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あの薔薇を砕け
第五話「死んだぼくの話」

 その薔薇は、永遠に咲くことはない。
 だから、決して、枯れることも、ないのだ。


 ……それはとても、幸せな、答えだった。

 この部屋に足を踏み入れた時に額に浮かんでいた汗も、今ではすっかり引いてしまった。少し肌寒いかな、と思っていたけれど、やがて自分がそんなことを考えたことがおかしくて、小さく笑う。終わりがあることをはっきり知らされたものだから、どんなことでも、やけに過敏に感じてしまうだけかもしれない。
「……ねぇ、大丈夫?」
 目の前に座る少年が、不安そうな面持ちで、そう尋ねてくる。どうして、こんなことをしているのかは分からないけれど、でも、素直そうな、優しい子だと思った。
「大丈夫だよ。思っていたより、ずっと、凄いね。……ありがとう」
「こんなの、ひどいよ。なんだよこいつ、聞きたいのは、そんなことじゃないだろう……!」
 少年は憎らしげに、硝子ケースにしまった透明な薔薇を睨み付ける。
「だいたい、いつも意地悪なんだ、これは。よりによってそんな場面を見せなくったっていいのに、って、そう思うようなところばっかり見せるんだ」
「……でも、ぼくは、すごく嬉しいよ」
 もうすぐ自分が死んでしまうのだと、知ったばかりのその事実は、あまりに現実味がなかった。だから、実感が湧かなくて、怖いとも嫌だとも思わなかった。それよりも、彼のことが、心を占めていた。
 最初の日は、すべての色が抜け落ちたような空っぽの表情をして、部屋の真ん中に座り込んでいた。いつもあんなに堂々としていて、生気に満ちあふれた表情を浮かべているのに、どこにも、その面影が見つからないほどだ。あれでは、ぼくではなくて、まるで彼の方が死んでしまったような顔ではないか。思い出して、笑う。
 その次の日も、凄かった。二人で並んで寝られるように、と買った、とびきり大きなベッドで、ひとりで彼が眠っている姿が、少し切なかった。いくら身体の大きな彼でも、さすがに、ひとりでは広すぎて、なんだか寒そうだった。それで、急に目を覚ましたと思ったらふいに立ち上がって、部屋をうろうろ歩き回りだしたのだ。何をしているのかと思って、じっと見ていた。彼は湯船の蓋を開けて、クローゼットの中を覗き込んで、そしてしきりに、小さな声で、名前を呼んでいた。……ぼくの、名前だった。まるで、小さな猫でも探しているみたいだった。引き出しをひっくり返して、戸棚の奥をさらって、たくさん、たくさん、名前を呼ばれた。呟くような、囁くようなその声で、部屋の隅から隅まで、探されていた。やがて、散らばった部屋の真ん中に、また一日前と同じように座り込んで、ひとりで酒盛りをはじめた。そんなに勢いよく飲んだら身体を壊しちゃうよ、と、見ていてハラハラするほど、次から次へと缶を空にしていった。たくさん、泣いていた。声を上げて、身体を震わせて、まるで、小さな子どものようだった。
 不安になっていた。ほんとうに、ぼくはこの人と一緒にいてもいいのだろうかと、そう思うことが増えてきていた。
 彼の家は、地方の名家だと聞いていた。大きな家があって、親戚がやたらと多くて、付き合いが面倒なのだそうだ。しかも、なんと言っても長男だ。高校を卒業すると同時に、半ば勘当されるように家を出たぼくとは違う。将来を嘱望された、存在なのだ。
 彼は、ぼくと一緒にいることを選んだのだと、そう言ってくれた。けれどもそれは、以前の話だ。もしかしたら、今でも、その言葉が彼を縛っているのではないだろうかと、考えれば考えるほど、悪いほうに思考が偏っていった。
 この間の日曜、彼のお母さんが、ぼくを訪ねてきた。今は、お金さえ払えば、何でも調べてくれる人がいる。……彼のお母さんは、ぼくと彼のことを、よく知っていた。
 あの子の将来を考えてください、と丁寧に頭を下げられ、見たこともないほど分厚く膨らんだ、銀行の封筒を差し出された。中身は見なかったけれど、多分、あれは、いわゆる手切れ金というやつだったのだろう。もちろん、受け取らなかったし、はっきりとした返事もしなかった。けれども、彼のお母さんを、泣かせてしまった。
 どうしたらいいのか、分からなかった。だから、何でも答えてくれるのだと言う、不思議な薔薇の花に、聞いてみることにした。
 『ぼくと彼との、幸せな未来を見せてください』。
 ……そして、答えを、もらったのだ。

 壁にかかった、古い時計が、鳴った。時間を見ると、もうすぐ、彼の会社が終わる頃だ。今日は、まっすぐ帰って来てくれるだろうか。早く、顔を見たかった。嫌がられるかもしれないけれど、あの背中に甘えて、夜の間中、離れないでいたかった。立ち上がって、少年に、もう一度お礼を言う。
「ありがとう。ほんとうに、なんのお礼もしなくていいのかな」
 うん、と頷いて、それでもまだ納得がいっていない様子で、やっぱり変だ、と呟く。
「だって、ほんとうに、それでいいの、あなたは」
「うん。いいよ」
「だって、……だって、あなたは、死んでしまうんでしょう」
 死んでしまう、の部分を口にする時、声と表情が、躊躇いで歪んでいた。優しい子だと、そう思った。思わず手を伸ばして、頭を撫でてしまう。
「いいよ、それでも。だって、そんな風に、ぼくたちが終わるのなら」
 心と心が離れて、それきり二度と重なることがなくなってしまうような、そんな結末を迎えるよりもずっと。
「――きっと、あの人は一生、ぼくのことを忘れないから」
 心からそう思っていることが伝わればいいと思って微笑んだけれど、少年は最後まで、不満そうな、泣き出しそうな顔のままだった。

 帰り道、花屋に寄って、薔薇の花を数本買った。少年の見せてくれた透明なあの薔薇が、とても綺麗だったからだ。思ったよりも高くて、少ししか買えなかったけれど、咲き開きかけた蕾のかたちが、とても可愛いと思った。きっと、綺麗に咲くだろう。
 あの少年は、ひどいと言って、腹を立ててくれたけれど。……けれど、幸せな終わりというのは、望んで、得られるものではないはずだ。そして、ぼくが欲しいのは、まさに、そういうものだったのだから。だから、嬉しかった。早く、彼に会いたい。こんな薔薇なんて買って帰ったら、きっと、びっくりするだろうな。
 想像したら、楽しくなった。ひとりで、小さく笑う。
 傷でも、棘でもいい。
 あの人の心にいられるのなら、どんな形であっても、構わない。それこそが、ずっと望んでいたものなのだから。
 だからそれは、幸せな未来以外の、なにものでも、ない。


 なんて満たされた、幸せな最後だろう!




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