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= 10 =

 その日は、実波のことだけを考えて眠った。
 何も幸せな気分に浸れたわけではない。あんなことをして、どういうつもりなのだろうと、ひとりで腹を立てたり、思いつく限り実波の気持ちを想像してみたり、とにかく、頭の中をあの男のことで一杯にした。意図的にそうしようと思ったのか、身体を触られたことが後を引いてそうなってしまったのかは分からない。
 けれども、その晩ぼくは、そうやって実波のことを考えているうちに、いつの間にか、眠りに落ちていた。
(「まさき」)
 ……夢の中で、そう呼ばれたような気がした。
(「おれ、おまえの声、好き」)
 どんなものだったかは覚えていない。ただ、彼の夢を見たような気がした。

 母さんは夜のうちに、『今日も帰れません』と連絡をくれた。ごめんね、と何度も謝りの言葉を並べていたけれど、家のことならば、心配することはない。一晩か二晩くらい、ぼくに任せてくれたって構わないのに。
 ごめん、と謝るのは母さんの口癖のようなものだった。きっとぼくが、そうさせてしまった。謝らなくてはいけないのは、ぼくの方なのに。全部壊してしまってごめんなさいと、そう言わなくてはならないのに。
 いつも通りに制服を着て、適当に冷蔵庫の中身でお弁当を作る。そろそろ買い物に行かなくてはならないな、とそう思う。今日は、母さんも帰って来られるだろうか。
「……あ」
 かあさん、と、口にしようとしてみる。
 声に似たような音を出せた気もするけれど、その一息だけで、胸が詰まった。まるで、誰かの手で握り潰されようとしているように、喉に圧迫感を感じて、息が苦しくなる。台所の床に膝を付いて、両手で口を押さえる。どうしようもなく身体が震えて、止められなかった。背中を丸めて、口元に添えた手のひらを思い切り噛んだ。悪い癖だと、自分でも分かっている。けれども、こうすればもう、嫌でも声を出すことは出来ないから。
 しばらくそのままの姿勢で、うずくまる。ごうごうと激しい風が吹くように、耳元をいくつもの声が通り過ぎていく。怒鳴る声、罵る声、許してと泣く声。
 ゆっくりと息をするように心がける。何も考えないように、頭の中を白くしようとする。
 実波が見せてくれたような、すべてを溶かす、何もない感覚を思い出そうとする。
 手のひらを噛んでいた歯を、ゆっくりと引き剥がす。じくじくと痺れるような痛みが、ぼんやりと伝わる。やがてそれがはっきりと手の先に感じられるようになる。
 大きく息を吐いた。同じ速度で息を吸い、また吐く。心臓が暴れるように早鐘を打っていた。強ばっていた身体の力が抜けて、そのまま床に転がり込む。
 冷たい感触が、頬に心地よかった。まだ少し震えの残る指先で、息苦しさに滲んだ涙を拭う。
 昨日、実波の前では平気だったのに。――やっぱり、上手くいかない。
 どうしてぼくの中には、こんなにもたくさんの哀しいものが詰まっているのだろう。どうしてぼくは、こんなものをいつまでも残して留めておこうとするのだろう。まるで、痛みを大切に保存しているように、いつだって正確に、その時の記憶を再生することが出来る。
 そんなことが出来たとしても、誰も幸せにはできないのに。
 ぼくは声が出せる。けれども、それを邪魔するものがある。それは他ならぬ、ぼく自身だ。忘れることも消化させることも出来ないいろんなことを集めて、混ぜ合わせて固めて、二度とそこから声を出すことのないように、ぼくはぼくの喉に栓をした。
 転がったまま、天井を見上げる。目を閉じて、数回深呼吸する。大丈夫。もう、大丈夫だ。
 たかが一声上げただけで、心臓が痛むほどに鼓動を繰り返している。なかなか楽にならない呼吸に、大丈夫なのだと自分に言い聞かせながら、ぼくは身体を起こす。テーブルの脚に掴まって、身体を支える。
 早く、学校に行く支度をしなければならない。いつものように、純太が迎えに来てしまう。好きでやっているわけではないと密かに打ち明けていた純太が、また、ぼくを迎えに来てくれる。
 どんな顔をすればいいのか分からない。けれどもとにかく、心配をさせないような平気な顔を、しなくては。
(「おれはおまえが大事なんだ」)
 ぼくは小さい頃から人見知りする性格だった。人見知り、というのとは少し違うのかもしれない。他の子たちにどう接していいのか、何を言えばいいのか、どうすれば一番喜んでもらえるのかが分からなくて、いつもひとりでいた。そんなぼくに声をかけてくれたのが、ただひとり、純太だった。
(「まさき、おいで。おれと遊ぼ」)
 いつだって、ぼくの手を引いて歩いてくれた。
(「まさきを泣かせるような奴は、おれがゆるさないから」)
 そうやって、守ってくれた。
(「どうしよう。どうしよう、どうしよう、おかあさん」)
 ……そう、あの時も、純太はぼくを、守ろうとしてくれた。
(「どうしよう。まさきが死んだら、どうしよう……!」)
 純太。
 今よりもずっと幼い純太の声も、繋いでくれた手の確かさだって、ぼくはちゃんと覚えている。ぼくの中にあるのは、痛いものばかりではない。
 きっと純太も、辛い思いをしている。好きな女の子と一緒に過ごす時間もぼくに費やしてくれている。ぼくが、そうしてあげないといけないような、可哀想な奴だから。他に友達のいない、ひとりぼっちの可哀想な子だから。
 純太はきっとそれを、無視出来ないんだろう。うんざりしていながらも、そんなぼくを放り出すことの出来ない、……優しさを持ってしまっているのだろう。嫌いだと、うっとうしいと思われているのかもしれない。けれども、ぼくに向けてくれたたくさんの好意だけは、純粋に優しいものだと信じたかった。
 そう信じようとすればするほど、自分のしてきたことの浅ましさに気付かされる。
 ぼくは、なんて酷いことをしているんだろう。
 ……やっぱり、駄目だ。純太に会うのが怖い。
 時計を見ると、いつも純太が来る時間にはまだ少し余裕があった。
 ごめん、今日も一緒に行けない。
 理由は思いつかなかった。どんな返事が来るのかも考えられず、純太がぼくのそのメールにどんな気分になるのかも全く考えられなかった。
 それだけを言葉にして、ぼくはまた、逃げた。

 家を出て、学校に着いたのはいつもより早い時間だった。教室にいたら、純太が会いに来るのかもしれない。ぼくの態度を不審に思って、どうしたんだと尋ねてくるかもしれない。だから、始業の直前までぼくは屋上にいた。
 朝の日差しは冬なのに温かかった。それほどの高さではないのに、見下ろす景色は妙に現実離れして見えた。次から次へと校舎へと呑み込まれていく生徒たち。車の行き交う音。小さくさざめく、鳥の鳴き声。
 芝山実波は、いつも、ここからどんな風景を見ているのだろうか。
 賑やかな笑い声の溢れた教室に反して、ここは、とても静かだ。
 ……そんな静けさの中で、実波は、何を見ているんだろうか。
 予鈴が鳴るまで、ぼくはただそこで、ぼんやりとそんなことを考えて過ごした。純太のことは考えなかった。考えないようにした。

 四限目のチャイムが終わるとすぐに、ぼくは実波の後を追いかけた。屋上まで付いてきたぼくにちらりと一瞥をくれるだけで、実波は何も言わなかった。この間のように柵に寄りかかって座った実波が、自分の隣を指し示す。
「隣、来いよ。昼飯食いに来たんだろ」
 その言葉に頷いて、彼の隣に座る。ぼくのお弁当を覗き込んで、実波は興味深そうに、へぇ、と小さく息をついた。
「それ、おまえが作ったんだろ」
 確かにその通りだ。けれども、実波にはそんなことを話したことはないような気がする。どうして、ぼくが作ったなんて分かるのだろう。
「色合いがそんな感じなんだよ。いつもおまえ、自分で作ってんの?」
 色合いがそれっぽいとはどういうことだろう。自分で作っている、という問いに答えるつもりで頷いてから、気付く。冷凍食品のコロッケや卵焼きを見下ろしてぼくが考えていると、実波は隣でパンの袋を開けて、ひとりで食べ始めた。また、適当なことを言われてしまった。
 実波の足下に、コンビニのビニール袋が転がっている。今日は購買ではなく、コンビニで買ってきたようだった。パンと、小さなパックのコーヒー牛乳。いつも、そんな昼食なのだろうか。思わず、栄養のバランスを考えてしまう。……色合いがそれっぽい、とは、ぼくのそういうところの表れだと言いたいのだろうか。
 黙々と、ただ並んで食べる。朝と同じように、昼休みの屋上もまた、とても静かだった。ひとの喋る声は嫌いではないし、これまで、教室に居るのが辛いと思っていたわけではなかった。けれども、この場所のこの空気がとても心地よいと、そう思う。
 実波も、そうなのだろうか。いつもお昼になると教室を抜け出してここに来る彼も、やはり、そんな風にぼくと同じようにここが好きなんだろうか。
「静かだろ」
 ぼくの考えていることを見抜くように、実波。それに何度も繰り返し頷くことで、賛同の意を示す。すると実波は、何故だか、とても嬉しそうに笑った。
 どうして、そんな風に笑うんだろう。……どうしてこんなに、胸がゆるやかに締め付けられるのだろう。今朝方、声を出そうとして床に転がった苦しさとは全く違うその痛みの正体が知れなくて、ぼくは思わず、実波の顔から目を逸らした。昨日のことを、いろいろ思い出してしまった。
 実波はぼくの表情を観察するように、そしてそこから、ぼくが何を思っているのかたやすく理解出来ると言うように、ただ意地悪く笑ってぼくを見ていた。
 空になったお弁当箱を片づける。食べることに専念できなくなると、実波の隣にいるということがとても恥ずかしくなった。
 その時、ポケットの中で、携帯が震えた。メールだ。
 きっと、純太からだ。もしかして、ぼくに会うために教室まで来たのかもしれない。どこにいるんだ、と、そう聞いてきているのかもしれない。
 ぼくは胸ポケットから、携帯ではなく、メモを取り出す。 
『そうだんしてもいい』
 そう短く書いて、食べ終えたパンの袋を結んで遊んでいる実波に見せる。
「勝手にすれば」
 呆れたような、驚いたようなその返答に、ぼくは心を決める。きっと実波にも、今更そんなことに気がついたのだろうか、と馬鹿にされることだろう。それでも、この男の言葉は、ぼくが純太を縛めているものを断ち切る助けになるような気がした。
 ぼくが文字を書いていくのを、実波はじっと見つめている。それは決してきつい眼差しではないけれども、なんだかそうして見られていると気が急いた。
『ずっとともだちだとおもっていた人に、じつはずっといぞんしていただけだときがついた』
 実波に見せたそのメモは、急いで書いたものだから必然的に字が乱れ、平仮名が多くなってしまった。まるで文字を覚え立ての子どもが書いたもののようだ。文字も、その内容もひどく幼稚なものに見えた。
 具体的に名前は出していない。それでも、ぼくの世界はとても狭い。実波には、ぼくが誰のことを言いたいのか、すぐに分かってしまうだろう。
「それで?」
 けれども実波は、特にぼくが話に出そうとしている相手のことについては何も言わずに、たいして興味も無さそうに先を促してきた。
『どうしたらいいとおもう?』
 ひとつ頷いて、ぼくも続けた。
「どうって」
 おまえは馬鹿じゃないのか、という響きが込められているような気がした。
 どうしてこんな簡単なことも分からないのか、と、そう言われたようだった。
「謝りゃ、いいんじゃないの」
 その言葉を締めくくるように、実波はぼくの頬に手を添える。キスされる、と予感した通り、実波はそのままぼくに唇を重ねてきた。もう、慣れてしまったのだろうか。それほど、驚かなかった。 
 昨日の感覚をたぐり寄せるように、今度は自分から、それ以上のことを望んだ。実波がそうしてきたように、自分の舌を相手の口腔に割り込ませる。もっと深く交わして、あの痺れを与えて欲しかった。
 けれども、それに驚いたように、実波は突然ぼくから身体を離した。
「……おまえ、昨日の今日で、それはねぇだろ」
 実波が何を言いたいのか分からず、ぼくはただ彼を見上げる。不可解な男だ。ぼくが止めろと言っても無視をするくせに、ぼくから望めば、止めろと叱る。
「ほんっと、おまえって蠍座……」
 まだそんなことを言ってるし。
「あのな、そんな顔するなよ。おまえも男なら分かるだろ。――おれも、男なんだよ」
 だからこれ以上はここでは駄目だ、と、実波はぼくに釘を刺した。
 ようやく、彼が何を言いたいのか分かって、一瞬で頭に血が昇った。それは、そうだ。ぼくだって、これ以上してもらったら――それはそれで、困る。
「……昼休みって、中途半端な時間だよな」
 心底、そのことを残念に思っているような言い方だった。まるで子どものようなその物言いに、思わず小さく笑ってしまう。
「お」
 すると実波は、そんなぼくを見て、何か珍しいものでも発見したように、歓声にも似た声を上げる。
「笑った」
 そう言われてみれば、確かに、実波の前で笑ったことはなかったかもしれない。それだけじゃない。あの言葉を聞いて以来、純太の前でも、なかなか顔を合わせることの出来ない母さんの前でも、ぼくはずっと笑っていなかった。
 笑った、と、ぼくの顔を見て表情を緩めた実波を目にして、気付く。
 なんだ。そうか、実波は別に、そんなにぼくのことを嫌いではないのかもしれない。口に出して言われたわけではないから、はっきりとそうとは、分からないけれど。もしかしたら、そこまで酷く嫌われては、いないのかもしれない。
 ぼくと実波だけしかいない屋上は、とても静かだった。遠く聞こえる電車の音、朝よりもずいぶん数は減っている、車の行き交う音、鳥の鳴く声。
 ぼくが喋れないことなんて、何も関係ないように、そこには限られた音しか存在していなかった。
 実波がぼくの肩を引き寄せて、昨日と同じように後ろから両腕を回してくる。首筋に、やわらかい彼の髪の毛が触れてくすぐったかった。肩の力を抜いて、そのまま実波に身体を預ける。また眠ってしまいそうに、そこが居心地が良かった。
 もう一度、胸で携帯が震える。早く返事をしろ、と急かしてきているように、それは長い間震えていた。もしかしたら、また何かあったのではないかと心配させているかもしれない。純太は、優しいから。
 どうしたらいいのか、なんて。……そう、だよ。
(「謝りゃ、いいんじゃないの」)
 そうだよ。
 とても、簡単なことじゃないか。

 
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