index > novel > 時人の鐘 >  5章 『囚われた夜が明ける/3』


= 3 =

 もうずっと昔に、神父が話してくれたことがある。
「……この世界は、書物なんだそうだよ。人々の生きる道や、ものごとの道理はすべて、一冊の本に記されている。それが今、きみの生きているこの世界だと、いうことだ」
 どれだけ繰り返してそれを語っているのだろう。すっかり慣れた口調で、琥珀はその物語を空夜に語って聞かせてくれた。孤児院の中でも、子どもたちからも避けられていた空夜に、神父はいつもそうして話を聞かせてくれた。それは彼の過ごしてきた長い長い時間そのものを表すように、どれだけ聞いても尽きることがなかった。楽しい話、悲しい話、役に立つ話、噂話。神父がそうして自分に聞かせてくれる様々な物語が、空夜にとっての慰めになっていた。
 その日琥珀は、この世界の成り立ちについて話そう、と、そう言った。この世界は一冊の本なのだと、彼はそう聞かせてくれた。
 神が子どもたちのために与えた世界が、この世界。それは、書物の中に存在している。
「それは、作り話だろう?」
 神父は他にも、よく似た話をたくさん聞かせてくれた。その話もそれらと同じく、空想の産物なのだろうと、そう思った。それなのに琥珀は、そんな空夜に、曖昧に答えるだけだった。
「さあ、どうだろう。聞いた話だからね」
「……誰から聞いたんだ?」
「わたしにこの名前をくれた人からだよ、空夜」
 神父は微笑んで、そう続けた。
 そうだ、今なら思い出せる、その後の言葉。琥珀は微笑んで、こう続けたのだ。
「わたしが出逢った、いちばん最初の『時人』だ」


 神が子どものために残していった、一冊の本。ひとつの世界。
 幼い頃に聞いたその物語は、今、目の前で見せられている光景に、妙に近いものがある。
 本が一冊。そして、それをどうということもなさそうに扱う、子どもがひとり。
 その本が世界だと、そう言うのならば。
 この子どもは、神の子だと、そういうことになるのだろうか。
「この本が、『世界』だと?」
 足元に広げられたままの、一冊の本。分厚い、辞典のような固い表紙に守られた本だ。
 その本を「世界」だと、彼は言った。
 今、その本は最後のページが開かれていた。何かが細かく書かれているが、空夜には内容の読み取れるものではなかった。文字ですらないような、小さな記号がびっしりとページを埋め尽くしている。開かれた最後のページは、その半分辺りまで文字で埋められていた。
 身を屈めて、空夜はそれに触れる。先程、聖堂にいた時に暗闇に包まれる寸前に聞いた、あの乾いた音の正体に思い当たる。あれは、本のページをめくる音だ。
 世界、と言われた一冊の本。それは見た目も手触りも、空夜がよく読むような、ごくごく普通の書物と何も変わらなかった。
「今は時間が止まっているから、他のページを見ても大丈夫だよ。ただし、本を閉じてはいけない。閉じてしまえば、その世界はそこで完結してしまう」
 本を見つめている空夜に、彼がそう言ってくる。完結してしまう、というのはつまり、今この瞬間のまま、世界が停止して動かないままになってしまうということだろうか。思わず、ページの表面に触れていた指を離す。白い布を被ったままの彼が、声をたてて笑った。
 気のせいだろうか。それは誰かに、似ているように思えた。
 大丈夫だと言われた通りに、本を閉じないように注意しながら、空夜は少し前のページを開いてみた。端にわずかな余白を残して、同じような文字が並んでいる。
 見ても意味は分からない。けれどもこれが、この記号の羅列が世界そのものなのだと、彼は言う。
「それが読める?」
 彼はそう尋ねてきた。首を横に振って答えると、彼は、やっぱりね、と予測していたようなため息をついた。
「それは、きみとぼくに与えられた世界だ。きみがこれまで、何度も螺子を巻き戻して続けさせた物語だ。……それが終わる。ご覧よ、もう最後のページだろう? これ以上新しく時間をあげても、もう物語は続かない。その世界は、もう、おしまいだ」
 彼にとってそれは、何でもないことらしい。終わりを口にするその声は、どこか弾んですら聞こえる。
 空夜は尋ねた。 
「おまえは、何なんだ? さっきからいろいろと言っているが、おれのことを知っているのか?」
 知っているはずがない。そうは思ったが、どうしても、その口ぶりがそう言わせた。彼は確かに、空夜のことを知っている。空夜自身のことではないのかもしれない、そう、おそらくは。
「……『時人』のことを知っているのか?」
「知っている。その世界の誰よりも、きみのことをよく知っている。……そうだな、今のきみ自身よりも、ずっと」
 「きみ」と。最初からずっと、彼は空夜のことをそう呼び続けている。
「おまえは、神の子、なのか」
 そう聞くと、彼は頷く動作を見せたようだった。それがどうした、と言わんばかりの、当たり前のことを聞かれて可笑しいとでも言いたいような、それは少し馬鹿にしたような仕草だった。神の子は続ける。
「きみは『時人』だろう。……見ていたよ。ずっと、きみがその世界に時計を巻き戻しに行ってしまったその時から、ずっと、ただひとりで見ていた」
「巻き戻しに行った?」
 空夜は思い出す。琥珀は、どう話していただろうか。この世界が本であると、そう話してくれた時、神父はどう言っていただろうか。
 ――神には、ふたりの子どもがいた。
 ふたり。そうだ、そう言っていた。ひとりはおそらく、目の前にいるこの人物で間違いないだろう。
 それでは、もうひとりは何処にいるというのか。
 空夜の考えていることなど、手に取るように分かると言いたいのだろうか。彼は面白くなさそうに、ひとつ息をついた。
「そうだ、ぼくたちが貰ったその世界は、決して終わらない世界だった。世界は時計というゼンマイ仕掛けで動いていた。そしてぼくたちは、ここで、この本に描かれるその世界を、ずっと眺めていた。それは確かに、とても楽しかったよ。けれども」
 彼は鋭く、空夜を見る。実際には被った布に遮られて、相手の表情は見えない。それでも、きっと彼は鋭く、空夜を見ている。責めるような、何かの理由を問いただそうとしているような、睨むような強い目線を感じた。
「その世界はほんとうに、ゼンマイ仕掛けだったんだ。ある程度の時間動いていたと思ったら、突然止まる。時計が止まれば、世界も止まる。……ぼくたちが退屈することがないよう、そのゼンマイは止まったら勝手に巻き戻るよう、そう設計されていた。世界も、時間も巻き戻るよう、そう作られていたんだ」
 進まなければ、終わることはない。ふいに、そう言われたことを思い出す。それは神父の言葉だ。彼は出会った最初の「時人」から、この話を聞いていたのだろうか。
「最初の頃は、それは良い考えだと思ったよ。だってぼくたちが貰ったその世界は、この本の中にしか存在できないんだ。本には限りがある。時計が巻き戻って、世界も巻き戻るそのときには、それまでいろんなことが描かれていたこの本も、白紙に戻るんだ。それの繰り返しだった。ある程度進んだら、戻って最初からまた始まる。そしてまた戻る。そうすれば、終わる心配なんてない。それは、永遠に続くように出来ていた」
 ゼンマイ仕掛けの世界。退屈しのぎに相応しい、子どもの玩具。
 神父はこの世界のことを、そう評していた。
 それはたとえ話ではなくて、ほんとうの話だったのだ。神父が出会った、一番最初の「時人」から聞いた話は、今空夜がいる、この場所の話だったのだ。
「きみとぼくは、いつも一緒に、ここでその世界を眺めていたんだ」
 それはとても楽しかったんだ、と彼は、もう一度繰り返した。けれども、と、足元に広げられた本を睨む。
「もしかしたらそれは、最初から壊れていたのかもしれない」
「……壊れていた? 世界が?」
「そうだ。あれは、何度目の繰り返しになったときのことだろう。もう何度も世界も時計も巻き戻された、ある日、突然にぼくは気付いたんだ。そして、気付いてしまったら、もうその世界が退屈で仕方がなかった」
「何に気付いたんだ?」
 神の子はずっとこの場所で、ひとりだったのだろう。誰かに向けて言葉を紡ぐというそのことが嬉しくてたまらないとでも言いたげに、質問を繰り返す空夜にもひとつひとつ答えてくれる。
 神の子が気付いた、その世界は。
「繰り返しだったんだ」 
 吐き捨てるようにそう言い、彼は足元に置かれたままの本を、また指差す。
「時間が巻き戻されれば、世界も巻き戻される。そうしてまた、最初からはじまる。やり直されたその世界は、巻き戻された前と全く同じ物語を繰り返しているだけだったんだ。何度やり直しても、何度繰り返しても、その世界は同じことを繰り返すだけだった」
 螺子を巻き戻す限り、それは動き続ける。勝手に巻き戻されるそんな装置ならば、確かにそれは終わることのない、永遠に続くことのできるものだろう。
 けれども、そうだ。あの王子の部屋にも、そんなゼンマイ仕掛けの玩具がたくさんあった。螺子を巻いたぶんだけ歌う小鳥の人形。螺子巻いたぶんだけ、短い足で懸命に進む馬の人形。それは人の手で螺子を巻き戻してやる限り、いつまでも動き続ける仕掛けのものだった。
 けれども金花王子は、すぐにそれに飽きてしまった。いくら巻き戻したところで、それは同じことしか繰り返さないから。最初は確かに、面白かったのだろう。けれども何度も何度も繰り返して見ていれば、それは飽きても仕方のないことのように思えた。同じことしか、繰り返されないのだから。
「そんなものが面白いわけがないだろう!」
 彼は足元に転がる人形をひとつ拾い上げ、それを叩きつけるように床に打ち投げる。癇癪じみたその仕草は、子どもそのものだった。
「考えてみてほしい。次に何が起こるか、そしてそれがその次にどうなるか、全て知っているんだ。同じことの繰り返しを、延々とただ何度も見ているしかないんだ。それの何が面白いんだ……!」
 それは今目の前にいる、神の子の言葉だ。だが、以前にもそう言われたことがあった。
(「――それが予言者。ぼくだ」)
 何度も何度も読んで、内容を覚えてしまった本。それを繰り返し読まなくてはならない、子ども。
 その苦しみは、予言者の身に背負わなければなかったものと、とても似ているように思えた。 
「ぼくはとても退屈だった。それなのにきみは、何度でもそれを面白そうに眺めていた」
 きみ、というのは空夜のことではない。神の子が呼ぶ、「時人」のことだろう。
「……でもぼくは、とても退屈だった。繰り返すだけの世界は、ぼくにとっては少しも面白くなかった。そんなぼくに」
 白い布に遮られて、語る相手の顔は見えない。
「きみはある時、突然、言い出したんだ。時計を直してくるよ、と。突然そう言って、その世界に入り込んでしまった」
 それでも神の子のその声は、怒りとも悲しみともつかない、何かを滲ませていた。それは、今にも声を上げて泣き出しそうな気配すら孕んで聞こえて、どこか危うい。
「そしてきみは、ほんとうに時計を直してしまった。勝手に巻き戻ることのないように、直してしまった。……そこまでは、よかった」
 うつむくような仕草で、呟くように彼は続ける。 
「時計は、世界のゼンマイだ。巻き戻さなければ、世界は止まってしまう。けれどもそのまま巻き戻したのでは、それまでと何も変わらない。また、最初から同じことを繰り返すだけになってしまう。だから、きみはその世界に残ることにした。神の子は、その世界を作ったものの子だから。だから、時間を止めることが出来た。きみはただ時間を止めて、時計を巻き戻すためだけに、その世界に居続けることを選んだんだ」
 神の子には、その力があった。時間を止めて、時計を巻き戻すことが出来た。
 目の前にいる彼に、時計を直してくるよ、と言って、世界に溶けた。
 そして、もうひとりの神の子が、世界を続かせた。 
 ――それでは。
「そう、それが、『時人』だ」
 ふたりの神の子ども。ひとりは今、この場所にいる。世界だ、という一冊の本をずっとひとりきりで眺めていたのだろう。
 そしてもうひとりは。
 ――もうひとりの神の子こそが、「時人」なのだと、彼は言う。
 「時人」は時計を巻き戻す。数百年に一度、止まってしまう世界を続かせるために、銀色の子どもが生まれる。
 時計を巻き戻して、世界を前に進ませる。
 それは、神の子の力の為せる特別な技だったのだ。世界を、続かせるために。
「……世界は先に進んだよ。だからぼくは、少しも退屈じゃなかった。だけど、少しも面白くなんてなかった」
 それは、彼の望んだことだったはずだ。同じことの繰り返しで、ずっと退屈だった。だから、もうひとりの神の子は「時人」と呼ばれるようになったのだろう。終わらず、巻き戻されず、続いていく世界を見せてやろうと思ったのだろう。
 それでも、続く世界を与えてもらったもうひとりの子どもは、決して幸せそうにも、その世界をいとおしんでいる様子もなかった。
 彼にとって、もっと重要なことは、その世界ではなかったのだ。
 ほんとうに大切なのは、ただひとつだったのだ。
 神の子は空夜に尋ねてくる。
「ねえ、どうして? どうしてきみは、ずっと帰って来なかったの?」
 それはまるで、空夜を責めるような、怒りすら込められた、強い言葉だった。
「いくらぼくがここから呼んでも、きみは帰ってこなかった。ただ時がくればまたその世界に生まれて、時計を巻き戻して、そしてひとり、その中に溶けて、次に生まれる時を待っていた。どうして、帰ってきてくれなかったんだ」
 ぼくはここで、ずっと待っていたのに。神の子はそう呟く。
 空夜は「時人」ではない。周囲もそういうものだとして扱ってきただろうし、そして自分自身も、ずっとそう思っていた。それは今でも同じだ。あの銀色の少年が、空夜も「時人」なのだ、と言うのを聞いても、そして実際にこうして自分がそうらしいということが分かっても、その考えは変わらない。空夜は「時人」ではない。
 だから神の子のその問いかけには、答えることができなかった。
 それが気に入らなかったのか、彼はまるで苛立ちを見せつけようとするかのように、足元の本を取り上げて、それを空夜に向けて放り投げた。そう軽いものではない。何より、それが閉じてしまえば世界も閉じてしまう、と言ったのは神の子本人だ。そんな風に扱っていいものではないはずだった。それでも彼は、空夜に向けてそれを放った。
 それを閉じてしまわないように、受け取る。中に書かれていることが読めない以外は、ほんとうに普通の書物だ。手触りも、重さも。
 それを手に持ってみて、空夜は改めてよく眺めてみる。いくらよく見たところで、そこに書かれているものが読めないのは同じではあるのだが――ただ、気になるものがあった。整然と、同じ大きさで並び続ける文字が埋め尽くしている記述の上から、まるで殴り書きしたような、ひとつの綴りを見つけた。前後のページをめくってみる。どのページにも同じく、その大きな文字は書かれていた。他の文字とは違う。細かく並ぶ記述とは違い、ページそのものに大きく書かれているのだ。まるで、子どもが本に落書きをしてしまったように。それは今、空夜が開いている最後のページにも書かれていた。さかのぼってみると、それは数ページ前から続いている。
 空夜がそれを見つけたことに気がついたのだろうか。神の子は、馬鹿にするように口元を笑みらしき形に歪めた。
「……それはぼくの落書きだ。きみが帰ってこなくて、ぼくは腹が立った。それだけじゃない、見るといい、その本には隅に小さく穴が開いているだろう」
 言われたとおりの箇所を見てみる。確かに、そこには穴が開いていた。
「ぼくは腹が立った。きみはぼくをここに残して、その世界に居続けた。とても、腹が立った。だから」
 小さな穴。これも最初からではなく、途中から最後までの全てのページにあるもののようだった。ただ、落書きに比べると、ずっと前の方から開けられている。それは裏表紙にまで続いていた。
「――ぼくはこの本に、穴をひとつ開けた。その時に開いていたページから、終わりの裏表紙まで、思いっきり力を込めて、穴をひとつ開けた。とても苛立っていたんだ。……この本に、そんなことをしたのは初めてだった。世界には、それ以降、ずっと同じかたちをした空白が出来た。これがどういうことか、分かるかな」
「どういうことだ?」
「この本の記述は、世界を語る。ここに記されたものがすべて、それが世界になるんだ。その穴も、世界に存在することになった。……きみはその虚無を知らないかな?」
 尋ねていながらも、それは空夜が知っているだろうことを確信しているだろう口ぶりだった。
 虚無。世界に開けられた、小さな穴。同じかたちで在り続けるもの。
「年老いることもない。死ぬこともない。永遠にそのかたちを変えることがない、ものだ」
 老いることも、死ぬことも、ない。 穏やかな、静かな、ひとりきりの微笑み。神父。
「琥珀……!」
 空夜のあげたその名前に、そうだ、と、彼は頷いた。
 自分をひとり残して、世界に居続けた「時人」。
 それに対して彼は腹を立て、本に穴を開けた。
 「世界」であるその物語に開けられた穴。彼は本を貫き、どの頁にも同じかたちの穴を開けた。
 最初から、最後まで。そのページから、裏表紙までずっと。
 それはその瞬間以降、世界のどの時にも、同じかたちで存在するものを生み出した。
 ひとりの子どもの癇癪が、永久に死ぬことも、姿を変えることもない、ただ、そこに在るだけのものを生み出した。
 神の子は続ける。
「……でも、いい。きみは帰ってきてくれた。ぼくが、きみを世界から救い出してあげたよ。間に合った」
「間に合った……?」
「そうだ。言っただろう、その世界はもうおしまいだ。これ以上、新しく時間が流れたところで、もう物語を記述できるページがない。どうしたって、世界は先には進まない」
 空夜は手の中の本を見下ろす。世界の進んできた歴史というものが、この細かく並ぶ記述のことなのだとしたら、それは確かに、最後のページの中ほどまでを完全に埋め尽くしていた。
 神の子の言う通り、このままでは世界の物語は、続くことが出来ないのだろう。
 世界は終わってしまう。その前にきみが帰ってくることができて、ほんとうに良かった、と、神の子は嬉しそうに呟く。
 老いることも死ぬこともない男を作り出した彼は、次はきみの話をしよう、と手を広げた。
「きみは、世界中から嫌われていただろう」
 彼の言うことは、事実だ。
 「できそこない」だと、そう言われ、周囲の人間からは目を合わせるのも避けられた。理由を尋ねたところで、誰もがはっきりとそれを答えられるわけではなく、ただ漠然と、空夜自身が他人を不安にさせる存在なのだと、そう言われ続けてきた。まるで、居てはいけないもののような。そこに居るはずのないものを目にしているような。そんな捉えようのない不安に煽られるのだと、そう教えてくれたものがいた。
「それは、ぼくがきみの名前を消したからだ」
 妙に得意気に、彼はそう言った。
「世界のすべての事象が、あまねくこの本には記述される。ぼくはそれに手を加えることが出来た。……勝手に物語の進んでいくその世界の中から、ぼくは、ただひとつ、きみの名前を消した」
 本に穴を開けたとき、それがひとりの男を作り出した。
 それと同じように、書物に手を加えることで、残された神の子には世界に干渉することが出来たのだ。
 自分を置いて帰ってこない「時人」に、そうすることで干渉することが出来たのだ。
「それは、きみが生まれる時の話だ。もう何人目になるのか忘れたけれど、その時もまた『時人』の名前が本に記された。時計を巻き戻す時が来たんだな。そのままでは、きっとこれまでのきみと同じように、自分のやることを終えたらまた消えていただろう。……ぼくはそれが嫌だった。だって、もう、次に『時人』が生まれるまでなんて、そんな長い時間は世界には残されていなかった。きみが、最後になると思った。だからぼくは」
 そこで神の子は言葉を切り、こちらを指差した。
 本を指差しているのだと思ったが、どうやら、そうではないらしい。
「きみを消した」
 その指は確かに、空夜を真っ直ぐに指していた。
「――咄嗟に、浮かび上がった途端、きみの名前を消したんだ。きみの名前は世界から消えた。その後もずっと、いまこの瞬間まで、この世界にはどこにもきみの名前は存在しない。この世界にとって、きみは存在していないんだ」
 居てはいけないもののような。そこに居るはずのないものを目にしているような、そんな不安。
 その話を聞いて、妙に腑に落ちるものがあった。
「驚かないんだな」
 神の子が、空夜を見て面白そうに言ってきた。驚いていないわけでは、ない。空夜は言葉を返す。
「そんなことはない。……でも、そうだな。驚くというより、納得した、かもしれないな……」
 自分が虚ろだと、そう思ったことならば何度もある。ほんとうに自分は世界に存在しているのか、そう思えなかったことが何度もある。
 存在していない人間。居るはずのない人間。人々が空夜を見てそう思うのは、正しいことだったのだ。
 神の子は続ける。
「世界のどこにも存在しないまま、『時人』は居ないまま、時間が流れた。ぼくは嬉しかった。これできっと、きみは戻ってくる。そう思った。……それでも、また『時人』は生まれた。数年遅れて、これまで通りに銀色をもって生まれた」
 空夜はあの少年のことを思い出す。銀の髪、銀の瞳。郷の者たちも認めた、ほんものの「時人」。
 やわらかい手と、優しい心を持った、銀時計に似た少年。あの少年ですらも、この書物の中ではひとつの綴りとしてしか存在していないのかと思うと、寂しい気分になった。そんな世界は寂しい。神の子の孤独が、少しだけ分かったような気になった。
 空夜の気持ちを知ってか知らずか、彼はまた、嘲笑うように口元を歪めた。
「けれどもね、この本に記されている、今の『時人』の名前の綴りは、ひと文字欠けているんだ」
「時人の、名前が?」
「そう。だから、きみではないもうひとりの『時人』には、欠けた部分がある。……ぼくが消したと思っていたきみの存在は、まだ世界に残っていた。だから、それを完全にするために、ちゃんと世界の時間を巻き戻せるように、欠けた『時人』が生まれた」
 銀色の少年。欠けた部分のある、「時人」。
 空夜は時人の言葉を思い出す。
(「ずっと自分に欠けているものを持った人を、やっと見つけたと、そう思いました」)
(「わたしは、あなたといると、とても安心します」)
 少年はそう言っていた。
 消されてしまった「時人」である空夜と、それでも世界を続かせようと、なおも生まれてきた「時人」。
 時人はほんとうに、空夜が置いてきてしまった大切なものを持ってきてくれたのだ。
 奪ったのは、空夜でも時人でも、どちらでもなかったのだ。
「名前の一文字が欠けた『時人』と、世界のどこにも名前が記されていない『時人』。きみはその、欠けた一文字としての存在なんだ。たとえ、この中に書かれていなくてもね」
 今度こそ、きみが戻ってくると思ったのに、と、彼は俯いた。
「うまくいかない。どうしてきみは、そんなに世界を続けたいんだ……!」
 

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