ごめんと伝えるのが先だろうか。 足元に小さな影が飛び込んできたのは、そのタイミングだった。ぼんやり考え事をしていたのも悪かったのだろう。足を滑らせて、そのまま階段を落ちた。あげくに頭を打って、もはや取り返しのつかないことになってしまった。 ――この道を渡り終わったら、家に帰ろうと思ってたのに。 渡りきれなかった。止まりきっていなかったのか、こめかみの傷から血が流れて頬を伝うのが分かる。どこもかしこも寒くてたまらないのに、血が伝い落ちる箇所だけをほのかにあたたかく感じる。 (ごめん、兄ちゃん……) いまツバサの中にあるのは、死への恐怖でも後悔でもなかった。たったひとつ、兄へ謝りたい、と思う気持ちだった。死にたくない、と思った。自分が生き続けたいという望みより、兄にもう一度会いたいという気持ちの方が強かった。 いよいよ眠気に逆らいきれず、どうにか瞬きしていた目を、もう閉じたきり開けなくなってしまう。 こめかみの傷だけが疼いて熱い。この傷が嫌だな、と薄れていく意識の中でそんなことを思った。 最後に見た青ざめた兄の顔が浮かんでくる。この傷を見たら、きっと兄はまた同じ顔をするだろう。そう思うと悲しかった。兄のせいではないのに。 あの子猫は無事だっただろうか。たぶん大丈夫だと思うけれど、どうかすくすく大きくなってほしい。家族がいるなら、ずっと仲良く暮らしてほしい。幸せになってほしい。どうか幸せに。 意識が途切れていく。最後の瞬間まで、どうか、と祈り続けようと思った。 奇跡が起こるなら、兄がこの姿を見る前に傷が消えていますように。ほかに願うことあるんじゃないか、と、そんな自分が少し面白かった。でも本心だ。 耳元のすぐ近くで、誰かが笑った気がした。 叶えてあげようか、と、その声が囁くのを聴いた気がした。
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