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鬼さんこちら
20

 足が重い。

 どこかで傷を付けたのか、一歩進むごとにずきりと痛みが走り、思うように前に進めない。
 ついに、実が落ちる時がきたのだ。
 はやくそれを拾って、自分のものにしたかった。たくさん転がっている、あの影法師たちに、食べられてしまう前に。一刻も早く、自分のものにしたかった。
 気持ちが急いて、うまく動かない足を引きずり、あの木のもとを目指す。足元に、また誰かの影に戻りたい、黒いかたまりたちが群れて集まってくる。それにつかまらないように、足で蹴散らすようにして、先に進む。踏みつけて、痛いと泣く声を上げるそれらを、爪先で踏みにじる。もう、こんなものは、いらない。
 燃え落ちた森を抜けて、木の根元にたどりつく。実が、今にも落ちようとしているところだった。
 この手が着くのを、きっと、待っていてくれたのだ。嬉しくて、笑みを浮かべる。
 おいで、と、両手を差し伸べる。ぷちりと音を立てて、黒い実は、枝から離れた。
 手のひらで、それを受け止める。下から見上げていたよりも、ずっと大きくて、想像していたよりも、重たかった。
 やっと、手に入れた。これが、ずっと欲しかった。
 両手で掴んだその実を掲げる。枝を離れた、その切断面から、びちゃりと粘り気のある液体が零れて、顔を濡らした。舌を伸ばして、唇に流れてきたその樹液を舐める。甘くて、どろりと重たい。
 とても美味しかった。これが、ずっと欲しかった。
 ああ、と、嬉しさに息を漏らす。赤く濡れた頬で、その実に頬擦りをする。黒く焼け焦げた実。中には、赤い蜜が、たくさん詰まっている。
 また、影法師が集まってくる。お零れに預かろうとするように、実を離した枝から、地面に流れた樹液を舐めに、一か所にわらわらと固まっている。少しなら、あいつらにやってもいい。実を抱いて、今日は、優しい気持ちになっていた。
 やっと取り戻した。手のひらの中の、閉じた瞼に、そっと唇で触れる。さあ、目を開けて。
 木から落ちた、丸くて、重たい黒い果実。

 それは黒く焼け焦げた、自分の、首だった。


 ふと、目を覚ます。誰かに、髪を撫でられていた。そっと、首を巡らせて、その手の主を見上げる。
 そんな気がしていたが、やはり、その通りだった。辰巳だ。
「……起こした?」
 そっと、囁くように聞いてくる声に、ううん、と首を振る。夢を、見ていた。
 いつの間にか、辰巳に後ろから抱き締められて、眠っていた。自分から、そうしてもらったわけでもないと思うが。辰巳は、こんな風にしてくるのが好きなのかな、と、ふと思った。
 頭痛はもう引いていた。それが、眠ったおかげなのか、それとも別の理由のためなのかは、自分にも分からなかった。
「辰巳、寝ないの」
 振り払うことはしないで、その腕の中で、彼に話しかける。うん、と、辰巳は頷いた。
 向かいで、巧介が床に転がって寝ている。子どものように、拳を握って横向きになっているその寝姿が、妙に可愛らしかった。
「変な夢、見るんだ」
「……話して?」
「うん。木の実と、影の夢。おれはそこをずっと歩いてて……、影を踏んで、実が黒くて赤くて、それが首なんだ」
「影絵みたいな夢だね」
「……ああ、ほんとだ。そうかも。おれも、真っ黒なんだ。煤けて、燃えたみたいに」
 自分でも、さっぱり要領を得ない説明だと思った。そしてそれを聞いた辰巳の返事も、彼らしく、どこかずれている。
「たつみ」
 言葉の終わりが、震えた。
「辰巳……」
 自分の声が、情けなかった。どうしたらいいか分からなくて、眼鏡のレンズ越しに、彼の静かな瞳を見上げる。髪を撫でる指が頬に降りてきて、そのまま、一度、触れるだけの短いキスをされた。
「擁、おれはね。普通のひととは、ちょっと違うんだって」
「え、……」
「巧介に言われるまで、そんな風に、思ったことはなかった。中学生の時だったかな、おまえおかしいよ、って、言われて、それで、はじめて、自分が普通じゃないことに気づいた」
 突然、何を話しはじめるのか、分からなかった。辰巳が、そんな風に、自分のことを滑らかに話すなんて、これまでになかった。
「普通じゃ、ない?」
「うん。おれはね。死んだひとが、好きなんだ」
「……、誰か、好きだった人が、死んじゃったの?」
 擁が、話の内容についていけずにそう尋ねると、ちがうよ、と辰巳は笑った。
 彼らしくない、無邪気な笑みだった。
「従兄弟が、まだほんの小さい頃、病気で死んでしまった。おれも、まだ子どもで、……だけど、葬式で見たその子の遺体を、なんてきれいなんだろうって、そう思った。もう動かない、命のないものが、とても好きなんだ」
 巧介が、辰巳のことを、この変態、と、そんな風に罵っていた。
 ……確かに、そう言われても、仕方のないことを、彼はいつものように、淡々と静かに語る。 
「生きた人間には興奮しない。でも、人を殺すのは、駄目なことだからね。それに、殺したいわけじゃないし。だから、いつも、付き合う子には、薬を飲ませて、眠らせる。……死んでるみたいに、深く」
 辰巳は見た目もよくて、頭もよくて、家柄もいい。医者になるつもりでいるようだし、そんな男を好きになる女の子は、きっとすごくたくさんいるだろう。少し、いい加減なところがあるのは、玉に瑕だけれど。次から次へと、付き合う女の子を変えるのは、そのせいだと思っていた。
「長続きしないのは、そのせい。おれも、自分の楽しみだけに、あまり継続的に、誰かにそんな強い薬を飲ませるのは気が引けるから」
 言われたことは、擁の考えたこともないような世界の話で、頭が追い付かず、想像も出来ない。けれど、そんな風に、誰かを抱くときも、彼は静かなのだと思い、何故だかそれに少し安堵した。
「擁は、一度寝ると、すごく大人しいんだよね。文字通り、死んだように眠る、ってこんな感じかなと思う。熟睡したら、薬なんてなくても、朝まで起きないかも」
 辰巳はくすくすと笑う。どうしてそんな話をはじめたのか、分からなかった。
「たつみ、……なんで」
「このことを知ってるのは、三人だけ」
 理由を聞こうとしたら、また、よく分からない風なことを言われる。辰巳はどこか、話についていけない擁を面白がっているような気もした。
「弟と、巧介と、それからいま話したから、擁」
「……辰巳、弟いるんだ」
 どうでもいいことなのかもしれないが、はじめて聞いたように思えたので、つい、そこに反応してしまう。どんな兄弟なのだろう、と想像しようとしても、まったくイメージが浮かばない。
「うん。双子だから、すごく似てるよ。おれとは違って、すごくしっかりしてるけど」
「辰巳も、しっかりしてると思うけど」
 擁が反論するでもなくそう返すと、辰巳はまた笑った。
「おれはいつも、地に足が着いてないって言われる。自分でもそう思うけど。すごく頼りになるから、困ったときにはいつも助けてもらってるよ」
 そう話す辰巳の目が、眩しげに細められる。仲のいい兄弟なのだろう。
「弟はおれの趣味のことを理解してくれてる。巧介も、口ではいろいろ言うけれど、おれ自身のことは否定したり非難したりはしないでいてくれる。擁は、どうかな」
 ふいに問いかけられて、咄嗟には言葉が見つからない。
 死体を抱く、彼。普通ではないことだと分かってはいる。それでも、恐ろしいとか、気持ちが悪いとか、そういった嫌悪感よりも。
「納得した、かも」
 彼の愛情のありかを知って、どう感じたかと聞かれたなら、たぶんその一言がいちばんしっくりくる。辰巳はそれを聞いて、少しだけ嬉しそうな表情を浮かべた。
「擁の、ほんとうのことを知ってるのも、おれたちしかいない。おれと、巧介と、順。三人だ」
 小さい子どもにでも語って聞かせるように、辰巳は、指を使って数を数える。三を数えたその手は、親指と小指のない、鬼の手になった。
「この広い世界で、三人しか知らない秘密なんて、誰にも知られていないのとほとんど同じだ。……それに、擁はもう知ってる。巧介や順のあんな顔、見たことなかっただろう」
 それにおれのひとに言えない趣味のことも、と、淡々と付け加えて、辰巳はそっと呟く。
「擁だけじゃないよ」
 もう一度、キスされる。冷たい唇だった。
 まるで、辰巳自身も、人形かなにかのようで、生きていないような、そんな冷たさ。けれど、言葉は、いつもよりも柔らかくて、少し温かかった。その言葉に、涙が溢れてきた。
 彼は、擁が何を言いたいのか、すべて、分かっているのだ。
「だからそんな風に、自分を責めることはない。……全部、思い出したんだろう」
「……、うん」
 どうしていいか分からなかった。黒く焦げた首。目を開いたのは、燃えた森に封印していた、あの夏の擁だ。
 辰巳の胸に顔を押し付けて、声を殺して、泣く。どうしたらいいのか、分からない。
 思い出して、しまった。


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