index > novel > 時人の鐘 >  5章 『囚われた夜が明ける/1』


5. 囚われた夜が明ける
= 1 =


 神は子どもたちに、ひとつの終わらない世界を残していきました。
 これならば、子どもたちが退屈をすることはありません。神は安心をして、旅立ちました。
 それでも、いつしか子どもは退屈するようになりました。
 その世界は終わらない代わりに、一定の時間がくれば自動的に最初に巻き戻される世界だったのです。
 終わらない代わりに、決してそれ以上先に進まない世界だったのです。
 永遠に、同じことを繰り返し続ける世界だったのです。
 神が子どもに残していった玩具は、勝手にネジの巻き戻される、ゼンマイ仕掛けの世界でした。


 時間は無いぞ、と友人はそう言った。この夜は世界に残された、最後の夜なのだから、と。友人はそう言った。
 短いはずのその夜は、とても長く感じられた。このまま世界は最後の夜を迎えたその日のまま、先に進むことはないかのように、とても長く感じられた。いつまでも、闇に包まれたその世界が続くように、夜は長く感じられた。
 何か話してよ、と、いつものようにそう頼んでくる友人に、いつものようには何も話してやれないままに。
 それでも夜は明けた。

 教会の周辺には、いつものように街の者たちの姿はなかった。辺りには城から遣わされてきたのだろう、兵士たちが立ち並び、そこに誰も近づかないようにと険しい顔をしているだけだった。
 悠灯は何も言わずに、空夜の先を足早に教会に向けて進む。予言者の姿を認めて、兵たちも何も言わずに二人を通す。いつもならば特別に厳しい目を向けられる空夜だったが、今日ばかりは睨まれたのかどうかも分からなかった。彼らは皆、元々の表情を強張らせている。
 「時人」が世界に新しい時間を与えるための儀式。
 彼らはそれが滞りなく行われるよう、教会を外から守る役目を任されているのだろう。空夜がそこに足を踏み入れようとしても、それは予め伝えられていることなのだろうか、誰も咎めようとする様子はなかった。皆、一様にして固い表情をしているだけだ。実のところ、これから教会の中で何が行われるのか、詳しいことは全く知らないままに。
 彼らはただ、「時人」が時計を巻き戻すのを、静かに待っていた。
「……なんて顔をしてるんだ。そりゃあ不安なのは分かるけど、もっと、ぼくの言ったことを信じてくれてもいいじゃないか」
 前を歩く友人が振り返る。自覚はないが、思わずそう言いたくなるような顔をしていたのだろう。空夜は兵士たちの様子を観察するのを止める。
 悠灯は笑っていた。
「不安なわけじゃない。……これから、おれがすることについては、特に何も恐れてはいない。ただ」 
 時計の螺子を巻き戻した、その後には。
「その話はもう止めだ、空夜。言っただろう、未来はただそこにある。それは避けることも変えることも叶わない、ただ受け止めるしかないものだ。……きみのそんな、怖い顔ばかり見せられるぼくの身にもなってくれ。ぼくはきみに、最後まで笑っていてほしい。その瞬間のきみは、やっぱりいつものように、少し怒った顔をしていることを知っているけれど。……でも、できれば、ぼくはきみには笑ってほしい。こんなことは考えたことはないけれど、もしも未来を変えられるのだとしたら、その時のきみの顔が笑顔であるような、そんな未来があればいいなと思う」
 悠灯は伝える気のなさそうな、独り言めいた口調で、自嘲気味に笑う。それでもその声は、どこか優しかった。
「――だから、今きみにそんな顔ばかりされるのでは、ぼくが可哀想だろう?」
 彼は教会の扉を開けながら、妙に得意気にそう続けた。
 自分は中に入る気はないらしい。空夜に、入れ、と言いたげに開けた扉を押さえている。
「おまえは来ないのか」
「うん。居てもしょうがないだろう。……ぼくはここで、きみが帰ってくるのを、待ってる」
 その言葉に、何かを返そうと思った。けれども、言おうと思った言葉は、悠灯がほんとうに聞きたい言葉ではないように思えた。
(「きみが時計を巻き戻した、その後に」)
 予言を思い出す。ただひとつ、悠灯が空夜に授けた、あの予言の言葉を思い出す。
(「ぼくは死ぬぞ」)
 そう語った友人の微笑みは、空夜のどんな言葉でも崩せそうにないように思えた。すべてが見えていながらも、何にも手の触れられない闇。その暗闇の中からもうすぐ抜け出せるのだと、友人はそう笑う。自分の死を語りながらも、彼はなお笑う。
 何を言っても、この頑固な友人は満足しないだろう。だからせめて、空夜も笑おうとした。せめて彼の望むとおりに、笑顔を見せようと思った。
 本当は笑えるような気分ではない。楽しくもない、嬉しくもない、幸福ではない。そんな感情は微塵もなかった。
 けれどもせめて、避けることも変えることもできないと言うのなら。信じたわけではないし、信じたくもないが、最後だ、と、友人がそう言うのなら。そう思って、せめて笑顔をつくろうとした。
 簡単なことのはずだった。心からの笑みでなくてもいいのだ、友人にそう見えてくれれば、それでいい。簡単なことのはずなのに。
 ただそれだけのことが、どうしてもできなかった。
「……きみはほんとうに馬鹿だな」
 悠灯はそっと、そう呟く。ほら、あいつらが待ってるぞ、と開けた扉の隙間から、教会の中を指差す。
 押し込めるように空夜ひとりを教会に入れて、友人は満足そうにひとつ頷いた。
「それじゃあ、また後で」
 それは彼の口癖のようなものだな、と、今更になってふと、そんなことを思う。悠灯は別れ際に、いつもそう付け加えていた。また後で。また明日。
 時計を巻き戻した、その後で。
 その時が友人にとって何を意味するのかを思い出し、空夜はもう一度、何か言おうと思って口を開こうとした。
 しかし、それを待たずに。
「……いってらっしゃい」
 悠灯は静かに、扉を閉めた。

 乾いた音をたてて閉まる扉。それに続いて、背後から時計の針がひとつ、時を刻むのが聞こえる。振り向くと、大時計の下には、琥珀と時人がいた。待っていた、と言いたげに、2人は空夜を見ている。微笑みを浮かべる神父と、きつく口を引き結んだ時人。空夜が近づいても、彼らは対照的なその表情のままだった。
「……国王も来ていると思っていた。いないんだな」
 琥珀は空夜のその言葉に、かすかに首をかしげて、笑顔のままで答える。
「これまでも、そうだったからね。『時人』を見送るのは、わたしひとりの役目だ」
 これまでに時計を巻き戻した「時人」たち。
 世界に新しい時間を与えて、自らはその歪みの中に存在を消した、彼らは一体どこに行ったのだろう。
 自分も同じところに行くのだろうか、と、ふと、空夜はそう思う。これまでの「時人」と同じように、決して無くなることのない、この神父の微笑みに見送られて、これまでと、同じように。
 空夜はいなくならない、と予言者は言った。これまでの「時人」たちと同じように消えることはないのだと、悠灯は強く言い続けた。
 今はもう、何を信じて、何を思えばいいのか分からなかった。
「……時人のことを頼む」
 空夜がそう言うと、神父はゆっくりと頷いた。この男に任せておけば、少年の身柄については何一つ心配することはない。死ぬことのない男。
 ひとりきり、というその言葉を思い出す。いつかはひとりきりにならなくてはならない、永遠にこの世界から抜け出ることの叶わない男。
 琥珀は空夜が何を考えているのか分かる、と言いたそうに、傍らの銀色の少年の肩に手をかけた。
「時人、何か彼にお話したいことはありませんか」
 問われた少年は、一度、自分にそう尋ねてきた神父を見上げる。神父が促すようにひとつ頷いたのを合図にしたように、時人はこちらに銀色の瞳を向けた。
「……空夜」
 その瞳が震えて見えて、空夜は少年が言葉を続けようとするより早く、口を開いた。
「元気で、時人。おまえには未来がある。……幸せに」
「いやだ。――こんな生きかた、わたしはしたくありません。空夜。わたしは、こんな生きかたはしたくない……」
 それでも、こうする以外にどうすればいいのか分からない、と、時人はうつむく。
 どれだけ言葉を尽くしても、少年のその迷いを取り去ることは出来ないのだろう。きっとそれは、この先もこの少年を縛り続けるものなのだろう。まるでずっと着いて離れない影のように、少年の瞳を曇らせてしまうものなのだろう。それが悲しかった。
「時人。それじゃあひとつ、約束をしよう」
「約束?」
「そう、約束だ。おれがこれからどうなるのかは、分からない。ほんとうに影もかたちも無くなってしまうのかもしれないし、もしかしたら、ここではないだけの別の場所に行くのかもしれない。それはおれにも分からないし、おまえにも分からない。そうだろう?」
 はい、と、少年は小さく頷いた。これまでの「時人」は確かに世界から居なくなったが、その後のことは、誰も知らないのだ。
「おれがどうなるのかは分からない。けれども、おれは、例えどこに行っても、おまえの幸せを祈っているよ」
 それを押し付けたいわけではなかった。空夜に、いなくならないで欲しい、と思ってくれる時人の気持ちがとても嬉しかった。先がどうなるか分からない不安よりも、その少年の優しさが嬉しかった。だから、自分のことを忘れて生きて欲しいとは言えなかった。そうすれば、時人の優しさまで否定してしまうことになってしまうような気がした。
 だからせめて、祈ることならば許されるだろうか。
「おまえが、いつでも笑っていられるように。……そう、祈っている。それを忘れないで欲しい。約束だ」
 時人は何も言わずに、空夜を見上げる。
 銀色の瞳は、何かを伝えたそうに、こちらを見ている。
 空夜の言葉を完全に受け入れたのではないだろう。それでも時人は、小さく頷くような動作を見せた。
「……これは、あなたに」
 そう言って、空夜の手を取る。少年はそのあたたかな手のひらで、そっと冷たい銀時計を手渡した。
「お守りです。どこにいても、何があっても、あなたを守ってくれますように。……わたしは、そうお祈りします」
 空夜が生まれたその時に、固く握り締めて離さなかったという、小さな銀時計。取り上げようとした周囲の大人たちの手に、逆らうように泣いてそれを離そうとしなかったという、世界の逆算時計。
 それは時人の小さな手から、今また、再び空夜の手に戻された。
 以前にも少年は、これを空夜に返そうとした。奪ってしまったことを詫びながら、この時計のほんとうの持ち主は空夜なのだと言って、返してきた。あの時は、それを断った。それは自分よりも、時人にこそ持っていて欲しいように思えたからだ。しかし、今度は。
「ありがとう」
 空夜はそれを受け取って、少年の柔らかい髪を撫でた。泣いてはいけないと、こんな時になってもなお、少年は自分を戒めている。その懸命な努力を無視したくなかった。だから、時計を受け取った。
 小さな銀時計。それは「時人」の証だ。
 時人は時間を止める。そして、空夜はその時計の螺子を巻き戻す。
 自分にほんとうにその力が備わっているのか、それは分からない。けれども、時人は間違いないのだと断言する。だから、それを信じていた。難しいことではない。螺子を巻き戻して、鐘を鳴らすだけなのだから。簡単なことだ。
 受け取った銀時計を見る。それは相変わらず、冷酷なまでに細かく残りの時間を世界から刻み取っていた。
「さあ、時人」
「……はい」
 少年を促す。親に叱られてしまった子どものように肩を落として、それでも時人は聖堂の時計と向き合った。
 空夜には時人が何をしようとしているのかは分からない。何も言わずに、ただ時計を見上げる少年。空夜は少し後ろで事を見守っているらしい神父を振り返った。
 何も心配することはない、とでも言いたげに、琥珀はいつものように微笑みを浮かべていた。もしかしたらそれは、彼の言うところの「見送り」の笑みなのかもしれない。その表情はいつもと何ら変わりがなかった。きっとそれは、これまでの「時人」に向けてきたものとも同じものなのだろう。
 時人に視線を戻す。少年はまっすぐに、時計を見上げている。
 どこからか、秒針の刻む音が聞こえる。教会の時計には秒針はない。――時人から受け取った、あの銀時計だ。それまでは気にならなかった音なのに、周囲が静かになったからだろうか。急に、その音がよく聞こえた。小さな銀時計を見る。秒針の刻みは止まらない。
 時人が時計に向けて、手をかざした。その動作になんの意味があるのかは分からない。ただ、それを見守る。
 少年はその銀色の瞳を閉じていた。目を閉じて、まるで心の中で無機質なその時計と言葉を交わしているかのように、動かない。生きたものの気配すらしなかった。
 空夜の手の中で、時計がひとつ、ことさらに大きな音をたてて針を刻む。まるでそれに呼応するかのように、教会の大時計も、固い音を立てて針が動いたようだった。
 その音と同時に、時人がこちらを、振り向こうとしたように、見えた。
 見えた。その瞬間。
 鐘の鳴る音が、聞こえた。 
「……鐘?」
 空夜は思わず、声をあげる。そんな音が聞こえるはずがない。今は鐘を鳴らすような時間ではないし、それに何より、これからそれを鳴らすのが、空夜の役目なのだから。
 鐘の音はまるで幻聴のように、ひそやかに空気を震わせる。どういうことなのか、分からなかった。だから、尋ねようと思った。何でも知っている神父に、これはどういうことなのか、聞こうと思ってそちらを振り向いた。
 そこには誰もいなかった。
 聖堂内には、しんとした静寂だけが存在している。そこにいつも共にあったあの神父の姿は、ない。
 大時計のほうを見やる。時計を見上げていたはずの少年の姿もまた、どこにも無かった。
 鐘の音が止む。重々しい余韻が、教会内に満ちた。誰も鳴らしているはずのないそれが、どうしてここまで長く響き残るものか。これは異様だ。そう、これが、そういうことなのだ。
 だとしたらこの鐘の音はきっと、「時人」を呼んでいるのだろう。今がその時なのだという、知らせの鐘なのだろう。
 空夜は手の中の銀時計を見る。あれほどまでに気になった秒針の音が、全く聞こえない。
 ――それは止まっていた。何かの合図のように、ひとつ、とりわけ大げさに時を刻み取ってから、そこから針は進んでいない。
 時間を止める力。「時人」の力。

 今、その力によって、世界は停止していた。

≪モドル ■ ススム≫


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