index > novel > 時人の鐘 >  5章 『囚われた夜が明ける/2』


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 それは想像していたものとは違った。
 自分以外のすべての時間が止まる、ということ。世界に流れるその時間を停止させる、ということ。
 そして空夜ただひとりだけが、それに止まらない、ということ。
 それは世界のすべてが、凍りついたように動かなくなるのだと思っていた。人も、風も、全ての存在が、言葉の通りに停止するのだと思っていた。
 今、あの銀色の祝福をもつ「時人」が時間を止めた、その世界は。
 空夜と、響き渡る鐘を除いて、何者も存在しない世界だった。

 世界は確かに、停止していた。それは時間の逆流から守るため、巻き戻す時間と続かせるべき世界を切り離すための停止だ。時計を欺くための、「時人」の能力だ。
 あの銀色の少年は、時間を止めた。そして、自分はその停止にも止まらなかった。そのふたつの力。
 ほんとうに「時人」だったんだな、と、空夜はそんなことを思う。
 少年が時計から切り離した世界。
 今、この世界に存在しているのは、空夜ひとりだった。
 止まった時計がひとつと、空夜がひとり。そして遠く聞こえる、鐘。教会に存在しているのはただ、それだけだった。
 天窓からは光が差し込んでいる。その淡い光の筋が照らしている細かな塵は、凍りついたように宙に留まっていた。 光も、空気の流れも、止まっている。
 ひどく静かだった。
 なんの音もしない世界。特に耳を澄ましたわけでもないのに、やけに自分の鼓動が耳につく。規則的に繰り返される脈動。すべての生命が停止させられた今、それだけが時を刻んでいた。
 時人の話を思い出す。いつでも時計の針が刻む音が聞こえると。それが自分の心臓の音と重なり、自分もいつかは止まってしまうのだと、不安になると。少年はそう言っていた。
 それは、こんな気分だろうか。
 他に何の音もしない世界で、ただ自分の心音だけが聞こえる。耳を塞いでもきっと、この音は聞こえる。それは自分の内から聞こえるのだから。あの少年も、この音を聞いていたのだろうか。時計を巻き戻せば、その音はもう、聞こえなくなるだろうか。
 自分のやるべきことを思い出す。時計を巻き戻さなくてはならないのだ。世界の時計は、時間が止められたことに気付いていないように、自分が止められたことにも気付いていないかのように、聖堂に佇んでいた。しばらく眺めていても、その針は動かない。止まっている。
(「時が流れなければ、その瞬間を迎えることもないということだ」)
 琥珀の言葉が、心をかすめた。空夜が時計を巻き戻さなければ、世界の時は進むことも擦り減ることもなく、ただこの瞬間に永遠に留まり続ける。
 未来を手にすることのない永遠。それを世界に与えることも、選択のひとつだと神父は言った。未来。
 それを与えてやりたい、と、強くそう思っていた。未来。それは世界に、なのかもしれないし、自分が大切だと思う者たちに、なのかもしれない。
 未来。
 時人には、自由に生きることのできる未来を与えられる。たとえそれが、あの優しい少年が望むかたちでない未来でも。
 老いることも死ぬこともない神父には、これまでの延長である未来を与えられる。次に時計を巻き戻すその時まで、長い長い続きの時間を与えられる。たとえそれが、ひとりきりの未来でも。
 そして全てを見通してきた、友人にも、未来を。どこまで進んでも見知った景色しか見せない世界を抜け出し、知らぬ道を、その先へと続く未来を与えられる。たとえそれが、死という未来でも。
 時計を止めたままでは、未来はどうやっても訪れない。空夜があと少し手を伸ばして、それを巻き戻し、そして鐘を鳴らさなければ、世界は幾千万年もこの時に留まり続けるのだろう。だが、実際に自分がどんな未来を与えられるのかを考えてみると、どうしても、手を伸ばすことが出来なかった。簡単なことなのに。とても、たやすいことなのに。
 自分が居なくなるかもしれないということが怖いのではなかった。それ以上に、自分が大切だと思う者たち、彼らに訪れる「未来」が、何より怖かった。
 時人にこの役目を任された時、空夜は純粋にただ、嬉しいと思った。「できそこない」だと言われた自分に意味があったことが、できることがあったことが、ただ、とても嬉しかった。
 それがこんなに辛いことだなんて、思いもしなかった。
 時計の螺子は小さい。それがそこにあると教えられなければ気付かないほど、小さなものだった。どうしてこんなものが世界の時間を操ることができるのだろう、と、きっと誰もがそう思うだろうほどに、それは小さかった。手を伸ばす。それに触れる。
 まるで子どもの玩具だな、と、そう感じた。
 冷たく、固く、小さいそれは、とても世界を動かせるものの感触ではなかった。ひどく軽い。
 こんなものに縛られているのか。あまりの軽さに、ふいに馬鹿馬鹿しい気分になる。
 「時人」、死ぬことのできない男、未来が見えてしまう予言者。
(「……わたしは、こんな自分が嫌いです」)
 時計を巻き戻すために生まれて、そしてその役目を終えれば消えていく存在。それを果たせない自分に向けた、呪うような少年の言葉。
(「死ぬことも老いることもないものが生きているなどと騙るのでは、生あるものに対する冒涜になりましょう?」)
 ただそこにある、何も意味しない神父の微笑み。
(「きみはぼくが死んだら、泣いてくれるのかな」)
 支えた手を通して伝わった、友人の震え。
 どうして彼らはあんな風に存在してしまったのだろう。
 どうしてこんなに、ちゃちな玩具のようなものに縛られなければならなかったのだろう。
 螺子に手をかけたまま、空夜は立ち尽くしていた。どうしたいのか、どうすればいいのか。それが、どうしても分からない。
 凍りつき、停止した世界。城にも、街にも、教会内にも、今この世界に存在しているのは空夜ひとりだ。宙に舞う塵すら、動かない。
 耳が痛くなるような静寂の中、変わらずに自分の鼓動だけが響いていた。「時人」として特別な、「時間に止まらない力」を持つ身でありながらも、空夜もまた、身動きが取れずにいた。
 空夜を縛っているのは時間ではなく、迷いだ。
 時計を巻き戻さなくてはならない「時人」は今、ひとりきりの世界で、ただ時計の前に立ち尽くしている。
 その時。
 他に何者も存在し得ないはずの世界で、ふいに、どこからか声が聞こえた。それがどこから聞こえたものなのかは分からない。空気全体が震えたような、直接、耳の奥で囁かれたような、そんな声。
 声は何かを伝えようとするわけではない。ただ、可笑しそうな、まるで立ち尽くす空夜を馬鹿にするような笑い声だった。
「……誰、だ?」
 空夜は時計から手を離した。声は上から響いた気がして、聖堂の天井を仰ぐ。誰も、いない。
そう、いないはずだ。「時人」が時間を止めた世界において、存在できるのは「時人」だけのはずだ。
 空夜ひとりのはずだ。
 誰だ、と中空に呼びかけた空夜に応えるかのように、もう一度、笑い声がこだまする。
「誰か、いるのか」
 誰もいるはずのない空間に向けて、そう呼びかけると。

 ――おかえり。

 声は確かに、そう言った。

 乾いた音がした。聞いたことのある、よく耳にする音だ。
 それが何の音なのかを思い出そうとしていると、突然に周りが暗くなる。明かりをすべて吹き消してしまったかのような暗闇が、空夜を包んだ。静かな中、周囲が見えなくなってしまった空夜は、今自分がどこにいるのかもよく分からない。ただ、手探りで時計を探ろうとする。時計を巻き戻さなくてはならないのだと思い、すぐそばにあったはずのそれに、手を触れようとしてみる。
 そこには、何もなかった。
 周りにあるのは闇、ただの暗闇だけだった。
「――なんなんだ……?」
 思わずそう呟くと、また、あの声が聞こえる。
 ――おかえり。
 声は同じ言葉を繰り返す。どこかで聞いたことのあるような、それでも初めて耳にするような、奇妙に懐かしい、不思議な声だった。
 暗闇の中、進むことも戻ることもできず、そもそもどこかに行けるのか、それも分からずに空夜は目を凝らしていた。何も見えない。
 それが可笑しかったのだろうか。また、周囲を取り巻く闇の中から、笑い声がする。どことも分からずに響いていた声とは違い、それははっきりと、近くから聞こえた。
「……こっちだ」
 おいで、と、声は空夜にそう誘った。どこか優しげなその声に、手を差し伸べられているような気分になり、それが聞こえる方に足を踏み出す。と。
 視界が開けた。
 暗闇が訪れたのが突然だったように、その闇が晴れたのも突然だった。
 そこは教会ではない場所だった。小さな部屋のように見えたが、見上げれば天井はない。見回せば壁もない。ただ床の部分だけが、先程と同じような闇の中に存在していた。そんな場所だった。
 足元には柔らかな絨毯が敷かれていて、たくさんの玩具が転がっている。
「おかえり」
 それは教会に響いたあの声だった。奇妙なその部屋に、誰かがいる。
 声はまだ若い、子どもかもしれない男のものだ。こうしてはっきりと耳にしても、その声にはやはり、どこか懐かしさを感じた。空夜の耳が直接に聞いた覚えはないような、それでも心の奥底でかすかに何かが反応するような。
 相手の顔は見えない。声の主は、白い大きな布を頭から被っていた。そういった服装というわけではなさそうで、どうやら姿を隠そうとしているようだった。小さく声をたてて笑い、得意そうに布の端を揺らす。
 子どもが親を驚かせようと、シーツを被って幽霊のふりをするような。どこかそんなふざけた雰囲気で、声の主は座り込んでいた床から立ち上がった。空夜より、背が低い。もしかしたら、ほんとうに子どもなのかもしれない。そう思えるほどに、相手の所作は子どもじみていた。
 床に転がった玩具を踏みつけて、白い布を被った子どもは空夜に駆け寄ってくる。その布を取る様子はなさそうだった。そのままで、こう、告げてくる。
「おかえり、世界にただひとり、名前のないきみ」


「『おかえり』?」
「……やっぱり、すべて忘れてしまったんだ」
 悔しそうに、彼はそう言った。その口ぶりがあまりに落胆をはっきりと伝えていたので、空夜は妙に申しわけない気分にさせられた。しかし「おかえり」というその言葉は、自分に向けられるべき言葉ではないと思った。空夜はこの場所を知らない。
 白い布の彼は、首を傾けた。その角度からすれば、おそらく、空夜を見上げているのだろう。
「この姿はね、きみが覚えているかどうかを試そうと思ってこんな格好をしてみたんだ。……どうやら、みんな忘れてしまったらしいことは、よく分かった」
 気を落としたような、それでも、どこか弾んだ声で彼は続けた。
「でも、いいんだ。きみが戻ってくることが出来たんだから。よかった」
「……ここは何処だ? これまでの『時人』たちも皆、ここに来たのか?」
 空夜が口にしたその言葉に、「時人」という言葉に、目の前の彼は、被った布から覗く口元を不機嫌そうに曲げた。
「ちがう。これまでのきみは、ただ時計を止めて、それを巻き戻して、そして鐘を鳴らすだけだった。あんなに呼んだのに、何度も何度も呼んだのに、ここには戻ってこなかった」 
 空夜は、こっちだ、と自分をこの場所に誘った声のことを思い出す。
 彼の言うことから考えると、あの時自分をここに呼んだのは、この白い布の少年なのだろう。
「これまでのきみはその世界を出てくることができなかった。きみは世界に溶けて、時が来ればまた『時人』だなんて言われるものとして生まれていた。世界を続かせるために。世界に新しい時間を与えるために。……世界を前に進ませるために」
 その口調はどこか憎らしげだった。
「けれどもその世界に与えられていた時間も、もう終わる。……きみが間に合って、よかった」
 その世界、と、彼は先程から口にする。その口ぶりはまるで、ここがそことは別の場所であると言いたげだった。玩具の転がる部屋。天井も壁もない、暗闇に浮かぶ、子どもの部屋。
「そう、もう終わりだ。きみはその世界を抜け出した」
「世界を、抜け出した?」
「そう、ここからね」
 彼の言葉をそのまま繰り返した空夜に、得意そうに頷いて、ここから、と、足元に置かれたままになっているものを指し示した。彼が「世界」だと指差した、それは。
 一冊の、本だった。
 

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