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あなたは深い海の底
4


 瀬越からはその後、明日向こうに戻ります、と旅立ちの前日に連絡を貰った。
 サプライズパーティーにはじまり、楽しい滞在だったらしい。メッセージの最後に、ウーパールーパーの写真が添付されていた。
 つぶらな黒い瞳が可愛らしく、常に微笑んでいるような顔立ちの生きものだ。これはおそらく、瀬越が泊めてもらったという家で飼われているペットなのだろう。
 水槽の前で、ウーパールーパーの写真を撮ろうとしている姿を想像する。あまり隙のない人だからこそ、その取り合わせが微笑ましかった。
 ペーパーバックのお礼とともに、お気をつけて、と返事を送った。
 岬という名の研修医について、触れるべきだとは思わなかった。
 そもそも、すでに湊人の脳内から、その存在はほとんど消えかけていた。

 湊人の勤める病院に盆休みはない。
 八月の暑い盛りになると、冷蔵庫のような図書室に避暑をもとめて訪れる人が増える。
 連日の過酷な勤務に疲れ果て、ソファや机で眠り込んでしまった医師や看護師たちに病棟から譲ってもらったおさがりの毛布を掛けて回るのも、湊人の仕事のひとつだった。病院で風邪を引いては本末転倒だ。
 相変わらず長袖シャツに黒いカーディガンを着ている湊人だったが、図書室が冷えすぎていることは院内でも周知の事実なので、さほど奇異な目を向けられることはなかった。時たま、事務局のうるさ方に、「関家くん、クールビズって知ってる?」と嫌味を言われるくらいだ。
 湊人にとって長袖は、もはや自分の皮膚と同じだった。シャツやカットソーの布地を、ここまでが他人に見せられるもの、という自分の輪郭線として意識するようになってから、もう十年近くたつ。
 たとえどれだけ温暖化が進んで日中の気温が高まろうとも、湊人は決して長袖を脱ぐ気はなかった。
 そう決めたのだ。もう誰にも触れないし、触れさせないと、かつての恋が終わったその瞬間に、固く。

 前回が時間ぎりぎりになってしまったので、余裕を持って会議室に向かった。例の「お声部会」の会議だ。
 相変わらず空席が目立つ席に座り、資料をもらう。時間に余裕があったので、「本日の議題」にさっと目を走らせる。送られた「お声」の中に、久々に湊人の管轄に関わるものが一点あった。
 久しぶりだな、と思いながら、回答する文章を頭の中でまとめる。他部署に宛てられた「お声」同様、図書室絡みで患者さんからもらう指摘も、だいたいいつも同じだ。だから答えも、必然的に定型文になるのだが。
「定刻になりましたね。それでははじめましょう」
 いつもどおり、白髪の院長の隣で事務部長が告げる。結局今日も、ぎりぎり過半数を取れる人数しか参加していない。
 相変わらず投書された「お声」は似通ったものだった。食事が美味しかった、と感謝の声をあげてくれる人がいれば、同じものを出されて食事が美味しくなかった、というご意見もある。
 人間を相手にした仕事は大変だと、湊人はつくづくそう思う。
 会議は粛々と進み、進行の事務部長が湊人の方に顔を向けた。
「では、次。『かりがね図書室の本が古くて少ない。もっと新しい本をたくさん置いてほしい。漫画も置いてほしい』……これは司書さんにお任せしたいと思いますが、よろしいですか」
 湊人にとってもっとも親しみのある「お声」だった。
「回答します」
 では来週中にメールで、と言われ、はい、と頷く。 
 かりがね図書室は、五年ほど前、院内の有志によって設けられた来院者向けの図書室だ。
 一階ロビー端の、広さにして十二畳ほどの空間に書架や椅子を並べて図書室の体裁にしている。入院患者から付き添いの家族、果てにはご近所の人など、誰でも自由に利用できる場所だ。
 ただし図書室といっても名ばかりで、実際にはただ本を詰めた棚が置いてあるだけだ。もともとが有志のボランティアが立ち上げたものだから、置かれた本もほとんどが職員から寄贈されたものだ。
 一応、図書室らしい体裁をととのえるために分類番号を振ってラベルを貼り、ジャンルごとに並ぶようにしてはいる。けれども、本好きの人であればあるほど、「図書室」と聞いて訪れてみたらがっかりする場所だろう。
 本が古くて少ないという言葉は、的確だった。かりがね図書室には予算が振られていないので、新しい本の受け入れは、誰かからの寄贈を待つしかない。湊人も自分が読み終えた本を積極的に寄贈してはいるが、幅広い年齢層の利用者に向けたコレクションには程遠い。
「では、最後に。前回の、あの、救急外来を受診された方からのお声についてですが」
 引き続き、別の「お声」について話題が移っても、頭の中ではかりがね図書室のふるぼけた書架が浮かんでいた。それは湊人にとって、ずっと気にはなっている案件だった。担当の司書として、というよりも、本が好きな人間として、もっときちんと手入れをしたいと入職当時から思ってきた。
「当日、救急外来を担当していた先生をお呼びしています。もうひとりが女性の方だったので、おそらくこの方だと思うのですが……後期研修医の先生です」
 お願いします、と院長が頷き、事務部長が立ち上がった。椅子がかたりと鳴った音に、湊人は現実に引き戻される。
 後期研修医の先生。 
 例の『おっちゃん! ちょっと痛えからな!!』と発言があったという若い医師についての話だった。
 どうぞ、と事務部長が扉を開き、そこで待っていたらしい人物を呼ぶ。
「失礼します!」
 若々しい、張りのある低い声。緊張しているのか、勢いがありながらもどこか硬い。
(この声)
 いまこの瞬間まで、湊人はそのことを忘れていた。そして記憶が蘇る瞬間、どういうわけか、別の場所の、別の時間で出会った人物のことがふと脳裏をよぎる。
 ――あいつ、男が好きなの?
 そう言って無邪気な好奇心に目を輝かせていた声を、思い出してしまった。似ている、ような気がした。
 あの男ならば。いかにもそんな態度を取りそうな若い医師だったではないかと、そんな風に思ってしまった。
 嫌な予感がした。配られていた資料を両手で持ち上げ、熱心に読んでいますという体を装って顔を隠す。 
「お名前と所属を」
 穏やかな声で、院長が促す。緊張しているらしい若い医師の様子とあいまって、まるで証人尋問の場のようだった。
「後期研修医の岬晃弘です」
 資料をずらして、半眼で覗き見る。立襟で右肩口にボタンが並ぶケーシータイプの白衣を着た若い男が、神妙な面持ちで院長の前に立っていた。背が高く、首が太く、がっしりとした肩幅が広い。そのせいでケーシーもまるでスポーツウェアのように見えてしまう。
 神妙な面持ちで名乗ったのは、確かに、あの男だった。
「岬先生。患者さんの『お声』に書かれていたやり取りは実際にありましたか?」
「はい。間違いありません」
 ぴしっと背を伸ばして、岬は言う。その目は、もう少し遠慮した方がいいのではと思ってしまうほど、躊躇いなく真っ直ぐに院長に合わされている。
「あなたはいつも、ご年配の方にはあのようにお話しするのですか」
「……そうなってしまう時も多いかもしれません。俺……わたしの祖父も、地元で小さな診療所をやっていました。その姿に憧れて、医師を目指しました。祖父は、江戸育ちで……」
「なるほど」
 自分のことを「わたし」という言葉を用いて話す岬は、ひどく窮屈そうだった。
 憧れの祖父が江戸っ子だったから、自分もそうなりたくてつい真似をしてしまった。子どもの言い訳みたいだな、と、大きな身体をしゅんと縮めているこの男のことが少し気の毒になる。
 悪い人間ではないのだ。たぶん幼い頃から、その祖父や家族にたくさん愛情を注がれ、可愛がられて育ったのだろう。思うままに行動することは当たり前で、それが誰かを傷付けたり不快にさせることもあるのだと気付く機会が得られなかったのかもしれない。
 そんな人生を歩んできたのだろうこの男のことが、ほんの少しだけ、湊人は羨ましいような気がした。きっと彼なら、誰かを愛する時も真っ直ぐでためらわないのだろう。身にも心にも、他人の目に晒せない場所などどこにもない。真夏の熱帯夜でさえ長袖を脱げない自分とは、対極的な人間だ。
「患者さんの中には、フランクなコミュニケーションを好む方もいらっしゃるでしょうね。大切なのはどのような言葉を用いて語り合うか、というよりも、そこに相手への敬意があるかどうかだと思います」
「はい。以後、気を付けます」
 おそらく指導医や救急のドクターから、すでに「お声」の内容についての叱責を受けたのだろう。院長もそれ以上は言わず、今後気を付けてくださいね、と柔和に念を押しておしまいだった。
「では、こちらの患者さんへのご返答としましては……」
 院長の目くばせを受けて、事務部長が回答案をまとめる。それに、出席者全員が異議なし、の意を表して、会議は終わった。
 去って良いものかどうか分からなかったのだろう。岬は立ったまま、そのやり取りを見ていた。
 す、と目線を向けられたような気がしたので、ふたたび資料で顔を隠す。
 同じ病院で働いているのだから、顔を合わせる機会があってもおかしくないと覚悟はしていた。けれどいまは、それを避けたかった。
 幸いもう会議も終わったし、と、出席していた医師が岬に笑いながら話しかけているのをうかがいながら、そっと席を立とうとした。このまま静かに退出するつもりだった。
 が、失敗した。
「あ、司書さん、さっきの回答の件なんですが」
 談笑するふたりの前を通り過ぎるタイミングで、事務部長に声をかけられる。無視するわけにもいかず、足を止めた。
「はい。何でしょう」
 真後ろから、じりじりと焼けるような視線を感じる気がした。
「来週木曜から出張で不在になりますので、できたら、水曜までに送っていただけると助かります」
「分かりました。週明けに提出します」
 では、と、頭を下げてその場を立ち去ろうとした。
 そこを、がしりと背後から、肩を掴まれて引き留められる。手加減のない大きな手は力強く、手のひらで叩くだけでは振り払えそうもなかった。
「あの」
 先日の一件といい、ずいぶんとたやすく他人に触れる男だ。日々の診療でもこの調子なら、ぶしつけだと苛立つ患者もいるだろう。湊人のような神経質な人間なら、特に。
 その手を離してもらうためだけに足を止め、振り返る。会議室の中にはまだ他の医師や院長の姿もある。
 誰もいない場で顔を合わせて揉め事に発展するよりも、このまま彼らの目のあるところで済ませてしまうほうが安全だと、咄嗟にそんな打算も働いた。
「何か」
 先日は互いに椅子に座ったままだった。そばに立つと、改めてその立派な体格を意識した。平均より少し痩せ型なだけのはずの自分の体格が、ひどく貧弱に思えてしまう。顔を見ようとすると、自然と、顔を斜めに見上げなければならない。
「あんた、この間の」
 振り向いて顔を見せたことで、肩に食い込んでいた手が怯んだように緩む。その隙に、すっと身体をずらし、そこから逃れた。
 忘れていてはくれないかと思ったが、そういうわけにもいかないようだった。岬はこちらを見て、呆然としたような顔をしていた。その目が湊人の首から下げられた職員証に向けられた。陸に打ち上げられた魚のように、その口が声をともなわずに開いては閉じる。
 職員かよ、という声にならない呟きを、唇の動きで読み取る。
「……何か?」
 もう一度、同じ言葉を繰り返す。思いもしない事態に考えが追い付かないらしい岬に、湊人はうっすらと微笑んでみせた。
「その……、俺、あの時は……」
 どう反応したら、何を言えば、と言葉を探しあぐねているらしい。男らしく引き締まった容貌に、叱られる子どもが言い訳を考えているような焦りが浮かんでいる。
 それを、少し意外に思った。ありもしない精神科受診をちらつかせて騙したことに憤っている様子ではなかった。
 この男は湊人に謝ろうとしている。そう思うと、急に、居心地が悪くなった。
「お知り合いですか?」
 何やら訳ありな雰囲気を察したのだろう。先ほどまで岬と喋っていた医師が、仲裁するように湊人に穏やかに声をかけてくる。それに、もう一段階明度を上げた笑顔で首を振る。
「いいえ。人違いでしょう」
 それでは、と会釈して彼らに背を向け、会議室を出る。
 これ以上、岬の顔を見ていたくなかった。また、余計なことを思い出してしまいそうだった。
 廊下に出た途端、蒸し暑い空気が身体にまとわりついてくる。それなのに、指先が凍えたように冷たく、なかなか思うように動かせなかった。
 ひと気の少ない静かな廊下を、足早に図書室に戻る。胸がざわついていた。
 嘲笑うような岬の声が、耳に蘇る。
 ――ふつうじゃないだろ。マイノリティだ。
 その通りだと思う。自分でも、よく分かっている。もう嫌と言うほど、あの時に思い知らされた。
 分かっていたのに、あんな嘘まで言って、反撃してしまった。
 岬の言うことは、医師として、世間一般に向けるものとしては間違っていたかもしれない。けれど湊人には、あんな風に言い返す資格などないはずだったのに。
 それなのに、純粋な人間にひどいことをして、傷付けた。
 職員かよ、と、呆然としていた岬の表情を思い出すと、癒えたはずの傷跡が痛んだ。
 無意識のうちに、何度も何度も、長袖のシャツの上から左腕を撫でていた。 



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