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鬼さんこちら
16

 部屋を出て行っても、巧介にも辰巳にも、なにも言われなかった。誰とも一緒にいたくなかった。
 どうして、こんなことになったのだろう。楽しいキャンプになるはずだったのに。何が、いけなかったのだろう。雨が降ったから? 車が走れなくなったから? それとも、擁が、ひとの少ないところに行きたいと、そんなことを希望したからだろうか。何にも関係がない気もしたし、すべて、それが原因でもあるような気がした。
「……っく、は……」
 今さら襲ってきたひどい吐き気に、壁に手をついて立ち止まる。足がまだ痛むので、そうやって、壁伝いでないと、歩けなかった。どこにいよう、と、あてもなく廊下を歩く。
 このまま、もう、誰の顔も見たくなかった。どこか暗いところで、身を丸めて、ひたすら自己嫌悪に陥っていたかった。
(……きもちわるい)
 座り込みたくて、適当に、その時すぐ近くにあった扉から、中に入る。今、何時になったのだろう。かすかに、雨の音は聞こえる。部屋の中は暗かった。先程までいた部屋よりもずっと狭く、あちこちに物が散乱している。倉庫として使われていた部屋なのかもしれない。
 警戒して、しばらく身動きせず、じっと目を凝らして耳を澄ます。……ひとの気配はない。
 音をたてないように注意して、扉を閉めた。暗い部屋の中を、散らばるものを踏まないよう慎重に進む。床に座れそうな隙間を見つけて、そこに崩れるように座り込む。空気が埃臭い。息が浅くなっていた。
(……なんで……)
 どうして、こんなことになったのだろう。
 ひとりになると、また、そんな思いで頭がいっぱいになる。考えてもどうにもならない。今はひたすら、時間が経つのを待つしかない。こうして、ここに座り込んで、隠れていよう。
 朝になったら、ひとりで山を降りよう。そうして、……どこまで歩けばいいのか分からないが、とりあえず、歩けばいい。家に帰る道なんて分からない。分からないけれど、擁が家に帰らなくたって、別に、構わないだろう。祖父も、祖父の言うことには誰も逆らえない、他の家族も。帰ってこなくて、逆にせいせいするかもしれない。
 擁のことを受け入れてくれるのは、あの三人だけしかいない。順と、辰巳と、巧介。あの三人だけが、擁とこの世界を繋いでくれるものだったのに。
 ずきん、と頭が痛む。あまり経験したことがないような痛みに、擁は思わず小さく声を上げてしまう。さっき倒れた時に、ほんとうに頭を打っていたのだろうか。目を閉じて、痛みが治まるのを待つ。横になりたかった。
(……いいや、ここで。もう)
 埃の積もった絨毯の上に、そのまま倒れ込む。何も考えたくなかった。ただ、目を閉じて、次に目を開けたら朝になっていればいい、と、そんな期待を込めて、擁はその場で小さく身体を丸めた。

(「笹村って、なんで部活やらないの?」)
 耳の奥で、懐かしい声が響く。
 これは、順だ。まだ、それほど仲が良くなかった頃だから、高校に入ってしばらくしたあたりだっただろうか。
 どういうきっかけだったかは忘れたけれど、順にそんな風に声を掛けられたのだ。
 順は中学の時から続けていたテニス部に入っていた。その頃の擁は帰宅部で、かといって真っ直ぐに家に帰るのは気が進まなくて、毎日あちこち寄り道をしていた。そんな風にして時間を潰していた帰り道で、順に話しかけられたのだ。
(「あ、……うん。うち、ほら、あれだろ。爺さんがうるさくてさ」)
 擁が部活に入らないことを、家族は良く思っていなかった。かといって、何が何でもどこかに所属してほしい、と、そんな風には言われなかった。たぶん、擁は何をやるにしても中途半端だったからだ。運動も、勉強も。芸術的なセンスもなかった。だからそんな擁が何をしようと、そこでめざましい結果は出せないだろうと、みんな予想していたのだろう。
 結果を出せないのなら、最初からやってはいけない。
 小さな子どもの頃から、祖父は口癖のようにそう言っていた。やるからには結果を出せ。優秀な兄たちは、その言葉に励まされるようにいくつも立派な結果を出してきた。笹村の家の居間には、彼らが得てきたトロフィーや賞状がたくさん飾られている。擁のものはひとつもない。
(「厳しいんだ」)
(「厳しいって言うか、おれが落ちこぼれなんだよ。だから、つい口出ししちゃうんだろ」)
(「……大変なんだな」)
 順は仲良くない相手にも、そんな風に親切で優しかった。決して派手な、目立つ存在ではなかったけれど、クラスの誰からも好かれて、信頼されていた。家族の存在で遠巻きにされることの多い擁にも、気にせずに声を掛けてくれる数少ない存在だった。順は昔から、いいやつだった。
(「別に! だから嫌とか、そういうんじゃなくて。そう言うことを言われるのが目に見えてるから、面倒臭いだけなんだよ」)
 そんな順に、ついつい気がゆるんで余計なことを言ってしまった。慌てて取り繕うと、じゃあさ、と、順はひとつ提案をしてきた。
(「……じゃあさ、笹村。テニスやらない?」)
 誘われて、心がまったく動かなかったといえば嘘になる。得意ではないだけで、身体を動かすのは好きだった。順がテニス部に入っている、と聞いた時から、楽しそうだな、と心のなかでは思っていた。
 でも、また、いろいろなことをうるさく言われる。それが嫌で、せっかくの誘いだけど、と、首を振ろうとした。
 けれどそれより先に、順がこんなことを言った。 
(「ひとりだったら、個人の成績が問われるかもしれないけど。だったら、ダブルスやろうよ、おれと。それで、もし試合とかに負けちゃったら、おれが足引っ張ったってことにすればいいじゃないか」)
 なんだそれ、と、呆れるような気持ちになったことを、今でもよく思い出せる。
(「そんなひどいこと、しないよ」)
 順は笑わせようと言った様子でもなく、妙に真面目な顔をしていた。
(「えっと、波崎」)
(「順、でいいよ。言いにくいだろ、波崎って」)
(「別に、そんなことないけど。……あのさ、部活だけど」)
(「うん」)
(「一回、見に行ってみても、いいかな」)
 擁がそう口にした時、順はすぐに頷いた。何度も頷いて、それから、嬉しそうに、ぱっと光がともるみたいに笑った顔が、今でも記憶に残っている。
 ……順は昔から、ほんとうに、いい奴だった。

「……ん、」
 目を開く。いつの間にか眠っていて、夢を見ていた。
 さっき気を失った時に見ていた、あの不気味なものとは全く違う。優しくて、……いまはどこか、哀しい気持ちになる夢だった。
 どれくらい時間がたっただろう。雨はもう、止んだだろうか。ゆっくりと身体を起こして、立ち上がる。眠ったのが良かったのか、頭痛はもう引いていた。
 確認しようと、部屋の奥に見えるカーテンが掛かった窓の方に近づこうとした。目が少し慣れても、光の差さない室内は暗い。壁伝いに歩こうと、指を伸ばす。すると、壁に触れる指に、つるつるとした手触りがあった。
 不思議に思って目を凝らすと、そこに黒い影が動いた。すくみ上がり、指を離す。
 誰かいる。
 身体を固めて、逃げ出すために立ち上がる。うっかり右足に体重をかけてしまい、激痛に息を飲んだ。
「……え?」
 立ち上がって、しかしその時、目の前の影が、おかしな動きをしていることに気付く。
 もしかして、と思い、一度は離れた壁際にふたたび近づき、さっきのように触れてみる。つるつるしたその表面に、自分の指と同じ動きをする影が映る。
「なんだ、鏡か……」
 安心して、そう呟く。気が緩んで、一気に身体から力が抜ける。足が痛む。
 息を吐いて、座り込もうとした、その瞬間だった。
「……っ! え、」
 また、後ろから、手が絡みつく。
 暗闇の中の、手。さっきのあの手と同じもののような気もしたし、巧介に口でされている間、ずっと抱いて離さなかった、辰巳の手と同じような気もする。それとも、舐めろ、と言われて口の中にねじ込まれた、あの巧介の指と同じだろうか。自分の中に混在するものが今は多すぎて、感覚を把握することも出来なくなっていた。
 背後の腕の主は、やはり、何も言わない。何がしたいのか、よく分からなかった。締め付ける腕の強さが、感情の度合を示しているのだとしたら、それが悪意であれ、その反対のものであれ、強すぎて押しつぶされそうなほどだった。
 その手に、思い切り、歯を立てる。
 躊躇いなく、食いちぎる勢いで、噛付いた。手は、しばらく抗うようにそのまま擁を捕まえていたが、顎が痺れるほど力を込め続けていると、やがて、離れた。背中を突き飛ばされて、前のめりに倒れる。
 逃げていく足音が聞こえた。……あれは、誰だったのだろう。倒れた時に勢い込んで、近くにあった椅子らしきものも転がしてしまった。床に積っていた埃が舞い上がる。逃げていった誰かが出て行ったらしい、扉が閉まる。
 大きな音を立ててしまった。ここに、誰かがいることを気付かれてしまうかもしれない。はやく、出ていかなければ。倒れ込んだまま、頭ではそう思うのに、身体が動かなかった。
 心臓が、壊れそうなほどに早鐘を打っていた。さっきは必死で、とにかくあの腕から逃れなければ、とそれしか考えられなかった。今になって、ぞっと鳥肌が立つ。もう嫌だ、と、無意識のうちに、何度目か分からない言葉を呟いていた。
 閉められたはずの扉が、小さく軋む音がする。誰か、来たのだ。
「擁?」
 身を起こして、扉を内側から押さえて開けられないようにする。外にいる相手は、無理に押し入ろうとしている様子はなかった。少しだけ、隙間を残して、そこから声を掛けられる。
「……辰巳」
 温度の低い、冷たい優しさのある声。辰巳が、そこにいるらしかった。
「大丈夫? 大きな音がしたから」
「何でもない」
 短くそう言い放った声は、自分でも驚くほど、低く乾いていた。辰巳の声は、いつもと何も変わらない。
 身が竦んでしまうような、強い暴力の気配を漂わせた、あんな巧介はこれまでに見たことがなかった。けれど、辰巳はあの最中にも、擁が見知った表情しか見せなかった。気をつけなければいけないのは、果たして、どちらの方なのだろう。
「さっきは、ごめんね、擁」
 擁が考えていることを見抜いたように、扉の向こうの辰巳がそう言ってきた。
「さっ、き」
「うん。可愛いから、思わず、手を出してしまった。泣いていたね。嫌だった?」
 淡々と、そんなことを続けるのが、なんとも言えず辰巳らしかった。
 嫌だったのか、と聞かれても、自分自身のことが、よく分からなかった。だから答えずに、そのまま黙る。
 辰巳はそれ以上、そのことには触れてこなかった。
「辰巳」
 あれはおまえか、と聞いたなら、辰巳はどう答えるだろうか。
 そんなことを考える。もし、あの手の主が、あんな写真をばらまいたのが、「嘘つき」が、辰巳だったとしたら。
 ……そうだよ、と、彼ならば静かに肯定して、それで終わり、かもしれない。きっと、それがどうしたの、と首を小さく傾けて、いつものように少しだけ笑って。
(……怖い)
 扉一枚を隔てたところにいる友人が、ひどく不気味なものに思えた。そうして同時に、大切な友人であるはずの辰巳のことを、そんな風に疑ってしまう自分が、嫌なやつに思えてならなかった。
「順も、どこかに隠れてしまって、見つからないんだ。巧介と、手分けして探してる」
「……探して、どうするの?」
「どうもしないよ。擁、隠れるの上手だね。音がしなかったら、見つけられなかったかも」
 そう言って、おそらく彼は笑ったのだろう。無邪気な、子どものような言葉だった。
「次は、擁が鬼?」
 だからこそ、口にされたその単語に、ぞくりとするような寒気を覚えた。鬼。
「……しないよ。なんだよ、鬼って」
 かくれんぼでもしているつもりなのか。辰巳の考えることは、いつも、分からない。それは昔からそうだった。
「鬼の指はね、三本なんだって」
 だから、話が予測もしていない方向に変わることにも、擁は慣れていた。それにしても、ずいぶんと、不穏な話をするとは思うが。
「三本?」
「そう。この間読んだ本に書いてあったんだ。鬼には親指と小指がない。どうしてだか分かる?」
 聞かれても、分かるわけがない。擁が黙っていると、辰巳はどこか楽しそうに、それを教えてくれた。
「鬼っていうのは、昔、権力者に逆らったものたちのことを言うんだって。自分たちに都合の悪い存在を、そうやって蔑んで、貶めて、人間じゃないって、そう呼んでいたらしい。だから鬼には、親指と小指があったら駄目なんだね。親指がなければ、剣が持てない。小指がなければ、弓が引けない。二度と逆らえないように、切り落としてしまうんだ」
 ぞっとするような話をされて、思わず、擁は自分の指を見た。当たり前だが、ちゃんと五本ある。
「……なんで、そんな話」
「別に、理由はないけど。擁が、なにかおれに言いたいことがあるかな、と思って」
 静かに、そんなことを言われる。さっき考えたこと、だろうか。あれはおまえかと、そう疑っていることはお見通しだと、辰巳はそう言いたいのだろうか。それとも。
 鬼はおまえか、と、擁に、聞いているのだろうか。
「ないよ。……なにもない」
 擁の言葉を聞いて、そう、と辰巳は短く応じる。あまり、興味もなさそうな様子だった。
「順に気をつけて。巧介にもね」
「辰巳には?」
「そうだね。おれにも、気をつけて」
 おかしそうに、くすくすと声をたてて笑って、彼は扉の前を離れて行った。

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