index > novel > 時人の鐘 > 4章 『時はたそがれ/1』
4. 時はたそがれ | ||
神は子どもたちに、ひとつの世界を与えました。 子どもたちが退屈することのないように。いつまでも、遊び続けていられるように。 たくさんの遊具とひとつの世界を、子どもたちに残していきました。 だからふたりは、いつまでも一緒に、飽きることなく遊び続けることが出来るはずでした。 なにしろ神が残していったその世界は、いつまでもずっと、終わらないように出来ていたのですから。 気がつけば、自分の周りには誰も居なかった。 だからそれが自然で、寂しいことなのだと思うことは無かった。時折、優しい誰かがこう言ってくれた。泣かないで、偉い子だ、と。いつもひとりで寂しくはないのか、と聞いたあとに、そう言ってくれた。 それが寂しいことなのだと思ったことはなかった。物心ついたときから、自分の周りには誰も居なかった。 生まれたときからそうだったと教えてくれたのは、決して死ぬことのない身体を持つと言われている神父だった。 きみは「できそこない」だと言われ、生まれ故郷の人間から捨てられたのだよ、と教えたその声は、とても穏やかだったのを覚えている。 不思議と、それを聞いて、納得するものがあった。 だから、寂しいと思うことなど無いのだ、と、納得することができた。 元々なにかを手にしていなければ、それを失って悲しむこともない。 最初から何も持っていなければ、それが無くなって寂しいと思うことなどない。 自分は生まれたその時から、空っぽだったのだ、と、妙に納得することができたのは、どうしてだっただろう。 神父の言葉は、今でもよく覚えている。 「だからわたしは、きみをそう名付けた。空夜。それがきみだ」 さびしい夜。なにもない夜。空夜。 「そこには何もないかもしれない。だからこそ」 この名前の意味を尋ねたのは、どれほど前のことだっただろうか。 「――だからこそ、誰よりも多くのものを受け入れられるかもしれない」 そうだね、これは一種の祈りだ、と記憶の中で微笑む神父は、今でも変わらぬ笑みを浮かべたまま、同じ場所に存在し続けている。 足音というのはその人の思考を辿るように、ひとりひとり違うものだ。 聞き覚えのある足音が近づいていることを感じて、琥珀は時計を見上げていたその視線を、聖堂の入り口へと向けた。 開け放たれる重い扉。差し込む光とともに、茜色の予言者は教会に現れた。 彼は儀式用の正装をしていた。琥珀にとっては見慣れたその服装だったが、そのまま街を歩いてきたのでは、さぞかし人目を引いたことだろう。最も、予言者はその程度のことなど、気にも留めないのかもしれない。彼は見られるものではなく、見るものなのだから。人間を、世界を、そして未来を、常に見るものの側にいるものなのだから。 悠灯は長い裾を邪魔そうに払い、身廊を歩む。彼の機嫌の悪そうな顔は、いつものことだった。挨拶の言葉はない。これも、いつものことだ。 「琥珀」 呼ばれる名前。ぼくは怒っているぞ、と、子どものように感情を真っ直ぐに伝えてくるその声に、神父は思わず苦笑した。それが面白くなかったのだろう。悠灯は一層、苛立ったような顔をする。 「どうして顔を出さなかった。今日は国議の日だと、おまえにも召集が出ていたはずだろう」 「あなたならば、わたしがそこに行かないことを最初からご存知だったはずですが」 「ああ知っている、何でも知っている。おまえが今から二言後に口にする言葉は『確かにそうかもしれません』だ。だけど、分かっていても言わずにはいられないこともある。だいたい、ああいう場に向いているのはおまえだろう。適当に笑って誤魔化すのはおまえの役目だ、ぼくじゃない」 予言者は早口にまくしたてて、疲れた、と祭壇に背中をもたれかける。 「陛下はご立腹だったぞ。あの方はおまえがお気に入りだからな。ぼくだけでは不満らしい」 余程、面白くないことがあったのだろう。予言者は吐き捨てるように言い、天井を仰ぐ。 天窓から差す光の筋に軽く目を細めて、悠灯はひとりごちるように言葉を紡いだ。 「あの方は神にでもなった気分なんだろうな。ぼくと、そしておまえを従えることで、右手に未来を、左手に過去を手にしたつもりなんだろう。ぼくの前には、あの占い師だった。そしてぼくが居なくなれば――また、誰かそういった奴を連れてくるんだろうな。おまえは死なないし」 国王は今日のように、人を集める日には必ず、その場に悠灯と琥珀を従えた。予言者と神父に与えられるのは、国王の両隣に控える権利だ。右手に未来を、そして左手には過去を。そしてその中央に自らを配置することで、悠灯の言ったように、時間そのものを手中にしているような気分になれるのだろう。琥珀にとっては、可愛らしい思い上がりにしか見えないそれが、悠灯にとっては随分と腹立たしいものであるらしい。 両手に過去と未来を従えた王は、まさしく「世界の時計」を有する都市を治め得る者だと、近隣諸国にもそう言われていると聞く。死ねぬ男と、予言者と、そして「時計」。それがこの国の王を支える、三つの柱。 その柱のひとりが、忠義を感じさせない物言いで王を評する。 「ぼくはあの方が嫌いなわけじゃない。……ただ、気に入らない。あの方のそういうところは、気に入らないな」 「今日は随分と、ご機嫌が悪そうですね」 「いつもだ」 「確かに、そうかもしれません」 「ほら、やっぱり言った」 うんざりしたように、予言者。そういえば、先程彼は小さな予言をした。琥珀が二言後に口にする言葉。言われると分かっている言葉を聞かなくてはならない身、それが彼だ。未来を見る力などない琥珀にとっても、欠席を咎められた国議は退屈で仕方のないものだった。予め何が話されるのかを全て知っていて、それでも自分がその場に居なければならないことを知っている。それが予言者自身の未来だから、そこに居なければならない。自分の意思は関係ない。そこに必要とされているのは、「悠灯」ではなく、予言者としての機能だ。どう考えても、悠灯の不機嫌はそれに起因するのだろう。 「……ご期待に沿えず、申し訳ありません、予言者殿」 苦笑した琥珀の言葉に、悠灯は面白くなさそうに、ひとつ息を吐く。 「どいつもこいつも、ぼくの知っていることしか言わない。ぼくの知っている顔しかしない。ぼくの知っている通りにしか動かない。決められた脚本を、一字一句間違えることなく完璧に演じきっている。たいした役者ばかりだ。……誰か、世界を裏切るような奴はいないのかな」 馬鹿げたことを言っている、と自覚しているような口調で、悠灯は呟いた。琥珀がそれに対して何か言葉を返す間もなく、その呟きを取り消すように、彼は話題を変える。 「時人が来ていたんだろう、あの子どもも暇だな」 「仕方がありません。……時計が気になるのでしょう。もう、残りの時間は僅かなのですし」 予言者の言う通り、確かに先程まで、時人がこの場にいた。最近では、時人は空夜を連れずに、ひとりで教会を訪れることが多い。 少年は、その時を告げにきていた。時計を巻き戻す日。時人が世界を止める日。 空夜が時計を巻き戻す日。 その日を、告げに来ていた。空夜を連れずに、ただひとりで、それを琥珀に知らせに来た。 だから琥珀は、城へは行かなかった。何の連絡もなしに欠席され、国王はさぞかし面白くなかったことだろう。しかし、あの意味のよく分からない国議と、「時人」とでは、どちらを優先するべきかは明白だ。それは、国王も納得せざるを得ないだろう。 何も言わずに、ただ立ち尽くして、精一杯にその顔を上向けて時計を見上げていた、銀の瞳の子ども。「時人」。 その役目を自分ひとりで果たすことは出来ない、銀の瞳の子ども。時人。 これまでに見送った、「時人」たちのことを思い出す。自分と引き換えに世界を続けさせられるということは、彼らにとって幸福だったのか。琥珀は尋ねたことがあった。自分自身が消えうせてしまうということ。それは、「時人」として、世界を存続させる英雄として、幸せなことだと受け止められるのか。 彼らは皆、琥珀の言葉を否定した。世界を続けさせるのは、自分の役目であると。 自分を引き換えにするなどと、思ったことはないと、彼らは皆、同じ口調で答えた。 ただ、その役目を果たそうと思えば、その結果として自分は消えてしまうと。この世界から、居なくなってしまうと。 ただそれだけのことだろう、と、「時人」は皆、同じ口調で答えた。 幸福でも、不幸でもない。「時人」は、そして「時人」である自分はそういうものなのだと、彼らは皆、そう答えた。 もうじき時間を止める今度の「時人」は、その問いに、どう答えるだろうか。それは少年にとって、この上もなく嫌な質問になるだろう。 世界に新しい時間を与えようとすれば、自分ではない、他の誰かが消えることになる。そうして自分は、消えることなく、この世界に残ることができる。銀色の子どもは消えることはない。時計を巻き戻せないのだから。消えるのは彼ではなく、その役目を引き継ぐ、もうひとりの「時人」、空夜だ。 空夜は、嬉しい、と言った。その役目を任されて幸福だと、そう時人に告げた。 そう告げられた時人は、自分ではない誰かを生贄としなければならない少年は、幸せとは言えないだろう。手放しに自分が生き延びられることを喜べるほど、あの子どもは世界を愛してはいない。 幸福でも、不幸でもない。これまでの「時人」は、そういうもののはずだった。 だが、それは、これまでの彼らの話だ。 消え去る不幸を背負うはずのものが幸せだと微笑み、消えずに残ることのできる幸福なはずのものが、不幸せな感情に縛られる。 これまでの「時人」はひとりだった。だから幸せも不幸せも、おそらく、彼らの中にふたつともあったのだろう。 「時人」がふたりに分かれてしまった、だから彼らふたりは、お互いの存在を思わずにはいられないのだろう。言うなれば自分の半身なのだから。時人が空夜に懐いていたさまを思い出して、琥珀は小さく微笑む。本当に、人間というのは面白い。 「――琥珀」 神父のそんな感傷を見透かしたように、悠灯が彼の名を呼ぶ。その声はそれまでの調子とは違い、妙に素直に響いて聞こえた。 予言者は琥珀を見ていた。いつもの皮肉気な表情は、そこには見えない。ただ真っ直ぐに、琥珀を見ていた。 悠灯が人の顔を真っ直ぐに見ることなど、滅多に無い。その彼が、茜色の瞳を琥珀に向けていた。 「おまえに頼みたいことがある。渡して欲しいものが、あるんだ」 「……これは、これは。珍しいこともあるものだ。久しぶりに驚きましたよ、予言者殿。まさかあなたが、わたしに頼みごとをしてくださるとは」 「うるさい。おまえが一番確実なんだ、仕方ないだろう」 何しろ、死ぬこともどうなることもない男だからな、と不本意そうに付け加えて、悠灯は琥珀に、何かを差し出す。 「渡して欲しいものがある。ぼくがいなくなったその時に、絶対に渡して欲しいんだ」 手渡されたもの。それはずいぶんと古びた、手紙だった。 「手紙、ですか」 「そう。……渡してくれ。たぶん、もう、そんなに先の話ではないと思う」 その予言者らしからぬ言い方に、琥珀は思わず、言葉を返す。 「あなたにしては、不確かな予言ですね」 悠灯は何も言わない。 黙り込む予言者は、表情も固く、ただ琥珀の返答を待っているようだった。どうやら今の言葉は、口にして欲しくはなかったものだったのだろう。予め見ていた未来の中でも、琥珀は彼に向けて同じことを言っていたはずだ。聞きたくない言葉を繰り返し聞かされる身。不確かだということは、彼にとっては幸せなことなのかもしれない。 「分かりました、お引き受けしましょう、予言者殿。あなたが何か仰るようであれば、聞いて欲しいと別の者からも頼まれていることですしね」 「何だって?」 「以前、頼まれたのですよ。あなたがそう仰るのであれば、わたしは手助けをさせていただきます。彼に、そう約束しましたから」 「そう、か」 それを聞いて、悠灯は安堵したように、同時にどこか驚いたように、頬を緩めた。琥珀が誰のことを言っているのかが分かったのだろう。 「大切に、保管させていただきます。――あなたがいなくなる、その時まで」 琥珀がそう言うと、予言者は、ああ、と、小さく頷いた。 と、ふいに、空気が揺らぐ。 琥珀はこの教会から離れることはあまりない。そのせいか、教会に限り、かすかな空気の変化でも把握できた。この教会は長い時をともに過ごしてきた、彼の住処だ。外からの来客があれば、それを受け入れて空間が変わる。予言者のように、未来を予知できるわけではない。感覚として、それを知ることができるだけだ。 「誰か、来たようですね」 「――空夜だ」 すべてを見通す者である予言者は、弾むような声で、来訪者の名を告げた。友人の名を口にした瞬間、それまでの予言者としての表情は一転して、年相応の少年のものに変わる。 その言葉通り、聖堂の扉を押し開けたのは空夜だった。 聖堂内に視線を巡らす間もなく、彼は友人と神父を発見した。正装のままの予言者の姿に目を留め、空夜は若干驚いたようだった。 「……悠灯? おまえ、何をやってるんだ、そんな格好のままで」 「着替えるのを忘れた。それより珍しいじゃないか、ひとりで。あの子どもはどうした?」 「探しに来たんだ。……時人がここに来なかったか?」 琥珀は答える。彼が今のように、時人を探して教会に顔を出すのも初めてではなかった。 「来ていたよ。随分前に、城に戻ると言って帰って行ったけれども」 「……あいつ、またその辺りをフラフラしてるな」 呆れたように、空夜。 この街と城の生活にも慣れたようで、時人はひとりで教会以外にも出歩くことが多くなっているらしい。しかし慣れたとは言っても、土地勘のないままに歩き回ってはそのまま帰り道が分からなくなり、途方に暮れているところを空夜が探しに行くのだそうだ。 「時人」の生まれるあの郷は、山奥の小さな集落なのだと聞いている。この街も決して大きくはないが、確かにあの子どもの生まれ育った土地と比べれば、見るものも多いだろう。 ひとつため息をついて、空夜。 「仕方ない、探しながら戻る。悠灯、一緒に来るか」 「うん、そうする」 誘われて、悠灯は嬉しそうに空夜の後に続く。 去り際に予言者はもう一度、神父に目線を向けた。頼んだぞ、と、その未来を見通す瞳が念を押していた。 自分のいなくなった後のことならば、それは予言者にとっても知ることの出来ない未来の話になる。 それについて語ることや約束をすることは、彼にとってはとても幸せなことなのかも、しれない。 口に出してしまえば、一笑とともに相変らずだと言われてしまいそうな、そんな憶測。 予言者が常に馬鹿にして止まない、それは確かに単なる感傷だった。 小さいころから、空を見上げるのが好きだった。自分の名前にも含まれているからだろうか。 昔の記憶をたどろうとすると、必ずそこには空があった。青い空、重たく曇った灰色の空、夕暮れの赤い空。 いつでも、空を見上げていた。ひとりで、空を見上げていた。 寂しいと思うことなど、なかった。 けれどもいつからか、変わった自分がいた。 ひとりでなくなったのは、一体、いつからだろう。 寂しいという気持ちを理解したのは、一体、いつからだろう。 その言葉を聞いたのは、一体、いつのことだっただろう。 「――みつけた。きみだ」 その時見上げていた空が、夕焼けに染まってとても赤かったのは、よく覚えている。 とても、驚いた。 突然にかけられたその声に、とても驚いた。 石畳の街は沈む陽に、ただ暮れる空の色に染められていた。 教会の裏口の、石階段。そこで、ただ空を見上げていた。 突然、声をかけられて、とても驚いたのを覚えている。 驚いたのは、それがあまりに急なことだったから、それだけではなくて。 その声が、まるで弾むように喜びに満ちて聞こえたからだった。 「できそこない」に、そんなに明るい声で語りかける者はいない。 人違いだと言おうとして、声の主を見た。 茜色に染められた、自分よりも少し幼そうな少年。 見知らぬ相手だ。自分や孤児院の他の子どもたちとは違い、薄汚れても古びてもいない、綺麗な服を着ている。 人違いだと言おうとして、その表情に戸惑う。真っ直ぐにこちらを見つめてくる、その目。 確信と喜びを語るその目。 まるで宝物を見つけた子どものように輝く目を見ると、とても、人違いなどとは言い出せなかった。かわりに、尋ねた。おまえは何だ。 彼は答えた。 「ゆうひ」 それは夕焼けの名前だった。 「悠灯。ぼくの名前だ」 紅い光に染まった少年は、きみの名前は、と尋ね返してきた。 とても重要なことを聞くように、ずっと気になっていた問いかけの答えを聞くように、夕焼け色の少年は、じっと返す言葉を待っていた。 茜色の瞳。なにかを期待しているように、その目はこちらを見ていた。見つめて、逸らされることなく、ただ答えを待っている。 きみの名前は、と、もう一度彼は聞いてきた。 教えない理由もない。神父に貰ったその名前を口にすると、相手はしばらく黙って、それから何度も頷きながら、その名前を繰り返した。 「くうや。空夜。空夜。空、夜。……ぼくね、ずっと、きみを探していたんだ。やっと、見つけた」 誰かに名前を聞かれるのは、はじめてかもしれないな、などと思った。 気が付けば自分の周囲の人間は、皆、自分のことを知っていた。「できそこない」だと、良くないものだと、自分のことをそう言っていた。 夕焼け色のこの少年は、自分のことを知らないのだろうか。「できそこない」のその名前を聞いてもまだ、彼は満足気に笑っていた。 「空夜。ぼくは、ずっときみを探していたんだ」 それが悠灯という名の友人との、最初の記憶だった。
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