index > novel > 時人の鐘 > 1章 『ねじまく世界 /1』
1. ねじまく世界 | ||
見上げた空は青かった。 どこまでも広がり、世界を覆いつくす青い天蓋には、一点の白も存在しない。雲ひとつない、澄んだ空。それを見上げて、心の底から晴れやかな気分になるものもいれば、なにもない、虚ろなものだと思うものもいる。 ……見上げた空は、青かった。 待機を指示された街門の前で、空夜はぼんやりと空を見ていた。 別段、それが好きというわけではない。ただ、他にすることがなかったためだ。 天気の良い、昼下がり。 空夜は人を待っていた。もう、手紙で言われた時間を、随分と過ぎている。 空を見上げる視線を少しずらして、街門を見る。 一見して砦のように重厚な門は、同時に国境警備にあたる兵士たちの詰め所も兼ねている。休憩中なのだろうか、若い兵士がひとり、窓から身を乗り出して外を見ていた。何を見ているでもなく、ただ門の外に伸びる街道を眺めているようだった。遠くに、小さく一台の馬車が見える。 ――あれだろうか。 空夜の待つ相手は、遠方からの旅人だ。深い森を抜けて、山を越え、そして長い長い道を経て来るはずの相手だ。しかし今、こちらに向けて足を進めている栗毛の馬の引いているのは、そんな長旅にはおよそ相応しからぬ、やたらと立派な馬車だった。 待ち人ではなく、貴人の誰かが旅行にでも行っていたか。 そうとしか思えない程に、装飾華々しい馬車だ。他にすることもなしに、それを見ていると、ふと、上方から視線を感じた。 見れば、先ほどの兵士が空夜を見下ろしている。その顔はよく見えないが、その視線に込められたのが好意ではないことははっきりと分かる。空夜は知らない人間だが、どうやら相手にとってはそうではないらしい。顔を上げた空夜と目が合い、兵士は舌打ちしたように感じられた。そのまま、何事か呟いたらしい。言葉が聞こえるはずもないまま、唇が小さく動くのを見せたのを最後に、彼は窓から身を引っ込めた。 何を言われたのかは分からないが、想像は付く。ろくなことではあるまい。いつものことだ。 街道に目を戻す。 馬車は少しずつ、街門のほうへと近づいてきていた。 時が来たのだと、生まれ故郷から届いたその手紙は告げていた。 送り主は名前を記してはいない。ただ空夜のするべきことを、空夜にでも出来ることを全うするように、と、それだけの用件を送ってきた。 「彼」が使命を果たすために、おまえにも、出来ることがある。 そのことを光栄に思うように。 手紙はそんな言葉で結ばれていた。 (……光栄に、か) お願いをする態度ではないその文章に、激しく腹を立てていた友人のことを思い出す。 これが人にものを頼む態度か、と言っていた友人の気持ちも分からないではないが、しかし空夜本人にとっては、手紙の内容も、その文章も、そう書かれて当たり前のようにしか思えない。彼らにとって、空夜は敵でこそないかもしれないが、決して受け入れるわけにはいかない存在だった。そのために、一緒にいることは許されず、遠いこの街まで連れてこられたのだから。 「彼」が使命を果たすために、出来ることがある、というそのことが、果たして本当に光栄なものかどうかは分からない。だが。自分がその『彼』を手伝わないわけにはいかないのだということは、空夜にもよく分かっていた。 (……自分には出来なかったことをやってもらうんだから、な) それは誇りとは違う、むしろ罪悪感に近い感情からではあったけれども。 空夜は「彼」を、手助けしなければならないのだ。 馬車が止まる。 詰め所の中から数人の兵士が走り出る。旅帰りの貴人かもしれない、と空夜は思っていたのだが、馬車が到着した今になっても、それらしき出迎えのものは現われない。検問のために出てきた兵士たちを除けば、いま、ここにいるのは空夜ひとりだった。これだけの馬車の持ち主であれば、誰か家のものや、招待主などが必ず出迎えに来るはずだ。それが、誰もいない。ということは。 御者が、兵士に書類を見せている。それを受け取る兵士たちも剣呑な雰囲気は漂わせてはおらず、のんびりと世間話のようなものを交わしていた。馬車に乗っているのが自分の待っていた相手かどうか分からないまま、その様子を伺う。身分を証明するものとして、一応、あの手紙は持ってきている。それを見せれば―― と、空夜が御者の方へと足を向けた、その時。 「――あ」 ばちんと音がして、荷台の扉が開く。 その中から飛び出てきたのは、銀色の、小さなかたまりだった。 「……あ!」 歓声のようなものを上げて、銀色は地面へと飛び降りた。小さな、その声の主は。 ――銀色の髪と、瞳の。 幼い少年だった。 「……まさか……」 その姿を確認して、空夜は思わず送られてきた手紙を見直す。 確かに、出迎えるべき相手の容姿や年齢などについては、一切触れられていない。 だが、まさかこんな、小さな―― 「みつけた」 予想外の待ち人に、驚くやら呆気に取られるやらで、言葉を失っている空夜に。 銀色の少年は子犬のように駆け寄り、そして、首をほとんど直角に上向けて、空夜を見上げて言った。 「みつけた……あなただ!」 はじめまして、よりも何よりも先に。少年は、そう言って、にっこりと微笑んだ。 空夜を見上げて、それは嬉しそうに微笑んだ。 出迎えの人間に対しての第一声とは思えないな、などと内心で思いながら。 空夜は不思議な感覚にとらわれていた。 見たこともない、銀色の髪と瞳をした少年に、眩しいほどの笑顔で告げられた言葉。 (「みつけた……あなただ!」) その少年の言葉は、以前、ずっと昔にも耳にしたことがあるような気がした。 「あなたのお名前は?」 馬車から降りたまま、銀色の少年はそのまま空夜の隣を歩いている。 こどもと並んで歩くことなど、あまりない。そのため、どうしても距離が開いてしまう。遅れるものかと、少し早歩きに付いてくる少年が、そう尋ねてきた。 「空夜」 「……くう、や。どういう、意味なのですか?」 「なにもない夜、だそうだ」 とても重要なことを教えてもらったように感心したような息を付いて、少年は何度か頷いた。空夜は尋ね返す。 「おまえは?」 「わたしは、時人です」 子どもらしい好奇心に満ちたその表情には似つかわしくない、おとなびた物言い。 「……それぐらいは知っている。手紙で聞いているからな。おれは、おまえの名前を聞いているんだ」 時人。 それは、その少年の呼称であることは間違いない。だが決して、名前と呼べるものではないはずだ。 時人とは、そういうものであるはず、だが。 銀色の少年は、空夜が何を言いたいのか理解できない、と言いたげに首を傾げ、もう一度繰り返す。 「だから、時人。ときと。それがわたしの名前です」 「名前、なのか?」 「そうですよ」 「……そうか。それなら、時人。ひとつ、聞いてもいいか」 「なんです?」 「どうして、馬車だけ先に行かせたんだ。長旅で疲れているだろう? さっきも言ったが、街までは結構距離がある。わざわざ、歩いて行くこともないと思うが」 「――時計に」 時人はそこで一旦、言葉を切る。 「空夜。時計に、会わせてもらえますか?」 やるべきことを知っている者に特有の、まっすぐな視線で。 そう言った少年の銀の瞳は、まるで鏡のように静かに空夜と頭上の青い空を写していた。 世界の時計。 この街で「教会」といえば中心部にある大聖堂のことを意味するのと同じように、この街で特別な意味を込めて「時計」と言えば、それはたったひとつの時計を表している。 世界の時計は、文字通り、世界の時間を刻む時計だと言われている。 そしてそれを巻き戻すことのできる存在。それが「時人」だ。 その時人を連れて、空夜は街道を歩く。人通りが多いとは言いがたいが、それでも時折、警備兵とすれ違った。誰もが空夜を通り越して時人に目をやり、おや、という顔をし、そして微笑みかける。銀色の髪、銀色の瞳。そして彼らの所属を明らかに物語る装束。時人が時人であることを、その外見のすべてが説明している。すれ違っては時人に笑顔を向ける人々に対し、少年は不思議そうに空夜に尋ねてきた。 「……この街の人々は、皆、わたしのことを知っているのですか?」 「ほかの街はどうか知らないが、少なくともこの街に住む人間なら、時人のことはよく知っていると思う。ここは、そういう場所だからな」 「そうなのですか……」 時人は、少しだけ落胆したようにうつむいた。それを不思議に思いながらも、続ける。 「……この街の住人は、皆、時計の傍にいられることを誇りに思っているんだよ。だから、時人のことも誇りに思っている。皆、おまえが大好きなんだ」 空夜のその言葉には答えず、ただ、時人は微笑んだ。往来ですれ違う人々が彼に向けるものと似たその笑顔は、空夜に少しだけ、不安を感じさせた。幼い子どものはずの時人が見せたその笑顔は、とうてい子どもらしいとはいえない冷えた空気を纏っている。それはどこか、歪んだ鏡に写された鏡像を見せられているような気分にさせるものだった。少しでも力が加えられれば、容易に砕け散りそうな鏡。その薄氷のような鏡に似た笑顔は、なぜだか、とても脆く感じられた。 大好きだというその言葉を、まったく嬉しく思っていないように感じられた。
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