index > novel > 時人の鐘 > エピローグ 「未来」
彼は駆けていた。 彼は城を抜け出て、街を抜け出て、森の中を駆けていた。 そうしていないと、おかしくなりそうだった。 押し寄せてくるものに、すべて潰されてしまいそうだった。 ……彼は駆けていた。 (あれは誰だ) 深い、宵の闇。 森は暗く、白く照らす月の光さえも届いてこない。 森は暗く、足元もよく見えない。 それでも彼は、転ばなかった。 彼はこの世界のすべてのことを知っていたから。 だから、見えないぐらいで道につまずいたりしなかった。 死は、何も見えなくなる闇だった。 そこから先に、彼の未来は存在していなかった。 だからその瞬間が、彼の「死」だった。 (あれは誰だ……!) 自分の死ぬときを、見てみようと思った。 もう、生きているのが嫌になったからだ。 自分の死ぬときを、見てみようと思った。 それを、確かに見たのに。 そこには見知らぬ、ひとりの男がいた。 彼は予言者、生まれながらに世界のすべてを知るものだった。 彼は予言者、この世界に彼の知らない人間などいるはずがなかった。 彼は予言者。 それなのに、彼はその男を知らなかった。 頬には知らぬうちに、流した涙で濡れていた。 自分でも気が付かないうちに、流した涙で濡れていた。 そんな自分は、知らなかった。 泣きながら走っているこんな自分など、予言者は知らなかった。 (きみは誰だ?) (きみは、どんな声をしている?) 見知らぬ男に、そう呼びかける。 涙が溢れて止まらなかった。 死ぬのが怖かったのかと、自分が消えてしまうそのことが怖くて泣いていたのだと思った。 確かに、彼は自分の未来が消える瞬間を見た。 それは確かに、虚しい感覚だった。 けれどもその瞬間に、ひとりの見知らぬ男を、見た。 (きみは何処にいる?) (きみはぼくに、何を話してくれる?) 世界中のどこを探しても、どの未来を探っても、その姿は見えない。 その男は、予言者の知る未来のどこにもいなかった。 彼は足を止めた。息が切れて、足が震える。 暗い闇の中、太い樹の根元に座り込む。 生きていれば、会えるだろうか。 その名前を、聞くことができるだろうか。 その声を、聞くことができるだろうか。 ほんとうに、出会うことが出来るのだろうか? それも分からなかった。 (……ああ、そうか) そのことが、とても。 (これが、『未来』なんだな……) とても嬉しかった。 だから、涙が止まらなかった。 (ぼくはきみの名前も知らないぞ……!) 森は暗く、ただどこまでも暗く、闇が広がっていた。 それはまるで、彼自身の生きる世界のように、暗く果てしなく見えた。 どこに行けば、会えるのだろう。 どこに探しに行けば、会えるのだろう。 彼は座り込んだまま、木々に覆われた宵空を見上げた。 白い月の光。 暗闇のはずの森に、一筋の光が差していた。 繁る葉と葉の隙間から、それはかすかに、暗い森の中に光を差していた。 この気持ちは、伝えることが出来るのだろうか。 こんなにも嬉しいこの気持ちを、ただひとりのその人に、伝えることが出来るのだろうか。 (……そうだ) そうだ、手紙を書こう。 一筋の、月の光。 闇の中にかすかに差し込む、それでも確かに差し込む、この光に。 いつか出会えるかもしれない、ぼくの「未来」へ。 ――きみに、手紙を、書こう。 Fin.
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