index > novel > 時人の鐘 >  5章 『囚われた夜が明ける/6』


= 6 =

 本を閉じたその瞬間に、辺りが急に明るくなった。それは教会で時計を前に迷っていた時、急に辺りが暗くなったように、ほんとうに急なことだった。
 足元にあったはずの本。床だけの部屋。散らばる、たくさんの玩具たち。
 それらすべてのものが、消え失せていた。まるで、始めからそんな場所には行かなかったかのように。
 始めからどこにも行かなかったかのように、空夜は聖堂の時計の前にいた。
 時計は静かだった。それは時間を止める前も、時間が止まっていても変わりなかった。神が子どもたちに与えた世界のゼンマイ。巻き戻さなければ止まる世界。
 神の子は、時計と世界とを切り離してくれた。
「……空夜!」
 名前を呼ぶ声。まだ幼い、子どもの声。
 銀色の髪の少年が、時計の前に座り込んでいる。それは先程、少年が時計と向き合っていた場所だ。世界でただひとり、その力を持った「時人」が、時間を止めた、その瞬間に、少年は確かにそこに立っていた。
「――時人」
 立っていたはずなのに、どうして座り込んでいるのだろう、と不思議に思いながらも、空夜は少年に、言わなくてはならない言葉を告げた。
「ただいま」
 空夜がそう言った途端、時人の呆然としたような眼差しが崩れた。少年は弾かれたように立ち上がり、真っ直ぐに空夜にしがみついてきた。
「空夜……どうして? どうして、いるの、ですか……!?」
「――世界に、未来をくれた奴がいるんだ。おれは、そいつに会ってきたよ」
「よく、わかりません」
「……おれは、いなくならないよ。そういうことだ」
 その言葉を聞いて、時人は聖堂の時計を振り向いた。その目線で、少年が何を知ったのかを感じ取る。
 ――世界の時を刻む大時計は、止まっていた。
「時計が、止まっている」
「うん。けれども、世界は止まらない。もう、この時計が時間を巻き戻すことはないんだ」
 しばらく、何かを考えるように、動きを止めて。銀色の瞳を、数回瞬きさせてから。
 少年は突然、泣き出した。 
「よかった……あなたがいなくならなくて、ほんとうによかった……!」
 時人はそう、何度も繰り返す。声をあげて泣くその姿が、妙に空夜を安心させた。
 銀色の子どもは、ようやくその重い役目から解き放たれた。もう、声をあげて泣くことも許された。
 それがとても嬉しかった。泣きじゃくる子どもの背を撫でてやりながら、お守りに、と渡された小さな銀時計を取り出す。秒針が細かく時を刻んでいたその逆算時計も、今は停止していた。世界の時間が減っていくことも、もう、ないのだ。
 これはやはり時人に返すべきかな、と、銀時計を手に、そう迷っていると。
「――どういうことだ!」
 勢いのある聞き慣れたその声とともに、派手な音をたてて聖堂の扉が開いた。どういうわけか、その声はとてつもなく不機嫌そうに聞こえた。
「これはどういうことだ、空夜! どうしてだ、どうして――」
 足音さえも不機嫌さを訴えようとしているように、固く、強い。
 悠灯は時人の背を撫でている空夜に向けて、問い詰めるように聞いてくる。
「どうしてぼくは――」
「――『生きている』?」
 友人の声を途中で遮り、空夜はそう続けた。その言葉に、時人が驚いたように顔をあげた。泣いていたその顔を見られまいとするように、少年は慌てて服の袖で顔を拭う。
「……そうだ」
「おまえはずっと、勘違いをしていたんだよ」
「勘違いだって?」
 予言者。
 自分の死の瞬間を見たと、そう思い込んだ予言者。
 神の子の言葉を思い出す。予言者が、たったひとりだけその存在を知ることが出来なかった人間。
(「悔しいから、これは最後まで言わない」)
 予言者はそう言った。いや、あれは予言者ではなく、友人としての悠灯の言葉だろうか。
 それならば、最後まで知らなかった振りをしてやろう。
 悠灯は嘘つきだ。この世界で誰よりも上手に、確かな嘘をつく人間だった。
 一番近くで、一番上手に騙されていた人間として、空夜はそれを知らなかった振りをしてやろう。
「そうだ。……火薬が、花火だったのと同じだよ」
 空夜がそう言うと、悠灯はいっそう不機嫌そうに声を荒らげた。
「そんな説明で、どう理解しろっていうんだ!」
「知らないことだろう。……嬉しくないか?」
 食って掛かるという表現が何より似合いそうな今の悠灯に、何を言えば大人しくなるのだろうと考えながら、とりあえず一番大事だと思われることを確認しておく。
「もう、未来は見えていない。そうだろう? それに時人、おまえも、もう、時計の針の音が聞こえないんじゃないか」
 空夜がそう言うと、悠灯と時人は揃って一度、瞬きをした。言われたその言葉を、自分自身に問いかけ、そしてその通りだと感じたのだろうか。ふたりは全く同時に、頷いた。
「……良かったな」
 時間に縛られた世界は、時計が止まることによって開放されることができた。
 世界に縛られた彼らは、ようやく、その書物から自由になることができた。
「良かったな、じゃないだろう! 説明しろと言っているんだ!」
 そんなに死ねなかったことが残念なのか、と思えるほど、悠灯は自分の見ていたものとは違う未来に腹を立てているようだった。それはおそらく、戸惑いの表れなのだろう。予言者にとって訪れるはずのなかった、全く知らない未来が、今こうしてここにあるのだから。
 説明しろと言われて、空夜は考える。どう言えば、簡単に分かってもらえるだろうか。
 悠灯だけではなく、時人も銀色の目をこちらに向けて、その説明を待っているようだった。
 一番分かりやすく伝えようと思って、空夜は簡潔に、こう伝えることにした。
「……空が、青かったからかな」
 しかしそれは、自分で思っているほど、説明を求める者には分かりやすくはなかったらしい。
「――何を言っているんですか!」
「何言ってんの!?」
 口を揃えて、時人と悠灯は呆れたようにそう言う。彼らは互いが同じことを言ったことにも気がつかず、揃って空夜に真っ直ぐな目を向けてくる。
 このふたりは意外と気が合うのかもしれないな、と、空夜はぼんやりとそう思った。と、その時。 
「――お帰り、空夜」
 それまで何も言わずにいた琥珀が、仲裁するようにそう言ってきた。
 急に騒がしくなった聖堂の中にいても、神父はただ静かに、こちらを見て微笑むだけだった。世界に穿たれた虚無。終わることのない存在。
 悠灯や時人が世界から自由になっても、琥珀はこれまで通り、老いることも死ぬこともなく、世界に存在し続けなければならない。それを知っているかのように、神父は何も言わずに、いつものように微笑んでいるだけだった。
「……おまえ、なんだ、それ」
 その神父に、悠灯が何かを指差して尋ねている。それを見て、時人が小さく歓声をあげた。
 琥珀は手に、小さな灰色の塊を載せている。小さくて、柔らかそうなそれは。
「猫?」
「どこからか入り込んできたようだ。可愛いね」
 空夜が手を触れようとすると、素早く身を翻して逃げてしまう。灰色の、ほんとうに小さな子猫だ。
「なんだ、ずいぶんとおまえに懐いているみたいじゃないか」
 悠灯が言う通り、その子猫は神父にしか愛想をする様子がなかった。琥珀が抱き上げると、大人しくされるがままになっていた。そのまま、神父の手の中に納まっている。青い目の、小さな子猫。
 それは、もしかしたら。空夜は思い当たる。
「……どうした、空夜? なんだか嬉しそうだな。そんなに猫が好きか?」
「いや、なんでもない」
 本に開けた、小さな針の穴。
 「琥珀」に寄り添う、小さな終わることない存在。
 永遠を過ごさなくてはならない男が、せめて、ひとりきりではないように。
 それは、もしかしたら、祈りが通じたのかもしれない。
「ところで、予言者殿」
 子猫を抱いたまま、神父は悠灯に向けて尋ねる。
「あなたがいなくなる未来は、もう訪れないと、そういうことなのですね?」
「……ああ、たぶん。ぼくが見ていたものは、どうやら勘違いだったらしい」
「と、言うことは」
 琥珀はどこに持っていたのか、一通の手紙を、悠灯に見せた。
「これは、どういたしましょうか」
「……どうするもこうするもない。処分だ。返せ」
 急いでそれを取り返そうとする悠灯。友人のそのうろたえる様があまりに珍しかったので、空夜は尋ねてみることにした。
「それは?」
「きみへの手紙だそうだよ、空夜」
「――おれへ?」
「この馬鹿、余計なことを言うな! いいから返せ!」
 悠灯はどうしてもそれを読まれたくないようだった。必死の形相でそれを神父の手から取り上げる。
 そこまで読むなと言われては、かえって気になってしまう。空夜がじっとそれを見ていると、悠灯はその視線を払うように手を振った。
 そして、言う。
「時人」
 呼ばれたその名前に、時人が驚いたように反応する。はい、と怯えたように答えた子どもに、悠灯はつまらなさそうに続けた。
「よく分からないけど、時間が新しくなったんだろう。早く鐘を鳴らしたらどうだ。外の人間は皆、それを待っているんだ」
 それは確かに、最もな意見だった。
「そうだ、忘れていた。時計を巻き戻したわけではないけれど、まあいいだろう、新しい時の始まりだと思えば。時人、おまえが鳴らすんだ。最後の『時人』の、最後の仕事だ」
 空夜がそう言うと、少年は顔を輝かせた。嬉しかったのだろう。が、すぐにその表情を曇らせる。
「あの、でも、届きません。……わたしの背では」
「きみが背負ってやればいいだろう、空夜。きみも一応『時人』なんだから。ふたりで鳴らせばいいじゃないか」
 悠灯のその提案に、時人は、はい、と笑顔で頷いた。それは確かに名案だったが、今の悠灯からは、どうにかして話題を手紙から離そうとしている気配しか感じられなかった。
 時人に、行こう、と手を差し伸べて、鐘楼へと向かう。 
「後で、その手紙」
「早く行け!」
 読ませろよ、と言うより先に、悠灯は空夜と時人を追い出すように手を振り上げてそう怒鳴った。


 時人は、鐘を鳴らす。
「とても、綺麗な音だ」
 肩に背負った時人が、そう言った。これまでの鐘の音は、重苦しく、聞いていて哀しくなってしまうような音だったのだと、時人はそう言っていた。あの時はそんな風には聞こえなかったが、今こうして鳴る鐘の音を聞いてみると、それは確かに、ひどく暗い音だったのだな、とそう思えた。
 時人はもう一度、鐘を鳴らした。
 それはまるで世界があげた、よろこびに満ちた産声のように、高らかに鳴って聞こえた。世界に響く。
「時人、これから何をしたい?」
 空夜がそう尋ねると、時人は戸惑ったようだった。
「してみたいことがたくさんありすぎて、わかりません」
「ひとつずつ、やってみればいいんだ。――そうだな、まずはあの手紙だな……」
 見上げた空は青かった。
 どこまでも広がり、世界を覆いつくす青い天蓋には、一点の白も存在しない。
 雲ひとつない、澄んだ空。
 それを見上げて、心の底から晴れやかな気分になるものもいれば、なにもない、虚ろなものだと思うものもいる。
 鐘楼から見上げる空は、手を伸ばせば届きそうに近かった。
 ありがとう、と。できることなら、そう伝えたかった。おまえのおかげで、未来が訪れたよ、と、鐘に乗せて、そう、伝えたかった。
 この鐘の音が、あの子どもにも届きますように。この空の色が、あのひとりぼっちだった子どもの瞳にも、どうか、映りますように。

 ――見上げた空は、青かった。

≪モドル ■ ススム≫


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