index > novel > 時人の鐘 >  4章 『時はたそがれ/3』


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 とんでもない予言を残して、悠灯はそのまま行ってしまった。追いかけようとしたが、悠灯は空夜を振り向くことなく、国王の元へと向かった。国王の執政室。そこに入るのが許されている人間は、極めて限られている。そこに近づける人間もまた、限られている。警備の役についている兵士たちに睨まれ、空夜は友人を追うのを諦めた。また後で、と彼は言った。また、後で。その時に、さっきの言葉の意味を聞かなくてはならない。たとえ嘘であろうと、ああ言ったことを友人に口にして欲しくはなかった。そうだ、あの予言者のことなのだから、きっと、嘘なのだろうけれども。
 予言者の言う通り、空夜は自分の部屋に戻る。時人はもう、城に戻っているらしい。ひとりで出歩いてはいけないと、顔を見たらそう言わなくてはならない。悠灯の言ったことは間違ってはいない。あの子どもは大切な存在なのだから。大切なものならば、守らなくてはならないのだから。そう、考えていると。
 小さく、扉が叩かれる音がした。
「空夜」
 それに続いて、銀色の少年が顔を出す。時人だ。
 少年は空夜の顔を見るなり、嬉しそうに顔を輝かせた。自分が探されていたことを自覚している様子はない。きっと、迷わずに城まで帰って来れたことで、空夜に迷惑をかけることが無かったと思っているのだろう。もともと、時人がひとりで教会に行くようになったのも、そういう意識からなのだろう、と空夜は考えている。自分の行動に他の誰かを付き合わせることを、この少年は心苦しく思っている。ひとりで出来るようなことは、ひとりでやらなければならないと思っている。今も、これまでも、そしてきっと、これからも。
 そんなことを考えると、言おうと思っていたことも言えなくなってしまう。ひとりで出歩くのは危険だ、と、そう叱るかわりに、空夜は時人の頭に手を置いた。
「……どこに行っていたんだ?」
 そう尋ねる。咎めたつもりではないのに、時人は、すみません、と小さく謝った。
「散歩をしていました。このお城はとても広いですね」
 いろんな人がいて、いろんな物があります、と、柔らかい銀の髪をもつ少年は、神妙そうな顔をする。
 その両手が何か、白いものを抱きしめているのに気が付く。空夜がそれに目を止めたことが分かったのだろう、時人は空夜に向けて、それを持ち上げてみせた。 
「うさぎをもらいました」
「……うさぎ?」
 それは確かに、うさぎだった。白い毛並みはふんわりと温かそうで、赤い目が無機質に空夜を見上げている。
 同じようにして自分を見上げてくる、戸惑いに満ちた銀色の瞳。時人は、どうしたものやら、と困惑した表情で、そのうさぎと空夜とを、交互に見た。
「あの、人形なのですけれど」
「それは、見れば分かる」
 時人が持っていたそれは、うさぎのぬいぐるみだった。少年の両手に抱いてちょうど収まるくらいの、わりと大きなものだ。
 それは首に、ぬいぐるみに飾るにしてはずいぶんと重たげな宝石の付いたリボンを縫い付けられている。赤い目も、もしかしたら高価な石なのかもしれない。時人が掲げるそのぬいぐるみに触れてみる。柔らかいその手触りには、どこか時人の髪を撫でたときのような感触があった。見覚えのあるものだ。
「……これを、どうしたんだ?」
「廊下を歩いていたら、どこかのお部屋を掃除していた方にもらいました。国王陛下の命令で、もう捨ててしまわなければならないのだけれど、よかったら可愛がってほしい、と」
 空夜はそのぬいぐるみに見覚えがあった。よく訪れた、あの部屋で見たことがあるものだ。
 溺愛する息子のために、寂しい思いをすることがないように、山のように贈られた玩具たちのあった部屋。金花王子の部屋にあったものだ。たくさんの玩具にまぎれて、このうさぎが床に転がっていたのを覚えている。
 国王は王子を思い出させるようなものを、すべてこの城から追い出してしまうつもりなのだろう。金花王子のために呼び寄せた医者も、王子付きの女官も皆、今はもうこの城にはいない。それらと同じように、このぬいぐるみも処分するように命じたのだろう。たまたまそこを、時人が通りかかったのだろうな、と空夜は思う。
「可愛がってほしいと言われましても、わたしにはどうすればいいのか分かりません」
 困惑したように、時人。少年は銀の瞳で、じっとうさぎの赤い目を見下ろす。真剣そうなその眼差しが、妙に微笑ましかった。この少年は、人に何か望まれたらそれに出来る限り応えなければならないという、固い思い込みのようなものを持っている。可愛がってくれと人形を託されて、どうすればその言葉に応えられるか、真面目に考えているようだった。声をかけることも出来ず、空夜はただ言葉なく向き合う少年とうさぎを見ていた。
 あ、と、うさぎを見つめていた時人が小さく声を上げる。  
「耳が」
「……取れかけているな」
 時人の指差す先を見ると、そのうさぎの左の耳は半分ほど糸が解れていた。もともと、耳の垂れたうさぎのぬいぐるみだから、よく見ないと分からないのだが、左耳の付け根から、綿が少しだけはみ出ている。乱暴に扱われたのだろうか。金花王子がこのぬいぐるみでどう遊んでいたのかは知らないが、何も映さないうさぎの赤い目が、まるで悲しみを湛えているかのように、潤んでいるようにも見えた。
「針を借りてこよう」
「え?」
「針と糸。そのままじゃ、そのうち片耳になる。それは可哀想だろう」
 空夜がそう言うと、時人はとても不思議なことを聞いた、とばかりに目を丸くする。瞬きを繰り返す少年に、空夜は続けた。
「だから取れる前に、縫ってやるんだ」
「……あの、どなたが?」
「おまえ、やるか?」
「あの、経験がありません」
 だろうな、と時人に頷いてから、ため息をひとつ。
「おれが縫う」
 その言葉に、時人は絶句したようだった。
「可愛がるというのは、そういうことだとおれは思うよ」
 うさぎをもう一度見下ろして、時人はゆっくりと、納得したように首を縦に振った。
 裁縫道具を借りるために、部屋を出る。暮れる空は、いまだに赤く染まっていた。うさぎを抱きかかえたまま、時人が付いてくる。そのうさぎの、悲しそうにも見える赤い目が光に反射して、かすかにきらめいた。赤い目。赤い空。赤い光に染まる予言者。 
(「きみがこの世界からいなくなることはない」)
 空夜は予言者の言葉を思い出す。
(「――ぼくより先に、きみの存在が消えることはないんだ」)
 あいつは本当に嘘つきだな、と、そっと微笑もうとした。
 そんな大げさな嘘をついてまで、人に優しくする必要はないのに、と、笑おうとした。
 黄昏の空。霞む幻。淡く溶ける夕焼けの色に染まる、友人の微笑み。
(「ぼくは死ぬぞ」)
 予言者が告げたその未来を嘘だと笑い飛ばしてしまうことは、どうしても、出来なかった。


 そもそもそんなことをする羽目になったのは、友人の身勝手な要求からだ。
「そんなの嫌だ、つまらない。ぼくはこの世界にあるもののことなら、なんだって知っているんだ。そんな本、内容を全部知ってる」
 退屈だ、という友人に対して、本を読め、と勧めたのが始まりだった。
「空夜、きみが話して」
「……は?」
「きみが、なにか話してよ。適当でもなんでもいい、お話」
 それは素晴らしい思いつきだ、とでも言うように、得意そうに悠灯が提案した。
 何を突然言い出すのか、と。その提案には、呆れたような気がする。
「おまえ、この世界のことは何でも知ってるんだろう。この先に起こることも、何でも知ってるんだろう」
「うん、そうだよ」
「だったら、おれが作る話だって、もう、内容も分かってるんじゃないか」
「いいの! いいんだ、それでも。何か、聞かせてよ」
 つまりこの友人は、どうせ知っているものなら、より楽しめるほうがいいのだろう。
 空夜の話が面白いわけではなく、ただ、そうしろと言われて困っているその反応が楽しいのだろう。少しでも楽しいほうがいいのだろう。そう、納得した。
 退屈なんだ、というのが、その予言者の口癖だった。退屈だ、と言って、彼はいつも空夜のところにやって来ていた。それも大概が、城を内緒で抜け出して来ていた。
 ただでさえその辺りの人間には好かれていない自分は、それでいっそう嫌われることになってしまったのだと思う。城にも街にも、予言者に気に入られたい人間はたくさんいた。
 それなのに、その誰にも目をかけることもなく、悠灯はいつも、退屈だ、と言っては空夜のもとに来ていた。
 初めて会ったその時から、そして神父から彼がそう呼ばれていることを知ってからも、悠灯のことを予言者として見たことはなかった。たまたま、友人になった相手が、そう呼ばれていた。それだけのことだった。
 そもそも、悠灯が空夜に向けて予言者らしいことを言うことはなかった。遊びに行く約束をする時に、その日は雨が降るから駄目だ、と、せいぜい天候を教えてくれる程度で。
 探していた、というその言葉も、その理由も聞き出すことなく、また友人も口にすることはなく。気が付けば、彼はいつでも、隣に来ていた。 
「あるところに、火薬商の息子がいた」
 戸惑いながらも話し始めたその最初の物語のことは、今でも思い出せる。
「え、なんでいきなり火薬商なの」
「適当に話せと言ったのはおまえだろう。止めておくか」
「やだ、続けて。それで?」
「その国の女王と、隣国の王は仲が悪かった。今にも争いが始まりそうな、そんな状況だった」
「うんうん、それで?」
「ある日、火薬商のもとに、女王の城からの使いの者が来た。女王は城まで、大量の火薬を運んでくるよう、その使者に言付けていた。火薬商の息子は、ひとり、それを悲しんだ。ついに、戦争が始まるのだと思って、それを悲しんだ。父親の火薬が無ければ、戦争が始められないかもしれない。火薬商の息子はそう思って、女王の使いと一緒に、火薬を城に運ぶことにした。城に着く前に、火薬を使えなくしてやろうと思って」
「その使者は、どんな奴なの」
「……そうだな、頭が固くて、真面目な男かな」
 ふぅん、と相槌を打って、悠灯は話の続きを促した。
「それで? その火薬はどうなるの?」
 すべての物語の結末を知っているはずの予言者は、いつもそうやって、興味深そうに、話の続きを促してきた。


 裁縫の道具を貸してくれるよう頼む役は、時人に代わってもらった。城の人間は皆、空夜と目を合わせることさえ避けようとしている。その自分が何かを願ったところで、あまり快くは引き受けて貰えないだろうと思った。それに何より、相手にとっても空夜に何か言われるよりも、時人に声をかけて貰うことのほうが嬉しいだろうと、そう考えた。実際、洗濯室にいた女官は、うさぎを繕ってやるのです、と説明する時人に、とても優しい微笑みを見せていた。「時人」を疎んじる者など、この城にはいない。それならば、時計を巻き戻したその後になっても。
 この城に、この街にいれば、時人が辛い思いをすることはないように思えた。
「貸してもらえました」
 部屋には入らず、外からその様子をうかがっていた空夜のもとに、時人が駆け戻る。手には、白いうさぎと、柔らかそうな布の小さな袋。それを掲げて、時人は空夜を見上げた。意識していたわけではないが、表情に、何か表れていたのだろう。少年は不思議そうに、尋ねてきた。
「あの、どうしました?」
「いや」
 何でもないんだ、と返そうとして、その言葉は時人の銀色の眼差しに遮られた。自分に対して何か考えていたのだ、ということを感じ取ったのだろう。それならば聞かなくてはならない、と言いたげに、少年は真剣そのものの目を向けてくる。その腕に抱えているうさぎの赤い目が、同時に空夜を見つめる。
「……時計を巻き戻したあと、おまえはどうするのかな、と思っていた」
 銀と赤、ふたつの色の瞳に見上げられて、まるで問い詰められているような気分になる。
 空夜が正直にそう言うと、時人は身構えるように、短く息を呑んだ。空夜に向けていた銀色の瞳が、その心を映してか、かすかに震える。そのまま少年は、小さくうつむいた。その動作が、彼の抱えている耳の垂れたうさぎに妙に似通っていて、空夜は小さな動物を虐めているような気分になった。とても悪いことを言ってしまったような気になる。
 すまなかった、と謝ろうとしたその時、少年が顔をあげた。
「わたしにも、分かりません。これまでの『時人』は皆、時計を巻き戻すと同時に、いなくなってしまった。でも、わたしにはそれが出来ない。……わたしは、どうすればいいんだろう……」
 呟くように、時人はそう言った。どう言葉をかけてやればいいのか迷っていると、それまで逸らされていた銀の瞳が、再び空夜を見た。時人は目を合わせたのを確認したように、何かを懐かしむような、あまり子どもらしくはない笑みを浮かべた。銀色の容貌、鏡のような表情。それは「時人」としての少年の顔だ。
「わたしには、いつも時を刻む音が聞こえています」
「時を、刻む音?」
「そう、時計の針の音です」
 そう言って、時人はあの銀時計を取り出した。それを、空夜の耳に近づける。
「こんな風に。その音がどこから響くのかは、分かりません。けれども、聞こえるんです。それはたぶん、世界が時を刻む音なんだと思います。……わたしは、この音が嫌いだ。時々、それは、わたしの心臓の音なのではないかと、そんな気分になります。わたしは本当に生きているものなのかと、そう思います。本当は、わたしもただの時計なのかもしれない。秒針の刻む音は、わたしの心臓の音と重なって聞こえて……それはいつか、止まってしまうのだということを、考えずにはいられませんでした」
 小さく、だが規則正しく、銀時計は休むことなく時間を刻む。それを戻して、時人は、けれども、と、表情を変えた。
 それはあの、鏡に映ったような顔ではなくて、ただ心から何かを思い、そのままそれが現れた笑顔に見えた。
「あなたといると、その音は少しだけ、小さくなるような気がします。どうしてだろう。不思議なのですけれど」
 理由が何であろうと構いはしない、と言うように、浮かべた笑みはそのままで、少年は続ける。
「わたしはあなたの傍にいると、とても気持ちが落ち着きます。わたしはずっと今まで、どこかが欠けていた。それをあなたが持っている。……だから空夜、わたしはあなたの傍にいると、とても落ち着きます。今まで、こんなに幸せな気分になったことはない。とても、安心できます」
 だから、と、銀色の瞳を曇らせて、少年は続ける。
「……わたしは、あなたがいなくなるのは嫌だ。でも、そうしてもらうしかない。……あなたにそんなことをさせて、わたしは時計を巻き戻したその後、一体どうすればいいんだろう。分かりません」
 あなたがいなくなるのは嫌だ。少年はもう一度、そう呟く。まるでそう口にすることで、何かに願うように。誰か、その願いを叶える力を持つものに届くことを期待しているかのように、時人はその言葉を繰り返した。 
 短い沈黙。時人が呟くのを止めたのを見て、空夜は口を開いた。
「おれを見ると、理由もなく不安になるものらしいぞ」
「……え?」
「皆はそう言う。どうしてだか分からないが、おれがいるだけで、とても嫌な気持ちになるらしい。それが『できそこない』であることに関係しているのかどうかは分からないが――おれは、ずっと、そう言われてきたよ」
 それが寂しいことだと、悲しいことだったと思っていたわけではないが。
「だから、そんな風に言ってもらえると、とても嬉しい」
 心からそれを悼んでくれるものがあることは、言いようもないほど幸せなことだと分かっていた。
「おれのことを嫌わない、おれがいなくなるのは嫌だと言ってくれる誰かがいるのが、とても嬉しい。ありがとう、時人」
 それで十分だ、と空夜は言葉を切った。時人は何も言わずに、ただその小さな肩を落として、黙ってうつむく。
 その様子が、それでも、自分ではない誰かを犠牲にするのは嫌なのだ、と、強情なまでに少年の気持ちを訴えていた。
 ふと、同じように、かたくなに語られた言葉を思い出す。
(「きみがいなくなることはない」)
 予言者は確かにそう言った。空夜が時計を巻き戻したその後も、この世界からその存在が消え去ることはないと、怒りすら込めた強い口調で、そう告げた。それが真実なのかどうかは、予言者にしか分からない。そしてその予言者が、これはほんとうの話だ、と言った。疑うことが愚かだと言い切るように、強く断定した。
 だが、そのことを時人に教えることは躊躇われた。その予言の続きを思い出すと、とても口にする気になれなかった。
「……ああそうだ、うさぎを縫ってやるんだったな」
 だから、その話は、そこで止めておこうと思った。
 空夜がそう言うと、時人もそれ以上は何も口にせずに、ただ小さく頷いた。耳の取れかけたうさぎを、その小さな手にきつく抱きしめるその仕草は、少年が深い思いに捕らわれていることを表して見えた。時人は今でも、どうすればいいのか分からずに、途方に暮れている。銀の瞳に迷いを浮かべたまま、そうするしかないのだと、必死に自分に言い聞かせている。そんなことを言い聞かせる自分自身にも、強い嫌悪感を抱いている。
 うまくいかないものだな、と空夜は思う。自分さえいなくなればいいと思った。だから、怖いとも思わず、悲しいとも思わず、「時人」にしか出来ないというその役目を引き受けた。だが、空夜のその決断を悲しむものがいる。怒るものがいる。否定するものがいる。
(「きみがいなくなることはない」)
 友人のその言葉を思い返していると、空夜の半歩ぶん後ろを付いて来ていた時人が、あ、と小さく声を上げるのが聞こえた。少年を振り向き、その視線を追う。中庭を囲んだ回廊の向かい側。そこには回廊を歩む、珍しい人物の姿があった。
「琥珀?」
 思わず、その名前を呟く。それが聞こえたほど近い距離にはいないはずの神父は、だが静かにこちらを見て微笑んだ。
 時人がうさぎを抱えたまま、琥珀に駆け寄る。長身を屈めて、神父服の男は少年に礼をした。うさぎのぬいぐるみについて説明しているらしい時人と、いつもの微笑みでそれに頷いている琥珀。
「珍しいな、こんなところに来るなんて」
「少し、国王陛下にお話をすることがあってね」
「話?」
 この男が自分から出向くほどの話がどういった類のものなのか、空夜には検討も付かなかった。
 不思議に思って、聞き返す。微笑む神父の傍らで、時人が何故か、少し身を強張らせたように見えた。
「今日は大切な話し合いがある日だったんだ。わたしはそれを欠席してね、どうやら陛下のご機嫌を損ねてしまったらしい。……わたしは、それをお詫びするために参ったのですよ、時人」
 最後の言葉は、空夜ではなく時人に向けられたもののようだった。それを聞いて、時人は謝るように、礼を言うように、神父に小さく頭を下げる。
 それを見て、琥珀はまた、微笑んだ。そして、ああ、と、何かを思い出したように、その微笑を空夜に向ける。
「ひとつ、きみに言っておきたいことがあるんだ、空夜」
 言われて、咄嗟に空夜が困惑したことが分かったのだろう。少しだけ可笑しそうに、神父は小首を傾げた。そのまま続ける。
「予言者殿の言葉を、信じて欲しい」
「……なんだって?」
「わたしが言えるのは、ここまでだ。絶対に言うなと、もう何年も前に口止めされていることだからね。本当は、この言葉すらも口にしてはならないのかもしれない。それでも、これだけは頼みたい。どうか――信じて欲しい」
 信じろというのは、あの、予言のことだろうか。
 儚く霞む、夕焼け色の友人の姿を思い出す。あれを信じろと、この男までがそういうのか。
「空夜、あの、予言者様のことなのですけれど――」
 琥珀が何を言おうとしているのかを把握できずにいると、また、別の声が割り込んできた。時人だ。
 時人と悠灯の関係は、ちっとも良くならない。面倒を見てやってくれと頼めば、一言で断られる始末だ。そして時人はと言えば、やはり悠灯に対しては恐れのようなものを拭えずにいるらしい。予言者のことを語る際の時人の声は、いつも少し固く、震えて聞こえた。
「悠灯が、また何か言ってきたか?」
「違います。あの、わたしにはひとつ、どうしても気になることがあるのですが――」
 時人は機を得たとばかりに、しかしそれを口にしても良いものかと迷っているように、何かを告げようとする。が。
 少年のその言葉を、最後まで語らせずに遮るものがあった。琥珀だ。
「時人。それは、口にしないでおいていただけますか」
「……では、まさか、ほんとうに……そうなんですか」
「ええ、多分。あなたの考えていることは正しい。それはわたしが、絶対に言うなと、また、誰にも言わせるなと約束させられた、そのことです」
 ですからあなたも言ってはいけませんよ、と、神父は微笑む。時人はそれに納得したのか、数回頷いて応えていた。
 空夜には何のことを言っているのか分からない。だがそれは、よくあることだった。今更気にする程のことでもないだろう。
 琥珀が今度は、空夜に語る。
「――時人が時間を止める、その後の話をしよう、空夜」
 それは突然に出された、全く新しい話題だった。
「きみが時計の螺子を巻き戻さなければ、時間は流れることも戻ることもなく、ただ世界は静寂の元に停止する」
 どうして琥珀がそんな話を始めたのか分からず、空夜はただ黙ってそれを聞く。
「そのまま、世界を停止させるのも選択のひとつだとは、思わないかな」
 語る琥珀。空夜にはその意図が掴めない。
「……なんの話をしているんだ?」
「時が流れなければ、その結末を迎えることもないということだ」
 その結末。
 神父は予言者の言葉を信じろと言った。それは、予言者の告げる未来を信じろということなのだろうか。
 そしてその上で、何よりも正しく、確かなはずのその結末を、避けることができるのだと言いたいのだろうか。
「そうしろと言っているわけではない。ただ、それもひとつの未来だと思ってくれればいい。きみは未来を変えることが出来るという、それだけの話だ」
「おまえは、どうなんだ」
「わたし?」
「おまえは、どうなるのが、一番いいと思っているんだ?」
「……わたしがこの世界から抜け出すことは出来ない。世界そのものが停止してしまえば、わたしの時も停止する。それ以外に、わたしが終わる方法は無いのだろうな。だとしたら、そうだな、未来を語る以前に」
 神父は感情の読めない声で、囁くようにこう続けた。
「――わたしはあの時、きみを見殺しにするべきだったのかもしれないな」
 占い師が赤ん坊を殺してしまおうとしていた時。そんな「できそこない」は処分してしまえと激昂する占い師を、この男は止めた。必ず意味があると、その赤ん坊を助けた。だから空夜は、時人から大切なその役目を引き継ぐことが出来る。
 世界を、誰も続けさせることが出来ないように。「時人」が時計の螺子を巻き戻せないように。
 あの時、赤ん坊を助けなければ、世界は停止するより他、辿る道を無くしていたのだろう。
「琥珀!」
 その言葉に、空夜よりも早く、時人が声を上げる。
 琥珀は、冗談です、と時人をなだめた。冗談でもそんなことを口にしてはいけない、と、どちらが神父だか分からないようなことを時人が言うのを聞きながら、空夜はその言葉に込められた意味を探る。 
「……おまえは、もう終わりたいのか?」
「さて、そんな可能性があると考えたこともないからね。どうだろう」
  悠灯の言葉を思い出す。
(「世界が止まれば、あいつだって止まることができるからね」)
 その言葉こそが、神父の真意なのだろうか。だとすれば、彼は本当に空夜を見殺しにするべきだったのかもしれない。
 それを見抜いたかのように、あれは冗談だよ、と、琥珀はもう一度繰り返した。そのまま、続ける。
「わたしが昔、きみを殺さぬよう、王に言った言葉は本当だった。きみには生まれた意味があった。わたしがきみを生かした。……わたしのこの存在も、無駄ではなかった。そういうことだと思おう。その一点において、ただそれだけのために、わたしは世界にとって必要だったのかもしれない。意味はいつだって後付けで、無理やり見つけることができるものだ。……そう思える程度には、わたしはこの世界に飽きてはいないのだろうね」
 悠灯は琥珀に気をつけろ、と言った。あの男が終わりを願うのならば、この世界を終わらせるしかない。そう言った。
 しかしそれを聞いても、空夜には悠灯の言うようにはどうしても、思えなかった。確かに友人の言ったことは、間違いではないだろう。琥珀がそのことに気付いていないわけでもないだろう。
 理由は分からなかった。ただ、この神父が、その道を選ぶことはないだろう、という確信だけがあった。
 それは根拠のない確信だった。信じていたものは、神父が世界に向けるまなざしだ。
 彼は空夜に名前をくれた。「できそこない」をたったひとり擁護し、青く広がる空の名をくれたこの神父を信じていたのだ。たとえ何もない、空っぽの存在であったとしても、そこに多くのものを受け入れていけばいい。そう意味を与えてくれたこの男は、きっとまだ、世界を見捨てることはしない。だからこそ。
(……ひとりきり、か)
 このまま空夜が時計を巻き戻し、世界が続いたところで、彼だけは永劫に生き続ける。
 琥珀はこれまで一度だけ、自らのことを「ひとりきり」だと称した。どれほど誰かと親しくなったとしても、いずれはひとりきりにならざるを得ない身だと、そう言っていた。世界が続く限り、琥珀はいつまでもひとりきりだ。
 最初から孤独なのではない。どんなに親密になったとして、必ず迎える結末として、絶対の孤独があるのだ。その神父は、記憶の中にあるのと変わらぬ表情のままで、言葉を続けた。 
「だからわたしは、この世界が止まってしまうのは、少し残念に思うよ」
 きみにいなくなれと言っているわけではないけれどね、と神父は付け加える。その言葉に添えられる笑みは、いつもと同じように、感情の読み取れない、ただ微笑むための微笑だった。どちらの結末を迎えることになっても、きっと琥珀のその表情は変わらない。
「わたしは全てを忘れない。きみのことも、予言者殿のことも、そして時人、あなたのことも。この身が永遠に続くというのなら、その記憶も永遠に続く。……わたしは、きみたちのことを忘れないよ。死ぬことはないから、ずっと覚えていることができる。それは」
 琥珀は間を置くように一旦言葉を切り、そして一拍後、再び口を開いた。気のせいか、その声が少しだけ、弾んでいるようにも聞こえる。
「――なんだか素晴らしいことのようにも思えないかな」
 それに答えることは出来なかった。空夜が何を言ったところで、琥珀の視線に到達することは叶わないのだろう。一体、どれほどの長い時間その微笑みを浮かべてきたのか、想像することすら出来ない空夜には、とても返す言葉は見つからなかった。
 それでは、と一礼して、神父は回廊を国王の執務室へと歩んでいった。足音を立てない神父の歩き方は、存在そのものを表すかのように、とても静かだ。
 ひとりきり。
 その後ろ姿を見送りながら、その言葉を心の中で繰り返していると。
「あの」
 上着の裾が、遠慮がちに引っ張られた。同じように遠慮がちな声が、空夜を引き戻す。
 時人が気遣わしげな様子で、こちらを見上げていた。手にしたうさぎのぬいぐるみも、やはり同じように空夜を見上げている。
「あの、この子を直してあげてください、空夜」
 考え込んでいるらしい空夜を不安に思ったのだろうか。少年は不自然なほどの明るい声で、そう言ってきた。この子、と、赤い目のうさぎを掲げる。
 そうだったな、と少年に答えて、空夜はその銀色の髪を撫でた。柔らかな手触り。世界から消えてしまうということは、もう何にも触れられないということになるのだろうか、と、ぼんやりと意識の隅でそんなことを思う。それが悲しいわけではない。
 自分に出来ることをやろうと、決めたのだ。時計の螺子を巻き戻そうと、そう決めたのだ。
 それを迷ったことはなかった。嫌だと思ったこともなかった。
 ただひとつ、答えの出ない疑問だけが残った。自分が消えるくらいのことは、簡単に納得できたのに、考えれば考えるほど、上手くいかない疑問だけが残った。一番大切な答えだけが、どうしてもまだ見つからない。どうすれば、自分が幸福であれと望むものが皆、笑っていられるのだろうか。
 それは世界を続かせることよりも、ずっと難しいことのように思えた。

≪モドル ■ ススム≫


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