index > novel > 時人の鐘 > 2章 『散 花 咲/1』
2. 散 花 咲 | ||
「……悠灯、ぼくは、いつ馬に乗れるようになる?」 「もう少し。そうですね、空夜の肩のあたりぐらいまであなたの背が伸びた頃だ。とてもお上手に馬を駆るあなたのお姿が視えますよ」 「そうか。たのしみだなぁ……」 白い花が、風に揺られて花弁をひとひら舞い落とす。空夜には名前の分からない花だ。 風は微風。思わず、手のひらで花びらを受け止めると、隣にいた時人が興味深そうに覗き込んできた。 「綺麗ですね」 「……そうだな」 時人がこの城に着てから、数日。国賓として丁重にもてなされている彼は、毎日何をするでもなく、教会まで散歩をしたり、城内のいたるところをもの珍しそうに観察したりしていた。案内役として、空夜が指名されたことには、周囲から反対の声が上がったらしいが――時人は頑として、それを譲らなかった。しかし指名された方の空夜としては、街の案内などどうすればいいのか見当もつかない。仕方なく、時人が行ってみたいと言うところに連れて行き、見てみたいというものを見せてやることにしている。 ふたりは白い花を咲かせた木の下を歩いていた。城の東側、兵舎の庭にあたるようなこの広場は、街を臨む高台になっている。石を積み上げた、時人の腰のあたりまでしかない石垣が囲んでいるそこは、飾り気のない展望台のようだった。それほど高さがあるわけではないが、街全体が見下ろせる。その真ん中に位置してる教会は、よく見えた。正午を告げる鐘の音が聞こえる。 その音を聞いて、時人は不安そうに眉を寄せた。 「暗い音ですね。聞いていて、悲しくなってしまう」 「そうか?」 「そうですよ。あなたには、そう聞こえませんか?」 「毎日聞いているからかな。特に、なんとも思わないよ」 「あれが、時間を告げる鐘の音なら――それはまるで、最後の時が迫っていることを知らせる、死神の鳴らす鐘のようです。とても、お昼を知らせる鐘だとは……」 真剣な面持ちで、時人はそう語る。 「……やっぱり、おまえは本物なんだな、時人」 「……? なにが、です?」 「いや、『時人』の仕事にかかわるのは、あの時計と、鐘だろう。おまえにそう聞こえるのなら、きっとそれは、本当に終わりの時が迫っていることを知らせているんだろう。……おれには、何も分からないけれど。でも、おまえが来てくれたから、よかった。おまえがいるから、世界の時間を続けさせることが出来る。おれは、それが嬉しいよ」 「空夜……」 空夜の本心からの言葉に、時人は口ごもる。照れたのか、と思ったが、そうではないらしかった。思い切ったように、一度強く頷いてから、尋ねてくる。 「空夜、わたしが、はじめてこの街を訪れたとき、あなたは言いました。……この街の人々は、皆わたしのことを好きでいてくれると。ですよね?」 「ああ、言ったような気がする」 「それなら、あなたは?」 それがずっと聞きたかった、と言いたげな、空夜を見上げてくるその視線。 「あなたは、わたしのことを好きでいてくれるのですか、空夜?」 言葉と銀色の眼差しが、真っ直ぐに空夜に向けられる。 「皆がわたしのことを好きだと言ってくれるのは、確かに嬉しいです。でもそれは、わたしが、時計を巻き戻すという役割を果たすことを期待しての好意だ。 だから。どんな好意にも理由があるのだとすれば――空夜、あなたはこの世界でたった一人、心からわたしを憎んでもいい存在であるはずです。……そうではありませんか?」 「おれは、おまえが好きだよ、時人」 「……!」 「だから、そういうことは、言わないで欲しい。……頼むから」 空夜がそう言うと、それきり時人は黙ってしまった。 時人が納得していないことは、その表情で分かる。しかし空夜の頼みを聞き入れようとしているのか、それ以上銀の瞳の少年がそれについて訴えることはなかった。 かわりに、弱々しい声で、言う。 「――実は、あなたに、お願いしなければならないことがあります」 「うん?」 「『時人』の仕事です。どうしても、わたしにはできない仕事があるのです。……それを、あなたにお願いしなくてはならないのです、空夜」 「おれに……?」 「はい、あなたでなくては、出来ないことなのです」 そう言う時人の顔は、この上なく不安そうだった。 しかしその言葉は。 ――あなたにしか、できないこと。 その言葉は。 「おれにしか、出来ないことがあるのか」 時人の悲痛な面持ちとは反対に、その言葉は空夜に微笑みをもたらした。 「それは、嬉しいな」 「嬉しいなどと思えるものではありません!」 「嬉しいよ。例えそれが、どんなことでも。……おれには、まだ出来ることがあったんだな。『時人』の仕事で。それで時人、おれは、何を手伝えばいいんだ?」 「それは……」 問われた時人が言いよどんだ、その隙を見計らったように。 「おーい!」 白い花を散らす風とともに、明るい声がかかった。 金花王子は国王の第二子、まだ十にも満たぬ幼い少年だった。 第一王位継承者である兄は、現在他国にて国を治める手腕について学んでいて、城を離れていた。 自分の後を継ぐその兄王子よりも、王は生まれつき身体が弱く、人々の助けなくては生きていくことさえできない、儚い弟王子を愛した。 遠国から名医と名高い医師を呼び、子ども部屋をさまざまな玩具で溢れさせ、与えられうる限りの幸福を与えていた。 城の誰もが、王子を愛した。 長くは生きられぬ、間違って地上に一時的に降りてきてしまった天使のようなものだとして扱っていた。 だからその名前も、金花。王は自分の息子を、美しい、飾り花と称した。 ほんの一時ではあるかもしれないが、確かに王の、そして城の人々の心に金色の花を咲かせてくれる、そんな輝かしくも儚い存在として、彼は金の花だと名付けられた。 そんな金花王子は、王に溺愛されていた。 世界でただひとり、未来を見通す力を持った予言者を、王子が望むままに話し相手に付けてやるほどに、溺愛していた。 予言者はただひとり、微笑みと率直な言葉で金花王子の未来を語ってくれる人間だった。 「あなたがいなくなってしまう日のことなんて、そんな先の話はやめましょう、王子。この悠灯には視えているのですからね。 他の方が何を言おうと関係ない。なにしろぼくは、予言者なのですから」 誰もが曖昧な笑顔で言葉を濁し、瞳を逸らしてしまうその話題を、まっすぐに王子に語ってくれる、ただひとりの人間だった。 「あなたは、ぼくよりずっと背が高くなり、大人になる。そうして、王位を継がれたお兄様のお手伝いをするのです。あなたとお兄様は2人で、この国をもっと良い国にするのはどうすればいいのか、いつも考える。この国には立派な王様が2人いるようだと、人々は自慢する」 彼は予言者、この世界でたったひとりの、未来を見通す力を持つ者。 「ぼくは知っているのです。あなたに訪れる未来があることを」 そして予言者は、この城でいちばん嘘をつくのが上手な人間でもあった。 「空夜!」 駆け寄ってきたのは、時人よりも少し背の低い、しかしずっと痩せている少年だった。 この街で、空夜の名前をそんなに明るい声で呼ぶ人間は少ない。彼の友人を除いては。 「……王子。走ってはいけませんよ」 見ている方は不安にならずにはいられないほどの、細い足で懸命に駆けてきた少年。 空夜の前で立ち止まると、彼は得意そうに空夜を見上げ、にっこりと笑った。 国王の第二子、金花王子。 空夜の制止の言葉にも耳をくれず、王子は不服そうに声を上げた。 「空夜を探していたんだ。構うな、ぼくは元気なんだ」 金花王子の細い肩に手を乗せ、目線が合うように空夜はしゃがみ込んだ。 「それでも、です。もし転んだら、どうします。……どうして、おれのところへ?」 「最近、空夜が部屋に来てくれないからだ。ぼくはさみしかったんだ」 「部屋になら、悠灯が行っているでしょう。あいつだけでは面白くありませんか、金花王子」 「王子殿下は、きみの荒唐無稽なお話を聞きたいんだそうだ、空夜」 やれやれ、と、割り込んでくる声。特に急いで追いかけてきた様子はない。 王子が空夜のもとに向かうことも、そのせいで転んで怪我をすることがないことも分かっているのだろう。 確信に満ちた余裕で、その呆れたような声の主はゆっくりと歩いてきた。 「悠灯」 真昼の青い空のもとで、夕焼けのやわらかな色を思わせる茜色の髪は、ひときわ目を引く。 空夜が友人の名を呼ぶと、隣にいた時人が、緊張したように表情を硬くするのが分かった。どうにも、初対面の印象が悪かったらしい。 そんな時人には目を向けることなく、悠灯は肩をすくめた。 「ぼくには、とてもあんな変な話は思いつかないからね」 「それを面白がって聞きたがるのはおまえだろう」 「うん、そうだよ。王子殿下も同じだ。きみの話は確かに面白いよ。先が読めなくて」 「予言者に言われると、ただの皮肉にしか聞こえない」 「ああ、そうなるな、確かに」 可笑しそうに、悠灯は笑う。 「……空夜」 小さな声が、名前を呼ぶ。遠慮がちに空夜の服の裾を引っ張り、気遣わしげな表情で銀の瞳の子どもが見上げていた。 「時人。……どうした?」 「わたしは、琥珀のところに行ってきます。……予言者様は、どうやら」 そこで時人は一旦、言葉を切る。 見たことのない色彩の少年を、金花王子は珍しそうに眺めていた。 そんな王子のことも、また、悠灯のほうを見ることもなく、時人は続ける。 「どうやら、わたしのことがお嫌いなようなので」 その口調は皮肉を言っているようではなく、本当に、心から発せられた素直なもののように思えた。 表情は真剣そのものだった。 「時人、そんなことは――」 「厩舎に」 空夜が時人のその気遣いをたしなめる間もなく、悠灯が口を開く。 こちらは時人とは反対に、その顔は微笑んではいるものの、それは心からの笑顔ではなさそうな感触を与える。 「兵舎の前で、この間の男がきみを待っている。教会までの送り迎えを彼に頼んでおいた。道中気を付けて、時人」 「……感謝します、予言者様」 「様、はいらない。言うなれば、ぼくときみは同じ種類の人間だ。人間と呼ぶのも、馬鹿らしいほどの」 悠灯のその言葉には答えず、時人は小さく礼をして、言われた方向へと走り去っていった。 その後姿を見送って、興味深そうに息をついた人物がいた。金花王子だ。 「あれが、『時人』か?」 「そうです。国王陛下から、何か、お聞きになりましたか?」 「ぼくと同じくらいの子どもだとおっしゃっておられたのを聞いた。本当にそうだな。凄いや」 感心したように、呟く。 風が吹き抜けた。少し、空気が冷えてきたかもしれない。 部屋着のまま抜け出してきたらしい金花王子を見る。王子本人は、元気だ、と言った。それに悠灯が咎めるでもなくこうして見守っているのだから、問題にはならないのかもしれないが。 「……王子。もう、部屋に戻ってください。いくら悠灯と一緒でも、おれの傍にいるのを誰かに見られたら、また、叱られることになりますよ」 どうしても気になって、空夜は出来るだけ優しく聞こえるように、そう言った。が。 「ぼくは空夜のことが怖くない。少し他の人とは違うとは思うけれど、怖くはない」 空夜の言ったことに、金花王子は引き続き、独り言のような呟きで答える。 「だから、叱るほうがおかしいんだ。……そうなのか、あの子どもが、『時人』なのか……すごいなぁ」 悠灯に言われたとおり、兵舎のほうへ向かったのだろう時人の姿は、既にもう見えない。 その後姿が消えていった方向に、ぼんやりと視線を向けて、王子はもう一度、繰り返した。すごいなぁ。 「ぼくと同じくらいの時間しか、生きていないはずなのに」
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