index > novel > あなたは深い海の底  > 2


あなたは深い海の底
2


「関家さんは、相変わらず涼しげでいいですね。いまが真夏なことを忘れそうだ」
「よく言われます」
 湊人はよく、冷たい顔立ちだと言われる。インドア派の極みのような生活をしているから、日焼けとも無縁だ。常に長袖を着ていて、冷蔵庫のように冷え切った図書室にいることもあわせて、蔭で「あいつは雪女の息子か何かなんじゃないか」と言われているのも知っている。雪男と言われないのは、その姿がビジュアル的にあまり寒々しくないからだろう。
「先生は……少し、日に焼けましたね」
「向こうは海が近くて、波もいいので。毎週のように通ってます」
 湊人が指摘すると、彼は少し照れたように笑った。
 瀬越利哉は、湊人と同じ病院で働く外科医だ。昨年までは、外科から選出された図書委員をつとめてくれた。
 ひとりの事務員である湊人が、百人以上いる医師や看護師たちの希望を聞いて反映させることは難しい。そんな時に、橋渡しの役目をしてくれるのが図書委員だ。図書室の予算の承認や運営にかかわる会議に参加してもらうだけでなく、新しく図書を購入する際には、各診療科ごとの要望を取りまとめてもらう。
 診察や手術などの業務が忙しいからと、任期期間中に一度も顔を見せない委員も多い。そんな中、瀬越は、こちらが申し訳ないくらいいつも丁寧な仕事をしてくれた。
 本分である医師としても、きっと丁寧に、器用に仕事ができる人なのだろう。医学については専門外の湊人にもたやすく想像ができる。瀬越は、そんな人だった。
「先生がいなくなって、寂しがっている声をよく聞きます」
 仕事ができて、ひと当たりが柔らかい。おまけに長身で、爽やかで整った容貌の持ち主だ。若い看護師たちの間でも、当然のようによく名前が囁かれていた。図書室は静かだから、在室している誰かがいると、その話し声は嫌でも耳に届く。湊人ひとりがひっそり黙々と仕事をしている程度では、誰もいないのと同じなのだろう。そのせいか、院内の噂やオフレコにすべき話も、よく聞いてしまう。
「喜んでいる人もいるでしょう」
 湊人の言葉にそう返して、瀬越は笑った。優しい声と笑顔に込められた皮肉に、湊人は気が付かないふりをする。嫌でも目立つこの人には、敵も少なくない。
「関家さんには、留守中もお世話になりました。おかげで浦島太郎にならずにすんでいます」
 いえ、と小さく首を振る。たいしたことはしていない。
 湊人は定期的に、病院で起こった出来事を瀬越に報告している。どこの部署にも所属せず、医療スタッフにも事務職員にも同じくらい接する機会の多い湊人の耳には、自然とあちこちの情報が耳に入るからだ。
「いつまで、こちらに?」
「週明けには向こうに戻ります。一昨日帰国して、今朝までは実家の方にいました」
 瀬越はいま、海外の病院での研修に参加している。長年、希望を出していたのだが、昨年の末にようやく出向を認めてもらえたのだ。ちょっとしたトラブルに巻き込まれた挙げ句の、お詫び人事だと言って笑っていた。
「自分ではそこまで日本に愛着がないつもりでしたけど、食事だけはやっぱり、こっちの方がいいですね。改めて思いました」
 日本を離れる前、この人の表情にはどこか寂しげな影があった。おそらく体重も落ちていたはずだ。その時に比べると、ずいぶんと健康的で明るい雰囲気を取り戻せているように湊人には思えた。
 遠く離れた地で、充実した時間を過ごしているのだということが、その姿を見ているだけで伝わってくるようだった。
「先生、お食事は?」
 飲み物しか注文していないらしい様子に、湊人はメニューを開きながら尋ねる。まだ少し時間は早いが、待ち合わせたついでに、今日はここで食べて帰るつもりだった。湊人は基本、夕食は外で済ませてしまう。
「ああ、実は今日、この後ちょっと約束をしてるので。俺には構わずどうぞ」
「お約束でしたか。すみません、そんな時に」
「大丈夫ですよ。知人の家に泊めてもらうことになってるんですけど、そこでサプライズパーティを開いてくれるらしくて。準備が出来るまでは来るなと言われています」
 本人にそこまで伝えてしまっていては、サプライズにならないのではないだろうか。湊人のそんな思いを見越したのか、瀬越はまた、目を細めて笑った。
 湊人は食べるものにこだわりを持たない。昨日は肉だったから今日は魚、と、適当に価格を見て選び、注文を済ませる。
「で、頼まれていたものです。こんな感じのもので大丈夫ですか?」
 オーダーを取りに来たウェイターが去った間合いで、瀬越は足元に置いていた鞄から、薄い冊子をいくつか取り出した。差し出されて、それを受け取る。イメージしていた通りの、薄くてぺらぺらな紙。日本の出版社ならば選択しないような、ビビッドで目に痛いくらい鮮やかな、派手な表紙。
「まさしく、これです。ありがとうございます。なかなか日本にいながら手に入れようと思うと、難しくて」
 湊人は瀬越に、帰国する際に持ち帰ってほしいと頼んでいるものがあった。それがこの、薄い冊子だ。
「向こうの医学生とか、研修医の先生向けの教科書や入門書の情報が欲しかったんです。コアテキストも、時代とともに変わるものですから」
 瀬越に持ち帰ってもらったのは、向こうの医学関係の書店などで配布されている本のカタログだ。おすすめ本や、定番の教科書などの最新情報が掲載されている。医学の世界は日進月歩だ。情報が新しくなれば、参照すべきテキストも新しくなる。自分の知識を更新していくためには、こういった一覧が非常に役に立つ。
 日本の医学系出版社や書店も、よくこうした案内用の冊子を無料配布している。それの海外版を、瀬越に頼んでいたのだ。
「お役に立てて何よりです。また、次に帰る時にも探してみますよ。ああ、それから、これも。お土産代わりに貰ってください」
 もう持ってるかもしれないけれど、と、瀬越は鞄から、紙の袋を取り出した。どうぞ、と湊人に差し出す。すみません、と頭を下げながらそれを受け取った瞬間、中身が本だと分かる。ありがとうございます、と言いながら、好奇心を抑えられずにすぐに袋を開けてしまう。
「偶然、その表紙が目に入って。確かお好きだったと聞いた覚えがあったので」
 瀬越の言葉は、半分ほどしか耳に入っていなかった。湊人は紙袋に入っていたものを手に取り、その心もとない軽さを確かめる。ペーパーバック特有の、ざらついた紙の手触りと匂い。黒を基調とした表紙には、時計と、あまり可愛いとはいえない猫が描かれていた。
 時間。猫。英語で書かれたタイトルは「the door into summer」。
「……『夏への扉』」
 感嘆したように、息が漏れた。この短いタイトルを口にするだけで、いくつもの思いが胸に去来して、懐かしいような切ない思いでいっぱいになる。
 名作中の名作だ。いつだったか、確かに、瀬越にもこの本の話をしたことがあった。彼が猫が好きで、実家でも飼っているのだと聞いた時だっただろうか。
 湊人も老後は猫を飼って、ピートと名前を付けたいという夢を抱いていた。夏につながる扉を探して鳴く、この本に登場する猫にちなんだ名前だ。
「いつか、原書で読みたいと思っていました」
 湊人の、最も愛する本のひとつだった。思わず、ペーパーバックを胸に抱く。使われている紙の質のため、日本で作られている本と比べると、信じられないくらい軽い。この中にあれだけの物語が詰まっていることが、とてつもない奇跡のように思える。
「嬉しいです。ありがとうございます」
 頬が紅潮しているのが、自分でも分かる。瀬越もそれに気付いただろう。けれど何も言わず、どういたしまして、と表情で語るように目を細めた。
「あ。準備終わったのかな」
 テーブルの上に置いてあった、瀬越の携帯が光る。誰かが電話をかけてきたのだろう。明るくなった画面には、その相手の名前らしき文字と、何故か微笑むウーパールーパーの写真が表示されていた。
「すみません、ちょっと」
 携帯を手に席を立つ瀬越を、どうぞ、と見送る。ウーパールーパーから電話がかかってきたらしい。サプライズを仕掛けてくれる相手だろうか。通話に応じる声が、湊人から少しずつ遠ざかって聞こえなくなる。それは、湊人のよく知る瀬越の声よりも、少し甘く優しい気がした。
 それをわずかに意外に思いながらも、手の中にある本に、すぐに意識が引き戻される。すぐにでもめくってみたい気持ちを抑えて、手のひらで表紙を撫でる。思いがけない出会いが嬉しくて、瀬越が戻るまで、いつまでも本を撫で続けた。
「すみません、どうやら準備が出来たようなので」
「お気になさらず。驚いてあげてください」
 冊子とお土産のお礼をもう一度言って、店を出る瀬越を見送った。入れ替わりのように、湊人が注文していた料理が届く。
 タルタルソースがたっぷりとかかった白身魚のフライが目の前に並べられたのを見ても、食欲はいまひとつわかなかった。いつものことなので、気にせず、フォークを手に取る。黙々とパンをかじり、かりかりと香ばしいフライを食べ、合間に付け合わせの野菜を挟む。
 湊人には、ものを食べるということに関する興味が極端に少ない。このフライだって、美味しいのだとは思う。毎日これを食べなさいと言われれば、考える必要が無くなって楽だろう。特別に好きなものはないし、特別に嫌いなものもない。生きて、身体が動くために必要な栄養を取れれば、それで十分だった。
 本日、三度目の食事を無事に終える。きれいに片づいた皿を下げて、食後のコーヒーを運んでもらう。
(……少しだけ……)
 だんだん落ち着かなくなって、つい、一度は鞄におさめた本を取り出してしまう。
 ぱらぱらとめくってみる。薄くざらざらした紙に乗ったインクの中に、ピートという綴りが見えた。あの勇敢で、ジンジャーエールを好む猫が、ぴんと尻尾を立てて活字の海の上を飛び跳ねている。この本の中に、生きている。
 嬉しくなって、ひとしきり本をぱらぱらとめくって表紙を撫でて、と繰り返す。コーヒーを飲んだら、まっすぐ帰ろう。そう思って、片手をペーパーバックの表紙に乗せたまま、カップを傾けていた時だった。
「隣、いいっすか」
 突然、割り込んできた声が、湊人を現実の世界に引き戻す。



<< 戻  ■ 次 >>



2  <  あなたは深い海の底 <  novel < index