index > novel > 時人の鐘 > 5章 『囚われた夜が明ける/5』
「ぼくは、その本を閉じるよ。きみが帰ってきたらそうしようと、決めていた」 そして今、もうひとりの子どもはこの場所に帰りついた。 神の子は言う。本を閉じる。それは世界が完結することを意味すると、先程、そう聞いた。 そうなれば、その本の中の世界は、永久に停止したまま、そのまま凍りついたままで有り続けるということになる。 ずっとそうしようと決めていたんだ、と、独り言のように神の子は呟いた。 「ねえ」 彼は続けて、首を傾げて聞いてくる。 「きみはその世界が好きかい?」 それがどういう意味なのかが分からず、空夜は何も言わずに相手を見下ろした。 その視線が面白くなかったのか、彼は口を尖らせた。 「ねえってば!」 「……どうして、そんなことを聞くんだ?」 「いいじゃないか、理由なんて。きみはもう何度も、その世界に生まれ変わっただろう。ああ、でも、そうか。覚えていないのか……」 聞きたかっただけなんだ、と、それが聞けないことがとてもつまらないと言いたげに、彼は呟く。 神の子が聞きたかったのは、ただひとつ。 (「どうして、きみは帰ってこなかったんだ……」) もうひとりの子どもが、「時人」が、彼のもとに帰ってこなかった、その理由を知りたかったのだろう。 けれども、空夜自身に、「時人」の記憶はない。それはおそらく、名前が消されてしまったせいなのだろうと思う。だとしたら、それは神の子の引き起こしたことだ。空夜を責めるわけにもいかないと思ったのか、彼は肩を落としたように、それでもつまらなさそうに空夜の手にした本を睨んでいた。 「――きみは、その世界が好き? 『時人』じゃない、名前のないきみは、その世界が好き?」 それは先程とは違い、もうひとりの神の子に向けての言葉ではないようだった。「きみ」と、今この場にいる、空夜に向けての質問だった。 その世界が、好きか。 ――分からないな、と、正直、そう思った。 時計を巻き戻すその役目を引き受けたのは、世界を続かせるためだ。「時人」として、それが出来る力を持っていると言って貰えたためだ。 自分が大切だと思うものたちに、未来があってほしいと思ったからだ。 そこに、世界を愛する気持ちはあっただろうか。空夜には、世界そのものを愛することができたのだろうか。 答えあぐねていると、そうだ、と、神の子は何か思いついたように、ひとつ手を叩いた。 「見せてあげよう。きみの望むその世界を。どこでも、いつでも、好きな場面を見せてあげよう。きみは、なにが見たい?」 神の子は、そう尋ねてきた。おかしな奴だ、と思う。世界が尽きると言っていたその口調は、あれほど嬉しそうだったのに。空夜の望みを聞こうと微笑む彼は、とても世界の終わりを望んでいるようには見えなかった。 なにが見たい、と尋ねられた。口には出さずに、空夜は思う。 それが叶うのならば、もう一度、彼らに会いたい。 空夜の名前は、世界に記されてはいないのだと、神の子は言った。 それでも、空夜には確かなひとつの名前があった。空夜。なにもない夜、さみしい夜だと、そう名付けてくれたあの男がいた。一種の祈りだ、と言って、そう名付けてくれた神父がいた。その名前を呼んでくれた友人がいた。ずっと謝りたいと、重たい銀時計を持ち続けてくれた少年がいた。 出来るならば、彼らの姿をもう一度見たいと、そう思った。 それを伝えたわけではないのに、神の子は心得た、とばかりにひとつ頷いた。 「貸して。ぼくがきみに、それを見せてあげよう」 言われるままに、差し出されたその手に、本を渡す。 読めない記号の集まり。ここだ、と指した箇所を見る。やはり、読めない。 「……これが、今度の『時人』。ほら、綴りの一部が欠けているだろう」 時人だ、と、彼が教えてくれたそれは、確かに単語の中ほどに、小さな空白があった。 「……見えるかな。これはきみが来た時間よりも、何年か前のページだな……」 神の子が指差すそこを見る。読めない記号の羅列。その集まり。 ほら、と彼が口にした、まるでそれを合図とするかのように、その集まりは空夜にひとつの風景を見せた。 ――四角に切り取られた、青い空。 少年は高さが合わないのだろう椅子に落ち着かなく座りながら、窓の向こうに目をやっていた。 山奥の、小さな集落。この国で一番空に近いと、そう言われる小さな集落。 それは「時人」が生まれる、その場所の風景だった。 よく晴れた、青い空。窓の向こうでは、数人子どもたちが遊んでいる。 時人は銀色の瞳で、それを見ていた。 銀色の髪の少年の前には、椅子と同じように、少年の背には高さの合わないように見える机が置かれていた。分厚い書物が、何冊も積まれている。 「ぼくも、外に出ていいですか」 机の向かい側に座っている、年かさの女にそう聞く。尋ねる声は、空夜が知っている少年の声よりも、ほんの少し幼い。窓の外と、向かいの女とを交互に見ながら、時人はそれに対する返事を、じっと身を固めて待っていた。 女は答える。それは冷たい水を浴びせるような、厳しく、鋭い声だった。 「なりません、時人。あなたには時間がないのです。やがて迎える大切な時のために、それまでに身につけなくてはならないものが沢山あるのですよ。ですからそんなわがままを言ってはいけません。 それに、ご自分のことは『わたし』と、そう仰いなさいと教えたはずですよ、時人」 「……はい」 小さい肩を落として、時人はそれでも、もう一度窓の外に目をやった。 子どもたちは顔いっぱいに笑みを浮かべ、楽しそうに両手を広げて駆け回っていた。 ……四角い枠に切り取られた空は、それでも青くて広かった。 「――そしてこれが、ぼくが開けた虚無。永遠に変わらないものだ」 神の子のその声とともに、空夜の見ている風景がかすかに歪む。 次に見えたのもまた、よく晴れた、青く澄んだ空だった。 教会の、墓地。 それは空夜もよく知る場所だった。時計のあるあの教会の墓地だ。 黒い服の男。見慣れたその姿かたち。彼の顔を見ただけでは、それがいつの時の風景なのかは分からなかった。死なない男。老いない男。琥珀は最初から最後まで、その姿のままであり続ける。 神父は両手に白い花を抱えていた。無数にも見える墓標に向けて、ひとつひとつ、手に持つその花を捧げていた。 空夜は神父がそうするのを目にしたことがある。それは琥珀の日課のひとつだった。 彼はそうやって、毎日花を捧げている。名のある墓標にも、名のないものにも。毎日、全ての墓に花を捧げている。それを見て、人々は皆、神父の慈しみの心を賞賛していた。慈悲深い神父。彼がそう言われていることに、子どもながらも疑問を抱いたのを覚えている。 琥珀が花を献じるその姿は、言葉には出さずに問いかけているように見えた。 死は、どんなものなのか。生とは、どんなものだったか。神父は死者に向けて、そう、問いかけているように見えた。 琥珀にとって、死ぬことは憧れなのだろうか。それはいくら焦がれてもたどり着くことのない、幻の楽土のようなものなのだろうか。 彼は今でも、その場所に行きたいと望むことがあるのだろうか。 一輪余ってしまった花を、墓地を出た道で通りがかった少女に差し出す。受け取った少女は、それを嬉しそうに髪に挿して見せた。 神父は微笑み、その頭を優しく撫でてやる。 彼にとっては、墓標に捧げるその花も、少女に手渡したその花も、どちらも同じ弔いの花なのかもしれない。 青い空の下、白い花は吹く風にかすかに揺れていた。 「そして、予言者だ……」 神の子の声。それと同時に、青い空が視界いっぱいに広がる。 次に見えたのはまた、見慣れた場所だった。城の中庭、噴水のあるあの場所だった。 「――予言者様」 若い男の声。呼ばれて振り向いたのは、確かに夕焼け色の友人だった。 いってらっしゃい、と空夜を送り出してくれた彼と、そう変わらない。それほど前の景色ではないのだろう。 若い男は傍らに、同じように若い妻を連れていた。 「予言者様、どうか、この子の未来を見てくださいませんか」 この子、と言いながら、男は妻のお腹を撫でた。大きく膨らんだそこは、新しい命が宿っていることを示している。産み月が近いのだろう。男も、その妻も、満ち足りた幸せそうな笑みを浮かべていた。 言われて悠灯は、少しだけ戸惑ったように、かすかに間を置いてから、やがて微笑む。 告げる未来。望むものがいるままに、聞かせる未来。 「この子はあなた方の子としてこの世界に宿れたことを、とても嬉しく思っています。とても幸せそうに――笑っていますよ」 それを聞いて男は、妻と幸せそうに笑みを交わした。何度も礼を言いながら、とても幸せそうに笑っていた。 「……むずかしいな」 男とその妻が中庭から去ったあと、その後姿を見送って、悠灯はそっと呟いた。 「どうすれば、きみのように優しくできるんだろうな……」 茜色の瞳は、青い空を見上げる。 生まれた子どもは、死産だった。 「……これで、おしまいだ」 その声で、見ていたものから引き戻される。開かれた本を見ても、もうそこには読めない記号が並ぶだけだった。彼らの姿も、もう見えない。 もう一度、と、そう思った。もう一度だけでいいから、と、そう願った。 神の子はその願いを叶えてくれた。空夜が会いたい彼らの姿を、世界に在るその姿を見せてくれた。 願いが叶ったその時は、嬉しい気分になるものだと思っていた。願いとはそういうものだと思った。叶えば、きっと嬉しいだろうと、そう思っていた。 神の子は確かに、空夜の願いを叶えてくれた。彼らの姿を、彼らの生きる姿を空夜に見せてくれた。 感謝して、喜ぶべきなのかもしれない。けれども、嬉しいことのはずなのに、それはとても、哀しかった。 どうして彼らは、この世界のどこにも存在が記されていない自分のことを、真っ直ぐに見てくれたのだろう。世界にすら記されていない自分の名前を、何度も口にしてくれたのだろう。 どうしても、帰りたい、と思った。 彼らのところに帰りたいと、そう思った。 「おれはこの世界にいたい」 窓の外を眺めていた時人。少女に花を差し出す琥珀。微笑みで未来を告げる悠灯。 「たとえ、もうすぐ終わってしまう世界でもいい。……お願いだ。本を閉じるというのなら、その前におれをこの世界に帰してほしい」 たとえ、時計を巻き戻してすぐ、この世界に与えられた残りの余白が尽きてしまうとしても。 彼らのそばにいたい。それだけでいい。終わるのならせめて、彼らと一緒にいたかった。 空夜がそう告げると、神の子は悠灯と同じ顔で、やれやれ、と呆れたようにため息をついた。 そう答えることは分かっていたぞ、と、そう言いたげな。そんな微笑みを浮かべている。 「……きみがその世界を選ぶことなんて、分かっていた。きみはその世界が好きなんだ。あれだけ呼んでも、帰ってこなかったんだものな」 微笑むその顔は、予言者のものと同じだ。それでも彼は悠灯ではないし、空夜も「時人」ではない。 「きみは、どうして帰ってこなかったんだろうな……」 神の子は呟く。彼は一体、どれだけその問いを繰り返してきたのだろうか。答えの返ってくることのない世界に向けて、何度その名前を呼んだのだろうか。 その問いに向けて、だれかひとつは答えをくれたのだろうか。誰かひとりでも、答えてくれるものはあったのだろうか。 「……大切な人には、笑っていて欲しいと思うから」 自分が言うような言葉ではないのかもしれない。神の子が聞きたいのは、空夜の答えではない。「時人」のものだ。 「だから、おまえが退屈しないですむように、新しい物語を紡ぎ続けようと思ったんだ」 それでも、きっとこの気持ちは、決して空夜ひとりのものではないように思えた。 「どれだけの長い時間を、こうやってひとりで過ごしてきたのかは知らない。知らないし、考えもつかない。それはとても寂しかっただろうと思う。辛かっただろうと思う。忘れてしまったことも、悪いと思う。……けれども」 だからこれは、「時人」からの言葉ではなく。 「おまえがここで、そうやって長い時間世界を見守り続けたことを、おれは忘れない」 空夜は「時人」ではない。神の子がその名前を消し去ってもなお、世界に居続けた、強欲なひとりの人間だ。そんな自分にできることは、そんな約束しかない。 「――琥珀に」 永遠があると、永遠に続くものがあると、そんな約束しか、出来ない。 「あの男に、おまえのことを話すよ。忘れないでいてくれるように、頼むよ。おれは、いつか死ぬけれど」 咲く花は散る。散る花だけが、咲く。 だからこそ花は誇らしく、その生を咲き誇る。 「あいつは死なないんだろう。ずっと、世界に終わりがあるとしたらその終わりまで、ずっとおまえのことを忘れずにいるよ」 そして記憶の中で咲く花は、決して散ることなく、いつまでも咲き続けることができる。 それまで、じっと黙って空夜の言葉を聞いていた神の子は、小さく息をつく。 「……ねぇ」 呆れたようにも、馬鹿にしたようにも見えるその表情はそのままに、それでも彼は確かに、笑みを浮かべたように見えた。 「ねぇ、名前を教えて。ぼくはきみに、さよならを言いたいんだ」 「……空夜」 空夜がそう教えると、神の子は、そうか、と、満足そうに頷いた。 それはあの日の光景と同じだった。 名前は、と尋ねる、茜色の少年。伝えたその名前を、何度も何度も繰り返して頷き、呟いた少年。 その時の友人と同じように、長い時をひとりきりで待ち続けた彼も、嬉しそうに呟いた。 「最後にきみに会えて、ほんとうに良かった。……辛い目に合わせて、ごめん」 それは空夜に向けての言葉なのか、それとも何度も時計を巻き戻し続けた『時人』に対しての謝罪なのか。 「……気にしていない」 それが、世界から名前を消し去ってしまったことを詫びているのなら、そのことで神の子を責める気持ちはなかった。確かに、占い師の言葉は当たっていたのだ。空夜はこの世界のどこにも名前の記されていない「できそこない」だった。そして周囲の人々も、いる筈のないものを不気味に思った。それは確かに、辛いことだったかもしれない。 けれども、自分には、世界すら与えてくれなかった名前をくれた者がいた。この存在を、周囲から遠ざけられる「できそこない」だからこそ、大切だと思ってくれる者がいた。いなくならないで、と泣いてくれる者がいた。 だから、神の子に向けて言った言葉は、心からの言葉だった。 そして自分が、「時人」だったと言うのならば。何度も時計を巻き戻すことだけを繰り返したことに対する、詫びの言葉だったならば。はっきりとその記憶があるわけではない。けれども、それも同じように、自然とそう思えた。 彼はきっと、そのことを辛いとは思っていなかったはずだ。終わらない世界を見て、続いていく物語を見て、退屈していた子どもが笑えるように。それだけが、彼の願いだったのだから。 「時人」に、伝えてやりたかった。時計を巻き戻してくるよ、と、言って、ここから姿を消してしまった、いちばん最初の「時人」に、伝えてやりたかった。退屈していた子どもはようやく、笑ったと。 出来ることなら、そう伝えてやりたかった。 「……この本に書いたことが、そのままきみたちの世界になるんだ」 空夜の手から本を受け取り、神の子は再び、最後のページを開いた。 「ほんとうは、簡単なことなんだ。こうすれば、世界はずっと続いていく。いつだって、こうすればよかったんだ」 そう言って、彼は最後のページにわずかに残された、白紙の部分に指を這わせる。 その指がなぞった箇所には、それまでになかった文字が浮かび上がった。世界に、新しい記述を加える瞬間。 「神の子は長い眠りにつく。世界に溶けて、そこで長い夢を見る」 空夜がそれを見ていたことに気がついたのだろう。彼は微笑んで、空夜によく見えるように本を差し出した。浮かんだ文字は、それまで本を埋め尽くしていた読めない記号とは違う。空夜にも読み取れるものだった。だから、その内容を理解することが出来た。 「眠りにつく……?」 「そうだ。言っただろう。ずっと、こうするつもりだった。こうすればよかったんだ。……それでも、ぼくは最後にきみに会いたかった。きみにさよならを言いたかったんだ。その願いは叶った。だから、もういいよ」 そう言った途端、彼はどこかが壊れた機械のように、大きくよろめく。咄嗟に空夜はそれを支えて、受け止めた。立っているのも難しい風に見えたので、そのまま床に座り込む。 大人しく空夜に支えられたまま、神の子は、そんな顔をするな、と笑う。 「『どこにいても、おまえの幸せを祈っている』。……そうだろう?」 それはきみが言った言葉じゃないか、と、得意そうに彼は続けた。それは確かに、空夜が口にした言葉だ。 いなくならないで、と願う少年に向けて、空夜が言った言葉だ。それは本心からの言葉だった。 だから、それが本心からの言葉ならば、拒否せずに受け取りたいと思った。 神の子は、腕の中から空夜を見上げる。 「きみの、その眼の色は、何の色だ?」 不思議そうな、好奇心に満ちた子どものような声で、彼はそう尋ねてきた。 「……空の、色だと言った奴がいるよ」 「空。空か。そうか、そんな色をしているのか……」 空夜の返答に、神の子は納得したように、数度小さく頷いた。 本を自分のほうに引き寄せて、彼はまた、白紙の部分を撫でる。 彼の指が触れたその箇所に、新しい記述が浮かんだ。 「これより世界は物語の手を放れ、人間の手へと委ねられる」 「きみはその世界の中で、あの神父にこう言っていたことがあるんだよ。もうずっと前の、『時人』としてのきみだけれど」 「どう、言っていたんだ?」 「ぼくたちのこの場所には、何でもある。神様が残していってくれたから、何でもあるんだ。玩具も、永遠も、世界も。……けれども、ひとつだけ、無いものがあった。それが、空なんだ」 確かに、この部屋に広がるのは、黒一色の闇だけだ。四方を見回しても、上を仰ぎ見ても、そこにあるのは闇だけだ。 この場所には、空がない。 「その世界の中で、きみは、空がとても好きだと言っていた。青くて、どこまでも世界を包んでいるんだ。それがとても好きだと言っていた。……それをただ、ここから眺めているぼくには、そのほんとうの色は分からなかった……」 神の子はまた、指先でページを撫でた。先程の続きの箇所から、また、文が続く。 「時計は止まるが、もう世界の時間を操ることはない。 物語は終わるが、世界が終わることはない」 「――きみはぼくのことを、忘れていなかったのかもしれないな」 「時人」の瞳は銀色の鏡だ。 それならば空夜のその青い瞳は、空を映す鏡の色だったのかもしれない。 この青を知らぬ、世界をその手にしながらも、その色を知らぬ友に、見せてやりたいと思ったのかもしれない。 「時人」は、彼のことを忘れていなかったのかもしれない。 「そうか、空は、そんな色をしているんだな。……うん、とても綺麗だ」 ふわりと、微笑んで。 「……おまけだ」 うつむいて本に向かったまま、彼は更に、何か書きつけた。 短いその言葉を書き終えて、彼は満足そうに頷いた。 それまでのように粗雑な手つきではなく、ゆっくりと、静かに本を開いたまま床に置く。 「あとは、きみが本を閉じればいい。そうすればきみは帰れる。……鐘は鳴らしておくれよ、ぼくはあの音がとても好きなんだから」 「……分かった、約束する」 空夜が頷いた、その瞬間。 さよなら、と、かすかに、その言葉が耳をかすめた気がした。 瞬きをして目を開けると、腕の中に支えていたはずのそこには、もう誰も居なかった。 神の子は消えてしまった。世界に溶けて、長い夢を見るために。 空夜が世界に居続けたいと願う以上、彼のひとりきりの時間は、そうすることでしか終えられなかった。 それは、忘れてはならないことだ。これからも、ずっと忘れない。そう、約束したのだから。 足元には、開かれたままの本が残されていた。 それを見て、思い出す。神の子は最後に、おまけだ、と言って、何か短く書き残していた。 満足そうに微笑んでいたそのことが気になり、空夜は本を覗き込んだ。 そこには、短く、ただ一文だけ、こう書かれていた。 「世界はきみの幸せを誓おう、空夜」 それは、はじめて世界という物語に、空夜の名が刻まれた瞬間だった。 そしてその言葉を最後に、本の記述は終わっていた。 (……ああ、そうか) それが最後の瞬間。世界を記述した書物の、最後のページ。 空夜の名前を刻んだその瞬間に、記述は終わる。 予言者はその最後の瞬間を、まさに今、この時を見たのだ。 神の子が全てのページに書きなぐった、その名前として存在する悠灯。ふたりの姿かたちは、同じ。悠灯はこの瞬間を、自分の「死」の時として予知していたのだ。 終わったのは悠灯の未来ではない。 「……おまえに、未来はあったよ、悠灯」 予言者が知ることのできる未来だけが、ここで終わりを迎えたのだ。 「なにが、『死ぬ』、だ」 笑いがこみ上げてきた。 それでも開かれた本のページの上に、一滴、透明な雫が落ちた。 「馬鹿なのはおまえじゃないか……!」 可笑しくてたまらないはずなのに、何故だか涙が止まらなかった。 誰が見ているわけでもない。それでも自分が泣くのは間違っていると思った。微笑みを残して消えていった神の子は、空夜の望みを叶えてくれた。今度は、自分が彼の望みを叶え続けなくてはならない。彼が幸せな夢を見続けられるように、世界を。 本を閉じて、続く世界を完結させなくてはならない。 零してしまった涙は、神の子が書き付けた名前をぼんやりと滲ませていた。 それはあの日、夕焼けに溶けそうに淡く霞んで見えた、友人の姿にとてもよく似ていた。 本を閉じてしまえば、世界は完結する、と彼は言った。 世界は人の手に委ねられた。その記述をもってして、世界はこの本の手を離れたのだ。 では、完結してしまえば、そこに開けられた空白はどうなるのだろう。 怒りにまかせて貫かれた、この小さな穴はどうなるのだろう。 死ぬことも、老いることもない、あの変わらない存在は、一体どうなるのだろう。 そのままの存在として、完結することになるのだろうか。 永遠にひとりきりだという結末で、あの神父の物語は完結を迎えてしまうのだろうか。 空夜は本を閉じようとしていたその手を止め、もう一度、本を広げる。最後のページ、そして、裏表紙。 やはり、片隅には小さな穴が開けられている。死なない男。琥珀。 この穴を塞いでしまえば、あの神父の存在も、無くなることになるだろうか。 琥珀も、それを望むだろうか。終わりを与えてやることが、正しいのだろうか。 神父はただひとつ、名前を与えてくれた。 世界のどこにも記されていない、大切な名前をくれた存在だ。 どうしていいか分からず、本を見下ろしたまま、考える。 穴。小さな穴だ。 ふと、思い出す。そうだ、あれを返さなくてはならないのを、忘れていたではないか。 昨日、女官からうさぎのぬいぐるみを繕うのに借りた、裁縫道具。悠灯からの呼び出しがあり、そのまま返すのを忘れていた。上着のポケットに入れたままになっていたそれを、取り出す。 「……一種の祈り、だな」 空夜は神の子でも、何でもない。それが上手くいくという確信はなかった。 それでも、何もせずにいるには、あまりに寂しいことだと思った。 ひとりきり、という言葉で終わらせるのは、あまりにも寂しいと思った。 だからそれは、一種の祈りだ。神父が自分に、空を冠した名を授けてくれた、そのことのように。 空夜は手にした小さな針で、本の隅に開けられたその穴の近くに、穴を開けた。 神の子が開けた小さな穴に寄り添うように、それよりずっと小さな穴を開けた。
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