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鬼さんこちら
17

 もうここは安全ではない、と判断して、擁はそれまで隠れていた部屋を出た。静かに戸を開けて、外をうかがう。薄暗い廊下には、ひとの気配はなかった。
 辰巳が去っていたらしき方向とは、反対の方向を選ぶ。痛む足首を引きずって、壁伝いにゆっくりと廊下を進んだ。いっそ、上の階に隠れていようか、とも思ったものの、ほとんど夜のように真っ暗だったことを思い出すと、明かりになるものがないだけに、躊躇われた。それにさっき、「あの手」の主に触れられた場所にも近い。それならまだこの階のほうが安全かも、と考えて、自分のその思考に、自嘲するつもりで小さく笑った。
(……安全、だって)
 鏡もなにもないから、自分がうまく笑えていたかどうかは分からなかった。
 いったい、擁にとって、何が安全で、何が危険なのだろう。ここには擁が、この世界で唯一、気を許しているはずの友人たちしかいないはずなのに。
 彼らのそばが安全でないのだとしたら、もう、ほんとうに擁にとって安全な場所なんて、この世のどこにもなくなってしまう。
 そんなことを考えながら、足を引きずって廊下を進む。ふと、何かが聞こえた気がした。足を止めて、耳を澄ます。足音と、……何かを引きずっているような、がりがりと固いものが床を削っているような、そんな音だ。不穏な雰囲気に、擁は身を隠す場所を探そうと辺りを見回す。とりあえず、いちばん近い部屋に隠れよう、と決めて身を翻そうとした。けれど、慌てたせいで、足が思うように動かせないことを忘れてしまっていた。
「……っ」
 うっかり思い切り体重をかけてしまい、強い痛みに、立っていられなくてその場にしゃがみ込んでしまう。
 それほど大きな声も、物音も立てたつもりもなかった。それでも、足音の主には、気配を悟られてしまったらしい。
 廊下の奥から、すぐに見知った相手が、姿を見せた。 
「……巧介」
 現れたのは、巧介だった。
 廊下にうずくまる擁を目にして、巧介は最初こそ、気まずそうな顔を見せた。それを振り払うように一度首を振って、あきれたようにも聞こえる声で、笑われる。
「大丈夫か?」
 返事はせずに、黙ったまま、立ち上がる。そろそろと時間を掛けて、巧介から距離を置いたまま、どうにか立ち上がる。
「ふらふらじゃねぇか。こっち来いよ、手、貸してやるから」
 まるでさっきのことが嘘のように、そんなことを言ってくる。
 辰巳といい、巧介といい、いったいどうしてしまったのだろう。そんな風に思いかけて、自分でそれに反論する。ちがう。さっき、思い知らされたばかりではないか。擁と、彼ら三人の関係が、ほんとうはどんなものか。
 思わず、彼の手を見た。半袖から覗く、程よく鍛えられた腕。擁がさっき噛みついたのは、右手だっただろうか、左手だっただろうか。暗かったし、必死だったから考えても分からない。
 それを確認しようとしたのに、擁の目は違うものに引き寄せられた。巧介の手にあるもの。
「……それは?」
 どこで見つけたのか、巧介は1メートルあまりの長さの棒のようなものを持っている。薄暗くてよく分からないけれど、工事現場などでよく見かけるような、錆びた鉄の棒だった。先程の音の正体に気付く。あれを、引きずるようにして廊下を歩いていたのだ。
 こちらに手を差し伸べようとする巧介に、擁はもう一歩、足を退いた。
「そんな顔すんなよ。護身用に決まってんだろ。……まぁ、おれの言うことなんて、信じられねぇんだろうけど」
 鉄の棒を手にしたまま、巧介は笑う。
 あれで殴られたら、きっとものすごく痛い。頭を狙われたら、と最悪の事態を想像してしまう。巧介の力があれば、もしかしたら、そのまま。
 考えて、ひとりでぞっとする。起こるかもしれないことへの危惧と、そして、友人が自分を殺すかもしれない、とそんな想像をしてしまっている自分自身が、同じぐらい擁には恐ろしかった。
「……話、しようぜ。ちゃんとさ」
 警戒する擁を落ち着かせようとするように、巧介が少し声を抑えて言う。距離だけは保ったまま、彼の顔を見る。目が合った瞬間、巧介は戸惑ったように視線を逸らしてしまった。
「悪かった。あんなこと、するつもりじゃなかった」
 呟くように小さく、そんなことを言われる。鉄の棒を固く握りしめている手が、かすかに震えているようにも見えた。
 それはどんな感情からだろう、と、疑うような気持ちがどうしても消せない。それでも、擁に向けられる巧介の言葉はシンプルなものだった。
「おまえがいちばん言われたくなくて、いちばんされたくなかったことだろうと思う。……悪かった」
「巧介」
 謝られて、頭まで下げられた。
 巧介にはこういうところがある。派手な外見や、軽そうな印象からは想像出来ないが、実は正義感が強くて、他人思いなのだ。短気で、柄が悪そうに見えるけれど、ひとと争うようなことは滅多にしない。……根っからの善人、だと辰巳が彼のことをそんな風に言っていた。それはたぶん、その通りだ。擁も、異論はなかった。
「……順のこと、あんまり、好きじゃないって?」
 だからそんな巧介を、あそこまで怒らせてしまったのには原因がある。思い当たるのは、順について、だろうか。偽善的な人間だと、辰巳までが言っていた。
 どうして、そんなことを言うのだろう。順はあんなに優しいのに。
 その名前を出した擁に、巧介は面白くなさそうにわずかに目を細めた。
「別に、そういうんじゃねぇけど。あいつの言うことなんだからあんま真に受けんなよ」
「……順は、いい奴だよ」
「ああもう、うるさいなぁ」
 苛立ったように、巧介はがしがしと頭を掻く。その粗雑な仕草が、先ほどの彼を思い出させて、擁はふたたび、相手との距離を取った。
「なんでおまえ、あいつのことだけそんな庇うわけ。やっぱ付き合ってんの?」
 馬鹿にしたように、そんなことを言われる。
 庇っているつもりはない。ただ、信じたいだけなのだ。順だけではなく、巧介も、辰巳も。
 言ったところで信じてもらえない気がしたので、巧介のその言葉には首を振るだけで否定する。
 しばらく、どちらも黙った。まだ雨は降り止まないらしく、雨音がかすかに流れ聞こえてくる。
 かつての自分は、巧介とどんな話をしていただろう、と、そんなことをふと考える。……なにも、思い出せなかった。
「……なぁ、さっきも、言ったけど」
 ふいに、巧介が口を開く。まるで彼のほうでも擁と同じことを考えていたかのように、どこか感傷的にも聞こえる声だった。
「ほんとはおまえ、覚えてるんだろ」
 忘れたなんて嘘だろ、と、かろうじて聞こえるほどの小さな声で付け加えられる。ベッドの上で、辰巳に後ろから抱きかかえられている時に言われたのと、同じ言葉だった。
 何を、なんて改めて聞く必要もない。高校二年の時の夏のことだ。
 辰巳ももしかして、それを聞きたかったのだろうか。何か話すことはないかと、そんなことを言われた。鬼の話をされて、次は擁が鬼なのかと、無邪気な子どものような口ぶりで。
「……どうして、そう思うんだ」
 彼らが急にそんなことを言い出したのが、擁には不思議だった。何かそれらしい片鱗を自分が出していたのだろうか。それにしても、擁自身には全く心あたりのないことだ。
 何か知っているのなら、教えてほしいのはこちらの方だ。そんな気持ちで、尋ね返したつもりだった。
 けれどそれを聞いて、巧介はひとつ舌打ちをしただけだった。
「こんなとこで突っ立っててもしょうがねぇな。足、つらいだろ。戻ろうぜ」
 来いよ、と呼ぶ巧介に、首を振る。
 辰巳にも巧介にも、さっきのことについては謝罪の言葉をもらった。それは、まるきり嘘で信じられないものではないと思う。けれど、何もなかったような顔をすることは、擁には出来ない。それに。
「……おれ、順と、話がしたい」
 扉のそばに立ち尽くして、擁たちを見ていたあの順の顔を、今になって思い出す。信じられないものを見た、という表情。絶望したような、どこか悲しそうな顔だった。順は、あの光景を見て、どう思っただろうか。
 あんな顔をさせて、自分がひどいことをしてしまったような気持ちになる。一度、ちゃんと、順と話をしたかった。
 だから巧介たちのところには行けない、とそう伝えたつもりだった。
「また、あいつかよ」
 もう一度、舌打ちをされる。
「いいからとりあえず、こっち来とけって。いま、辰巳もあいつ探してるから」
 来い、と、半ば命令するような調子で、手を差し伸べられる。その手と反対にある鉄の棒のことが、改めて、気になった。辰巳と巧介は、ふたりで順を探していたのだろう。それなら、その鉄の棒は、何のために持たれていたのだろう。
 巧介が少し足を進めて、擁に近づく。光がないせいか、距離が縮まったはずなのに、さっきまで見えていた相手の表情が、影になって何も見えなくなる。
 背筋がぞっとして、擁は思わず、伸ばされたその手を払い除けた。
「……っ」
 それがまた、巧介の神経を逆撫でしてしまったようだった。
「いいから、来いよ、……っ!」
 吐き捨てるように言われ、強引に手を取られる。
 それを振り払おうとしたが、痛めた方の足に体重をかけてしまい、バランスを崩してしまう。そこをがっちりと巧介に捕まえられてしまった。
 もともとの体格差があるので、そうされてしまうと、簡単には振りほどけない。
「……っ、いや、だ」
 他人の肌の熱に、じわりと嫌悪感が滲む。身体が竦んでしまい、逃れなければと思うのに動けなくなってしまう。
 巧介は身じろぎひとつしない擁に、抵抗を諦めたのだと判断したのだろう。そのまま、引きずるように廊下を運ばれようとしていた、その時だった。
 声にならない、声を聞いた。悲鳴ではない。どちらかというと、怒号、だろうか。
 それに続いて、これまで耳にしたことのないような、鈍くて重い音。
「え……」
 擁を捕まえていた、巧介の手が離れる。ずるりと至近距離にあった大きな身体が床に崩れた。
 いったい、何が起こったのか。
 動揺を押さえられず、とりあえず、突然倒れた巧介のことが心配になる。巧介、と呼びかけて、肩を揺すろうとした。
 指を伸ばしかけた擁の腕が、まるでその動作を止めようとするかのように、別の誰かに掴まれる。
 強い力で引っ張られて、抵抗も出来ないまま、そちらの方に腕を引かれる。
「……順?」
 次から次へと、何が起こるのか分からなかった。
 擁の腕を掴んで足早に廊下を進もうとするのは、順だった。青白い顔で、表情はかたく強ばっている。
「順、巧介が」
「話はあと! とりあえず、こいつから離れよう」
 そう言って、擁の手を強く引っ張り、廊下の先を進んでいく。順は擁の足の怪我のことも忘れているのか、ぐいぐいと、少しでも遅れることを許さないとでも言いたげな、強い力で引いて走っていく。足が痛くて、それでもどうにか着いていくために、懸命に走った。
「巧介に、何をしたんだ」
「ちょっと、殴らせてもらっただけだよ。だって、擁が、困ってたから」
 そう言って、順は擁の手を引いているのとは反対の手を軽く掲げた。その手には、巧介が持っていたのと同じような、錆び付いた鉄の棒があった。
(……なんで、みんな、そんな)
 護身用だと、巧介は言っていた。それなら順も、同じ用途でそれを持っているのだろうか。
(ちがう)
 違う、と、自分の考えたことが間違いであることに、直感で気付く。巧介はほんとうに、護身用として、あれを持っていたのだ。襲いかかってくる、なにかから身を守るために。彼が警戒していた相手は、おそらく。
(鬼だ)
 腕を引かれて、真っ直ぐ、長く続く廊下を突き当たりまで走らされる。さっきの、四人が最初に使おうとしていた部屋とは、ちょうど正反対の棟の一番端になる。
 順はそこで足を止め、奥の部屋の扉を開けた。擁の腕を掴む手は離れない。
 無理をさせた足が、熱を持ったように疼いて痛む。強い力に逆らえなくて、そのまま部屋に引っ張られた。
 順が、後ろ手で扉を閉める。
「危なかったね、擁。あのままだったら、何、されてたか分かんないよ」
「順」
 いつもと変わらない、優しい笑顔。
(「鬼の指はね、三本なんだって」)
 辰巳から聞いたことが、耳に蘇る。剣を握れないように親指を、弓を引けないように小指を切り落とす。みっともなく床に座り込んだまま、ぽかんと口を開けてしまう。順の指は、右も左も、ちゃんと五本揃っていた。当たり前だ、そんなの。順が鬼だなんて、そんな話、あるはずがないのに。
「あ、ごめん。そうだ、擁、足、怪我してたんだっけ。ごめんね、無理に走らせて。……痛かっただろ?」
「……順」
 声が、震えてしまう。どういうことなのか、理解出来なかった。
 これはなにかの間違いだ。他の誰かならばともかく、順なのだから。自分の見ているものの方が、間違っているにちがいない。
 擁が指さすものを、順はちらりと見ただけで、なにが言いたいのか分からない、とでも言いたげに、少し困ったように笑うだけだった。いつもと何も変わらない、優しい、笑顔だった。
「もう大丈夫だから」
 順の右手には、くっきりと色濃く残る、歯型の噛み跡が残っていた。
「あいつら、許せない。擁に、あんなことして」
 混乱と、見ているもののショックで、擁は身動きが取れなかった。
 その擁の肩を、包むように優しく抱いて、順は穏やかに笑みを浮かべながら、独り言のように続ける。
「擁は、あんなにひどい目に遭ったのに。それで、今では、自分ではなにひとつ出来ない程、弱くなっちゃったのに。それに付け込んで、あいつら」
 笑っているのに、擁を見る順の目は、赤く血走っていた。喋る、あの目玉だ。
「あいつら、許さない……! 許さない、ぜったいに許さない、おれの、おれだけの、」
 呟かれる言葉は徐々に速度を増す。声が激しくなるごとに、擁の肩に置かれた順の手が、次第に食い込むように強くなっていく。
「痛、……いたいよ、順」
 見上げてそう訴えても、順の耳には、まったく届かなかったようだった。じっと、瞬きしない目が、擁を見る。
 金縛りにあったように、そこから動くことが出来なかった。順の腕が、擁の背中に回る。これまで、何度もあの「手伝い」をしてくれたこの手。こんな風に、恋人同士がするように抱き締められたことは、一度もなかった。
 耳元で、順が独り言を続ける。 
「許さない、擁に、あんな風に触って。擁は……擁は、おれだけのものなのに」
 記憶の中で、完全に一致する、この感覚。
 身動きも取れないほど、きつく抱き締めてきてほどけない、順の腕。

 それは「あの手」だった。

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