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あの薔薇を砕け |
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第四話「荒野に立つ木の話」 笑えない人間が、笑えない冗談を全身で決行しようとしている現場に、立ち会ってしまった。 「何やってんだよ」 思わず、そう声をかけてしまった。断言してもいいが、正義感や、道徳的なものからの発言ではない。ただ、そのまま見過ごしてしまうと、この上もなく後味が悪そうだと思ったからだ。まったくの偶然というタイミングで、運悪くトラウマを残されても堪らないと思ったからだ。それだけだ。 「……見て分からない?」 「分かんないから言ってるんだろ」 ふぅん、と、納得したような、不満そうな、そのどちらとも取れる息をひとつ吐いて、その男は振り向いた。 「飛び降りようと、思ったんだ」 柵にかけた手を離して、また掴む。躊躇する動作というよりも、見つかってしまったので実行するべきか止めるべきかで迷っている、ように見えた。だから取り敢えず、止めておくことにした。 「やめとけよ。こんなところから飛んだって、いいことないぞ」 すると相手は一瞬動きを止めた。やがて、じっとこちらを見てくる。 戸惑いも不快そうな表情もない。どんな感情も浮かべない、白い紙のような、清潔な顔立ち。 「あんたにそんなことを言われるとは思わなかった」 「悪かったな」 「でも、そうかも。今日はやめる」 しかし相手はあっさりと、そう言って柵から手を離した。あまり信用の出来ない言葉だったので、その男と、柵との間に身体を割り込ませる。 「死にたいのか」 「分かんない。さっきは、そうだったんだと思うけど、今はそうでもないよ」 そういう気持ちは、ふいに襲ってきて、そして波のように引いていくものなのだろうか。あまり、というか、そこまで追いつめられた気持ちになったことがないので、想像するのも難しい。 「……なぁ」 だけどそれは、なんだか悲しいことのような気がしたのだ。 だから、引き止めるようなつもりで、そんなことを言ってしまったのだ。 「死ぬなんてさ、もったいないだろ。それぐらいなら、おまえ、おれのものになれよ」 「……なに?」 「いや、その、……おれもよく分からないけど……そうだ、あれだ。ペットになれよ、おれの」 今思うと、なんて言葉だろう。人権侵害だと言われてもおかしくない。そんなことを言いたいのではなかったのに。死ぬなんて寂しいから、楽しいことしようぜと言いたかったのに。完全に失敗したと思った。 呆れるか、馬鹿にするなと怒られるかの、どちらかだと思った。 「いいよ」 けれども相手は、いつものような生真面目な表情のまま、そう言って頷くだけだった。 「そのかわり、いらなくなったらちゃんと捨ててくれ」 そうして、ペットが出来た。 しかし根が善人であるので、単なる思いつきで言ってしまったものの、実際にどう扱おうという目論みはなかった。せいぜい、昼休みにパンやジュースを買いに行かせたり、予習していないノートを写させてもらう程度だった。それだけではペットとは言わないと思い、一度、お手をさせてみたことがあった。あまりにあっさり、いつもの真顔で、手のひらを乗せられたものだから、それ以来、空しくなってやっていない。きっとこいつは、三回まわってワンでもなんでも淡々とやる。そんなの、やらせたってちっとも面白くないではないか。 この男はクラスメイトだ。高校に入って、一年から同じクラスで、そのまま三年間続いた。けれども、実際に口を聞いたことはあまりない。仲良くもない。胸を張って言えるが、友達の数は多い。クラスのほとんどとは仲良しだ。しかし、この男だけは、違う。他の誰とも、打ち解けようとしないのだ。打ち解ける、というよりも、誰とも、接触しようとしないのだ。 この男は笑わない。いつだって、真面目な顔をして、黙り込んでいる。 屈辱的な事件があった。入学式が終わった、そのすぐあとのホームルームでのことだ。ほとんどが見慣れない顔ばかりの教室で、最初にやることといったら大概決まっているものだろう。自己紹介だ。 この男の自己紹介がどんなものだったかは覚えていない。自分より前だったとは思う。何故なら自分が自己紹介したその後は、空気が変わってそれどころではなくなり、結局その時間はそれで終わってしまったからだ。 意気揚々と張り切って挨拶をした。教室の前の壇に立ち、ピンと背筋を伸ばして、大きな声で自己紹介をした。好印象だと、我ながら思った。 しかしその後がいけなかった。制服のズボンに穴が空いていたのだ。しかも尻の部分だ。どうして、おろしたての制服が入学式そうそう破れるようなハメになったのか、もう覚えていない。学校に行く途中に、どこかにひっかけたのだろう、きっと。もうどうでもいい。 それを、頭を下げて、自分の席に戻ろうとしているタイミングで、先生に指摘された。尻に穴が空いてるぞと言われて、なにをそんな当たり前のことを、と思ったものだが、身体を捻って見てみると、確かにズボンの黒地の中に、一点鮮やかな黄色が見えた。 その日のパンツは、紺色に小さなヒヨコが散らばった柄だった。ちょっと悪ぶった表情のヒヨコが可愛らしくてお気に入りのものだった。しかしよりによって、そのヒヨコがちょうど一匹、ズボンの穴からピンポイントでお目見えしてしまっていた。 あれはひどい思い出だ。これまでの人生で、あれほど人を笑わせたことはないし、きっと、やろうと思っても、もう無理だろう。どこか緊張した面持ちの生徒たちを、非常に和ませた。と、思っている。そうでなければ悲しくなるからだ。女の子だっていたのに。 でもその中に、ひとりだけ、笑っていない奴がいた。神妙な顔つきで、じっと、こちらを見ているだけだった。 それが、この男だ。 昼休みは屋上でご飯を食べる。あまり高いところは、相手の精神的によくないのではないかとも思ったが、人の多いところは苦手だと言われたので、こうして屋上まで出て来ている。寒いので、他に来るものもいないのだ。 その日も、パンを買ってきてもらった。種類を言わずに、おまえの好きなやつを買ってこいよ、と言ったら、クリームパンとメロンパンと生クリームフルーツサンドを三つずつ買ってきた。どうして甘いものばかりなのか。それしか残ってなかったのか、と聞くと、ううん、と首を振られた。もしかしたら、甘いものが好きなのだろうか。 折角買ってきてもらったのだから、と思い、受け取る。もちろんお金は払う。クリームパンだけは食べきれなかったので、ひとつ、あげることにした。家から持参した弁当を食べながら、ありがとう、と言って、静かに受け取る。表情は相変わらず、なにも浮かべないままだ。 隣に並んで、昼食を食べる。こちらが口を開かなければ、相手は何も喋らない。 「なあ」 だから、何か話そうと思って、そう言いかけた。なに、と言いたげに、こちらを見てきたその顔を目にした途端、何を言おうとしていたのか忘れた。 そのかわりに、変なことを言ってしまった。 「キスしろよ」 軽い冗談のつもりだった。間近で見たその顔が、下手に整っていて綺麗だったものだからいけない。つい、おかしなことを言ってしまった。言ってから、なーんてな、と、軽い気持ちで命令を取り消そうとした。 しかしそれよりも早く、相手は、忠実にそれに従ってしまった。 触れた唇は、柔らかく湿っていた。恥ずかしながら初めての経験であったので、最初、なにをされたのかよく分からなかった。五秒ほど固まってから、慌てて、相手を突き飛ばす。 「な、おまえ、な、なにするんだ」 「何するって、しろって言ったのはあんただろ」 「そりゃ言っちゃったけどな、でも、別に、そこまでしなくても」 「変なやつ。されたくないなら、言わないでよ」 「ちがう、されたくないわけじゃなくて! ……えっ!」 自分で言って、自分の言葉に驚いてしまった。そうなのだ。されたくないわけではないのだ。むしろ、してほしかったのではないだろうか。だから、あんな風に命令してしまったのではないだろうか。自分が分からなくて、でもなんとなく分かってしまうような気がして、少し恐ろしかった。 「変なやつ」 忠実なペットは、何事も無かったかのように、もそもそとクリームパンを囓りだした。 冗談を言ったりして、誰かと笑い合うのが好きだ。笑顔は心を許しているというサインだから。 それなら、決して笑うことのない男は、同時に、決して誰にも心を許さない男だと、そういうことになるのだろうか。 一度、勇気を出して、聞いてみたことがある。 「なあ。……なんでおまえ、笑わないの」 すると相手は、分からない、と、短く答えた。無表情というわけではない。ペットにしてやる発言からその後、一緒にいることが多くなった。その中で、いつも同じだと思っていた表情の中にも、いくつか感情を表すサインが浮かんでいることに気付いていった。少し、機嫌の悪い時。どちらかというと、安心している時。睡眠が足りなくて、眠い時。 それでも、やはり、楽しい、を読み取れるサインだけは、見つからなかった。 「いつから、そんな風になったんだ」 「分からない。気が付いたら、こうなってた。……どうでもいいだろ、こんなこと」 「どうでもよくないから聞いてるんだろ」 投げやりに会話を打ち切られそうになって、腹が立った。相手が、どうでもいいと言ったことに、理由も分からないまま、怒りを覚えていた。どうでもいいことなんかじゃないだろ。たとえおまえには、大したことじゃなくても、こっちにとっては、とても大切な、ことなんだ。 「……なんで?」 しかし、そうやって、改めて尋ねられると、 「……なんでかは、分かんない、けど」 答えることは出来なかった。 それでも、腹が立って、しかたがなかった。 それから、一ヶ月ほどあとのことだ。 あの男は、また笑えない冗談を実行しかけた。笑えないのは本人だけで充分だろうのに、どうして、そんなことをしようというのか、心底分からなかった。 「なにやってんだよ、この馬鹿!」 今にも柵を乗り越えようとしていたその細い身体を掴まえて、引きずり下ろす。抵抗はされなかった。大人しく引きずられるままになり、そのままぺたんとコンクリートの上に座り込む。馬鹿、と怒鳴ったこちらを見上げて、あの顔をする。これまでに知ってきた、どの感情のサインも浮かんでいない。一番多く見せている、無色の表情だった。 とてつもなく腹が立って、一度、その頬を殴りつけた。 「おまえ、なにやってんだよ、勝手に、そんなことするなよ!」 手加減はしなかった。本気で腹が立っていて、それが、相手に少しでも伝わればいいと思った。何を言っても、大したことじゃないと受け止められるのかもしれない。こちらはこんなにも、頭の中をおまえでいっぱいにしているのに。そのことがもどかしくて、苛立って、悲しかった。 「最近、あんたはおれといる時、いつも、そうやって怒ってばっかりだ」 相手の声は、ひどく静かで淡々としていた。 「そんなにおれのことが気に喰わないなら、放っておいてくれ。だから最初に言っただろ。いらなくなったらちゃんと捨てろって」 その言葉を聞いて、絶望しかけた。ああやっぱり、何も伝わっていない。 「あんたは、おれのことが分からないって言うけど、おれにはあんたのことが分からないんだ」 けれども、相手の顔を見て、そこに浮かぶものに気付いた。よく見ないと気付かない、たぶんクラスの他の誰にも気付けない、小さな変化だ。眉の角度、目の伏せ方、唇の結び方。そこにかすかに見えるのは、困惑の表情だった。 苛立ちに固めたままになっていた拳をほどく。相手が、なにかに戸惑いながら、それを口にしようとしているのが分かった。 「どうして、そんなにおれのことを気にするのか分からない。おれが笑ったって、笑ってなくたって、あんたには関係ないだろ」 「関係ないわけないだろ」 「だから、その理由が分からないんだよ」 「そんなの、おまえのことが好きだからに決まってるだろ、馬鹿!」 怒りのあまり、自分が何を言っているのか、よく分からなくなっていた。それでも最後の言葉を大声で言い切った後で、急に、まるで冷水を浴びせられたように、頭が冷えた。こだまのように、自分が言いはなった言葉が耳の中で響く。 おまえの、ことが、好きだからに、決まってる、だろ? コンクリートに座り込んだまま、相手はこちらを見上げ続けている。さすがに言葉が出てこないのか、表情こそ変わらないものの、何も、言い返してこなかった。一度だけ、目が合った。顔に、火が点いたように、先程とは違う意味で、頭が混乱して、どうすればいいのか分からなくなった。 そのまま、屋上を、走って逃げ出してしまった。 だって恥ずかしくてたまらなかったからだ。 「きみ、話が下手だよ。大事なところだけでいいのに、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。きみがその人のことを好きなのはよく分かったけど」 ……そこまでの経緯を話し終えると、目の前に座る少年は、やっと終わったか、と息を吐いた。 「悪かったな」 「それで、結局、何に焦点を絞るか、決めた? 今のままだと、いろいろ凄いことになっちゃうよ」 「そんなの、最初から決まってる」 「『あいつが、どうして笑えないのか?』」 最初に、ネットから送った通りの言葉を、少年は口にした。 なんでも知りたいことを知ることが出来る、不思議な薔薇の話は、今では知らないものはいない。そのサイトだって有名だ。何故だかマスコミで表立って取り上げられることはないけれど、その存在は、多くのものが知っている。 けれども、実際にその薔薇を目にすることが出来るのは、選ばれたものだけなのだという。サイトを通せば、誰でも、自分が知りたいと思っていることを薔薇の主に伝えることは出来るけれど、その願いを叶えるかどうかは、すべて薔薇の意志にかかっている。クラスメイトにも、何人か「知りたいこと」を送ってみたという連中がいたけれど、彼らのところには結局返事は来なかったらしい。だから、こんなの嘘だよ、と言うものも多かった。 「つまり、そういうことでいいのかな」 言われて、頷く。その通りだった。 薔薇のことを思い出したのは、あれ以来、あの男と顔を合わせるのを避けているためだ。とんでもないことを口走ってしまったため、どんな顔をすればいいのか分からずに、無視をし続けていた。昼休みに、静かに席を立つ姿を見て、もしかして今でも、ひとりで屋上で昼食を取っているのだろうかと思うと、たまらなかった。あんなことを言わないで、ただ、傍にいればよかった。そんなことを思って、ぼんやりする時間が増えた。いつもあまり使わない頭を使っていたせいだろうか。ふいに、そのことを、思い出したのだ。 選ばれる自信なんて無かった。そもそも、ほんとうにそんなもの、存在しているのかどうかも怪しいと思いながらも、願掛けのような気分で、そのサイトからメールを送った。自分が知りたいと思うことを、短く上手にまとめることが出来なかったので、思いつくままに次から次へと書いて、それをそのまま送った。びっくりするほど長い文章になったが、そのまま送ってしまった。 数時間後に返ってきたメールは、こちらが送ったものに比べて、ずいぶんと簡潔なものだった。 『話は聞くから、とりあえず落ち着いてください。』 そんな、返事だった。 「いい、それじゃあ始めるけれど、絶対に守って欲しいことがひとつだけあるんだ。これを守ってもらわないと、大変なことになるのはきみだから、よく心得ておいて」 脅すような口調で、少年はそう言ってくる。同じ年ぐらいだと思うが、名前すら教えてもらっていないので、実際のところは分からない。ただ、この家に来ればいいと、住所だけを教えてもらっただけだ。山奥にある、古びた小さな一軒家。木造の、普通の家というよりは喫茶店のような外観のこの家に、少年はひとりで待っていた。 その手には、硝子で出来ているのだろうか、透明な、薔薇の花があった。 「いい、これから、この薔薇を通じて、きみの世界を外側に広げるけれど、その時、絶対に、自分自身のことだけを考えていてはいけない。知りたい誰かのことを、思い浮かべて欲しいんだ」 「なんでだ」 「そうしないと、おかしくなっちゃうよ。だって、自分のことを知ろうと思っても、そんなの、自分以外のどこにも答えがあるわけないじゃない。……どこにも答えが見つけ出せないまま、元に戻れなくなっちゃう」 少年の言おうとしていることはよく分からなかった。それでも、どうやら大変なことになるのだと言われたような気がしたので、分かった絶対にしない、と請け負う。どの道、知りたいのは自分のことではない。そんなのはどうでもいいのだ。 「分かった? ……ちょっと心配だけど、じゃあ、行こうか。目を閉じて」 言われた通りに、目を閉じる。額に、何かが触れた。 次の瞬間、目の前が、急に眩しく、色を変えた。 あまりに眩しかったので、咄嗟に、目を閉じてしまった。そうしてから、あれ、と不思議に思う。目蓋は閉じていたはずなのに、それなのに、まだ、更に目を閉じるなんて。目を開く。そこにはあの少年も、古びた壁も、透明な薔薇もどこにもなかった。見たこともない、どこかに立っていた。身体が、妙に軽い。足が地面を踏みしめているのに、なにも感じなかった。 頭上を仰ぐ。そこには空があった。水色よりも灰色に近い、晴れているのに暗い空だった。周囲を見回す。なにもない。大地はひび割れていて、もうずっと雨が降っていないような、乾いた色をしていた。草も生えていないし、花も咲いていない。建物もなにもない。人も、誰もいない。空にだって、雲ひとつない。 なにもない世界だった。 これが、薔薇の見せてくれるものなのだろうか。確かに、とても不思議ではあるけれど。……けれど、これのどこが、一体、自分の知りたいと願ったことだというのだろうか。 乾いた土を、感覚のない足で踏みながら、適当に歩き回る。答えが見つからなければ、戻れないというようなことを言われたけれど。……もしかして、何か、間違ってしまったのだろうか。あの男のことを考えていたつもりではあるけれど、うまく、出来ていなかったのだろうか。こんなところに、何かありそうな気配がまったく見つからない。 けれども立ち止まることも出来なくて、ただひたすらに前に進んだ。身体は置いてきたはずであるのに、喉が渇いて、水が欲しくなった。 ……どれだけ歩いただろうか。遠くに、何か、見えたような気がした。走って、それに近づいてみる。のんびりしていると、消えてしまいそうな気がしたからだ。 それは木だった。一本の、自分の背丈よりもずっと大きい、緑の葉が茂る木だった。なんの木だかは分からない。目を凝らすと、赤い色をした実があった。ひとつ見つけると、次から次へと目につく。やけにたくさん、実っていた。あれを食べたら、喉も潤うだろうか。そんなことを考えて、木のまわりをうろつく。と。 そこに、人影を見つけた。見慣れた、ものだ。 「おまえ、なにやってんだよ、こんなところで」 あまりに自然にそこに座り込んでいたものだから、思わず、そう声をかけてしまった。返事はない。そうして初めて、そういえば、ここはちょっと違うんだっけ、と気付く。薔薇が見せてくれた、答えとやらの中だ。 草ひとつ生えない、枯れた大地の上に、いつもと同じような姿勢で座り込んでいるのは、あの笑うことの出来ない男だった。こちらに目を向けることもせずに、ただ、黙って木を見上げている。 これが、答えだというのだろうか。それにしては、ずいぶんと分かりにくい。 どうしていいのか分からずに、男の隣に、座る。 「なあ」 言葉が返ってくることを期待していたわけではない。 「この間は、ごめんな。変なこと言って。びっくりしたよな」 それでも、こんな風に話しかけられるのが嬉しくて、つい、口を開いた。 すると相手は、わずかに首をこちらに向けて、何か、言いたげな目をした。それでも、何かを言うわけではなかった。すぐに、また、木に視線を戻す。それを追って、同じところを見た。たくさんの、赤い実。 それを見る男の眼差しは、現実では見たことのないような、種類のものだった。 「おまえ、あれが欲しいのか?」 聞くと、今度は、すぐに首を振った。そうではないらしい。ここはこんなに乾くから、きっと、すごく水が欲しいだろうのに。それでも、そういうわけではないようだった。 「そうか。おまえは、あれが好きなんだな」 男はこちらの方を見ずに、一度頷く。木と、赤い実を見上げる眼差しは、これまでに見たことがないほど、柔らかい。豊かに実を持つことへの憧れと、決してそれに手を伸ばすことの出来ない寂しさを、一方的にそこに見てしまった。好きなら、こんなところに座っていないで、もっと傍に行けばいいのに。他になにもないこんな世界で、木とこの男と、ふたつしか存在していないのだから、もっと寄り添えばいいのに。 「なあ。……なあ、そのままでいいから、ひとつ、聞いてくれないか」 けれども、きっとこの男は、これで、充分満足しているのだろう。何故だか、そんな気がした。 「おまえ、どうして、笑うことが出来ないんだ?」 すると、男は振り向いた。じっと、こちらを見上げてくる。そうして、しばらくそのままで静止した後、ゆっくりと、指を差して、木とは反対の方角を示した。そちらに目をやる。 瞬間、光が消えた。枯れた荒野も、大きな木も、その足下に座る男も、すべてが消えた。 やがて、舞台の背景が入れ替わるように、ゆっくりと景色が変わる。青いカーテン。きれいに片づけられた学習机と、その上に行儀良く並んだ、勉強道具たち。生真面目に、丁寧に畳まれた学生服。本棚に並ぶ、子ども向けの植物の図鑑。 言われなくても、誰に説明されなくても、自然と分かった。ここは少し昔の、あいつの部屋だ。 泣き声が聞こえる。何かが倒れる、重々しい物音と、そして子どもが走り回っているような、慌ただしい音。そちらに目を向ける。床の上で、揉み合うふたつの影があった。小さな少年と、それよりずっと身体の大きい男。少年はそこから逃げだそうとして、必死に手を振り回し、暴れている。暴れているのに、それを押さえつけようとして、何度も殴られる。頭を掴んで床に叩きつけられて、それを数回繰り返されて、抵抗していた手から力が抜けたのが分かった。今より少し幼いあいつを押さえつけて、体重をかけてのし掛かっているのは、家庭教師をしていた男だ。とても信頼していて、兄のように慕っていて、大好きだった。来てくれるのが嬉しくて、傍にいてくれるだけで、自然と笑顔になってしまうような。そう、だったのに。 男は何度も、おまえが悪いんだからなと低く呟いていた。あんな顔して笑うから、だからこんな風にされるんだからな、と、そればかり、繰り返していた。 止めようとした。その景色に割って入っていって、筋の通らないことばかり言っているその馬鹿な男に、殴ってかかりたかった。けれど、身体が動かなかった。何も出来ない。ただ、見ているしかなかった。 やめてくれ、もうやめてくれ頼むからやめてくれ。嫌がっているのに。嫌がっているのに、泣いているのに。いやがって泣いているのにあんなに泣いているのに。 いくらそうやって叫んでも、見ているその景色には、決して声は届かなかった。 「ほら、ティッシュ」 元に戻っていることに、最初に気付かせてくれたのは、少年のその声だった。 「泣いちゃう人っていうのは結構いるものだけど、ここまで豪快に泣く人ははじめてだよ。鼻水も垂れてるし」 呆れたように言う少年を無視して、鼻をすすり上げる。ティッシュを受け取ったが、もう遅かった。制服の袖で何度も拭ってしまったため、ナメクジが這ったあとのようにぬらぬらと光っている。 「……あの木、きれいだったね。きっとその人は、あれに、すごく救われているんだ」 「あんたさぁ」 自分の見たものと、まったく関係のないことを口にした。そうしないと、涙が止まりそうになかったからだ。こんなに悔しくて、悲しくて、やりきれない思いを、どうしたらいいのか分からなかった。 「なんで、こんなことしてるんだ。この薔薇が、なんかよく分からないけど、すごいのは分かったけど、でも、なんで、こんなことやってんだ。金儲けとか、そんなんでもないみたいだし」 少年はしばらく、何事か考えている様子だった。 「ぼくはね、これを、壊したいんだ」 ややあって、まるで内緒話を打ち明けるように、声を潜めて、そう言ってきた。 「でも、これは普通じゃないから。世界そのものを呑み込んで、そのなかで敢えて、こんな気障ったらしい形を取ってるものだから。……どうやっても壊せない。外からではね。だから、内側から、割れないかと思って」 さっぱり分からない。しかしそう素直に言う気も湧かなくて、取り敢えず神妙な顔を作って、何度か頷いておいた。 「ひとの心って、醜いと思わない?」 こちらのそんな表情を読み取ったのか、少年はふと、にこりと微笑んだ。 「きみだって、今見てきただろう。あの男は笑っていたよね。あの子にあんなひどいことをして、それでもすごく楽しそうだったよね? それが悪意だ。醜くて、汚くて、尖ってる。ぼくはそれで、これを中から破壊できないかと試し続けているんだ」 それでもなかなかうまくいかないけれどね、と、少年はつまらなさそうに続ける。 「純粋な悪意なんて、そうそう、あるものじゃないんだ。……特に、自分ではない、別の誰かに関して、何かを強く知りたいと思うような人間には」 きみの心にもなかったねぇ、と、さほど残念でもなさそうな調子で、少年はころころと笑った。 その日も、笑えない男は、屋上の柵に手をかけたまま、ぼんやりと、遠くを見ていた。 今度は慌てて引き剥がすことはしなかった。こちらに気付いて、振り向くのを待っていた。 「この間は、ごめん」 黙って待っていると、相手は、こちらを見ないまま、そんなことを言ってきた。慌てた。それは、こちらが先に言わなければならないことなのに。 「いや、おれの方こそ……」 そうやって言いかけた言葉を、相手が遮る。珍しい、ことだった。 「……あんたさ、入学初日に、クラス全員の前で、パンツの模様見せびらかしたことがあっただろ」 しかし何を言うのかと思ったら、よりによって、そんなことだった。 「人聞きの悪いこと言うなよ! あれは見せびらかしたんじゃない、ちょっと見えちゃっただけだ。ヒヨコが」 「そう、ヒヨコの。あれは、びっくりした」 「びっくりしたのか」 とてもそうは見えなかった。クラスメイト皆が笑い転げて、涙を流すものまでいた中、こいつだけは静かに、じっとこちらを見つめていた。その顔は、とても驚いているようなものではなかったと思う。 「そう、だってその日、おれも、同じ柄のやつを履いてたから」 偶然ってあるんだな、と真顔で呟いてから、柵から手を離す。足下に置いてあったビニール袋を取り上げ、相手はそこから何かを取り出した。投げるように渡され、落とさないように急いで手を伸ばして受け取った。 「あげるよ。お詫びの気持ちだ」 投げられたのは、赤い林檎だった。 「ごめん」 しげしげと、その赤い果実を見ていると、聞き取れないほどかすかな声で、そう呟くのが聞こえた。顔を上げて、聞く。 「あんたさ、すごく、面白いよ。見ているだけで、他の、いろんな嫌なこと忘れる。おれは、こんなだから、きっと、すごく嫌な思いをさせてるんだろうけど。でも、ほんとうは、嬉しかったんだ」 その顔は、相変わらず、静かなままだ。けれども、同じだった。 「あんたに、あんな風に言われて、ほんとは、嬉しかったよ」 こちらを見て、静かにそう告げてくる男の顔は、あの時、荒野で木を見上げていたものと、同じ目をしていた。豊かに実を持つことに憧れるような、あの眼差し。 「……それなのに、笑えなくて、ごめんな」 あれが好きなのかと聞かれて、言葉なく頷いた、あの表情。 「いいよ、別に。多分、そういうのって、大した問題じゃないんだ。うん、そうだ」 笑えなくても、構わない。多分、これが、答えなのだろう。……ずいぶんと、遅れて、辿り着いた答えだけれど。 いつか、あの荒野に、花が咲いたらいい。赤い実が落ちて、そこから種が芽吹いて、たくさんの緑が、あの乾いた世界を豊かにしてくれたらいい。そのためになら、努力は、惜しまない。 笑えないというのなら、それでいい。 ただ、泣かないでいてくれたら、それで、いいんだ。
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