index > novel > 時人の鐘 >  3章 『マボロシカガミ/3』


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 予言者が教会を去り、扉が閉まったのと同時に、今度は時人が口を開いた。
「空夜、あなたは、これまでの『時人』が、時計を巻き戻した後の話を、何か知っていますか?」
「……時計を巻き戻した後?」
 そういえば。空夜は思い起こす。
 これまでに誰に聞いたどんな『時人』の話も、時計を巻き戻し、世界に新しい時間を与えたところまでしか伝えていない。
 そういった話は、だいたいがこうやって終わるのだ。
 『こうして世界は、また長い時間を生き延びることができるようになったのです』と。
 それが時人と呼ばれる、特別な存在の力によってであることは、散々聞かされて、よく知っている。だが、よくよく考えてみれば。
 鐘を鳴らしたあとの「時人」の話は、誰も伝えてはいないのだ。
「……知らないな」
 空夜がそう答えると、時人は、やっぱり、と、予測していたように呟いた。
「――そのことを、お話ししようと思うんです」
 どこかに傷でも抱えているような、痛みに耐えるような顔をして、少年は空夜を見上げた。
 真っ直ぐに向けられる瞳は、銀。
 時人の顔を見る限りでは、これから言おうとしていることが、少なくとも時人自身にとってあまり良い話ではないことは分かる。
 そして、言おうと決断したあとになっても、いまだ迷いを打ち払えずにいるようなその様子が、伝えるものがある。
 ――ずっと、言えずにいたこと。
 空夜に言おうとして、言えずにいたこと、これまで何度も、口に出しかけては躊躇い、言えずにいたこと。
 時人はそれを語ろうとしているのだ。
「……わたしたち『時人』のことをお話します、空夜。そして、わたしがこれから、あなたにしてもらわなくてはならないことを。わたしが『時人』の役目を果たすには、あなたに助けてもらわなければならないのです。あなたがいなければ、時計は止まったままになる。……世界は止まる」
「どういう、ことだ?」
 空夜が時人を手助けするのは、郷から届いた手紙からもそう指示されていることだった。そして時人自身からも、その旨を伝えられている。ただ、そのいずれもが、詳しいことを説明してはいなかった。具体的に何を手伝えばいいのか、今、この瞬間に至るまで、空夜には検討も付かなかった。ただ、時人がそれを口にするのをずっとためらっていたことで、あまり容易いことではないのだな、と感じた程度で。それにしても、自分に出来ることなら、いくらでも助けたいと思ってきた。「できそこない」としての自分が果たせなかったことを、代わりにやってくれるこの子どもを、可能な限り助けてやりたいと思っていた。が。
 時人が口にしたことは、空夜の理解の範疇を超えていた。
 空夜がいなければ、時計は止まったままになり、世界は止まる。どういうことなのか、よく分からなかった。
 そんな空夜の戸惑いを察したのか、時人の代わりに、今度は琥珀が口を開く。
「この時計に触れられるのは、『時人』だけだということになっている。けれどね、それは嘘なんだ、空夜。誰であろうと、この時計に触れることはできるし、その螺子を巻き戻すことはできる。この世界に新しい時間を与えることができる」
 神父は言いながら、聖堂の時計を指し示す。
「この時計が世界の時間を刻む。それを巻き戻せば、残り時間が増える。だが、それがどういうことなのか、分かるだろうか?」
 神父が言っていることは、理解できる。だが、彼が何を伝えたがっているのかは、分からなかった。
 空夜の沈黙を振り払おうとするように、時人が続ける。
「そのまま時計を巻き戻せば――そのまま、流れるこの時も巻き戻る、ということです」
「なんだって……!?」
「そのまま螺子を巻き戻せば、時間が逆に流れる。世界に与えられた新しい時間の分だけ、世界は逆流する。わたしの存在はもちろん、あなたも、この街の人々も、すべての存在がその流れに消え去るでしょう。――数百年分の時間を遡れば、わたしたちの存在など、微塵も残らない」
 時人は空夜から目をそらさずに、言う。勇気を持って目を背けないよう自分に言い聞かせているように、銀の瞳が懸命に見上げてくる。
「ですから、『時人』でなければならないのです。……空夜、わたしたち『時人』には、たった二つだけ、他の人にはない力があるんです。たった二つだけ。ひとつは、時計を巻き戻すそのとき、時の逆流を防ぐために、世界に流れる時間そのものを止める力」
 「時人」は、時間をつかさどる者だ、と、ほとんどの人間は、そう認識しているはずだ。
 しかしそれが、正確にはどんな力の持ち主なのか、詳細を知る者は、いない。そうして誰も知らないということが、それを更に神聖なものへと変える。
 神聖なはずの「時人」は、今、空夜に自らの能力を説明している。ひとつ、時間を止める力。少年は続けた。
「そして、もうひとつ。――世界に存在するもの全ての時間を止めてもなお、『時人』だけが時間に止まらないという力です」
 時間を止める力、時間に止まらない力。
 時計を巻き戻すという、「時人」と呼ばれる英雄の役割。
 空夜は琥珀の言おうとしていたところに、ようやく思い当たる。
「――そうか。世界そのものの時間を止めれば、時計を巻き戻しても、時間が戻ることはない、ということだな?」
「そうです。そしてただひとつの例外として、その中で『時人』は時計を巻き戻す。そうして、止めた時を動かす合図として、鐘を鳴らすのです。……鐘の音によって、世界は新しい時の中で、目を覚ます」
 「時人」は鐘を鳴らす。
 それは空夜も、他の誰もが知っている。ただ、それが何のために鳴らされるのかは、知らなかった。
 止めた時間を再び動かす合図としての、鐘。それは新しい時間を与えられたことを、世界に知らせるための鐘なのだという。
 時人の声は語るにつれて、だんだんと重いものになっていく。
「時間を止める力、時間に止まらない力。……その二つを併せ持つのが、『時人』です」
 初めて知ったその事実に、空夜はふと、思いついた。尋ねる。
「どうして、そのことは知られていないんだ? みんな、『時人』がどういうものか分からないままに、自分たちの世界を助けてくれる存在だと喜んでいる。『時人』の役割について、どうして伝えないんだ?」
 これは、琥珀に対しての質問だ。死なぬ男は、歴史そのものの生き証人であるはずだ。例え答えを知らなくても、たった今そのことを知った空夜よりも、遥かにそれに対して多くのことを知っているだろう。
「時計を巻き戻せば、時間が逆流するのは避けられない」
 琥珀は許しを得るように時人をちらりと見てから、そう語り始めた。
「そのために、『時人』は世界の時間を止める。……自分以外の時間を、すべて、逆流から守るために。自分は守らず、世界だけを守る。それは確かに、美談だ。伝えるべきだろうと、わたしも思わないでもない」
 独り言のように、だが言葉は確実に空夜に向けて、琥珀は淀みなく続ける。それはこの世界の成り立ちを説く、神父の口調だった。
「何故、それを伝えないか。本当のところは知らない。ただ、わたしは『時人』から、それを伝えないように頼まれている。ひとり前の『時人』も、ふたり前の『時人』も、わたしにそう頼んだ。そんな結末までは知らせなくていい、と。
 だから、その通りにしている。存在そのものを懸けて世界を存続させるといえば、随分と聞こえのいい話になる。
 実際には――生贄のようなものだというのに」
「琥珀! わたしはそのように考えてはいません。これまでの『時人』も、きっと」
「ええ、彼らもそのようには考えてはいませんでした。ただ世界に新しい時間を与えるため、時計を巻き戻すため、彼らは生まれて育てられた。そのことを、嫌だと思う隙もなく、それだけのものとして育て上げられた。あなたもそうではありませんか、時人。『時人』と、それ以外に名付けられない存在として、ひとりの人間としてすら扱われずに、ただ『時人』として育てられてきた。違いますか」
「わたしは――わたしが、自分ひとりでその役目を果たせるのなら、確かに彼らと同じように思えたでしょう」
 時人は琥珀の言葉を否定する。自分の言葉に自信が持てないとでも言いたげな様子で、それでも否定しようとする。
「ですが、わたしには出来ない。彼らと同じように、ひとりでその使命を全うすることができない。わたしには――必要な力が、欠けている」
 そう言って、時人はうつむく。もともと小さい身体が、そうやって下を向く動作によって、いっそう小さく見えた。
 時人、と、空夜がその名前を呼ぼうとした、その時。少年は顔をあげた。
「だから、あなたにお願いしなくてはならないのです、空夜。わたしは確かに、銀色の髪と瞳をもって生まれた。 確かに、わたしは『時人』なのです。そう言えるものでは、あるのです。自分に時間を止める力があるということも、知っています。ですが――」
 聖堂の時計の針が、時を刻む。
 固い音が、その少年の言葉を切り取ったかのように、時人は一度そこで、口を閉じた。
 空夜の手の中の銀時計もまた、それに少し遅れて、かすかに針を進めたようだった。
 世界の残り時間が、また少し減った。
「わたしに出来るのは、そこまでなんです」
 時人の声音は、告白というよりもむしろ懺悔のように聞こえた。それがとても悪いことであるかのように、少なくとも、語る本人である時人にとっては、たまらなく悪いことであるかのように、沈んだ声。
「……わたしは時を止めることができます。生涯でただ一度使うことの出来る、とても大事な力です。この力が無ければ、いくら時計を巻き戻したところで、世界の時間は逆戻りすることになるだけだ。大事な力です。
 ただ、わたしには――『時間に止まらない力』は無いのです。時を止めれば、わたし自身の時も止まる。それからは逃れられないんです」
 それは先ほど、時人が話していたことと食い違う。時間を止める力、時間に止まらない力。その二つを併せ持ったのが、『時人』だと、少年は言った。そのどちらが欠けても、世界に新しい時間を与えるという役目が果たせないということも、分かった。だが、目の前の『時人』、銀の瞳、銀の髪の少年は、口惜しそうに告げた。自分に、時間に止まらないという力が欠けていると。
「……それはつまり、時間を止めればもうそのまま、世界は止まったままになるし、おまえが時間を止めなければ、どのみち世界に残された時間が尽きる、と、そういうことになるのか?」
 それではどちらの道を進むにしろ、世界にはもう、停止するという結末しか残らないことになる。 
「ですから、あなたにお願いしたいのです、空夜」
 見上げてくる銀色の瞳は、鏡のように空夜を映す。そこには、時人が何を言おうとしているのか、戸惑うように眉を寄せた自分の顔が見えた。
 空夜の戸惑いをその目に映したまま、時人は静かに言う。
「――あなたは、『時人』だ」
 またひとつ、時計の針が、世界から時を刻み取った。その音が、これまでよりもずっと大きく、深く響いて聞こえる。
 空夜は時人のその言葉に、思わず苦笑してしまう。少年が可笑しなことを言っていると思った。それはもう、琥珀が説明してくれた。もうその話は分かった、と、そう言いたくて、思わず苦笑してしまう。
「確かに、そう言えなくもないのかもしれない。おれが、生まれたときにこの時計を持っていたのも分かった。けれども、違うだろう。おれは『時人』じゃなかった。……髪の色も、眼の色も、銀色とは違う。おれが『時人』ではなくてそれの『できそこない』だということは分かっている。だから、違う」
 占い師は、そう告げたはずだ。それを、皆が信じた。城のもの、生まれ故郷のもの、そして今日までの自分。多くの者が、それを信じた。疑ったことはなかった。そういうものなのだとして、自分を受け入れていた。
 それを、目の前の『時人』は否定する。占い師の言葉を間違いだと否定する。
「それが間違っているんです。空夜、あなたがその時計を持って生まれたのは『時人』としての証だ。――そして、わたしも」
 時人は少し不機嫌そうな声で、空夜の苦笑を打ち消そうとする。笑うようなことではないと、その声は告げていた。
「わたしが時間を止めれば、世界が停止する。同時にわたしも、それから逃れることはできない。ですが、あなたは違う。空夜、あなたは――『時間に止まらない力』そのものだ。すべてのものが停止した中で、あなたの時だけは流れる。あなたは『時人』としての力を、確実に持っている。……それがあなただ」
 少年の言葉は、止まらない。
「わたしは一目見て、あなただと分かりました。あなたがわたしに足りないものを持つ人、わたしに出来ないことが出来る人だと。ずっと自分に欠けているものを持った人を、やっと見つけたと、そう思いました」
 時人のその言葉に、空夜は初めて時人がこの街を訪れた日のことを思い出す。
 馬車から飛び降りた、銀色の少年。話に聞くとおりの、『時人』。彼が言った、最初の言葉を思い出す。
(「みつけた、あなただ」)
 その言葉の意味を、少年が今、告げている。
「だから、時計の螺子を巻き戻す、その役目を」
 空夜に手助けしてもらわなくてはならない、「時人」としての役目。
「――あなたにお願いしたいのです、空夜」


「……そうか」
 空夜の最初の言葉がそれだったことに、時人は拍子抜けしたように声を上げる。
「空夜……! わたしの言ったことを、聞いていましたか?」
「聞いていたよ。分かった。本当に、おれにそんな力があるんだったら、協力する。……もともと、おまえを助けたいと思っていたんだ。自分にも出来ることがあるんだ、おれは、それが嬉しいよ」
 「できそこない」だと言われ、そんなものは要らないのだと言われた自分にも、こうして、役目があった。
 どこかで信じていた、だが在るはずもないと思っていたその理由を、見つけることが出来た。
 時人はそれを、喜ぶなと言った。以前にも、そう言われた気がする。だが。
 空夜は、沈んだり呆れたりと忙しい時人とは正反対に、最初からずっと同じ微笑みを浮かべ続けている琥珀に言った。 
「それに、おまえの立場も保てるじゃないか、琥珀。おれを処分させないために咄嗟に言ったことが、事実だったじゃないか。……ほんとうに、おれの生まれたことに、意味があったんだ」
 琥珀は多くは答えず、ただ、そうだね、と微笑むまま、かすかに首を傾げただけだった。
 時人だけがひとり、やりきれない、という表情でいる。空夜の喜びを、銀色の子どもは精一杯に否定しようとする。
「そんな風に、喜ばないでください。何度も言ったと思います。嬉しいと思えるようなことではないんです……!」
 駄目だと、子どもは言う。そんな顔をしてはならないと、時人は懸命に訴える。
 まだ言い切っていないことがあるのだ、と、その悲痛ともとれる声が教えていた。
「先ほど、琥珀が言いました。『時人』は、この世界の時間をまだ動かし続けるための、生贄のようなものだと。それは正しい。……それを果たすのが、わたしだけなら、きっと誇りを持てたはずだ。なんの疑問もなく、その役目を終えたはずだ。でも、違う。わたしには、どうしても誇れない。あなたのことを思うと、どうしても」
 迷いか、自分に対しての苛立ちか。時人はまとわり付く何かを払おうとするように、一度首を横に振った。
「時間を巻き戻せば、そのぶんだけ時は逆流する。だから『時人』以外の時を止めて、それを守る。では、『時人』はどうなるのか? ……空夜、螺子を巻き戻せば、『時人』はどうなると思いますか?」
 告げなくてもいい、と言い残していった、これまでの「時人」たち。
 知る必要はないと、人々には告げられることのないままの、英雄の物語。
 琥珀の言った言葉を思い出す。時間の逆流から、自分を守らず、世界だけを守る。
 生贄。
「そうです。……ただひとり、『時人』の時間だけが、逆に流れる。時計の刻んできた時間と同じように、巻き戻される。新しい時と、逆流する時の狭間で、世界がねじれる。その存在は掻き消される。――はじめから、そんな人間はいなかったかのように、鐘の音だけを残して、『時人』は消える」
 (――ああ)
 時人のその言葉に、空夜は納得する。
 それをどうして、いままで時人が語れずにいたか。言おうとして、言葉に迷っていたか。
 どうして、近頃時人に避けられていたのか。
 空夜のことを思いやるほど、告げにくくなる言葉。ほんとうは、知らせないままでいたい言葉。
 生贄という言葉の意味。
(ずっと、悩んでいたんだな)
 もう、言わずとも理解したことを伝えてやりたかった。そんなに思いつめたような顔をして、申し訳なさそうな顔をして、自分の半端さを呪っているような、そんな声でこれ以上話す必要はないと、時人に言ってやりたかった。
 だがそんな空夜を押しとどめるかのように、時人は続けた。
 それこそは、おそらく、これから話されることは聞きたくない、と厭い、予言者がこの場を去った、その言葉。
 それを誰よりも口にすることを恐れているはずの少年は、しかし、見上げる瞳もそのままに、言葉を続けた。
「時計を巻き戻せば、あなたは消えてしまう」
 鏡のようなその銀の瞳に写された空夜の顔が、揺らぐ。
「……あなたは、この世界からいなくなってしまうんです、空夜」
 揺らいだのは自分の表情なのか、それとも時人の瞳だったのか。あるいはその、両方か。
 それは、分からなかった。

≪モドル ■ ススム≫


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