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鬼さんこちら
18

「ど、……し、て」
 声が霞んで、喉に絡まる。どうして。その言葉で頭も心もいっぱいになるばかりで、自分がなにを尋ねたいのかも、よく分からなかった。
 順は、擁の言葉には答えない。さっきからずっと続いている彼の独り言は、まだ止まらなかった。
「擁。ああ、擁、……ずっと、ずっとこうしたかった……」
 深い息を吐くように、順。首筋に顔を埋められ、犬がじゃれつくように、甘えられる。
「さっき、……おれに、こうやって、した?」
 擁がそう尋ねると、順は笑って頷く。その、悪びれもしない仕草に、言葉が出なかった。
「なんで、あんな、こと」
「なんで? 理由なんて、ないよ。どうしても、我慢が出来なくなった。擁に、すごく触りたくて、またあの時みたいにしたかった。でも、擁は、ひとから触られるのが嫌いだろ? おれにだけは、特別に、あんなことさせてくれるけど。……でも、その最中にだって、ほんとは嫌だったんだよな?」
 問い詰めるような言い方ではない。優しい、穏やかな声だった。
「だから、もうやめよう、なんて言ったんだろ」
 擁が聞いたことの答えにはなっていない。順は自分で言ったことに、自分ひとりだけで笑う。
「順……!」
 これは誰だろう。擁の知っている、順ではなかった。優しくて、穏やかで、誰にも平等に、公平であろうとする順。ちょっとお人よしで、損な役割を引き受けさせられることも多い。そんな彼を、いつでも、一番近くにいてくれたこの友人を、疑ったことなんて、なかったのに。
 まだ、事実がすべて心に落ちてきていない。嘘つきがいる、という、あの言葉。……あれは、順のこと、だったのだろうか? だとしたら、あの写真を並べたのは?
「おれに、二年前、あんなことをしたのも、おまえなのか」
 抱きついて離れない腕。嫌がるから、とそれを気遣ってくれていたという言葉など、もう今ではすっかり忘れてしまっているようだった。何が彼を、そうさせるのだろうと不思議に思う。
 順が分からなくて、怖いというよりも今は、悲しかった。
「おれに、あんなことをしたのは、おまえなのか……!」
 そうだとしたら、どうすればいいのだろう。これが、真実だったら。ほんとうは真実なんて、少しも知りたくもなかった。知ったところで、今の自分が変わることはないだろうと思ってきた。どうせ、擁には関係のない、知りもしないような人間がやったのだと、ずっとそう思ってきたからだ。この屋敷の中に入って、いろいろと腑に落ちないことがあった最中にも、それだけは、考えないように、そちらの方にはいかないようにと、ずっと自分に言い聞かせ続けていたのに。
 順の言葉と態度が、擁のそんな努力を、あっけなく無にしてしまう。
「……そうだよ。そうだよ、擁。ぜんぶ、おれだよ」
 静かに、どこか自嘲するように、順は頷いた。
「そ、んな」
 信じられなかった。順の胸を、思い切り突き飛ばす。離れられないかと思ったが、驚くほどあっさりと、順は身体を引く。
 数歩後じさって、壁に背が付く。足首がちぎれそうに痛む。額に滲んだ汗が、いくつも頬を伝って埃の積もった床の上に落ちた。熱いからではない。まるで心臓が止まったように、身体すべてが冷たかった。順に、触れられていたせいだろうか。
「いやだ」
 振り絞るような細い声で、それを拒絶しようとする。
「いやだ、嘘だ……、そんなの、」
「嘘じゃない。ぜんぶ、おれだ。擁は忘れちゃったけどね」
 順は優しく笑う。少し、寂しそうにも見えた。身動きが取れなくて、ただ背中を壁につけて、笑みを浮かべている順に、絶望する思いを抱くことしか出来なかった。頭が痛かった。忘れた、こと。
 気を抜くと、それが、溢れそうだった。忘れていなくては、いけないはずのこと。
 順。
 悲鳴が漏れそうになり、それを飲み込む。喉が痙攣をはじめたように、声も、唾も上手に嚥下出来なかった。ひ、と、震えるような短い悲鳴を上げてしまう。頭の中に点滅をはじめたいくつものことを、見てはならない、と、本能が止めようとする。頭が痛くて割れそうだった。頭蓋骨のなかで記憶が暴れている。
(「……お祖父さんに、……仕返し……」)
(「こんなに簡単に」)
(「……しかない……」)
(「山に、捨ててくるしか」)
 記憶の断片なのだろうその声が、誰のものなのかも分からない。焼け落ちた森と、そこにひとりでただずむ影を捨てた自分。影と同じ、真っ黒な色になった誰か。
「や、……っ、う」
 気が狂いそうだった。いくつもの、見たことのないはずのイメージが、稲光のように白く瞬く光に照らされ、瞬間だけかいま見える。それが、無数。立っていられなくって、足元に崩れ落ちる。
「擁」
 耳を塞いで、あまりの痛みにうずくまる。かたわらに順が寄り添い、心配そうに声を掛けられる。
「かわいそう。擁は、可哀想だ」
 まるで今にも泣き出しそうな、震える声だった。擁の仕草で、頭が痛いのだと分かるのだろう。労るように、手を伸ばされて優しく撫でられる。
「……いつも、擁ばっかり」
 腕を回され、抱き起こされる。わずかな動作にも頭が痛んで、なにも言葉に出来なかった。なだめるように胸に抱きかかえられて、背中を軽く叩かれる。まるで、赤ん坊にしているような仕草だ。触るな、とその手を突き放したいのに、頭が痛くて何も出来ない。
「なにも考えなくていいんだ。擁は、おれがずっと守るから。ずっとそばにいる、ずっと……。だっておれは、擁にあんなことをしたから。そのせいで、いま、擁はこんなに苦しんでるから。だからそれは、おれの役目なんだ」
 順、と名前を呼ぼうとした。話している内容が、いつもの順とはかけ離れているようでいて、とても彼らしいもののようにも思える。もう、何がほんとうのことなのか、分からなかった。どうしてこんなことになったのだろう、と、今さらのように、そんなことを思う。一体どこから、やりなおしたらいいのだろう。こんなところに迷いこまなければ。キャンプに行こうなんて、そんな誘いに乗らなければ。
 頭の中で、なにかがあふれようとしている。
(「……あそぼう」)
(「いっしょに、あそぼ」)
 二年の前の夏、あんなことにならなければ。
 薄暗い部屋の中が、一瞬、真っ白に照らされる。それに数秒遅れて、地響きとともに大きな音がした。雷だ。 
「あ……!」
 雷の音を合図にしたように、抱えておける容量をはるかに越える記憶のかたまりが、一度に押し寄せてくる。あまりに多くの情報が一度に頭の中に流れ込んできて、瞬間、心臓が止まったような気がした。頭痛がさっきより激しくなり、もう目を開けていられなかった。吐き気がする。
 そのままだったら、確実に気が狂っていた。……それでも、擁を、現実に引き戻す声があった。かすかに聞こえる、遠い声だったが、確かに聞こえた。
「……、擁!」
「返事をしてくれ、擁。……おまえを探している。話さないと、いけないことがある」
「返事しろってんだよ、擁!」
 巧介と、辰巳だ。大声を上げる巧介と、彼にしては、聞いたことのないくらいの大きな声の辰巳。擁の名前を呼んで、そんな風に、館中を歩き回ったのだろうか。その、なりふり構わない様子に、彼らが真剣であることが感じ取れた。
 痛みと吐き気にうつむかせていた顔を上げる。擁が頭を抱えるのを静かに見ていた順が、廊下の声を聞いて、ひとつ舌打ちした。
「うるさいなぁ、あいつら」
 忌々しそうに、そう吐き捨てる。
「擁は、おれといるんだ。ずっと、おれとだけ、遊ぶんだから」
 そうだよね、と、まるでそれが擁の意思でもあるように、首を小さく傾げて微笑まれる。
 ずきずきと、疼くように痛むことを止めない頭が重い。順の胸を、押し返して、その腕から抜け出す。ふいをつかれたような顔をして、順はこちらを見ていた。手のひらでこめかみを押さえ、ふらつく足で、どうにか立ちあがった。
「た、つみ……、巧介! ここだ、辰巳、巧介っ!」
 声を上げる。順が、そんな擁を、信じられないようなものを見る顔をしていた。何が起こっているのか理解できないとでも言いたそうな、不思議そうな表情。そして、同時に、痛いくらいに何が起ころうとしているのかを知っている、絶望したような、そんなふたつの感情が入り交じった、複雑な表情だった。
「……なんで? どうして、あんなやつら、呼ぶんだよ」
「友達だ」
 途切れそうになる意識をつなぎ止めるために、奥歯を噛んで拳をかためる。出来るだけ強い目を作ろうと、睨むように順を見た。
「あいつらが、おれのことを、どう思ってたかは関係ない。たとえ、おかしな風に、見られてたんだとしても、……でも、」
 目の前にも、身体の中にも。記憶の中にすら、闇があった。擁を包むのは暗闇ばかりで、どこまで行っても、自分以外のなにも見えなかった。けれど、そうではないのかもしれないと思える瞬間も、時にはあった。……そんなときには、三人の姿を見ることができた。自分以外の、誰かの、光。
 ひとりきりではないのかもしれないと、そう思える瞬間が、あった。たとえそれが、擁ひとりの錯覚に過ぎないのだとしても。事実がどうだったかなんて、関係ない。
「おれにとっては、あいつらは、大事な友達なんだ」
 擁が叫んだ声が聞こえたのだろう。駆け寄る足音が、扉の前で止まった。同時に、勢いよく、それが開いた。
「擁! 無事か」
 辰巳と巧介が、姿を表す。ほんの短い時間、別々になっていただけなのに、ひどく、懐かしい気がした。
 巧介の頭に、白い包帯が巻かれていた。さっきまでは無かったはずのものに、順が彼になにをしたのかやっと分かる。見た限り、足下もしっかりしているようだし、表情もいつもと変わりないように見えるから、あまりひどい怪我ではなかったのだろうか。
「順、おまえ」
「邪魔するなよ。……擁は、おまえたちとは、遊ばない」
「落ち着け、順。今の擁は、誰とも遊ばない。おまえともだ」
 辰巳の、淡々と諭すような声に、順が激昂して怒鳴る。
「うるさい、黙れ! ……おまえらこそ、擁に、あんなこと、した癖に……っ!」
 順の言葉に、巧介が表情を歪めた。痛いところを突かれた、と、そう言いたげな顔だった。
「だから、謝ろうと思って、こうやって呼んでたんだろうがよ! ひとりで暴走してるおまえと一緒にすんな、この馬鹿」
 順は巧介の言葉を聞いて、腹に据えかねるものがあったのだろう。強く、敵意を剥き出しにした表情で、彼に掴み掛ろうとした。しかし、順と巧介では、体格が違う。力の差は、歴然だった。いまはもう、ふたりとも、先程手にしていたような鉄の棒も持っていない。順はすぐに、逆に両手を掴まれ、捻りあげられてしまった。
「擁、大丈夫か」
 辰巳がこちらに近寄り、怪我をしていないか、確認をしてくる。足が痛むのと、あとは、頭痛が続いている。目がちかちかして、吐き気もまだ残っていたが、気が狂いそうなほど激しいものではなくなっていた。波が引いたのだ、と妙に冷静に、そんなことを思う。あの目眩がするような大量の記憶のかたまりは、もう大人しくしていてくれない。誰に教えてもらわなくても、それが分かった。擁自身のことだからだ。
 ともかく、いまは、どうにか大丈夫だ。順にも、暴力を振るわれることはなかった。頷いて、しばらく躊躇ってから、立たせてくれようと伸ばされた辰巳の手を取る。 
 順が、巧介に手を掴まれたまま、それから逃れようと、身を捩っていた。
「はなせよ、……擁、行っちゃだめだ、絶対。おれだけだ。ぜったい、おれだけが、擁を、」
 身体の自由が利かないままで、口早にそう言ってくる順が、哀れですらあった。こんな彼を、見たことがなかった。
 どうして、こんなもののせいで、そんな、苦しそうな顔をするのだろうと思うと、可哀想だった。
 こんな、誰にとっても何の意味もない、擁の存在、ひとつに。
「順。……おまえも、友達だよ。すごく大事で、いつも、他のなにより、助けられてた」
 そう伝える声が泣きそうで、自分でも情けなかった。こんなことを、言いたくなかった。わざわざ口にして言わなくても、それは、相手も同じに違いないと、そう思っていた。
 けれども、違った。そう思っていたのは、擁だけだった。
 明らかになったことは、たくさんある。そのことが、一番悲しかった。
 巧介に取り押さえられて、順は後ろ手に縛られる。そうするつもりで、あらかじめ、用意していたのだろうか。巧介は縄のようなものを持ってきていた。……順が、こうなっていることが、彼らには分かっていたのかもしれない。そんな気がした。
「ともだちなのか?」
 それに抵抗することもしないで、順は、まっすぐに擁を見ていた。
「……ただの、友達、なのかよ……!」
 順の口から出た言葉なのだとは、とても思えないものだった。吐き捨てるような、乱暴な。忌々しくてたまらないと言いたげな、そんな言い方だった。


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