index > novel > 時人の鐘 > 2章 『散 花 咲/4』
城内は騒然としていた。 廊下の隅で小声で話し合うもの、空を見上げて、祈りを捧げるように身動きせぬもの。 空は晴れ渡り、青いはずなのに。 城内の空気はどうしようもなく、暗く曇っていた。 空夜はそれらの人々の視線を感じながら、金花王子の私室を目指す。 普段ならば空夜の顔を見ただけで不快そうに眉をひそめる人々も、今日だけは、彼に構っている様子もなさそうだった。ただ、気の早い追悼の空気の中で、声も悪意もない一瞥を送ってくるだけだった。 今、国王は城を留守にしているのだという。 急いでお戻りになるそうだけれども、おそらく、間に合わないだろう、と誰かが話す声が耳に入る。 間に合うことはないだろう。 その言葉が、いっそう空気を暗く重たいものに変化させる。 ため息。嘆き。諦めと、涙。 まとわり付くような悲しみに満ちた回廊を抜け、空夜はひとり、王子の部屋を目指した。 部屋の前には、悲しむ人々はいなかった。立ち入りを制限することもなく、誰も、そこに近寄ろうとしないのだ。 ただひとり、首を垂れる医師の姿があった。国王が呼び寄せた、金花王子ただひとりのために呼び寄せた、名医。 空夜は彼の名を知らなかった。 そしてそれは医師のほうでも同じようだった。彼はこの城の人間ではない。空夜のことも、予言者の友人で、王子の話相手ぐらいにしか思っていないだろう。 医師は空夜の姿を認めると、かすかに微笑んだ。 「……やぁ」 「――金花王子は?」 「予言者殿と、お話をしている。もう、わたしに出来ることはないよ」 「そうか」 「王子殿下は、とても、頑張った。ほんとうにあの子は、ここまでよく頑張ったよ。予言者殿のおかげだ。 明るい声で未来を語って聞かせてくれる存在が、どれほど王子殿下を支えていたか。――ああ、入るかね?」 医師はそう言って、部屋の扉を出来るだけ音を立てないように、静かに開いた。 室内の様子を指し示す。 部屋の中央に、大きな寝台。小さな王子には余りあるだろう、大きな寝台。 その傍らに、予言者が佇んでいる。部屋には、他に誰もいなかった。金花王子の意思か、悠灯が人払いをしたのだろう。 「――空夜」 予言者が顔を上げる。名前を呼んだその顔は、空夜が来たことを咎めるような、感謝するような、相反する感情が交じり合っているように見えた。 空夜だけを部屋に入れて、背後で扉が閉められた。 寝台に近づく。 ありがとう、と、小声で悠灯が呟く。それに一度頷くだけで答え、空夜は友人の隣に並んだ。 金花王子は、静かに寝台の上に横たわっていた。 昨日はあれほど元気に駆けてきた、その小さな身体。今は何をする力もないように、投げ出すように、ただ横たわっているだけだった。 金花王子はかすかに目を開けたようだった。ぼんやりとしたその瞳は空夜のほうを向いたが、王子が空夜を見たのかどうかは分からなかった。 その眼差しはもう、何かを映す光を宿していないように見えた。 熱が高いとの話を、誰かのささやきに聞いたような気がする。しかし目の前の金花王子は、あまり苦しそうには見えなかった。 ただ、ひっそりと、静けさの中に横たわる小さな身体。 苦しさではなく、ただ、輝きに眩しい光が、だんだんと弱々しくなっていくのを見守るような。 濃い暗闇の中に、かすかな灯りをかかげる人を見送るような、そんな頼りなさをもってでしか、見ていられないような。 金花王子は、ふと、手を伸ばした。懸命に、なにかを掴もうとするかのように、宙に手を伸ばした。 その手を、予言者が掴む。 「……ゆうひ?」 「ここにおります、王子」 その声を聞いて、安心したように金花王子は少し、表情を変える。なにも見て取れないそれまでの顔とは違い、それは笑顔に見えないこともなかった。 悠灯の手を、力ない小さな手のひらが握り返す。王子は切れ切れの息を押し出すように、こう頼んだ。 「話を、して」 「お話ですか? それならば、ここに空夜も来ていますよ。彼に、いつものように作り話を聞かせてもらいましょうか」 冗談じみてそう受ける予言者。しかし金花王子は、躊躇いも迷いも無いまっすぐな声で、こう言い放った。 「悠灯、ぼくの未来についてだ」 「……あなたの未来についてお話しようと思えば、とても長い話になりますよ。 なにしろそれは、まだまだ、ずっとこれから先まで続いているのですから」 「悠灯」 そんなことが聞きたいのではない、と、言いたげに。わずかに語気を強くして、王子は悠灯の名を呼んだ。 「――あなたは」 やれやれ、と、観念したようにわざとらしく首を振って、悠灯は微笑む。その声は少し震えていた。 それでも微笑んで、予言者は明るい声で、かすかに震える声で、未来を語りはじめる。 「約束したでしょう、王子。街の外に出てみましょう、と。その約束は、叶う約束。あなたの未来です」 王子はまた目を閉じて、黙って悠灯の言葉に耳を傾けているようだった。 「あなたは走っていく」 空夜はその悠灯の肩に、手を置いた。 いまこの時は、予言者の語るべき時だ。自分が何か干渉するべきではない。 ただそう思っていても、震える声を懸命に抑えながら語り続ける友人を、何か、どういうかたちでもいいから支えたいと思った。 悠灯は空夜のほうを見ずに、言葉を続ける。 「海が見えると、とても嬉しそうに両手を広げて、丘を駆け下りていきます。走っていく。あなたは走っていく。……風のように」 肩に置いた手から、細かい震えが伝わってくる。 (――ああ) 予言者は、未来を知っている。 その震えが、それを伝えていた。予言者が語るのは、未来だけだ。 予言者はこの世界でただひとり、未来を語れる人間だ。 それが嘘であるのか真実であるのか、知るのもこの世界でただひとり、予言者のみだ。 金花王子は、閉じていた瞳を開いた。その瞳が、まっすぐに悠灯を見る。 「そう、か。たのしみだなぁ……」 「ええ、ですから、今はお休みください、金花王子。もうじき国王陛下もお帰りになります。 少し休んだら、きっと気分も良くなります。元気なお顔で、お父様をお迎えしましょう」 「うん。……ありがとう、悠灯」 それが、なにに対する「ありがとう」なのか聞き返すことはせずに、悠灯はただ、微笑んで頷いた。 それが嬉しかったかのように、金花王子もまた、笑顔を浮かべる。 最後に、光り輝くような、笑顔を見せて。 まばゆいほど、明るい、笑顔を見せて。 金花王子は静かに、目を閉じた。 金色の花、その名に決して余ることのないような、消えがたい輝きを最後に放って。 花は静かに、散った。 鐘が鳴らされる。 「誰かがいなくなってしまうということは、悲しいことですね」 時計を見上げて、時人はぽつりと、そう呟いた。 鐘が鳴らされる。時を告げるためのものではない。誰かの死を街に告げる、弔鐘だ。 国王の第二子、まだ幼き金花王子の死を街に告げる、弔歌の鐘。 重々しいその響きを耳に受け止めながら、時人は今この場にいない者のことを思った。 手伝えることがあるのなら、嬉しい、といった者。 ――空夜。 「わたしは――あの人のことが好きな人を、こんな目に遭わせようとしているのですね」 (「おまえが鐘を鳴らすのを聞くのが、楽しみだ」) 弔いの鐘の音は、空夜のその言葉を思い出させた。 そしてその言葉が、これから自分のしようとしていることを思い出させる。 「どうして、わたしではないのだろう」 新しい時のはじまりを告げる、鐘の音。 それを楽しみにしているなど、言ってはいけないのだ。 他の誰がそう言おうとも、空夜だけには、そんな風に思って欲しくはないのに。 他の誰がその鐘の音を願おうとも、空夜だけは願ってはいけないのに。 それを忌むことを許された、ただひとりの存在なのに。 「逆だったら、よかったのに。いなくなるのがわたしなら、良かったのに」 時人のその独り言を、背後に立つ琥珀がたしなめる。 「そんなことを言ってはいけませんよ、時人。……もうご存知ではありませんか? 空夜は、そういうことを言われるのがあまり好きではないはずです。彼は、良いものも悪いものも、すべてを平等に受け入れる者だ」 「……優しい人ですね」 「――ええ、そうとも、言いますね」 城にはいないほうがいい、と迎えの者を遣され、時人は琥珀によって教会に招かれていた。 それは琥珀の考えに寄るものではなく、予言者にそうするように言われてのことだという。 予言者がそんなことを頼んだ、その理由は予測が付いていた。 予言者は金花王子の死を、知っていた。 おそらくもう、ずっと前から知っていた。 悠灯は金花王子の死に際して、時人を城から遠ざけておきたかったのだろう。 それが優しさからなのか、あるいはもっと違う、別の感情に基づくものなのかは分からない。 けれども、ひとつだけ思い知らされたことがある。 (「ぼくはきみが何をするつもりなのか、何をするのか、知っている」) 予言者はすべて、知っている。 空夜に、何をしてもらわなければならないか。 その結果、どうなるのか。 すべて、知っている。そう、きっと。 時人がこの世界から、彼の友人を消し去ってしまうことも知っているのだ。 城内に追悼の支度は整っていた。 予言者に望まれるままに、空夜は彼とともに兵舎の庭に出ていた。普段から、ここを訪れる人間は少ない。 ましてや今は、城中の人間が慌しく動き回っている。……葬儀の準備に忙しく、とてもこの場所に姿を現すような者はいないだろう。 「国王陛下も、王子殿下と同じことをおっしゃったよ」 「何と?」 「『ありがとう』と」 王子の最期を看取ったことを報告した際の言葉らしい。城に戻った王は愛息の死を知り、悲しんだものの、予言者に対する礼をすることは忘れなかったようだった。それは、王に覚悟があったということなのかもしれない。金色の飾り花と名付けるその心が、そもそも覚悟の表れだったことを空夜は思い出す。 「ねえ、空夜」 悠灯は振り向く。 「こんな力に、何の意味があるんだろうね」 その声は自嘲気味で、誰に向けてか分からない、かすかな怒りが込められているように聞こえた。 空夜が口を挟む間もなく、彼は続ける。 「変えられない未来を、ただ先に知ることができるというだけの力。……咲く花は散る。散る花だけが咲く」 白い花を散らし続ける木々を見上げて、悠灯。 「そんなの、未来が分からなくても、みんな知ってることじゃないか。それは未来なんてものとは何の関係もないんだ……」 何になるんだ、ともう一度繰り返して、悠灯は木々から目をおとし、空夜を見た。 「きみは、ぼくがいなくなったら、寂しい?」 「……なんだって?」 「少しは、泣いてくれるかな。……ぼくは、こんな時にも泣けない駄目な奴だけど」 「そんなことは、ないだろう」 悠灯は確かに、涙こそ流さなかったかもしれない。 だが、これまで彼が語り続けていた、金花王子に聞かれるままに語り続けていた、あの未来の話は。予言者の、たったひとりの抵抗だ。 変えられることのない未来。予め知っている、動かされぬ未来。 たったひとりで、それに逆らい続けること。笑顔で嘘をつき続けることは、泣くよりも遥かに孤独で、悲しいもののように思えた。 そう伝えるより先に、悠灯は冗談なのか本気なのかよく分からない口調で言う。 「ぼくは、きみがいなくなったら、とても悲しい。きっと悲しみのあまり、暴れる」 「暴れるな」 「……うん、だから、どこにも行っちゃ駄目だからね」 暴れられるのでは仕方がない、と空夜がため息をつくと、悠灯は少しだけ笑った。 彼は背伸びをして、低い枝を手折る。そして白く小さな花を咲かせたそれを、高台から身を乗り出し、空に差し出した。 散っていった金色の花へと捧げる、哀悼の白い花。 空へと差し出された献花は、風によって一枚一枚花びらを流されていく。 それを見つめながら、悠灯は歌うように、呟く。 「……風のように。風のように、走ればいい。もう、重たく弱い身体は脱ぎ捨てた。自由を謳うように風に舞い、どこまでも行きたいところへ行けばいい。――どうか、安らかに」 折った枝に咲いていた花びらが、一枚残らず風に乗って飛ばされたのを見送りながら。 予言者はそっと、別れの言葉を紡いだ。 「さよなら、金の花」
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