index > novel > 時人の鐘 > 4章 『時はたそがれ/4』
「火薬商の息子は、城までの旅路を女王の使者とともにすることにした」 女王の使者は真面目な男、国を誇り、女王を誇り、自分に与えられた仕事を誇りに思う男。深く考えたわけではないが、そういうことにした。一方で火薬商の息子は、少し気の弱いところはあるが、心優しい少年だと、そういうことにした。 「何度も、火薬商の息子は使者に向かって言った。争いはよくないことだと。直接手を下さなくても、こうやって協力するということは、それに自分自身が加担することになるのだと、言い続けた。脅すように、責めるように、他にどうすればいいのか分からなかったから、ただそう繰り返した」 「なんで」 「……何がだ?」 「なんで、そこまで戦争が嫌なわけ、その息子は」 「戦争になれば、たくさんのものが犠牲になる。火薬商の息子は、単純に、それが嫌だった。理由はなくても、それが嫌だった。……そういう気性の持ち主だった。これでいいか?」 空夜がそう説明すると、悠灯は、ふぅん、と、納得したのかしていないのか判断の難しい反応を見せる。 「女王の使者は、黙ってその話を聞き続けた。何度も何度も繰り返されるその説得を、ただ黙って聞いていた。それが毎日続いていた。使者はいつも、それに対しては何も言い返してこなかった。そしていよいよ、明日には女王の待つ城に着くという日になった。 相変わらず同じことを言ってくる火薬商の息子に、使者はその日、こう聞き返した。『父親の仕事を、どう思うか』と」 「火薬商の仕事?」 「そうだ。息子はやがて、父親の後を継ぐことを期待されていた。だが息子は、父親の仕事が、作るその火薬が争いに使われることを考えて、どうしてもそれを受け入れられずにいた。父親は国で一番と噂される火薬職人でもあった」 「それで、その息子は使者に対して、なんて答えたわけ?」 「今言ったようなことを答えた。『凄いとは思うが、素直に尊敬することは出来ない』」 「ふぅん」 「使者はそれに、こう答えた。この火薬は、今までに一番の自信作だと言っていた、と」 まるで、足を踏み出せば進む先に道が現れるように。話していれば自然と、それは物語らしくなっていた。 「『火薬商は誇りを持って仕事をしている』と。そして、自分が運ぶのは争いの道具ではなく、その誇りそのものなんだと、使者は息子に、そう言った。父親も元々、争いごとを好まない、穏やかな気性の男だった。息子はそれを聞き、自分以上に父親は苦しんでいるのかもしれない、と考える。争いを認めるわけではないが、父親の『誇り』は確かに届けてほしいと、息子はそう思った」 「なんか、妙に説教っぽい話になったね」 「……」 「あ、ごめん。それで?」 「複雑な思いのまま、使者と息子と、そして火薬は城に着いた。出来ることは何もなかったと落ち込み、自分の家に戻ろうとした火薬商の息子は、使者に引き止められる。帰るのなら明日にしろと言われて、城の一部屋を貸してもらう。城内は賑やかで、多くの人でざわめいていた。息子はそれを見て、更に落ち込んだ。皆、戦争の準備をしているのだと思った」 「うん、そうだろうね」 「夜になっても、城は静まらなかった。火薬商の息子はどうしたらいいのか分からず、ただ部屋に閉じこもっていた。父親のことや、『誇り』のこと、使者が言ったことを考えていた。そこに、外から爆発音が聞こえた」 「戦争だ」 「……なんでそこで、そんなに嬉しそうな顔をするんだ、おまえ。とにかく、息子もそう思い、ひとりで混乱していた。争いが始まってしまったと、慌てている火薬商の息子を、使者が外に連れ出した。城の外には、多くの人間がいた。そこでは争いなんて行われていなかった。人々は皆、笑っていたり、とても楽しそうに見えた」 「え、どうしてさ」 「使者が城まで運んだ火薬は、だな」 自分でも、ろくでもない話だ、と思った。こんなろくでもない話を、知っていながらなお聞かされる予言者のことを思うと、同情すら感じていた。 それでも、何も言わずに耳を傾ける友人にそう言うことも躊躇われて、どうしようもないと思いながらも話し続けた。 使者が運んだ火薬は。 「花火だ」 一瞬、友人は固まったように見えた。 そしてその、すぐ後に。 「……火薬商、か!」 声をたてて、悠灯は笑う。 「ああ、花火だ。女王は隣国の王を招いて、宴を開いたんだ。決して争うことはないと、和解したふたつの国のための宴。それを祝う、花火だ。火薬商の作った花火。そして使者はそれを運んだ。城の人々は皆、外でそれを見ていた。祝祭の花火だ」 そして火薬商の息子は自分の家に帰り、父親の仕事を継ぐ道を選んだ。 女王の国も隣国も、それからは平和に交流が続いた。めでたしめでたし。 作り話の体裁をなんとか整えて、その話はそこで終わった。 「花火か。……花火。滅茶苦茶だな。きみ、ほんとうにその話、今、即興で作ったの?」 「ああ」 「なにを考えているか分からない顔だと思ったら、いつもそんなことを考えているのか。だいたい何なんだ、その展開は。『誇り』だとか、そういう真面目な話はどこへ行ったんだ?」 「……どこへ行ったんだろうな」 滅茶苦茶だ、と、もう一度友人は繰り返す。 「でも、嫌いじゃない。……花火は空に咲く花だな」 そう言って、予言者は嬉しそうに笑った。 とてもとても嬉しそうに、顔いっぱいで笑った。 それは心からの笑顔だったと、今でも思っている。 たとえ前もって何が語られるのかを知っていたとしても、そうやって、心から笑ってくれる友人の存在を、とても嬉しく、不思議に思ったのを覚えている。 借りてきた針と糸で、白いうさぎの耳を縫い付けてやる。 自分からその役目を買って出たものの、空夜は実際、そう手先が器用なわけではなかった。慎重に、できるだけ丁寧に、取れかけた左耳を縫い付けていく。それを、じっと時人が見ていた。空夜の不器用な針の運び方を見守るように、銀の目はうさぎに注がれている。 糸もうさぎも白くて良かった。空夜はそう思う。多少縫い目が雑で荒くても、同じ色だから目立たない。不慣れなその作業に、精一杯の集中を傾ける。針で指を突いてしまったら大変だ。白い白いうさぎを、この少年が大切にしようと思っているものを、自分の血で汚してしまうのは嫌だった。 呼吸も止める勢いでうさぎに向かっていると、ふいに、それを言葉なく見守っていた時人が、まるで聞こえなければいいとでも思っているような、小さな声で名前を呼んだ。 「……空夜」 「うん?」 「――明日、です」 搾り出すようにそれだけを告げて、それきりまた、黙り込む。 「……そうか」 時人はそこから先を説明しようとはしなかった。言いたくないのだろう。そして彼が言いよどむことならば、それはただひとつ。 時計を巻き戻す日のことなのだろう。 それが明日なのだと、いうことなのだろう。 それならば、納得のいくことがある。あの神父が滅多に教会を出ることはない。時計の傍らで、それを見守るのが琥珀に任された役目だ。神父はおそらく、そのことを国王に告げにきたのだろう。時計を巻き戻す日は、明日だと。 王に話がある、と琥珀が口にした瞬間の、時人の表情を思い出す。固く強張った、何かに怯える子どもの顔。嫌だ、と繰り返す子どもの顔。 時人は今も、ただ何かに耐えるように口を結んでいた。 「あまり、ひとりで知らないところに行くなよ」 「……行きません」 「この間もそう言った。ひとりで歩けると言ったから、ひとりで歩かせた。おまえは、何か目を引くものがあるとすぐにそっちに気を取られてしまうんだろう。そのまま、気が付いたらいなくなってるんだ」 振り向いたら時人がいなくなっていた。あれには驚いた。誘拐でもされたのかと思ってしまい、必死になって探した。 探し回ってようやく見つけた迷い子は、空夜の顔を見るなり、ごめんなさい、と何度も謝った。 時人は謝ってばかりだ。慣れぬ土地で迷った心細さと、見つけて貰えた安堵が入り混じった顔をしながらも、それでも少年は真っ先に謝った。 不安そうな銀の瞳が空夜を映す。きっと街中を迷い歩いていた時は、少年はこんな顔をしていたのだろうと、ふと、そう思った。 「あなたが探しにきてくれないのなら、どこにも、行けません」 「……おまえの今後のことは、琥珀が面倒を見てくれるだろうと思う。国王も、おまえがこの街に残ると知ったら喜ぶだろうな。これまでの『時人』のその後が知られていなくて良かったよ。おまえは与えられたその役目を果たすんだから、そのぶん、これから先は好きに生きればいいんだ」 時人は返事をしなかった。 少年は言いたいことがたくさんある、という顔で、それでも何も言わずに、黙って空夜の手の中のうさぎを見下ろす。 「街の外に出てみるといい。世界は広い。楽しいことが沢山ある」 「時人」の生まれるあの郷は、山奥のとても小さな集落だ。ただ空には近い、見上げる空がとても近い、他には何もない小さな集落だ。そこで生まれ、ただ時計を巻き戻すそれだけのために育てられてきたのなら、あまり楽しいことなどなかっただろうと思う。この街に来てから、時人はどんな些細なことにでも興味を示し、驚き、面白がる。それだけ、郷での生活にはないものがあったのだろう。そう考えると、やはりすべてを終えたその後も、郷に帰るのが時人にとって幸せなことのようには思えなかった。だから、これからは。 「きっと、時計の音が聞こえなくなるくらい、楽しいことが沢山あるはずだ」 その銀の鏡が映すのは、喜びと幸福だけであってほしい。 その目に映る青い空は、いつでも美しく澄み渡っていてほしい。 心から、そう願う。だが空夜を見上げてくる銀色の瞳は、喜びも幸福も伝えてはいなかった。今、自分が何を言ったところで、少年の目からそれらの感情を取り去ることは出来ないのだろうと思う。残された時間が、その言葉の通り、明日には尽きてしまうというのなら。それならば、せめて、少しでも優しい思い出を残したかった。 「……ほら、これで、しばらくは大丈夫だ」 どうにか指を刺すこともなく、うさぎの耳を縫い終える。本当に白いうさぎで良かったと思いながら、それを時人に渡す。 少年は有難うございます、と礼を言って、それを受け取った。取れかけていた左の耳、空夜ができるだけ丁寧に縫いつけた左耳を軽く引っ張り、時人はそれまでの表情を少し崩す。わあ、と上げた小さな歓声が、とても子どもらしかった。針と糸を、借りた時に入れられていた布の袋に戻す。と。その中に、一枚、小さな紙切れが入っていた。取り出してみると、それには見覚えのある字で、ただ一言、こう書かれていた。「中庭で待つ」。 時人がそれを、不思議そうに覗き込んだ。 「これは?」 「……あいつだ」 一体、どれほど前に用意されたものなのだろうか。書かれた文字は確かに見覚えのある、友人のものだった。 「予言者様、ですか」 こんな真似の出来る人間は他にいない。時人がうさぎを手に抱いたまま、何故だか少しだけ、不思議そうに銀色の瞳を瞬かせた。「中庭で待つ」。それは予言者にしか出来ない、呼び出しの方法だ。時人が何を疑問に思ったのかが分からずに、空夜は尋ねた。 「……どうした?」 「いいえ、何でもありません。どうぞ、行ってください、空夜。わたしはひとりで部屋に戻れますから。――うさぎを直してくれて、ありがとうございます」 大切に可愛がります、と、時人は笑った。 また明日、と言いかけて、止める。明日という日のことを、あまりこの少年に考えさせたくなかった。どう言えばいいかを迷っていると、時人はうさぎを連れて、ひとりで部屋を出て行ってしまう。 後には空夜と、手の中の紙切れだけが残された。「中庭で待つ」。 予言者の呼び出し。 (「ぼくは死ぬぞ」) ――聞かなくてはならないことがある。 中庭は回廊に囲まれている。誰もいない密やかな空気の中、花だけが月明かりの下で、淡白く咲いていた。 予言者は噴水の淵に腰掛けていた。空夜が声をかけるよりも前に、遅かったな、と顔を上げて笑う。 「あんな呼び出し方があるか」 「あるだろう、ぼくなら。来ないかもしれないな、と思ってはいたけれど」 悠灯はそう言って立ち上がった。先程の動きにくそうな儀式着からは着替えている。最も彼ならば、あの服装であっても、何処でも座り込んだり寝転がったりするのだが。空夜が自室に戻ると、長椅子で正装のままの予言者が寝ていることがよくあった。 「さて、それで、何を聞きたい?」 ひとつ伸びをして、悠灯。 「呼び出したのはおまえだろう」 「うん。けれども、聞きたいことがあるのはぼくじゃない、きみだ。何が聞きたい? 時間はそう残ってはいないぞ。何しろ」 ――今夜は世界に与えられた、最後の夜なのだから。予言者は悪い冗談だ、と言わんばかりの口調でそう続けた。 聞きたいことならば、沢山あった。未来を知る予言者に、答えて欲しい質問ならば山のようにあった。どうすれば、自分の望むようになるのか。どうすれば、自分が幸福であれと望むものが皆、笑っていられるのか。どうすればうまくいくのか。 予言者に尋ねたいことは沢山あった。けれども、友人に尋ねたいことはただひとつだった。 「……おまえ、病気か何かか」 一瞬の沈黙。やがて、空夜のその質問に、悠灯は声をたてて笑う。 「そんなふうに見える?」 「見えない。見えないが――」 「ぼくがどうして死ぬのかは、分からないよ」 空夜の質問は、どう切り出したものか悩んだ挙句のものだった。たとえ嘘であっても、友人に対して死という言葉を使いたくなかったから、そう聞いた。それを、躊躇いもせずに悠灯は口にする。そして、分からない、と。全てを知り尽くしているはずの予言者は、そう答えた。 「ぼくはただ、事実としてそれを知っているだけだ。だから痛いのか、苦しいのか、それも分からない。それだけじゃない、そこが何処なのかも分からないんだ。ただ確かなのは、その瞬間、きみがぼくの傍にいること、それだけだ」 「何処なのかも分からない?」 「そう。そのあたりがいまひとつ、はっきりと見えない。いくら見ようと思っても、その辺の未来だけがうまく見えない。あれは何処なんだろうな。似た場所なら知っているけれど、そことは違う。どうしてだろうな。やっぱり世界から消えていくわけだから、未来も徐々に見えなくなるってことなのかな」 予言者は妙に、楽しそうにそう語る。まるで自分の知らないことがあるのを喜ぶように、それが楽しみで仕方がないとでも言うように、そう語る。 「そこにいるのは、ぼくときみだけだ。きみが何か言っている。ぼくに、何か話している。……何を言っているのかも、分からない。ぼくは倒れる。きみがそれを支えようとする。ぼくはきみを見上げる。それで終わりだ」 予言者がそう語るのは恐らく、彼自身の未来。最後だと、終わりだと自ら告げている、目の前の友人の未来だ。 もう止めろ、と言いたかった。そんな嘘はもう止めろ、と言いたかった。 けれども空夜の口から出たのは、全く別の言葉だった。 「……おれは、おまえの最後を、見届けるのか」 「そうだよ。ただひとり、きみだけが。そしてそれは、時計を戻すより後のことだ。これで分かった? きみは消えない。ぼくが目を閉じるその瞬間まで、きみはぼくの傍にいるよ。消えない。きみはどこにも行かない。これがぼくの、最後の予言だ」 そんな嘘は止めろと言いたかった。空夜は消えることを恐れているわけではないのだから、騙してくれる必要はないのだと、そう言いたかった。それなのに、言葉が出なかった。何も浮かんでこなかった。ただ、思い出す。初めて聞いた、悠灯の言葉を思い出す。 (「ぼくは、ずっときみを探していたんだ」) その時と同じように、満足気な表情で、悠灯はひとり、暗記した書物をそらんじるように、淀みなく言葉を紡ぐ。 「世界中の人間すべてが、きみを知らない。知らないものを人は恐れる。だからきみは、すべての人から遠ざけられる」 お師匠の言ったことは、あながち外れというわけでもないな、と悠灯は続けた。浮かれたように楽しそうな調子の友人に、空夜は何も言えない。何を言ったらいいのかが分からなかった。 「あの人も、世界と繋がることのできる力の持ち主だった。ただそれは、完全にすべてを読めるほど強い力ではなかったんだ。だから、きみのことを『良くないもの』だと判断してしまった、それも分かる。それに例え、お師匠がきみのことをそう言わなくても、『時人のできそこない』だと言われなくても、きみは世界からは遠ざけられただろう。それが、きみだ」 世界から遠ざけられた。それが空夜だと、友人は言う。 人から、世界から遠ざけられる存在。その言葉の通り、小さいころから、自分の周りには誰も居なかった。 ただ空だけが、自分にとって優しかった。空も独りだと、そう思っていた。だから、そんなものであろうと思った。 空は誰を憎むことなく、ただそこにある。せめて、自分もそうありたいと思った。 「世界はきみを知らない。だからぼくは、きみがとても大切だ。誰にも、世界そのものに認められないきみがいてくれて、ぼくはとても嬉しい。小さいころ、ぼくはどうして自分がそんなに長く、壊れもせずに生き続けられるのか、その未来が不思議だった。だけど、きみに会って分かった。――それは、きみがいたからなんだ」 ぼくはきみに助けられたぞ、と、悠灯はおかしなことを言う。それは逆だ。助けられ続けたのは空夜の方だ。 すべての者に、変わらぬ眼差しを注げる者であろうと思った。空のように、虚ろでありながらも優しいものになろうと思った。誰に優しくしたいのか分からぬまま、そう決めた。 みつけた、と言いたかったのは、きっと自分の方なのだ。空夜は思う。 夕焼け色に染まった少年。きみの名前は、と聞いてくれた、茜色の瞳の少年。手を差し伸べてくれたその相手。 誰かに優しくされるということが、どれほどに嬉しいことか。彼はそれを教えてくれた。 まわりの言うことに囚われず、誰が何と言おうと、ただひとり、自分に手を差し伸べてくれた。 それが、とても嬉しかった。 あの時に自分は、ようやく、優しくしたいと思う相手を見つけることが出来たのだと思う。 青く広い空の下で、暗闇だと思っていた地上に、ただひとつ、灯を見つけることが出来たのだと思う。 その手の主は、あの頃と少しも変わらない笑顔を浮かべた。 「ぼくはきみといて、とても楽しかった。知っていることと、感じることは違うんだな。ぼくはすべての未来を知っていた。……それでも、楽しかった。それで十分だ。きみは無事みたいだし」 空夜は消えない。いなくならない。きっと予言者は、何度でもそう繰り返すのだろう。 あなたがいなくなるのは嫌だ、と言っていた、銀色の少年のことを思い出す。悠灯の言葉を教えてやれば、時人は喜ぶだろうか。違う。そんな言葉で、あの少年を喜ばせたいのではない。この世界から消えることはないという証明。友人の死を看取る未来があるという証明。そんな予言で誰が幸せになれるというのだ。 ただひとり、悠灯だけが何度も何度も繰り返している。だから安心すればいい、と。きっと、それで空夜とあの子どもが喜ぶだろうと思って、何度も。 安心などできるはずがない。たとえ自分がいなくならないとしても。この世界に居続けられるとしても。 (「時が流れなければ、その結末を迎えることもない」) 空夜は琥珀の言葉を思い出す。誰に肩入れするのでもなく、そうなればいいと思うのではなく、神父はただ、そのような選択もある、と、そう言った。その結末。予言者の死。 時間を止めたままでいれば、その瞬間にたどり着くこともない。 新しい時間を与えられて、世界が生き延びたとして。そして予言者の告げる通り、そこに空夜も残れるとしても。 そうなれば、この友人の時は終わるのだと言う。それが避けることの叶わない未来なのだと言う。だとしたらそれは、ひとつの終わりだ。 世界が生き延び、自分が生き延びたところで、終わりを迎えなければならないのだと予言者は言う。 自分が消えるのなら、自分だけがいなくなるのなら、それはそれで構わなかった。そのまま世界が変わりなく、自分を欠いたままで在り続けてくれるのなら、それでいいと思っていた。それなのに。どうして、この予言者はそんな未来を告げるのだろうか。 そんな予言は少しも優しくない。そんな未来は、少しも優しくない。 この優しい嘘つきは、どうして肝心なときに自分を騙してくれないのだろうか。 空夜が何を考えているかを見透かすように、友人は呆れたように笑った。 「きみは馬鹿だな」 言葉とは反対に、それは優しい声だった。 「ぼくはきみに喜んでほしい。きみに安心してほしい。そんな顔をしないでほしい」 微笑む予言者の瞳は、夜の空の下でも、夕焼けを映した茜の色をしている。 「予言者は未来に明るい者だ。先に起こることを見ることのできる者だ。ぼくは生まれたときから、そういうものだった」 闇夜を照らすのは、白い月だけだ。それなのに、友人の姿は何故だか、沈む赤い陽に染められたように、やがて濃くなる闇に溶けていくかのように、ふいに、霞んで見えた。 教会で見たものと同じだ。触れようとすればその指が擦り抜けそうな、幻のような友人の姿。 「だから自分の終わりというのも、たぶん生まれたときから知っていた。ぼくは、その未来を恐れないよ、空夜」 彼は心からの笑顔でそう言っているのだろう。悠灯にとってそれは悲しいことではないし、実現するのが当然の未来なのだ。それまで彼が見て、言い当てて、人々に驚嘆されてきた数々の未来のように。それは予言者にとっては悲しいものではないのだろう。ならば友人の笑顔に、どこか寂しそうなものを感じ取ってしまうのは空夜の感情のせいだ。それがとても悲しいことだと、強く思うからだ。死。嘘ではなく、それは本当のことなのだろう。そんなことはこれまでに、考えたこともなかった。考えたくもないことだから、考えてこなかった。本当のことだとしても、信じたくなかったし、信じられなかった。だから、悲しいのはそこではなく、もっと別のことだった。辛いのは、予言者のその笑顔だ。 自分自身の死についてなど、そんな顔で語るべきものではないはずだ。空夜にとっては、それを笑顔で語る友人が、ただとても悲しかった。 悠灯は静かに続ける。 「実際にその瞬間を見たのは、7つのときだ。どこまで行っても自分の知っているのと同じ道しかない、そんな世界にとても嫌になったことがあった。一体いつまでこんなことを続けなくてはいけないのか、とても嫌になったことがあった。ぼくはそれまでは直感的にそこから先に進むのを止めていた、その先の未来を見た。多分、ぼく自身がそこに終わりがあることで、自分を安心させたかったんだろうな」 花が散ることを知っている、それが予言者だ。その花がいつ散るか、どんな風に散っていくのか、彼はすべて知っている。 予言者はただ、知っていた。それだけだった。それを変えることはできない、どうやっても抗うことのできない未来を知るだけの者だった。 それはまるで、すべてが見えていながらも、何にも手を触れることの出来ない闇の中にいるようなものなのだろうか。 「死はぼくにとって、たったひとつの夜明けだった。そこから先にはぼくの知らない世界があると、そう思っていた。だから、その光に手を伸ばした。伸ばしたその手で、ぼくは自分の最後の瞬間を掴んだ」 言葉を切り、悠灯は空夜を見る。 「――そこでぼくは、きみを見た」 昔を懐かしむように、彼は目を細める。ずっと昔に見た未来。そしてこれから訪れる未来。そして今、この時。その全ての瞬間において、彼は同じものを見ているのだろう。それが予言者というもので、悠灯はずっとそういうものだった。それを嬉しいと思ったことは一度もないと、彼はそう言ったことがある。そう聞いたことがある。が。 今、この瞬間に見せている悠灯の表情は、とても嬉しそうなものに見えた。思い出を語るように、彼は微笑む。 「きみの顔は、はじめて見たその時から一度も忘れたことはないぞ。その、地顔なのにいつも怒っているように見える仏頂面、『時人』のはずなのに青い目。ぼくはその時、自分の死ぬ瞬間を見たその時の、きみの目の色を確かに覚えている。青い目だ。そうだな、空の色だと思ったよ。ぼくはその時、はじめて空のほんとうの色を知ったような、そんな気がした」 空は青いんだな、と悠灯は笑った。 「おれを『みつけた』と言ったのは、そういうことだったのか?」 「……よく覚えていたね。そうだね、そうなるかな……ぼくはずっと、きみと会える日を待っていた。はじめて自分の未来の果てを見たときから、ずっと、きみに会えるのを待っていたんだ」 「どうして、そんな奴に会いたかったんだ、おまえ」 空夜は尋ねた。ずっと探していた、と、あの日彼は言った。自分が死ぬ瞬間に立ち会う人間に、それほどまでに会いたがる理由が見つからなかった。どうして、その理由で自分が探されていたというのか、それが分からなかった。 「さあ、どうしてだろう」 悠灯は空夜の問いかけには答えず、ただ肩をすくめた。そしていつもの予言者がよく見せる、あの皮肉気な笑みで、どこか得意そうにこう続けた。 「ほんとうは、もうひとつ、きみに秘密がある。けれど、これは言わない。悔しいから、これは最後まで言わない」 最後まで。その結末を迎えるその時まで。終わりの時まで。 その秘密とやらを打ち明けることのないまま。 「ぼくはもうすぐ、消える。この世界からいなくなる。その時を、きみが見守ってくれている。――それがぼくの見ている、最後の『未来』だ」 そこから先に何があるのかは、予言者にも分からないのだと、悠灯は言う。予言者に見えている未来は、自分の最後の瞬間までだ。そこから先の未来は、彼にも知れないのだと言う。それならば。自分にも何が起こるのか分からない、それこそを人は未来と呼ぶのならば。 その先に待つものは、見ることの叶わない「未来」なのかもしれない。悠灯はそこから先、ようやく、未来を手に出来るのかもしれない。そう思うと、とても辛かった。予言者の笑顔の意味が理解できた気がして、余計に辛かった。死ぬことを希望だと考えてしまうならば、それはあまりに寂しいことだと思った。 「……そんな顔をしないで、空夜。ぼくにも未来は存在していたよ。ぼくは、とても幸せだった」 そう言って、悠灯は空夜に目を向けた。茜色の、予言者の瞳。未来を見通す瞳。 「だから空夜、ぼくから、その未来を奪うな」 そうやって見つめてくる、夕焼け色の瞳は。 彼が見ているはずの未来ではなく、ただ目の前の空夜を、真っ直ぐに見据えていた。 聞きたいことならば、沢山あった。未来を知る予言者に、答えて欲しい質問ならば山のようにあった。どうすれば皆が幸せに笑っていられるのか。どうすればうまくいくのか。 予言者が知っているのは、自分がこの世界から消えるという未来だけだった。
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