index > novel > 時人の鐘 > 5章 『囚われた夜が明ける/4』
それはささやかな疑問だった。 「『時人』は、どうして時計を巻き戻し続けるんだ?」 「……きみには、大切な人がいるかな、空夜」 神父は空夜のその質問に対し、逆にそう尋ね返してきた。 その質問には、すぐに答えることができた。 「いる」 「その人が退屈そうにしていたら、楽しませてあげたいとは思わないかな」 「……たぶん、そう思う」 実際に、退屈が口癖の友人のことを思い出し、空夜はそう頷いた。 神父は一度だけ、わたしもそう思うよ、と呟いてから、微笑みとともに、こう続けた。 「だから、そういうことなんだ。……大切な人には、笑っていて欲しい。だから彼は、何度でも時計を巻き戻すために生まれてくる」 神父はそう言って、聖堂の時計を見上げた。 「――わたしが出会った『時人』は、きみによく似ていたよ」 まるで地団駄を踏むように、苛立ちをその足運びに映して、神の子は空夜に近寄る。白い布の下から、手が指し伸べられる。 その手が、空夜の頬に触れた。それは生きたもののあたたかさを伝えてはこない。ただ、何かが触れた、と、そう感じるだけだった。 彼はそうやって空夜を見上げたままで、呟くように、懐かしそうに、こう言った。 「きみはぼくのことなんて、忘れてしまったんだな」 忘れてしまった、と神の子は言う。それは正しい。空夜はこの場所のことも、そして「時人」と呼ばれるものになったもうひとりの子どもが共に長い時間を過ごしたはずの、この相手のことを知らない。……知らなかった。時計と時間が止まり、彼が呼んでくれて初めて、ここにたどり着いたのだから。初めて、出会う相手だ。知らない相手だ。 (……知らない?) ほんとうにそうだろうか、と、心の中でなにかがそう声をあげる。知らないはずなのに、神の子のあの笑いが、何故あんなに気になるのだろうか。それは、おかしいことではないだろうか。 どうして、こんなにも何かを思い出すのだろう。 こんなに、その仕草のひとつひとつに、引っかかるものを感じてしまうのだろう。 記憶の中に、確かにそれを知っている気がした。神の子の笑い方、仕草、不機嫌そうな口元。 それは空夜の中に、かすかに残っている「時人」の記憶なのだろうか。それとも。 それとも、また別の、空夜の記憶なのだろうか。 「おまえは……誰なんだ?」 空夜がそう尋ねると。彼は、これは奇妙なことを言われた、とでも言いたげに、大きく肩をすくめて、そして、口元で笑みをかたどった。面白くてたまらない、と言うようでいて、その実、きっと、目は冴え冴えとこちらを馬鹿にしているはずだ。まるで、表情で皮肉を言うような。その表情に、見覚えがあった。錯覚ではない。今度は確かに、そう思った。知っている。 「誰か、だって?」 彼は被った布の下から、笑んだ口元だけを覗かせたまま、ことさらに可笑しそうに、嘲るようにそう続ける。 「――きみはぼくの名前を知っているぞ」 空夜がその言葉の意味を問いただそうとするより先に、神の子は白い布を邪魔そうに掴んだ。 そして、それを脱ぎ捨てる。 払われた白い布が、舞うようにふわりと落ちる。白に覆われて隠されていた神の子の色彩は――何よりもまず、目を引いたのは、赤い色だった。 よく知っている、あの赤い色だった。 「……だろう?」 赤い髪。暮れる陽の光に染められたような、夕焼け色の、その色彩。 見間違いようもない、茜色の瞳を細めて、彼は空夜の反応を楽しむように、軽く笑った。 神の子。彼がまるで悪戯のように、白い布の下に覆い隠していた、その素顔は。 予言者悠灯、そのものだった。 「……悠、灯?」 それは確かに、友人だった。赤い髪。沈む陽が染め上げる、空の色。 空夜がそれを見間違うはずがない。彼は呆然としている空夜を見て、可笑しそうに笑った。 「知っているだろう、この顔を」 「どういうことだ! おまえは誰なんだ……!」 「ぼくはきみと同じ、神の子だ。きみがひとりここに残していった、神の子だ」 それ以外に何がある、と、彼は笑う。それは友人と全く同じ表情だった。人を小馬鹿にするような、見慣れた表情。 「いま、その名前を呼んだだろう。それは確かに、ぼくのことだよ」 「悠灯?」 「そう、あれは、ぼくの名前だ」 同じ顔。同じ笑み。それでも目の前にいる、この夕焼け色のこの男は、空夜のよく知る友人ではない。神の子で、あるはずだ。悠灯はあの時が止まった世界で、教会の外で、空夜の帰りを待っているはずなのだから。 「――きみの名前を消して、しばらく時は流れた。ぼくは安心していた。世界のどこにも、きみはいなくなった。きっと待っていれば、きみは帰ってくる。そうしたら、もう、こんな世界は閉じてしまって、違う遊びをしようと思っていた。きっときみは、帰ってくる。ぼくはそう思っていた」 それなのに、と、語気つよく悠灯と同じ顔をした彼は、その時のことを思い出しているように、憎らしげに本を睨む。 「きみは帰って来なかった。どうしてだろう。どこにもいなくなったはずのきみは、それでもぼくのところには帰ってこなかったんだ。そんなに、その世界にいたいのか。ぼくのことなんて、忘れてしまったのか。……寂しくて、悲しかった。ぼくはここにいる。ぼくはここに、ひとりで待っていたんだ。悔しかった」 彼は、空夜の頬に触れていた手を下ろす。 「きみに思い出させてやりたかった。ぼくはここにいると。……ぼくは、ここにいる」 繰り返される呟きの言葉。神の子は、ひとつ息をついた。 「だからぼくは、そこから先、最後まで、全てのページに自分の名前を書いた」 空夜は本に目を落とす。落書きだ、と、彼は言った。自分が書いたものだと、あの落書きのことを、神の子はさっき、そう言っていた。 本の記述の上から、乱暴に書き付けられたひとつの綴り。空夜に読めないそれは、神の子の名前なのだという。 自分の存在を思い出させたくて、自分をひとり置いていった「時人」に伝えたくて、神の子はそこから先の世界すべてのページに、自分の名前を書いたのだという。ぼくはここにいる、という神の子の言葉は、訴えかけるようにすら聞こえた。 「おまえの名前が『悠灯』なのか?」 「違う。……ぼくの名前は、人間の言葉では口にできない音でしか呼べない。そのぼくの名前を世界に書いたら、その『悠灯』というものになったんだ。それだけだ」 それは、これまでに彼が語って聞かせてくれた世界の在り方だった。この本が、「世界」。そしてそこに記述したものが、世界を構築する。だから、彼が書き殴った、その名前もきっと。 「そうだ、もう分かっただろう。ぼくが開けた同じかたちの空虚が、死ぬことも変わることもないものを生み出した。ぼくが名前を消したきみは、世界中のすべての人に忌み嫌われた。そして一文字欠けた『時人』が生まれた。……そしてぼくが書き殴ったその名前は、世界のすべてを知るものを生んだ」 世界のすべてを知るもの。そう呼ばれるものを、空夜はよく知っていた。 生まれる前に、世界のすべてを見てきてしまったもの。この本を、すべて読んでしまったもの。 「予言者、だ」 神の子は悠灯と同じ声で、それでも全く同じには聞こえない声で、続ける。 「あれはぼくの名前だ。それを世界に記述したから、ぼくと同じかたちをしている。……世界のすべてが記されたその上から、強引に名前を書き付けた存在だ。だからあれは、この本に書かれたすべてをその内に理解してしまっている」 空夜は手にした本のページの表面を撫でる。神の子が書いたというその名前も、空夜には読めない文字だ。人間には発音することも出来ない、と彼は言った。その文字を、読めないながらも線に沿って指の先で撫でてみた。 これが予言者。 本の片隅に、小さく開けられた穴が、死なない男。 一文字欠けてしまった「時人」が、時間を止めることが出来て、時間に止まらないことが出来ない時人。 名前を消されてしまった空夜。 そして、これが悠灯。 世界は一冊の本だ、と、神父は遠い昔に、そう教えてくれた。わたしたちの居るこの世界は、神の子に与えられた一冊の書物なのだと、そう教えてくれた。 神の子は、分かっていてやったのではないはずだ。そこに生きるものを、存在するものを苦しめようと、悲しめばいいと思って、そうしたのではないはずだ。 そうなることを知っていて、そんな悲しいものを生み出したのではないはずだ。 それなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。 誰も悪くない。きっと、誰も、何も悪いことはしていないのに。 彼はただ、こう叫びたかっただけなのだ。ぼくはここにいる、と。そう伝えたかっただけなのだ。 「……ひとつ、面白いことを教えてあげよう」 本を見ている空夜に、神の子はそう言ってきた。 「――この本に書かれたことの全てを、予言者は知っているんだ」 「……何が言いたい?」 「きみは変わらないな。それがどんなにきみにとって重要なことか、そしてそれ以上に予言者にとってどれだけ意味のあることか分からないか」 呆れたように、それでも空夜の反応を楽しむように、神の子は茜色のその瞳で笑う。それはやはり悠灯によく似ていて、それでも友人が見せる笑みよりも、ずっと子どもらしく見えた。 空夜にとって重要なこと。それ以上に、悠灯にとって重要なこと。 謎かけのような神の子の言葉。 空夜は言われたことを、もう一度考えてみる。 予言者はすべてのページに書かれた名前。そのページに書かれた「世界」を、すべて知ってしまっている者。 未来を知っているということは、そこから先に続いているその記述を知っている、ということ。 本に書かれている内容を知っている、ということ。 それは、もしかしたら。 「言っただろう。きみは、この中のどこにも名前が記されていない存在なんだ」 助け舟を出すように、神の子。 空夜の名前は、浮かんだその瞬間に彼によって消されてしまった。だから、それからずっと、この書物の中に空夜の名前は存在しない。 本だけを見ていれば、空夜は、どこにもいないのと同じことだ。それは、つまり。 「――あいつにとって、おれは」 「そう。きみは世界でただひとり、予言者の知る世界にいなかった人間だ」 (「ほんとうは、もうひとつ、きみに秘密がある」) 悠灯は確かに、そう言っていた。 (「けれども、これは言わない。悔しいから、これは最後まで言わない」) 悠灯は本の記述を読むことで「未来」を知っている。 そしてその文字ではない「空白」である空夜のことだけは、一切読めずに、知らずにいたのだ。 神の子はもう一度、繰り返した。 「予言者はその世界でただひとり、きみを知ることだけは出来なかったのさ」 どうして悠灯は、空夜については何ひとつ未来を告げてこなかったのか。 友達だからだ、と、友人はそう言っていた。ただひとりの友達だからだ、と、そう言った。 どうして、空夜の作る物語を気に入ったのか。あんなに展開に無理のある、適当もいいところな話を、それでも悠灯は何度も聞かせてくれるように言ってきた。世界に存在しているすべての物語を知っているはずの悠灯が、どうしてそんなものを好んで聞きたがるのか、ずっと不思議に思っていた。 そして、死の瞬間に傍らにいる、ひとりの見知らぬ男の存在。 そうだ、悠灯は言っていたではないか。はじめて見たその時から、空夜の顔を忘れたことはないと。 自分の未来の果てをかいま見たその時に、はじめて空夜を見たのだと、友人はそう言っていたではないか。 どうして自分の死ぬ瞬間に傍にいる男に、そんなに会いたがるものかと、それがとても不思議だった。 それだけではない。悠灯の言葉は、どれもこれも、すべて不思議なものばかりだった。言葉ばかりではない。「できそこない」である自分に差し伸べてくれる手、向けてくれる笑顔。名前を呼んでくれる明るい声。悠灯が空夜に与えてくれるものが、どれも不思議で仕方がなかった。 (「そうだね、そうなるかな……ぼくはずっと、きみに出会えるのを待っていたんだ」) 今なら彼の言っていたことが、すべて分かった。 待っていた、というその言葉が、悠灯にとってどれほどの重さを持っているのか、よく分かった。 みつけた、というあの言葉の意味が、ようやく理解できた。 (「ぼくは、ずっときみを探していたんだ」) 悠灯にとって、空夜だけがただひとつの「未来」だったのだ。
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