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あの薔薇を砕け
第三話「果物ナイフを探す話」

 大きな手のひらが好きだ。身振り手振りがどこか大袈裟に見えてしまうのは、きっと手足がやたらと長いからだろう。だからさ、と、何かを説明するときに広げてひらひらとさせる、その大きな手のひらが好きだった。
 ぼくではない、可愛い女の子の手を握る、その手が好きでたまらなかった。

 彼には最近、新しい彼女が出来た。可愛い女の子が多いと噂の学校の、その中でも特別に可愛いのだと噂になっている女の子なのだと、クラスの子が言っていた。一度だけ、街でふたりが歩いているのを見かけたことがある。背の高い彼と、その彼と並ぶせいだろうか、ひどく小さく、まるで子どものように見えてしまった、幼い印象の彼女。
 ぼくの背は、彼とあまり変わらない。少し、ぼくの方が低いくらいだろうか。
 だからぼくと彼とが並んで歩いても、それはただの、友達同士にしか見えない。
 今日も、ひとりで帰ることになった。彼に新しい彼女が出来て、もうかれこれ一ヶ月ほどだろうか。もともと女の子に人気のある彼だから、彼女というものがいなかった時期のほうが短い。けれどもその、特定の付き合う誰かがいない時は、学校の帰りに毎日、寄り道しながら帰っていた。お互いの家に遊びに行ったり、何の目的もあるわけでもなく、その辺りをフラフラして過ごしていた。それでも、一ヶ月前に、終わった。それからは毎日、ひとりで帰っている。何処にも寄らない。楽しくないからだ。
 他に仲の良い友達がいないわけではない。それでも、ぼくの中での順位付けが、何となくそうさせていた。ぼくにとっての一番は彼だ。
 
「……ああ、いた、いた、今日はちょっと遅かったね、ね?」
 覚えたくもないのに、しょっちゅうこうやって声をかけてくるものだから、自然と顔を覚えてしまった。年は三十代の後半くらいだろうか。着古した感のあるスーツから、仕事に疲れたサラリーマン、という印象を受けるけれど、実際のところどうなのかは分からない。
「ねぇ、ねぇ、あの話、考えてくれた?」
 無視して通り過ぎようとしたぼくを追いかけて、隣に並ぶように小走りになりながら、男は少し声を潜めて、ぼくにそう言う。それも無視して走り出そうとすると、それよりわずかに早く、男に制服の袖口を掴まれた。
「ねぇ、本気なんだよ。お金なら、たくさん持ってるんだ」
 手首に、男の指が触れた。かさついたその皮膚の感触と、その手が求めることを考えてしまい、慌ててそれを振り払う。
 背が低くて、小太りなその男は、一ヶ月ほど前から、こうやってぼくに声をかけてきていた。話は簡単だ。援助交際をしようと言われたのだ。そういうのは普通は女の子に持ちかけるものだというイメージがあったので、呆気にとられているぼくを見て、可愛いね可愛いね、と何度も繰り返しては、始終ご機嫌そうだった。どうしてぼくに声を掛けたのかは分からないけれど、一度何気なく、ずっと見ていたんだ、と言われて、背筋がぞっとした。もちろん断り続けているし、何度か、警察に言うと脅した。それでも男は懲りずに、こうやって話しかけてくる。まるで毎日続ければ、いつか望みは叶うのだと、そう信じているかのようだった。
 振り払った手をまた伸ばしてこようとしたので、触れるのも嫌だったけれど、思い切り突き飛ばして、相手がよろめいているうちに走って逃げた。体力に自信がないのか、それとも、また別の日に同じことをすればいいと思っているのかは分からないが、男は追ってこようとはしなかった。

 二人が付き合い初めて、二ヶ月ぐらい経った時のことだった。
 ちょっと相談があるんだけど、と彼に呼び出された。いつもは彼女と約束をしていて、放課後もすぐに帰ってしまうのに、その日は違った。授業が終わるとすぐに、そう言って、彼は少し周りを気にするような素振りを見せた。何か、他の人には聞かれたくないような話があるのだと思った。相談、というその言葉が、嬉しかった。
 いいよ、と頷くと、彼は、家に来るように誘ってくれた。やはり、あまり人には聞かれたくないのだ。
 家に遊びに行くのは久しぶりで、何か悩みのあるらしい彼に申し訳なく思いながらも、心が弾んだ。
 部屋に着くや否や、彼は盛大に、大きなため息をついた。
「ちょっと、失敗しちゃってさ。どうしていいか分かんなくて」
 沈痛ささえ漂う表情をして、それだけ言って、また黙ってしまう。
「どうしたの?」
 きっとこの言葉を待っているのだろうと思い、聞いてみる。
 彼は言葉にならない小さな呻きを漏らしてから、実は彼女にさ、と口を開いた。
「子どもが出来ちゃって」
 言いにくそうに口にされたその言葉は、しばらく頭の中に入ってこなかった。
 彼を見たまま、間抜けに口を半開きにしたまま、ぼくはしばらく固まってしまった。
 そんなぼくを見て、彼も、あまりいい気持ちはしなかったのだろう。取り繕うように、早口に言い補ってくれる。
「いや、あのさ、おまえにこんなこと言っても、しょうがないんだけど。でも、なんか、話聞いてほしかったんだろうな、誰かに。でも、あんまり誰にでも言えるようなことじゃねぇし。おまえなら、と思って」
「……どう、するの」
「そりゃ、堕ろしてもらうしかねぇだろ」
「そう、だよね」
 彼女の方がどう考えているのかは分からないけれど、彼がそう考えても仕方がないような気はした。だってまだ、高校生なのだから。それはもちろん、いいことではないし、出来たら、止めた方がいいのだろうけれど。……けれども、頷く以外のことは出来なかった。
「ただなぁ」
 どう言っていいのか分からずにいると、彼がぼやくように、そう言った。
「金がなくてさ」
「家の人に、なんとかしてもらうとか」
「そんなの無理だよ。おれ、親になんて話したら絶対殺されちまうよ。あいつもそうだと思う。親父がすげぇ厳しいらしいし」
「……いくらぐらい、必要なの?」
 ぼくのその問いに、このぐらいかもっと、と、彼が金額を口にする。
 目を剥くような大金ではなかったけれど、でも、誰にも頼れずに用意しようと思ったら、少し難しい額だと思った。
「あのさ」
 考える間もなく、言葉は自然と出ていた。
「ぼく、少しで良かったら、協力、するから」
「何言ってんだよ、おまえにそんなことしてもらうわけにはいかねぇだろ。大丈夫だよ、おれ、これからバイトして貯めるし」
「でも、そういうのって、早いほうがいいんじゃない。だったら、ぼくも協力するよ」
 ぼくがそう言っても、しばらく彼は頷かなかった。代わりに何かを黙って考え込んでいるようだった。眉間に皺が出来ている。思い詰めたような、真剣な顔が少し悲しかった。
 次第に、じわじわと心の中に広がってくるものがあった。
 それは驚きでもない、憎しみでもない、どちらかというと、諦めにも似たような感情だった。彼の話に、大きな衝撃を受けていた。でもそれは、子ども、とか、そのためにお金が必要なのだと言われたことではなかった。
 子どもが出来てしまったというのは、つまり、そういうことなのだと、思い知らされたからだ。
 恋人が出来れば、自然なことなのかもしれない。それに別に、彼が女の子と付き合うのだって、これが初めてではない。それでも、今まで、具体的にそういう話は聞かなかった。それは多分、ぼくの方が、聞こうとしなかったから、かもしれないけれど。
 今更になって、思い知らされる。
 ぼくは彼とは、恋人にはなれないのだ。
「何とかするよ。だって、ともだちじゃないか」
 黙り込んでしまった彼を励ますためにそう言ったぼくの声は、我ながら、変に明るくて場違いだった。

 結局彼は、最後には、それじゃあ少しだけ助けてくれよ、と、納得してくれた。少しなんて言わずに、出来たら、全てぼくが助けてあげたかった。けれども、彼も、どうしたらいのかとうなだれていたほどの金額だ。ぼくにも貯金はないし、まさか親に貸してもらうわけにもいかない。それに、他の誰でもなく、自分自身で、彼の力になりたかった。
 けれども、急にお金を作る良い方法は思いつかない。何かいいアルバイトでも探してみようか、と、そんなことを考えながら、彼の家からの帰り道を、ぼんやりと歩いていた。
「あ……あ! いた、いた、きょ、今日はどうしたの? どうしてこんなところにいるの?」
 すると、後ろから、そんな声を掛けられる。いつもの、あの男だった。
「あんまりいつもの道を通らないから、もう、今日は、会えないのかと思ってたよ」
 振り向かないまま、歩く速度を速める。男も慌てたのか、小走りになった足音が、背中から追いかけてきた。
 そうして追いついてきて、何を言うのかと思えば、
「ねぇ、ねぇ、あの話、考えてくれた?」
 またその話だ。何度無視されても、懲りずに同じことばかり繰り返してくる。どうして、そこまで情熱的になれるのだろう。そう思いながら、いつものように無視して、男から逃げようとした。
 けれども、次に男が口にした言葉に、思わず、足が止まってしまった。
「お金ならいくらでもあげるよ。ほしいものがあるなら、なんでも買ってあげるよ」 
「……ほんとうに?」
「え? え、うん、ほんとうだよ! ほんとうに、そうだよ」
 これまで、何度もこうやって声を掛けられたけれど、まともに口を聞いたことはほとんどなかった。
 一体何を言おうとしているのだろうと、自分でもそう思いながら、ぼくは男の顔を見上げた。冴えない、どこにでもいそうな、中年の男。ぼくが足を止めて、いつもと違う反応を見せたことで、何かを期待しているような目をしていた。
「ぼくがお金欲しいって言ったら、いくらでも、出す?」
「出すよ、いくらでも出すよ! お金ほしいの? いくら欲しいの?」
 彼が口にした金額を、そのまま同じようなトーンでなぞる。だから、自然とどこか沈んだ声になった。彼のことだけを、思い出していた。
 男は満面の笑みを浮かべて、何度も何度も、頷いた。

 ちょっと来て欲しいんだけど、とだけ言って、彼を呼び出した。放課後、人のいない部活棟の裏庭で、彼に茶封筒を手渡す。昨日の今日だからだろう。彼は最初、不思議そうな顔をして、それを受け取った。
 そしてすぐに中身を確認して、感嘆したような、短い声を上げた。
「……どうしたんだよ、おまえ、これ」
「それで、足りる、よね」
「や、数えてねぇから、分かんねぇけど……。でも、どうしたんだよ、おまえ、一日で、こんなに」
「困った時は、お互い様だから」
 昨日言っていた分だけ入っているから、と言うと、彼は封筒の中を覗いて、数えるような仕草をした。そして途中で止めて、ポケットにしまう。
「……おまえ、顔色悪くない? まさか、なんか、ヤバいことでも、したのか」
「違うよ。ちょっと、親がぼくの名義でしていた貯金から借りただけ。大丈夫、誰にも言ってないし、バレないから」
 顔色の悪さを指摘されて、少し、動揺してしまった。言葉の端が震えて、だけどそれ以外には、うまく嘘を付けた。ほんとうは立っているだけでも辛かった。気持ちが悪くて、食欲も湧かない。思い出すのも嫌になる、ひどい時間だった。
 けれども、彼は、深々と頭を下げた。まるで土下座でもしかねない勢いだったので、肩に手をかけて、顔を上げてもらう。そこまでしてもらえるようなことではない。ぼくがやりたくて勝手にやったことだし、そしてそれは、きれいなお金ではないのだから。
「ごめん、おれ、おまえに、何て言ったらいいか。絶対、返すから」
「気にしないでいいから。彼女のこと、大事にしてあげてよ」
 なんて白々しい言い草だろうと、自分でそう思った。それでも彼は、ぼくの両手を強く握って、ありがとうと繰りかえし続けた。
 それだけで十分だと思った。

 それからは、何も起こらない日々が数日続いた。
 彼からは何も報告が無かったけれど、きっとそれどころではないのだろう。お金を返して欲しいとは思わなかったし、あんなことをして手に入れたものだ、返されても、逆に困ってしまう。
 あの男は相変わらず、以前と全く同じように、帰り道でぼくを待ち伏せしている。どうやら一回で気が済むものではないらしい。逆に、以前までのおどおどとした雰囲気が消えて、妙に偉そうに振る舞っていた。こちらとしても、あんな大金をせびった身であるので、前ほど強い態度には出られないのが辛かった。それでも、もう、二度としようとは思わなかった。そのつもりだった。
 お金を渡して、一週間ほど経った日のことだった。
 また、彼から、ちょっと相談があるんだけど、と呼び出された。
 ぼくが渡した分だけでは、足りなかったのだと、そう言われてしまった。あんまり何度も、ごめんごめんと謝られるものだから、いいよ、としか言えなかった。それで、どのくらい、足りないの。
 あとは、この間と同じだ。彼との遣り取りも、あの男とのことも。
 そんなことが三回続いた。

 そして、四回目の相談を持ちかけられた日のことだ。
 彼は相変わらず、申し訳なさそうな顔をして、ごめんと謝った。無理だったらいいから、と言いつつも、それでも、こんな風に頼れるのがおまえしかいないから、と言われると、ぼくも同じ言葉しか返せない。
 あの男はもう、帰り道でぼくを待ち伏せない。電話番号を教えられたからだ。お金が必要になったら、すぐにここに連絡するんだよ、と言って渡された名刺には、思ったよりも立派な肩書きと、聞いたことのある会社の名前が書かれていた。ぼくの方から連絡するなんて、誰がそんなことをするか、と思ったけれど、何故だかその名刺を捨ててしまうことが出来なかった。きっと、そうしてしまえばもう彼を助けられなくなってしまうからだ。
 もう彼は、そのお金が何に必要なのか言わなくなった。最初の目的分には足りたのだろうけれど、それ以外のことで、どうしても要るらしい。聞けば教えてくれるのかもしれないけれど、でも、そんなこと、どうでもよかった。彼が必要だというのなら、それだけでいいんだ。
 すぐに頼めると嬉しいんだけど、と言われたので、分かったよ、また明日ね、と答えて、彼と別れた。

 あの男に電話をしなければいけない、と思いながらも、なかなかそんな気になれなくて、学校を出て、そのまま辺りをうろうろと歩き回った。今日は冷え込んでいて、肌寒い。人気のない公園を、白い息を吐きながら、意味もなくぐるぐると歩き回った。
 公園には、花壇があった。丁寧に世話をされているのだろう、花が咲いていてとても綺麗だった。こんな寒い日にも、花って咲くんだな、と、ぼんやりとそんなことを思った。足を止めて、眺める。
 薔薇の花が咲いていた。赤い花びらの色に、深い緑色の茎と葉。他にもいろんな花があったけれど、名前が分かるのは薔薇だけだった。茎の細さに対しては、開ききった花は大きくて、重たそうに時折吹く風に揺れている。
 それを見ていて、ふと、思い出した。どこかで、聞いたことのある噂話。一輪の、不思議な薔薇の花のこと。
 ポケットから携帯電話を取り出し、インターネットに接続する。誰から聞いたのか分からないけれど、確実にヒットすると言われた言葉を打ち込んで、検索をかけてみる。言われた通り、すぐにそのサイトは見つかった。
 なんの装飾もない、文字だけのシンプルなサイト。簡単すぎる説明と、必要な情報をメールで送信するツールだけしか置かれていない。
 言葉に迷いながら、文字を打ち込んでいく。寒さのせいで、指先が震えて、何度もやりなおした。途中で、一体ぼくは何をやっているんだろう、という気分になったけれど、だけど止められなかった。 
 返事は、数分あとに返ってきた。望むものを見せてあげてもいいと、そんな風に書かれていた。

 説明された住所が何処なのか分からないし、人と会わなくてはいけないからそんなに遠くまでは行けない、とメールで返事をすると、それじゃあ近くまで行ってあげてもいい、と言われた。随分とサービスのいい話だなと思いながら、ぼくはそのまま、公園のベンチに座って、ぼんやりして相手を待っていた。
 薔薇の持ち主は、ぼくと同じくらいか、そうでなくても、せいぜい大学生ぐらいの年頃の少年だった。すぐにぼくが分かったのか、こんにちは、と、妙に邪気のない笑顔で挨拶をされる。
「こんなに寒いところで、いいの」
「うん。……ねぇ、薔薇は?」
 ぼくがそう聞くと、少年は手にしていた大きな鞄の中から、四角い包みを取り出す。大事そうな、慎重な手つきで白い布をほどいて、硝子のケースをぼくに見せた。最初は、中に何も入っていないように見えた。
「ほんとうは、あまり持ち出さないんだけど。でも、きみは特別だ。……さあ、はじめようか」
 少年はケースを開けて、中に手を差し入れる。その指がなぞった形に、はじめてそこに花らしきものがあるのが分かった。取り出される、一輪の薔薇。花びらも茎も、硝子というよりは、氷細工のように澄んで透明だった。花壇に咲いていたものとは違い、完全に開ききっていない、どちらかというと蕾に近いような花だった。
「どうしたらいいの?」
「きみが知りたいことを、思い浮かべていてくれればいい。……そう、目を閉じて。大丈夫だとは思うけれど、一応確認だけするよ。決して、自分の中だけのことを考えては駄目だからね」
 そう話しかけてくる少年に頷いて、目を閉じる。自分のことなんて、知りたくもないから大丈夫だ。ぼくが薔薇に見せて欲しいのは、ただひとつだけ。
 彼が、どんな風に、彼女を抱くのか。
「それじゃあ、行ってらっしゃい」
 少年がそう言ったすぐあと、額に何かが触れた。固くもない、冷たくもない。きっとあの透明な薔薇なのだろうけれど、氷のような見た目に反して、まるで誰かの温かい指先で、そっと撫でられたようだった。
 音叉を鳴らしたように、甲高い、けれども耳触りではない音が、頭の中を伸びて、広がっていく。彼のことを思った。あの大きな手。ぼくの好きなあの手は、どんな風に、好きな人を抱くのだろうか。
 それだけ知ることが出来れば、何もかも、平気になれると思った。そうすれば、いつまでも、それを思い出していける。
 音が少しずつ薄れていく。かわりに、誰かの声が、遠くから聞こえてきた。聞き慣れた、笑い声。それに絡む、もうひとつの高い声。彼と、……声は聞いたことがないけれど、きっと、その彼女のものだろう。何か、囁き合うようにして、くすくす笑い合っている。とても甘い。
(「ねぇ、でもすごいね、その子。よくそれだけ、次から次へと、お金出せるね」)
(「だろ? ほんとに、有難いよな」)
 目蓋を閉じたままなのに、そこに、映し出される風景がある。知らない部屋。橙色の照明と、広い部屋と、そして大きなベッド。すぐに、それがどこなのか分かった。ぼくも、あの男に連れられて行ったことがある。そういうことをするための、場所だ。
 身体がおかしかった。公園の冷たいベンチに座ったままのはずなのに、どこにも、寒いという感覚がない。ベッドの上でくっついてくすくすと笑い合っている彼と彼女を、天井から見下ろし、すぐ近くから見上げて、三百六十度どの視点からも同時に見ることが出来た。あまりに鮮明に見えるので、これが覗き見以外の何物でもないことを改めて思いだす。傍観者がいるだなんて思いもせずに抱き合っている二人を見て、罪悪感でかすかに胸が痛んだ。……ああでも、彼は、あんな風に、彼女を抱くんだ。思った通りだ。とても、優しい。大きな手のひらで撫でてあげて、包んであげて、たまに悪戯をして。不思議なくらい、羨ましいという感情は湧かなかった。それを知ることが出来て、ただ幸せだと思った。だいじょうぶ、これでもう、ぼくは大丈夫だ。身体は物だ。どんな風にでも扱えばいい。だけど心だけは自由に、何を思うことも出来る。ずっと、彼のことを思い出していればいい。
 けれど、二人の囁きが、聞こえてしまった。
(「おれも、どこからそんな金用意してくんのかなって不思議に思ってたんだけど、でも、あいつ、援交してるんだよ。中年の、金持ち親父相手に」)
(「えぇ! なにそれ、気持ち悪い」)
(「だよな、よくやるよな? でもあいつって、もともと、そういう奴なんだよ。だから、別に構わないんだろ」)
(「ねぇねぇ、もしかして、その子ってあんたのこと、好きなんじゃないの」)
(「そうなんだと思う、多分」)
 聞きたくなくて、耳を塞いだ。それなのに、音は消えてくれない。
 それは、ぼくがそう、望んだからだ。ぼくが、この場面を知りたいと望んでしまったから。
 だから、どんなに小さなことも、知りたくなくても、教えてくれるのだ。
 ぼくの好きな大きな手が、彼女の髪を優しく撫でる。
(「……ほんと、気持ち悪いよな」)
 囁いた声も、それと同じくらい、優しかった。

「……大丈夫?」
 目を開けると、少年が心配そうな顔をして、こちらを見ていた。もう、薔薇は手にしていない。元のように、硝子のケースの中に仕舞われたのだろう。
「気分は悪くない? 指とか、ちゃんと動くかな」
 ぼくが何を見たのか、まるでそれを知っているように、労りに満ちた言葉だった。うん、とそれに頷いて、寒さにかじかんだ指先を数回曲げて見せる。どこにも、おかしいところはない。
「きみ、家どこ? ぼくもこれから帰るところだし、よかったら、一緒に行こうか」
「……ううん、ごめん。これから、人に、会わなくちゃいけないから」
「そう。……気をつけてね。風邪を引かないように。今日は、寒いから」
「うん。ありがとう」
 それだけ言って、手を振って、別れる。一体、こんなことをして、あの少年は何の得をしているのだろうと、不思議だった。お金も取らないし、何か、いいことがあるのだろうか。そんなことを考えかけて、やめる。ぼくには、関係のないことだ。
 一度、もといたベンチの方を振り返ってみた。少年はまだそこに立ち、ぼくの方を見ていた。もう一度、手を振る。遠目でよく分からないけれど、少し、悲しそうな、顔をされた気がした。
 ……ああそうだ、あの男に電話をしなければならない。
 約束をしたのだ、彼と。明日お金を渡すって。

 身体が軋む音がする。全身が怠くて、立ち上がるのも面倒だった。熱が出たかもしれない。あの少年に、風邪を引かないようにねと言ってもらったばかりなのに。
 男が触れてくる手に、薔薇が見せてくれた彼の手を重ねようとした。目を閉じて、彼のことだけを思い出そうとした。涙が溢れて、止まらなかった。泣き出したぼくを見て、男は何故だか、とても嬉しそうだった。大丈夫だからねと何度も繰り返す。大丈夫だからね。ずっと可愛がってあげるからね。ほんとうにきみはきれいでかわいいね……。
 違う。きれいでもなんでもない。こんなに、気持ち悪い人間は、きっと他にはいない。
 目を閉じる。囁き合って笑う、彼と彼女。その傍らに立つぼく。ぼくに触れる男。ふいに、白い光に気が付いた。今にも消えそうな、手のひらに丁度乗るくらいの、小さな光だ。手のひらを差し出して、それを受け止める。温かくて、柔らかかった。ふわふわと、まるで甘えるような仕草で、数度揺れる。かわいくて、愛おしいものだと思った。ああそうか。消えてしまった、小さな命だ。これも、薔薇が見せてくれた。世界の、すべてのうちのひとつだ。
 手のひらに受け止めた光を抱き締める。ぼくは、なんてひどいことを、してしまったのだろう。
 ごめんね。ぼくが、きみを殺す力になってしまった。
 ……ごめんね。
 何度も繰り返す。けれども、いくら謝っても、それはもう、遅いのだ。
 目を覚ますと、男はもう、いなかった。枕の隣に、いつものようにお金の入った封筒が置かれていた。
 涙はもう、乾いていた。

 彼には、平気な顔で会えた。いつものように受け取ったお金を、いつものように渡す。恩に切るよ、きっと返すよ、と笑いかけられて、ぼくも、同じように、笑顔を返した。

 数日して、またあの公園に行ってみた。風が冷たくて、空は灰色をしていた。今にも、雪が降ってきてもおかしくないほど、空気も凍えていた。うろうろと歩き回って、あの花壇の前に辿り着く。
 大きな赤い薔薇は、枯れてしまっていた。寒い日が続いたからだろうか。花のことは分からないから原因は分からない。その他の、あの時はきれいに咲いていた花も、今はすべて枯れて茶色くなっていた。誰かが、手入れしているはずなのに。……寒いから、もう、放っておかれてしまったのかな。
 枯れた薔薇の花びらを、一枚むしり取る。しなびた、紙のような手触り。意味もなく、ポケットに仕舞った。
 電話が鳴る。相手も見ずに、着信ボタンを押す。彼だった。
「ごめんな、おれだけど。あのさ、この前の話なんだけど、覚えてるか? 悪いんだけど、やっぱりおれの勘違いだったよ。ほんとうは、もうちょっと必要なんだ」
 うん、と、それまでと同じように返事をする。わかったよ。いくら必要なの。……うん、わかった。だいじょうぶ、すぐに用意できるよ。うん、またあとで。
 それだけの用件を告げると、彼は電話を切ってしまった。
 そのまま、あの男に、電話をかける。番号はもう覚えてしまった。まるで電話を手にして待ちかまえていたように、相手はすぐに出た。ぼくだけど、と言うと、男は、うん、うん、うれしいよ、うれしいよ、と何度も呟いた。
 自分の声が、彼と会話している時も、あの男と会話している時も、全く同じ調子であることに気付いた。おかしくなって、小さく笑う。男は何を勘違いしたのか、機嫌が良さそうに、何度も待ち合わせの時間と場所を繰り返し確認してきた。うん、わかってるよ。……うん、またあとで。

 ぼくは彼の、あの、大きな手のひらが好きだ。ぼくではない、可愛い女の子の手を握る、その手が好きでたまらなかった。
 あの手はぼくを抱かない。それでも、良かったのに。
 ただ、こっそり、想わせていてくれれば、それだけで良かったのに。困っている様子だったから、だから大変だと思って、そんな彼の力に、少しでもなれればいいと感じただけなのに。……ううん、違うか。助けには、なれたのだろうか。なんの助けだか、分からないけれど。彼女とくすくす笑い合うあの声も顔も、とても幸せに満ち足りていたではないか。彼はもう、お金の話しか、ぼくにしなくなった。必要な時にしか、ぼくに話しかけてこない。仕方がない。だってそれはぼくが、気持ちの悪いやつなのだから、しかたがないんだ。
 彼のことが、好きだった。
 ほんとうに、ただそれだけで、よかったのに。
 目蓋を閉じて、また、あの白い光を思い浮かべる。小さな命。
 ぼくが殺してしまった、かわいそうなあの子に向かって、そっと呼びかける。誰にも内緒の、秘密の相談を、しよう。
 ねえ、ぼくと一緒に、仕返しをしようか。
 せめてもの罪滅ぼしに、きみの仇を、取ろうか。
 きみの手はきっと、とても小さいんだろうな。そのきみの手にも重くないような、一緒に手を重ねて、ぼくの責任と、きみの仇を一度に取れるようなものがいい。
 待ち合わせの時間までには、まだ、充分に余裕がある。だから、探しに行こうか。

 あの角のコンビニに、果物ナイフは売っていたかな。  


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