index > novel > 時人の鐘 > 3章 『マボロシカガミ/4』
時人は専用の客室を、国賓館に与えられている。 本来ならば空夜が立ち入ることも不可能なこの建物に、時人を送っていくのは空夜の仕事のひとつになっていた。 教会の帰り道、ただ時人は何も言わず、空夜の手を握っていた。空夜も何も言わずに、ただ時折、夜空を見上げるだけで、街道を辿って城へと帰りついた。 おそらくあれで、時人はずっと言えずにいたことを吐き出してしまったのだろう。少年は何かを言おうとする気配すらなく、ただ、黙って空夜に並ぶだけだった。 時人の部屋に一緒に入り、灯りを点す。 いつも、時人が眠りにつくまで、他愛もない話をするのが空夜の日課だった。今夜は、ひとりにさせておいた方がいいのかもしれない。 そんなことを考えていると、ふいに、悠灯から受け取ったままになっているあの時計のことを思い出す。 「そうだ」 もともとの経緯はどうであれ、空夜にとってはこれが自分のものだという認識はない。それに時人は、この時計をあれほど大切そうに持っていたのだ。空夜は予言者が盗み取った銀時計を、時人に差し出し、渡そうとした。が。 「時人、これを返すよ」 その言葉に、少年はかぶりを振った。 「駄目です。これは、あなたのものだ。……予言者様は、正しい。これはあなたのものなんだ。 だから、空夜、これはあなたが持っていてください。……ごめんなさい」 先ほどから、時人は口を開くたびに、その謝罪の言葉を口にしていた。 「おれが持っていても、どうにもならないよ。大切なものなんだろう、おまえが持っていればいい」 「わたしが――わたしがこれを持っていたのは、いつか、こうやってあなたに返すためです!」 鋭く一声。 少年の声は、苛立ちと怒りを含んでいた。銀時計を返そうとした、その行為に腹を立てたのかと思い、空夜は差し出していた手を戻すことも出来ずに、ただ時人の真剣な顔を見る。 銀の瞳を潤ませて、少年は空夜を見上げた。 「ずっと、謝りたいと思っていました。この銀時計は、わたしではない、別の誰かが持っていたのだと聞いてから、ずっと」 銀時計を空夜の手から取り上げたのは、時人ではない。それは時人の意思によるものではないはずだ。 それなのにこの少年は、いつからか分からないほど長い間、そのことを申し訳なく思ってきたのだという。 「時人」という世界にとって最も重要な役割を果たす者、その証明として銀時計を持っているのではなく。 ただ、いつの日か、それを元の持ち主に返すために、大切に守ってきたのだという。 名前も知らない、顔も知らない、本当の銀時計の持ち主に対する罪の意識とともに。 いつかそれを返したいと思い、大切に守ってきたのだという。 「郷の人々は、皆口をそろえて、あなたがわたしから大切なものを奪い去ったのだと言いました。わたしが『時人』として、力が足りないことを知っても、皆、口々にあなたを悪く言いました。この時計だけでなく、わたしの大切な力まで奪ったと、あなたのことばかりを責めました。どうしてなのか、ずっと聞きたかった。どうして皆、わたしではなくあなただけを責めるのか。奪ったのはわたしなのかもしれないのに。奪われたのは、あなたの方かもしれないのに。馬鹿げている。髪や瞳の色だけでそんなことを決めるなんて、優しくするか冷たくするか決めるなんて、とても馬鹿げている!」 わたしはこんな自分が嫌いです、と、時人は続けた。 「琥珀は言いました。これまでの『時人』は、皆あなたのような年齢だったと。――だからきっと、間違っているのはわたしだ。わたしが、あなたから力を奪ってしまったんだ。あなたを、何もないものとして、世界に放り出してしまったんだ」 「違うよ。……おまえは、おれが置いてきたものを、ちゃんと持ってきてくれたじゃないか」 時人は、申し訳ない、と言った。自分に出来ないことを、人にやらせなくてはいけないということ。それがとても、残念で、悲しくて、どうして自分ではなかったのだろう、と悔しく思い続けてきたのだろう。その役目を果たしたい気持ちから、そう思うのではない。それを自分ではない、他の誰かに背負わせなくてはいけない、そのことがとても、苦しいのだろう。空夜にはよく分かった。 その気持ちは、空夜にもよく分かっていた。 「おれの方が先に生まれたんだ。どう考えても、おれが置いてきたものを、おまえが持ってきてくれたんだよ」 もしかしたら、それは自分の役割だったのかもしれない。 周囲の人間から、見も知らぬ占い師の言葉によって、避けられ、疎まれてきた自分の身の上は、決して幸せといえるものではないかもしれない。だが、周りを取り巻くすべての人間から、世界を続けさせるため、時計を巻き戻すため、それを切望されて崇められ続けてきたこの少年は、幸せだっただろうか。 時計と、「時人」としての能力を奪ってしまったと。周りの大人が逆のことを言うにも関わらず、ただ見も知らぬ人間に対して罪の意識を抱き続けてきたこの少年は、どれだけ苦しんできたのだろうか。 もし、自分であれば。空夜は思う。もし自分が、できそこないではない、本物の「時人」であったならば。 この少年が、そんな思いをすることはなかったのかもしれないのに。 どうして自分ではなかったのだろう。 時人のその気持ちは、空夜にもよく分かっていた。 「おまえは優しい子だな。そんな風に思ってくれるんだ。これを持っているのも、辛かったんじゃないのか。……ずっと重たく感じていたんじゃないのか」 「違います。辛かったのは、あなただ。この街の人は皆、わたしには優しい。あなたには冷たい。同じなのに。わたしとあなたは、同じなのに。……違う、同じじゃない。あなたのほうが、ずっと世界にとって重要な存在なのに。螺子を巻き戻して、いなくなってしまうのはあなたなのに。辛かったのはあなただ。辛いのはあなただ。……わたしは何もしていない」 「何もしていないなんてことはない。おまえはおれに、これを返しにきてくれたじゃないか」 空夜は時人に目線を合わせるために、床に膝を付けた。少年の手を、取る。 そしてもう一度、その小さな手のひらに銀時計を握らせた。 「そんなにも重い荷物を放り出しもせず、大切なものだと言って、ちゃんとおれに届けにきてくれたじゃないか」 おまえは優しい子だよ、ともう一度言うと、時人は。 これまでずっと、涙を見せることのなかった子どもは、ゆっくりとひとつ瞬きをするとともに、涙を一粒こぼした。 「ごめんなさい……」 涙はあふれて頬を伝う。 時人はそれを拭おうともせずに、同じ言葉を呟くように、まるで祈りの文句のように紡ぎ続ける。 時人は銀時計をその手のひらに受け止めた。少年は泣いてはいけないと自分を律するように、かたくそれを握り締める。 空夜は少年の銀の髪に触れた。時人が、そんな風に思う必要はないのだ。泣いてはならないことではないのだ。 やわらかなその髪を撫でて、空夜はゆっくりと、言う。出来るだけ、これまでに空夜が時人に向けた言葉のどれよりも、やさしい響きをもって聞こえるように。 「いいよ、時人。……おれがやる。誇りをもって、おまえがおれに手渡すその役目を、果たすよ」 「……空夜」 ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も何度も繰り返して。 銀色の子どもは、空夜の肩に顔をうずめて泣いた。 周囲の人々の期待を映し、誰かが笑いかけたならそれを映し、青い空を見上げたのならただ青い色だけを映していた、その鏡のような瞳。 今その鏡は割れ、少年はただ銀色の瞳から涙を流し続けた。 泣き疲れたのか、ずっと抱えてきたものを打ち明けたことで、気が楽になったのか、時人はそのまま眠り込んでしまった。 銀時計をしっかりと握り締めたまま眠る子どもが、良い夢を見られればいい、と思い、その髪をもう一度撫でて、空夜はその部屋を出た。 今宵も、月は出ていない。ずいぶんと、遅い時間になってしまったようだった。 暗い廊下に、一点の、小さな灯が点っている。誰かが、そこにいた。 「……なんだ、おまえか」 部屋のすぐ前の廊下には、悠灯が居た。 待ち伏せするように、ただじっと動かず、予言者はそこに立っていた。 「――心配しなくてもいいよ、空夜」 空夜の姿を確認すると、悠灯は壁に付けていた背中を離し、そう言ってくる。 廊下に、灯りはない。暗闇のなか、予言者が手にした燭台の光だけが、ほのかに点っている。 その橙々の光はあまりに淡く、友人がどんな表情をしているかまでは分からなかった。 ただ、その声は固い。 笑顔で口にするような声ではなかった。 「あの子どもの言うことは、『未来』じゃない。『予測』だ。……きみが、いなくなるという」 時計を巻き戻し、世界に新しい時間を与えれば、空夜はいなくなる。これまでの「時人」たちと同じように。 それは、未来ではない、と悠灯は告げた。 「きみがこの世界からいなくなることはない。――ぼくより先に、きみの存在が消えることはないんだ」 それだけ言って、予言者は空夜に背を向けた。そのまま、足早に廊下を去っていく。 その言葉の意味を聞こうと、友人を追いかけた空夜は、ふと、気が付いて立ち止まる。 空夜の未来。 予測とは異なる、未来。 この世界で予言者だけが告げられる、ほんとうの「未来」。 (「きみがこの世界からいなくなることはない」) それは悠灯が空夜に告げた、はじめての予言だった。
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