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鬼さんこちら
19

 辰巳と巧介は、しばらく、何も言わなかった。何か言おうと顔を上げたかと思うと、擁と目が合い、それだけで、また黙り込んでしまう。
「それ、大丈夫なのか」
 巧介の頭の包帯を指して聞くと、ぶっきらぼうに、ああ、と頷かれるだけだった。
 会話は続かず、それきり、擁は彼らふたりに挟まれるように、両側から支えてもらいながら廊下を歩く。最初は、巧介が背負ってくれると言ったのだが、それには首を振った。
 ふたりに着れられた先は、あの、広い部屋ではなく、玄関のホールだった。雨は一日続いていて、結局、降り出してから一度も止まない。それまで時間を見ることもすっかり忘れていた。今は、もう、太陽が出ていれば、ちょうど沈みはじめたぐらいの時間だった。雨降りだし、日光のあまり差し込まないつくりになっているらしいこの建物の中にいれば、あまり、関係ないが。
「あ……、ほんとに焼いたんだ、肉」
「ん、……そんで、おまえ、楽しみって言ってたな、と思って」
 冷めたけど、と、巧介が皿を差し出す。ホールには、台所の方から引っ張ってきたのか、古びて汚れてはいるけれど、十分に使える椅子が四脚、円を描くように並んでいた。巧介が、用意をしたのだろう。
 ひとつ空いたままの椅子が、寒々しかった。
 昼間言っていた通り、玄関から一度外に出て、雨を避けながら、巧介はどうにか肉を焼いたのだろう。朝、山に来るまでの道中でこれを買っていた時は、こんな場所で、こんな気分で食べることになるとは思わなかった。この湿気た空気の中では、火もあまり勢いよくは付かなかっただろう。
 それでも、塩と胡椒が必要以上に強いその味が、泣けそうなほど、美味しかった。冷めて、固くなってはいるけれど。渡された割り箸で、紙の皿の上に乗った肉を、なにも言わずに黙って食べ続ける。
 巧介はおそらく、擁にここに来るように言いたかったに違いない。それを、信じられずに怯えて、擁が拒否したのだ。
 辰巳と巧介も、また、何も言わなくなってしまった。
「……ありがと」
 肉をすべて食べると、辰巳が紙コップに入れた水をくれる。それを一気に飲み干して、息を吐く。
「足は大丈夫?」
「うん」
 まだ痛むが、辰巳がさっき、氷を固定して包帯を巻き直してくれた。腫れて熱を持ってはいたが、氷の冷たさが気持ちがいい。
 気がついたら、もう、触られることを、なんとも思わなくなっていた。
「それより、ちょっと、頭が痛い」
「さっきぶつけたところ?」
「違う。外側じゃなくて、内側っていうか」
「……疲れたのかも。一度に、たくさんのことがあったから」
 辰巳の声が、足に当てた氷と同じくらい温度が低くて、耳に心地よかった。
 それに、そうかも、と、擁も笑った。笑える自分が、不思議だった。辰巳の言うとおり、一度に、たくさんのことがあった。驚いたり、悲しんだりするべき心の部分が、麻痺してしまったのかもしれない。
 順のことを思い出す。抱きすくめられた、あの腕の感触。肌につたわる、自分ではない別の人間の体温。
 顔が見えずにいた「あの手」の感触は、確かに順のものと同じだった。それでも、いま、そのことを思い出そうとしても、不思議にそれほどの嫌悪感はない。それはやはり、相手が、ほかの誰でもない順だから、なのだろうか。
 わからない。ほんとうはすごく気持ちが悪くて、吐きそうな気分になっているのかもしれない。ただ、それに気づけていないだけで。最後に残っていた、自分や他のいろいろなものを嫌いだと思うことも、もう出来なくなってしまったのかもしれない。自分が分からなくなっていた。
 いま擁の心は、そのまま大きな穴のようなものだった。もともと、不完全でそこいら中が穴だらけだったのに、これまでは巧介や辰巳、それに順がいた部分までもが、真っ暗な穴になってしまった。そうなると、もう擁には、なにも残っていない。心に穴が空いたような、という比喩ではとうてい足りない。
 足を冷やしていた氷が温くなって、水滴が皮膚を伝う。辰巳がふいに、口を開いた。
「思い出したのかと思った」
「……おれの、忘れてたこと?」
 巧介も、確かそんなようなことを何度か口にしていた。
 考えてみれば、そもそも、彼らにとっても擁は、曖昧な存在だったのかもしれない。なにも思い出せなくて、忘れてしまった、ということは、擁にとっては真実、ほんとうのことだ。
 けれどそれを、他の人間に証明することは出来ないのだ。
「そう。だからあの写真は、擁がしたことなのかと思ったんだ」
 写真。誰にも見られたくない、あの姿が写されていたもののことだろう。擁はそんなこと、していない。
 辰巳は、ずっと擁のことを疑っていたのだろうか。この屋敷に入る前から? だから、順や巧介とふたりきりになるなと……つまり、ふたりには手出しをするなと、そう伝えてきたのだろうか。そんなことを聞いてもどうしようもないから、確認するようなことはしない。
「おれじゃ、ないよ」
 けれども、写真や、その他のことが擁の仕業でないことだけは、確かだ。だから、首を振って否定する。
「うん。おれたちを、責めようとしてるんだと思った。……でも、違ったな。あれは、順だ」
「悪かった」
 巧介が、思い切ったように、謝ってくる。
「おれも、そうだと思った。あんな写真、どこに残ってたんだって慌てて。持ってるんだとしたら、おまえしかいないと思った。そんなわけないのにな。頭に血が昇った」
 ごめん、と、もう一度頭を下げられる。擁は一度だけ、それに小さく頷いた。
 本来ならば、いいよ、と笑って言うべきなのかもしれない。もしくは、許せない気持ちがあるのならば、正直にそれを伝えるべきだと、頭では分かっている。そのどちらも、いまの擁には出来なかった。
 ただ、悪かった、と謝ってくれた、その気持ちは信じられるし、受け取れる。
 擁だって、彼らのことを、散々疑い、怯えたのだ。真っ暗闇のなかに身を晒されたら、すべてのものが鬼に見えても仕方がない。疑心暗鬼とは、そういうことだろう。……そのあと、どうしてあんなことになったのかは、まだ、分からないままだが。
 擁が頷いたことで、巧介は少し、安心したようだった。一瞬だけ、ほっとしたように表情を緩めて、そうしてすぐに、何かを思い出したように苦い顔を見せる。あまり気の進まないことを、それでも言わなければならない、と自分に言い聞かせるような、そんな表情だった。
「……おれが順を探してたの、知ってるだろ」
 鉄の棒を引きずるようにして、廊下を歩いていた巧介の姿を見て、ぞっとするように不安に駆られたことは、いやでも覚えている。
「順と、何を話すつもりだったんだ」
 言葉を探すように黙ってしまった巧介に、擁のほうから聞いてみる。巧介は擁の顔をしばらく見て、やがて、目をそらしながら答えた。
「おまえのことだよ。これ以上、いまみたいなこと続けるなら、おれにくれって」
「……は?」
 予想もしないような言葉だったので、思わず、間の抜けた声をあげてしまう。擁のその反応と、ばつの悪そうな顔をする巧介に、辰巳が小さく笑う気配を感じた。
「そしたらあいつ、ひとが変わったみたいに逆上しやがって」
「どういう、こと、だよ」
 おれにくれ、なんて。どうして、巧介がそんなことを順にむけて言うのだろう。冗談だろ、という言葉が喉元まで出かかって、それを飲み込む。口にしてしまうと、巧介を傷つけてしまう気がした。
「おまえと順のことは、おれも辰巳も、なんとなく気付いてた」
 それについては、もう、覚悟は出来ていた。
「……きもちわるいと思っただろ」
「思うわけないだろ。おまえにとって、必要なことだったんだろうし。相手が順なのも、仕方ないと思ってた。もともとおまえは、あいつといる時がいちばん落ち着くみたいだったし。最初は、それで、納得してた。でもな」
 悪いようには思われていなかったのだと聞いて、そのことには安心する。
「順のやりかたは、間違ってる。おまえがすっかり弱って、何も出来なくなって……それは、おまえのせいじゃないから、しょうがない。でも、あいつはそんなおまえのこと、駄目にする一方だった」
「……順は、そんなんじゃ、」
「言い方が悪いかもしれないけどな。あいつのやったことは、おまえのこと甘やかして、大事にして、ただそれだけだった。何も出来ないままでいいって、おまえがやりたくないことは、一切させないようにしてた。自分のところに閉じこもらせるだけで、外には出そうとしなかった。だろ」
「それは、おれが嫌がったから」
「おまえ、ずっとそのままでいるつもりなのかよ」
 真っ直ぐに擁の目を見て、巧介は聞いてくる。これまでに彼に向けられたことのないような、真面目な声と眼差しだった。いやだ、と、咄嗟に目を逸らそうとして、どうにかそれをこらえる。こんなこと、言われたくない。順のしたことを、悪く言わないで欲しかった。たとえ、順がほんとうは、どんなことを考えていたのだとしても。
 外に出るのが辛いことも、以前の自分のように様々なことが出来なくなったことも、仕方がないと優しく許してくれる順がいたから、これまで生きていられたのに。
「おまえん家は金持ちだから、ずっと引きこもりで何もしなくても暮らしてはいけるかもしれないけど。……おまえ、ほんとに、それでいいわけ」
 厳しい言い方ではなかった。むしろ、労わるような、心配そうな口調だった。けれどそれに、まるで頬を叩かれたような衝撃を感じた。
 あの事件があってから、これまで、そんなことを擁にはっきり言ってきた相手はいなかった。おそるおそる腫れ物に触れるように接するか、困った顔をして遠ざかるか、心配して過剰なほどに優しくしてくれるか、そのどれかしかなかった。
「嫌な目に遭った、そのことはおれもよく分かってるつもりでいる。……でも、だからこそ、おれはおまえにはちゃんと幸せになってほしい」
「巧介」
「順じゃだめだ。あいつは、おまえが弱くて、自分がいないと生きていけないのが嬉しくてたまんないんだよ。あいつと一緒にいると、おまえはずっと、このままだ。二度と、昔みたいに……」
 昔みたいに、の先に続く言葉は途切れて聞こえない。
「だから、今みたいな関係を続けるつもりなら、おまえのこと、おれにくれって、そう言った。時間は掛るかもしれないけど、おまえのこと立ち直らしてやりたいから。前のおまえに戻れなんていうつもりじゃないけど、それでも、普通のことが普通に出来るように……辰巳! 笑うなよ」
 怒鳴られて、悪い、と大して悪びれない様子で辰巳はまた笑う。気が削がれたように、巧介はそれきり黙ってしまった。
 思ってもみないことを言われて、擁は気持ちの整理が付けられなかった。まさか、巧介に、こんなことを思われているとは考えたこともなかった。らしくない、なんて相手のことをその言葉で片付けようとして、それを自分で否定する。違う。逆だ。とても、巧介らしい。
 ただ、それでも不思議に思ってしまうことはあった。
「なんで、おれのこと、そこまで」
「……責任があるんだよ」
 むくれたように横を向かれたまま、ぶっきらぼうにそんなことを言われる。
「おまえに関しては、おれには、責任があるんだ」
 どういうことか聞こうとしたけれど、もうこれ以上は言わない、とでも言いたげに手を振られる。
 それまで静かに話を聞いているだけだった辰巳が、ふいに口を開く。
「急にあんな風になってたから、何かあったんだろうとは思っていた。それが理由だったんだな」
 順のことだろう。巧介に擁の話を持ち出されたことで、ああなってしまったのだとそう言いたいのだ。
 いつも優しかった彼のことを思い出す。あれが、嘘だったとは思えない。いったい順は、これまでの長い時間、どんな気持ちだったのだろう。やっと触れられた、と擁の耳元で満足げに漏らされた声は、かすかに震えていた。どんな思いで、ずっと、擁のそばにいたのだろう。
「普段真面目で温厚なやつほど、キレると危ないんだよ」
「……順は、擁のことを大事なのは、自分だけだと思ってるから」
 巧介の言葉に、辰巳が笑う。
「わざと気付かないふりをしているのか、それとも実際に目に入らないのかは知らない。今もそうだし、あの時も、そうだった。変わらないな、あいつは」
「……どういう、こと?」
「考えなくてもいいよ。頭が痛いんだろ、擁。毛布もここに持ってきているから、休めばいい。それとも、どこか部屋の方がいい?」
 肉を焼く道具だけでなく、いつの間にか、彼らはすべての荷物を、ここまで運んできたようだった。重たかっただろうに。
 聞いてきた辰巳に、ここでいい、と首を振る。あの部屋には、戻りたくなかった。
「少しでも、すぐに出られるところがいい気がして。朝になって、雨が止んだら、こんなとこ、さっさと出ようぜ」
 巧介が言うのに、うん、と頷く。ほんとうに、こんなところ、早く出て行きたかった。
 辰巳が渡してくれた毛布を、素直に受け取る。椅子の上で寝るのは落ちそうだったので、直に、床の上に膝を立てて座る。
 眠れるだろうか、と思いながらも、毛布を被らずに折り曲げたまま、膝の上に乗せて、それを枕にする。
 まとわりつくような空気が不快だったけれど、家にいるときのように、冷房を付けなければ眠れないような、そんな暑さは感じない。雨と、山の奥だからだろうか。疼くように痛む頭を毛布に乗せる。
 眠りは、すぐに訪れた。気を失うような、底のない沼に引きずり込まれるような、そんな眠りだった。
 眠りに落ちる寸前、順のことを考えた。あの波がくる、と、その気配を感じた。


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