index > novel > 時人の鐘 > 1章 『ねじまく世界 /2』


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 教会は街門を抜けて、まっすぐ城へと伸びている大通りの中間にあった。
 そこは街門と王城の、ちょうど中間に位置している。遠く上空から見れば、この街の全景は丸く円を描いていて、その円の中心にあるのが教会だ。
 本当なのかどうかは知らないが、その円の中心はつまり、世界そのものの中心でもあると、教会の神父が言っているのを聞いたことがある。本当なのかどうかは知らないが。
 教会は街道の真中に、静かな空気を纏って建立していた。ここまでくれば、城まではもう少しだ。神に祈りを捧げに来た者や、学校の帰りらしい子どもたちで教会前の広場は賑わっていた。
 にもかかわらず、教会だけは静けさそのものの中に立ち尽くしている。
時人は立ち止まり、顔を精一杯上に向けて、聖堂の天辺を見上げている。好奇心とは違う、真剣そのものの視線を空夜も辿った。時人が見上げた先にあるのは――鐘楼だ。
 教会の鐘。時人はそれを見ている。
(……ああ、そうか)
 空夜はひとり、納得する。時人の真剣なまなざしも、彼がそれを見つめてじっと動かない理由も。
 銀色の鏡は、ただ真っ直ぐに教会の鐘を見上げている。
「……鐘か」
「――はい。ずっと、この目で見たかった……」
 綺麗ですね、と言って、時人は空夜を見て微笑む。
 いくぶん人間らしいその表情を見せた時人に、何故だか分からないままに安堵のようなものを覚える。
「ありがとうございます、空夜。次は、時計を」
「ああ」
 時人のその表情に、空夜は気付く。街道を歩き始めてから、誰かにすれ違うたびに時人はあの、凍った鏡のような笑顔を向けていた。それに違和感を覚えたのは――最初に時人が空夜に見せた顔が、あまりにそれとかけ離れたものだったからだ。「みつけた、あなただ」というあの言葉とともに空夜に向けられた時人の表情は、むしろ、今の鐘を見上げていた顔に近かった。ずっと憧れていたものや、懐かしいものを見るような眼差し。それを、空夜に向けるということは、つまり。
(おれを、哀れに思っているのかもしれないな)
心の優しい者が、これまでに空夜にそう接してくれたように。ましてや時人は、空夜とは違う。本物の「時人」だ。そのことに罪の意識を感じているのかもしれない。そんな、気がした。こんなに小さな子どもが、そんなことを気にする必要はないのに。
「……空夜? どうかしましたか?」
「なんでもない。時計は、教会の中だ。……この時間だと、あいつしかいないはずだな」
「あいつ?」
「会っておくべき相手なのかもしれない。行くか」
 教会の重い扉を押し開ける。扉を開け、内部へ足を踏み入れれば、そこはもう神の住まいだ。街道や広場のざわめきは、一瞬にして遠くへ消え、ただ静寂だけが、空夜と時人を迎え入れた。扉を閉めた途端、時人は歓声をあげた。
「すごい……鐘も美しいものだったけれど、こちらは、もっとすごいですね、空夜」
「そうかな。おれには、よく分からないけれど」
「いいえ、あなたには分かるはずです、空夜。この世界で、あなたとわたしの2人にしか、この時計を本当に理解することはできない。あなたには分かっているはずです、空夜。あれは、ほんとうにすごい……!」
 真っ直ぐに大聖堂の奥を見て、時人は熱っぽく口早にそう言う。
 空夜は時人が言いたいことがよく分からなかった。この世界で、時人と空夜の2人だけが。時人はそう言ったが、それは違う。この時計を本当に理解できるもの。それが出来るものがいるとしたら、それはこの時人ただひとりだ。現に今、時人は頬を蒸気させて、それとの邂逅を喜んでいる。ほんとうにすごい、と手放しで讃えるほど、時計に魅せられている。
 空夜も時人に倣って、時計に近づいてみた。
 この街にも、他に小さな教会がいくつかある。揃って大きなオルガンが設けられているその位置に、この大聖堂には大きな時計が佇んでいた。建物の中にいることも忘れそうな高い天井は、すべてこの時計のためだ。先ほど、外で鐘を見上げていたのとまったく同じ姿勢で、時人は背伸びをして時計を見上げていた。天井に近い位置にある文字盤の彫刻ひとつひとつを読み取ろうとでもするかのように、懸命に時計を見上げていた。
 空夜には、そんな風に瞳を輝かせるようなものにも見えない。ただの大きな時計だと思う。古くて、金や銀の細工が剥がれかけている。浮き彫りにされた鳥のモチーフには、確か宝石の瞳が埋め込まれていたはずだ。今は、ほとんどの鳥が、ただの窪みだけを残している。文字盤の字がやたらと大きく、今では使われていない古い文字で数字が記されている。それを指し示す針も、ここから見上げるのではよく分からないが、きっとそれなりに大きいはずだ。短針と長針が白い文字盤に、静かに止まっている。秒針はない。時計の内部の歯車が動く音も、まったく聞こえない。もしかしたら微かに音を立てているのかもしれないが、こうして時計を見上げている空夜には、まったくそれが聞こえない。と、カツン、と、大きな硬い音が教会内に響いた。長針が動いた音だ。止まっているように静かなこの時計は、だが確実に時を刻んでいる。今は、まだ。
 その時、もう一度、カツン、と音がする。今度は、時計の音ではない。
「これは――」
 背後から、かかる声。空夜はその、誠実そうに響く声の主をよく知っていた。振り向く。
「空夜。珍しいな、きみが自分からここに来るとは」
「別に、来たくて来たわけじゃない」
「……おや。と、なると……ああ、あの子だね」
 声の主は振り返った空夜の目を見て、にこりと微笑む。聖職者らしい、真っ白な紙のようなその笑顔が、空夜は昔から苦手だった。何も描かれていないことは、確かに清い。親しみも優しさも伺い知ることのできない笑顔は、確かに清い。だが、そんな笑顔を向けられて喜ぶような人間には、どうしてもなれなかった。神父服を纏ったその男は、時計を見上げている時人の姿を見つけて、意外そうに言ってくる。
「ずいぶんと幼いね。これまでとは違う」
「そうなのか?」
「時人に関しては、正式に記録として残されてはいないからね。わたしが知っているのは3人ばかりだが、違う。これまでは皆、そうだね、きみぐらいの年の頃だったと思う」
 2人の人間が、自分を見ていることに気が付いたのか。それとも、ただ話し声が聞こえたからなのかは分からないが、時人が見上げていた顔を、空夜のほうに向ける。そこではじめて、空夜と言葉を交わしているもうひとりの人間が目に入ったようだった。見るからに教会の人間然としている男に、時人は直角に近い角度で頭を下げた。
「今度のあなたは、とても可愛らしいお姿でいらっしゃいますね、時人」
 深い礼をされて、神父服の男は時人の前にひざまずいた。そんな反応を返されたのが意外だったのか、時人ははじかれたように顔を上げた。その視線をとらえて、男は微笑む。
「琥珀と申します。……ここで、あなたの時計を見守るのが、わたしの仕事です」
「こはく。知っています。美しい石の名前ですね」
 名乗った男――琥珀に対して、時人はそう答えた。子どもらしいと言えなくもないその返答に、琥珀は時人の銀色の髪を撫でる。
「そうです。よく知っていますね。
――わたし自身は石というよりも、むしろ、その中に閉じ込められた虫のような気分なのですが」
「……?」
硝子を通して教会内に降り注ぐ光を浴びて、淡く茶に透ける髪。同じ色をした瞳を微笑みのかたちに細め、琥珀は不思議そうな顔をした時人に告げる。
「よく、来てくれましたね。時人。その小さな身体では、長旅は辛いものだったでしょう。城にはあなたをお迎えする準備が整っているはずです。直に、ここに迎えの者が来るはずです」
「あの」
 琥珀の言葉を、時人が遮る。
「あなたは、『時人』のことを、よくご存知なのですか?」
「ええ。こうして直接お会いするのは、あなたで4度目です。今回も、わずかながらのお手伝いをさせていただくつもりですよ」
「だったら……だったら、お話しておかなくてはいけないことが、あります」
 そう言って時人は、空夜を見た。銀色の目が、風が撫でる水面のように、かすかに揺れて見えた。
 空夜と目が合い、時人は一瞬言葉に詰まったようだった。言わないといけないことが、どうやら空夜に聞かれたくはないこと、なのだろう。外に出ていようと思い、空夜が琥珀にそう告げようとするより先に。
「分かっています」
 琥珀が、そう言った。
「時人。あなたのおっしゃいたいことは、おそらく全て、分かっています。だから、なにも心配することはありません。全て、滞りなく」
「どうして……ですか?」
「わたしはこの場所において、すべての過去を引き受けた身です。
 そしてそのわたしと同じように、ここにはすべての未来を引き受ける者が存在するのですよ」
「……その人が、滞りなく、と?」
「ええ」
「……分かりました。あなたを信じます、琥珀」
 信じます、というその言葉と同時に、時人は小さくうつむいた。心の底から、それでいいと納得はできないのだろう。経験というのなら、それだけは確実に多く持っているであろう琥珀が、そんなことも見抜けないはずがない。しかし神父は、そんな時人に微笑みを向けただけだった。
「ではわたしは、少し約束がありますので。ごゆっくり、時人。また、いつでも遊びにきてください」
 それだけ言って、時人の前に跪いていた琥珀が立ち上がる。口を挟むこともできずに、ただその2人の様子を見守っていた空夜に目を向けて、彼は微笑んだ。
「そういえば、予言者殿がきみを探していたよ。何か約束でも?」
「特に、覚えはない。またいつもの気まぐれだ。本当に探しているわけではないだろうし。
……おれの居場所くらい、知ろうと思えば簡単なはずだ」
 空夜がそう言うと、琥珀は肯定とも否定ともとれる動作で、ゆっくりと一度だけ頷いた。
「そうかもしれないし、そうではないかもしれない。……ではね、空夜。時人を頼みます」
「ああ」
 琥珀が聖堂を出るときに閉めた扉の音と、時計の針が動く音が重なる。
 空夜は時人を見た。少年はまた、先ほどと同じように、時計を見上げている。
「……本当にこれが世界の時間を動かしているなんて、おれにはまだ信じられないな」
 時人の隣に並んで、空夜もそれを見上げる。独り言のようにそう呟くと、時人が驚いたように言葉を返してきた。
「――あなたがそんなことを言うなんて! 目の前にわたしという人間がいても、まだ、信じられないと言うんですか?」
「いや、実際は分かっているんだと思う。……理解はしているんだと思う。時人の存在がどれほど重要なことか。それはなんのために重要なのか。おれは、それができなかったから、今ここにこうしているんだから」
「……あなたのことは、ともかく。この時計が世界の時間と連動しているのは、本当です。そしてそれは、これまでの歴史どおり――もうじき、止まる。この時計は、決められた分の時間しか時を刻めない。だから、このままではこの時計は止まる。時計が止まれば、世界の時間も止まる。……だから、わたしたち、『時人』は」
「時計の螺子を、巻き戻す。……何百年だか、何千年だか知らないが。それだけの時間、また時計が動き続けられるように。世界を続かせるために。それが『時人』だ。そうだろう?」
「その通りです。それは、わたしたちにしかできない」
 誇りを持って、というよりも、どこか、重すぎる役目に自信を持てないでいるような顔をして、時人は肯いた。そのまま、言いにくそうに、だが何か言いたそうに、じっと空夜の顔を見る。
「あの……これ、を」
 いくぶん逡巡しながら、時人は胸元から何かを取り出し、それを空夜に手渡す。時人の髪や瞳と同じ、銀色の小さなもの。細い鎖のついたそれは、小さな銀時計だった。時人の小さな手のひらにも十分おさまる、とても小さな銀時計だ。
「これは?」
「よく見てください。これを、知りませんか?」
 言われて空夜は、小さな時人の手から受け取ったそれをよく見る。懐中時計と言うには、あまりに小さい銀時計。ふと、瞬間的に感じられる違和感があった。
「……逆回り……なのか?」
 文字盤は、普通の時計と同じ表記をされている。だが、時を刻む針は、まるで鏡に写されているように、逆方向に進んでいた。「世界の時計」とは違い、この銀時計には秒針も付いている。その秒針は、カチカチと細かな音をたてて左回りに進んでいた。
 時人が口を開く。
「そう。それは、この教会の時計と、ちょうど反対の位置に存在するものです。その銀時計は、世界の残り時間を刻むための時計なんです。その銀時計が止まるその時には、この教会の時計を巻き戻さなくてはならない。――『時人』の、証である銀時計です」
「証?」
「『時人』は、生まれてくるとき、それを手に握っているのだそうです。銀色に祝福された子どもが、右の手のひらに小さな銀時計を持って生まれてくる。……それが、『時人』です」
「まるで、他人事のように言うんだな」
「……空夜。もう一度、聞きます。これに、見覚えはありませんか?」
「ないな。逆さ回りの、こんな小さな時計なら、一度見たら忘れないだろうと思う。……おれは、今はじめてこれを見たよ」
「そうですか」
 落胆したように、時人は肩を落とした。空夜にその理由は分からないが、時人にとってはそれがとても残念なことらしい。小さい身体が、いっそう小さく見える。
 空夜は時人に、銀時計を返した。
「大事なものなんだろう。ありがとう、見せてくれて」
「……はい」
 時人はそれを受け取り、また胸元にしまう。そうして、まだ何か言いたそうに、空夜を見上げる。
「空夜、あの……」
 時人が口を開いた、その時。
 琥珀の言っていた「迎えの者」が到着したことを告げる、誰かの声がした。


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