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あなたは深い海の底
3


 それまでほとんど意識していなかった店内のざわめきや、小さく流れる音楽がゆるやかに耳に届きはじめる。
 聞こえてきた低い声の方角に目を向ける。さきほどまで瀬越が座っていた隣の席に、ひとりの若い男がいた。湊人の返答も待たず、すでに椅子に腰を下ろしている。
 ずいぶんと身体の大きな男だということは、座った状態でもよく分かった。年齢はおそらく、湊人よりもいくらか若いだろう。短い黒髪に、精悍な顔つきの中に光る、好奇心を抑えきれない大きな瞳。体育会系特有の、明るい陽性の空気を、全身から発している男だった。
 湊人にとって、限りなく苦手な種類の人種だった。
 店内を見渡す。何も湊人の隣を選ばなくても、席はまだいくつも空いている。それなのにわざわざ隣に座り、メニューを手に取るでもなく、こちらの方に身体ごと向けている。
 男の興味が、湊人にあることは明白だった。
「どうぞ。もう帰るところなので」
 冷ややかに言い放ち、席を立とうとする。すると、引き留めるように、シャツの袖の上から左腕を掴まれた。反射的に振り払い、男を睨み付ける。
 雪女の息子、とすら言われる、つめたく表情のない湊人の顔でも、あきらかに嫌悪感が出ていただろう。それでも男はまったく意に介さない様子で、湊人が鞄にしまおうとしていたペーパーバックを手に取った。何の興味もないように、ぺらぺらとめくられる。
「触らないでください」
 睨む目をそのままに、男の手から本を取り上げる。湊人がひややかな苛立ちを隠さないことが面白いように、男は声を上げて笑った。
「あんた、瀬越の恋人?」
 そして突然、そんなことを言われる。好奇心でいっぱいの輝く瞳。男の目を輝かせる光の中のひとつぶに、ささやかな悪意を見たような気持ちになった。
 どうやら、遊び相手を探して湊人に声をかけたわけではないようだ。なにやら払拭すべき誤解が生じているらしいと判断し、湊人はふたたび、椅子に戻る。
「違います」
「別にそんな怖い顔しなくたっていいだろ。誰にも言わねえって……」
 否定の言葉が聞こえなかったように、肩を竦めて笑われる。
 この男はおそらく、湊人が最初に受けた印象よりも、もう少し若い。直感で、そう思う。自信にみちあふれ、目の前にいる他人を、自らと同じ人間だとすら見なしていない。話さえ、聞く必要も感じていないほど。
「さっきから見てたから、よく分かってんだよ。あいつから貰ったそれに、あんたがずっと嬉しそうな顔をしてたことも。……なあ、教えてくれよ。あいつ、男が好きなの?」
 見ていたから、よく分かった。
 男のその言葉に、湊人は顔に出さず、笑いたいような気持ちになる。
 瀬越から受け取ったものを前に、湊人はきっと、愛しさを抑えきれない表情をしていたことだろう。嬉しくて、大切で、好きでたまらない。
 恋人なのか、とそう感じた男の勘は間違いではない。ただその相手が、瀬越ではないだけだ。
「答えられません。知らないので」
 湊人にとって、瀬越は友人というよりはもう少し公的な関係にある存在だ。仕事にかかわる話や、軽い世間話こそすれど、そのような踏み込んだ話をする仲ではない。
 だから嘘を付かず、そう返した。
 湊人の返答を聞いて、男は、ふうん、と笑っただけだった。きっと何を言っても、彼の頭の中では同じような肯定の言葉として受け止められるだろう。自分の考えが間違っているとは、微塵も思っていないようだった。  
「岬先生! お友達ですか?」
 男の連れらしい、若い女性の集団が、こちらを見ていた。皆、目鼻立ちのくっきりとした、化粧も服装も華やかな美人揃いだ。そのうちの数人に、見覚えがある気がした。白衣を脱いで、いつもまとめている髪がほどかれているだけで、彼女たちはずいぶん印象が変わる。
 看護師か、検査技師か。おそらく、病院の関係者だ。
 岬先生、と呼ばれた男が、過剰なほどの大きな仕草で、彼女たちに手を振って答える。声も大きい。
「そう! あとで追いかけるから、店の名前送っといて」
 わかりました、と華やかな彼女たちが頭を下げて店を出て行く。どうやらこの店で待ち合わせをして、これからどこかへ行くところだったらしい。
 そこで、瀬越の姿を見つけた。意外な光景に、思わぬものを見られたと、昏い喜びを抱いて、残った湊人に声をかけたのだ。
「瀬越先生とは、お知り合いですか」
 ほとんど答えを手にしながら、敢えて尋ねてみる。男は湊人の問いかけには答えず、やけに朗らかに笑うだけだった。
「あいつさ。隙が無いだろ。……だからそんな弱点があったんだなあって」
 大きな身体つきの彼は、さきほどと同じように瞳を輝かせてそう言う。その光に浮かぶものが悪意ではないことに、湊人は気付く。
 この男は子どもだ。思わぬ玩具を目にして、無邪気に瞳を輝かせているだけの。
 好奇心のままに生きものを傷付け、悪いことをしている意識などまったくない、無垢で残酷な、ただの子どもだ。
「弱点?」
 つい、せせら笑うような言い方になってしまう。彼の頭の中が、手に取るように分かった。その迂闊さと善良さに、やけに攻撃的な気分になる。
「男を好きになることは、弱点ですか」
「ふつうじゃないだろ。マイノリティだ。それだけで、十分、弱みになる」
「なるほど」
 ふつうじゃない。心の中で繰り返す。確かに、世間的には、そうなのだろう。
 この男がどういう理由で、瀬越の弱点を知ろうとしているのかは分からない。けれどもう、湊人にとっては必要なだけの情報は集まった。
 ここで黙って席を立ち、失礼な若い男を置き去りにすることもできる。いつもの自分ならば、きっとそうしていただろう。
 けれど今日は、何故かそれだけでは気が済まなかった。ひとつ目を閉じて、また静かに開く。小さく息を吸って、心の中で、自分に合図する。ストーリーテリングは、あまり得意ではないが。
 おはなしの時間だ。
「岬先生」
 湊人がそう呼びかけると、相手はあきらかに、動揺した様子を見せた。
 そうしてすぐに、さっき連れの女の子たちに声をかけられたことを思い出したのだろう。何か言いかけて、それより先に、湊人が遮る。
「先生は、あちらの病院でお仕事をされていますね。後期研修医でしょうか」
 看護師が先生と呼ぶなら、医師だ。診療科の医師は、顔こそ分からなくても名前はすべて頭に入っている。岬という名はそこには無い。となれば、研修医である確率が高い。
 推測ではあったが、当たっていたのだろう。若い研修医は、瞳を見開いて湊人を見ていた。いまこの瞬間まで、自分の素性を把握されている可能性に気付かなかったのだろう。
 迂闊すぎる。たとえ心の中でどう思っていても、それは思想の自由だ。
 けれど、仮にも医師を目指そうという人間が、誰彼構わず口にしていいような言葉ではない。
 それを、思い知らせてやりたかった。鞄から財布を出し、そこから一枚のカードを出す。
「それは……」
「はい。僕も、あなたの病院にかかっています。瀬越先生は、僕の話を聞いてくれただけです。よく相談に乗ってもらっています。男が好きなのは、僕だから」
 湊人の一挙一動に、面白いくらいにその顔から血の気が引いていく。ひらりと診察券をしまう。受診しているのは嘘ではない。年に一度、職員の健康診断の時だけだが。
「あの病院の先生は、皆、カウンセリングに行ってもとても親切で優しいのに。でも心の中では、あなたのように思っているのでしょうか」
「まさか。これは、そういうあれじゃなくて……」
 よほど慌てているのだろう。カウンセリングを行うような、精神医療を扱う科はあの病院にはない。そのことにも気付けず、彼はただ、自分の失言に顔を青くしていた。
「でも、そう思われても仕方ない言い分だと思いませんか、岬先生?」
 微笑んで、椅子を立つ。それでは、と頭を下げて、ぽかんと口を開けている若い研修医をそのままに去る。会計をしようとしたところ、すでに支払いが済んでいると言われてしまった。瀬越が気を利かせたのだろう。
 目立つ人だから、悪意も集める。
 ちらりと置き去りにした男に目を遣る。彼は動きを止めたように、椅子に座ったままだった。こころなしか、その大きな背が丸くなっているように見える。
 子どもをいじめたような罪悪感が、ふっと胸に沸く。けれどすぐに、先にいじめてきたのはあちらだと考え直す。少しは、反省してくれるだろうか。どうせ、頭が冷えたらカウンセリング云々がただのはったりだと気付くだろうが。
(……らしくないことを)
 店を出て、暗くなった道を歩く。日中よりもいくぶんか気温は下がっただろうが、それでもまだ蒸し暑い。どこかで蝉が鳴いている声さえ聞こえた。
 彼が瀬越に向けていた、あからさまな子どもじみた蔑みは、そのまま湊人に向くものだった。男が好き。マイノリティで、弱点。
 それを誰に指摘されようと、ひややかに受け流すことができるつもりだった。
(忘れよう。忘れなければ……)
 岬という名のあの男のことではなく、もっと昔の、古い記憶に蓋をしようとする。
 若さゆえのまっすぐさと傲慢さ。きらきらと輝く瞳。それはかつて胸の中にいた人に、とてもよく似ていた。だから許せなかったのだと、攻撃的になった理由に、ようやく気付く。
 彼は、あの人に少し似ていた。記憶が反響するように、左腕が、引きつれるように痛んだ。

 鍵を開け、中に入り、また施錠する。
 狭い玄関で靴を脱ぎ、一日ずっと閉めきられていた空気を冷やすため、空調を入れる。
 電気を付けないまま部屋に入り、鞄からペーパーバックを取り出す。
 これさえあればいい。
 表紙を手のひらで撫でていると、自然と、心の中にそんな言葉が浮かんだ。本さえあれば。物語さえあれば。
 湊人の住む部屋は、マンションの三階にある。フローリングの六畳間に、ほとんど使わないささやかなキッチン。ひとりで住む部屋としては、平均的なものだろう。
 窓際に置いたベッドに座る。カーテンを開けると、澄んだ青い光が差し込んで、湊人もろとも部屋を照らした。
 窓の向こうにそびえる、ラブホテル「ブルーオーシャン」を彩る、ネオンサインの光だ。
 壁に付けられたいくつものライトは、その名の通り、鮮やかに青く光っている。カーテンを開けると、その光が部屋の中にも差し込んでくる。
 湊人は、それが好きだった。窓際に置いたベッドには、シーツも布団も枕も、すべて真っ白な無地のものを選んだ。そこに、外から青い光が差し込むと、まるで海の中にいるような気持ちになる。
 ふ、と、浮かびかけた面影を、首を振って打ち払う。
 完全に思い出す前に消したその顔が、かつて想いを寄せた人なのか、今夜会った若い男なのか、自分でも分からなかった。
(他に、何もいらない。これさえあれば……)
 部屋を暗くしたまま、枕元に置いた小さな灯りだけをつける。
 テレビも見ない。音楽を聴く趣味もない。つめたく冷やした空気の中、青い光に身を浸して、湊人はひとり静かに、夜が更けるまでずっと本を読む。それだけでよかった。
 それは湊人にとって、深い海の底にいるような、幸福だった。



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