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エルーシャのために、あるいは叶わない恋のために



 エルーシャは死ぬことにした。

 最後の手紙も書き終え、さきほど友人に託した。善良な彼のことだ。己が預かった手紙が遺書だとは露とも想像しないだろう。
 必ず届ける、と、清冽な青の瞳を細めて約束した友人の面影が目に浮かぶ。
(許せ、カイル)
 心の中で友に詫びる。これからエルーシャがやることは、少なからず彼を巻き込むことになるだろう。
(許せ。ぼくの生涯、ただひとつの我儘だ)
 意に染まぬ相手に、この身を差し出す。
 男でありながらそうとは扱われず、月光を編み込んだような白紗のベールを被せられ、花嫁と呼ばれる。
 その先にあるのが甘い幸福の日々ではなく、肉体も魂も蹂躙される地獄だということをエルーシャは知っていた。
(ぼくの身体も魂も、ぼくひとりのものだ。誰にも、好きにはさせない)
 残されるものたちに思いを馳せる。エルーシャの「嫁入り」を誰よりも喜んでいた兄は、この結末を誰よりも嘆くだろう。たったふたりの家族だ。そう思うと、胸は痛んだ。
 だから屋敷に入り浸る魔術師に、婚約者が送りつけてきた宝石をすべて渡した。胡散臭い男ではあるが、かつて宮廷仕えをしていたという腕だけは信頼できる。その男に、エルーシャが家を去った後は兄の力になると誓わせた。魔術師がこの先どれだけ生きるのかは分からないが、少なくとも兄の命があるうちは、その約束も果たされるだろう。
 告げるべきことは婚約者にあてた遺書に記した。
 想い人を忘れることができないゆえに自死を選ぶ。加えて、エルーシャの遺骸は、兄と親友の手で両親が眠る町はずれの丘に弔ってほしい。お望みに添えず申し訳なく思うが、こちらを想う心があるならどうかこの願いを叶えてほしい、と。
 あの程度で執念深い男が引き下がるとは思えない。手元に届き次第、すぐに遣いを走らせるだろう。しかしその時に出迎えるのは生きたエルーシャではない。意思も魂も持たない、亡骸だ。
 さぞかし狼狽え歯噛みすることだろう、と想像すると愉快な気持ちになる。笑えるものなど、その場には誰ひとり居合わせていないだろうが。
 悔やむことは何もない。この日のために厳重に隠し持っていた小瓶を手に取る。
 蓋を開けると、瓶の中ほどまでに重たげに液体が揺れている。花の蜜と果実を煮詰めて腐らせたような、ひどい匂いがした。巨竜でさえもこのひと瓶で殺めるという、とっておきの猛毒に相応しい香りだった。
(カイル……)
 瓶を手に取り、しばし窓の外に目を向ける。ただひとつ、親友に真実を告げられないことだけが気がかりだった。
 エルーシャの狭い世界の中に、いつでも彼は外の風を運んでくれた。語り足りないことも、交わし足りない思いもまだまだある。
 けれど多くを知らせれば、きっと彼は惑い、苦しむ。それらを知らないまま、友には幸福でいてほしかった。
 躊躇いを振り切るために目を閉じ、唇を瓶に寄せる。
 ひとの身ならばおそらくほんの一滴で死に至るだろう。それでも、瓶にあるものすべてを含もうと決めていた。
 許せ、ともう一度心の中で繰り返し、瓶の中身を一気に煽る。
 死は瞬きするよりも早く訪れた。身構えていた痛みも苦しみも、そこには無かった。
 拍子抜けするほどだ、と薄く笑いたいほどだった。それがエルーシャの、最後の思いだった。



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