index > novel > キミノコエ(11)



= 11 =

 ずっと無視してしまって、ごめんなさい。
 純太、話したいことがあるんだ。
 話すと言っても、ぼくはこんなだから、上手く伝えることは出来ないんだけれど。
 それでも、どうしても、聞いてほしいことがあるんだ。

 ぼくが送ったメールに、純太は一言『帰りに寄る』とだけ返してきた。今日は部活があるだろうから、それが終わってから、ということなのだろう。
 放課後、家に帰ろうとするぼくの後を、何故だか芝山実波が付いてきた。まっすぐ帰んの、と聞いてくる彼に頷くと、ふーんとつまらなさそうな顔をされた。なんだか申し訳ないような気分になって、買い物をして帰るけれど、と付け加えると、何故だか付いてくると言い張った。
「買い物もおまえなわけ?」
 自分は何を買う様子でもなく、実波はただぼくが買い物をするのを見学していた。学校帰りに寄った近所のスーパーマーケットは、夕食の買い物で混み合う時間にはまだ少し早かった。人もまばらな店内の中を、実波はずっとぼくの手に取るもの、籠に入れるもののひとつひとつを覗き込み、何かしら興味深そうな反応を見せた。
 買い物がぼくの仕事だと決まっているわけではない。ただ、どうしても母さんは仕事で帰りが遅くなってしまうからだ。ぼくが買い物を済ませて、夕食の用意をして待っていると、とても喜んでくれるからだ。頼まれてしていることではない。
 これはちょっと説明するのが面倒だった。実波には、そうだよ、という意味を込めて頷く。
「鍵っ子っぽいもんな、おまえ」
 またそんなことを言っている。いちいち付き合っていたら時間がいくらあっても足りない。
「おまえもっと肉食えよ、肉。こんな、野菜ばっかり食ってるからそんな生白いんだぞ」
 勝手に籠の中にレバーを入れようとした実波の手を阻止し、急ぎ足で買い物を続ける。
 今日は純太が来るのだ。来てもらって、そして、これまでぼくがしてきたことを、謝るんだ。
 ぼくがそう決めたことを、実波に打ち明けたわけではない。それでも実波は、早く帰ろうと急ぐぼくを、どこか不満そうな、かすかに不安そうなものすら感じさせる眼差しで見ていた。

 夕食の用意をあらかた終えた頃、玄関のチャイムが鳴った。母さんからの連絡は、今日はない。いつも通りに遅いんだろうか。
 玄関を開けると、学校からそのまま、部活が終わったらすぐに駆けつけてくれたらしい純太が、ぼくの顔を見て笑った。遅くなってごめんな、と謝る純太に首を振って、二階の、ぼくの部屋へと上がってもらう。
「……具合、もう大丈夫なのか?」
 いつものように、そう気遣ってくれる。頷く代わりに、平気だと笑った。けれども、純太はそんなぼくの顔を見て、何も言わずに眉を寄せる。あまり、上手く笑えていなかったのかもしれない。
 純太はぼくの部屋をぐるりと眺める。
「相変わらず、綺麗にしてるな」
 いつもそうやって褒めてくれるけれど、それはただ、ぼくが物を持つということが好きじゃないだけだ。散らかすほどの物がこの部屋にはないから、それだけだ。純太だって、そんなことはよく知っているはずなのに。……どこか落ち着かない様子で、一言二言、ぼくの部屋について純太は話してきた。ほんの些細な、ぼくが答えなくても、純太ならばよく知っているようなことばかりだった。
 ぼくが何も返さないでいると、純太はひとつ小さく息をついて、絨毯にぺたりと座り込んだぼくの前に、同じように座った。
「なんか、こう改まると緊張するな。……話したいこと、って、なんなんだ?」
 何かを諦めたような、心を決めたような、強い調子の声でそう聞かれる。純太は、ぼくが何を言いたいのか、予測出来ないでいるのだろうか。ぼくが何か、純太に言えない悩みを抱えていて、それを打ち明けようとしているのだと思っているのかもしれない。
 ぼくを見る純太の目は、気遣うような、優しい目だった。ぼくが不安や痛みを抱えていると想像して、それを和らげようとしてくれるその目は、昔と何も変わらなかった。
 ……大丈夫。言える。その目を見て、そう感じた。
 純太の耳元に口を寄せて囁く。
 これまで、ごめん。
「『ごめん』?」
 最初はくすぐったそうに肩をすくめた純太は、やがて、徐々に表情を強ばらせた。それが聞き間違いでないことを確かめるように、ぼくの囁きを繰り返す。
「――なにが、ごめん、なんだ?」
 そう聞いてくる声が、少しだけ不機嫌そうに聞こえた。
 ずっと甘えていてごめん。
 もう一度、今度はそう囁く。すると純太は、はっきりと苛立ちの籠もった声で、また聞いてくる。
「だから、なにが『ごめん』なんだよ。どうしたんだ、急に」
 首を振る。急ではないんだ、純太。ずっと、言わなくてはならないと思ってきたことなんだ。純太が七坂美由紀と付き合っていることを聞いた時から、そして、教室で、ぼくと一緒にいることを「仕方のないこと」だと言っていたのを聞いた時から、ずっと言わなくてはならないと思っていた。けれどもぼくに勇気がなくて言えなかっただけなんだ。
 それだけのことを、思うのと同じ速度と正確さで、そのまま純太に伝えたかった。文字にしようとペンを取ってみたけれど、上手に言葉が見つからない。
 自分に滑らかに話す力がないことを、ひどく悔しく思った。それさえ出来れば、こんなに惨めな思いをすることもないし、純太にだって、誰にだって、いらない重みを背負わせることはさせずに済むのに。
 だから。
 だから、ぼくのことは、もう、いいから。
 それだけを伝えるのが精一杯だった。囁きで伝えるのでは駄目だ。こんな、音ではないかすれた言葉にするのでは駄目だ。これでは、何も変わらない。
 純太がぼくを見てくる。
「……真幸」
 うなだれるぼくを見て、純太が戸惑っているのが分かる。
 話すつもりで、ここに来てもらったのに。それなのに、上手く言葉に出来ないでいるぼくを前に、純太はどうすればいいのか分からないように、黙ってしまった。何かを考えている。
 いつでも明るく、ぼくに話しかけてくれる純太がそうして口を噤んでしまうと、途端に静けさが襲ってくる。静かなのは嫌いじゃない。純太と一緒にいるのも、もちろん嫌いではなかった。
 それなのに今は、その空気が居心地が悪くて堪らなかった。
 何も言えないぼくと、何も言わない純太は、ただ向かい合って座る。視線はふたりとも合わせない。時折、純太がぼくの表情を伺う眼差しを感じたけれども、ぼくは純太の顔が見られなかった。
 窓も閉め切った、ぼくの部屋。それほど狭いわけではないし、置いてある家具や物が少ないから、どこかがらんとしていて、普段は妙に広く感じたりもする。けれどもその、慣れたはずの部屋は、今、まるで純太とぼくだけをぎりぎりに収めた、全く別の狭い壁に囲まれているように思えた。
 その、息苦しい、部屋の中で。
(「南から吹く風は、雪を溶かすんだよ」)
 ……ふいに、風が吹いた気がした。
 何故だか、その言葉が心の奥で響いた。実波がぼくの中に刻み込んだ声が、突然に蘇る。屋上に流れていたものとは違う、重く身動きを取ることも難しい沈黙の中、淀んだ空気を打ち払うように、唐突に彼のことを思い出した。
 実波。……どうしたらいいとおもう?
 実波、きみはぼくに、どう答えてくれたんだっけ?
「真幸、顔色悪いぞ。まだ調子悪いんじゃないのか?」
 純太が口を開く。まるで、こんなことはやめよう、と、空気を変えてしまおうとしているような明るい声だった。
 その言葉に、いつものように、平気だという意味を込めて頷こうとして、止める。
 そうだ。実波が言っていたことを、思い出した。
(「謝りゃ、いいんんじゃないの」) 
 ぼくは、確かに、それが出来るはずなんだ。
 純太がぼくを無視することが出来ないのは、ぼくが喋ることが出来ないからだ。七坂美由紀の言っていたように、昔のことが原因で、ぼくが声を失ってしまったと、そう思っているからだ。
 けれどもぼくは声をなくしたわけではない。
 それを純太に知らせることが出来たら。……それが出来れば、ぼくは純太を解放してあげられるだろうか? ぼくはひとりで構わない。我慢して付き合ってくれることはないのだと、そう伝えたい。
 ぼくがどれだけ、囁いても駄目だ。けれども、声に出して、大丈夫だと伝えたら。
 純太を見上げる。頷きも首を振ることもしないままのぼくを、純太は不安そうに見ていた。震えそうになる身体。力を入れて、手のひらを強く握りしめる。
 出来る、と思った。ぼくにそのことを思い出させてくれた、あの男のことを思いながら、ひとつ、息を吸う。
「――、だ」
 大丈夫、と口にしかけて、その瞬間、純太の表情が変わるのを見る。
「真幸!」
 鋭く名前を呼ばれて、ぼくの声は掻き消された。尖った視線と純太の声に、心臓が凍り付いたように、胸が冷えた。
「どうしたんだよ。――なにが、大丈夫、だよ」
 両肩を掴まれる。ぼくを何度も支えてくれて、立たせてくれたその手が、きつくぼくの肩を左右から締め付けてきた。肩に、純太の指が食い込んだ。親指がちょうど間接のあたりにある。このままの調子で力を加えられ続けたら、きっと、肩の骨が外れる。痛い、と身を捩って、純太に手を放してもらおうとする。見上げた純太の顔は、そんなことに気付く様子もなく、ただぼくを見ていた。信じられない、という、狼狽えた色だけを浮かべて、どこか震える眼差しでぼくを見ていた。
「なんで、そんな無理するんだよ」
 純太、ちがうよ。無理じゃない。無理じゃないんだ。ぼくは声を出すことが出来るんだ。……芝山実波が、そのことを思い出させてくれたんだ。
 心の中でなら、いくらでもそう語りかけることが出来た。
 けれども、実際にぼくに出来たことは、ただ、痛みに顔を歪めることだけだった。いたいよ、と小さく、囁きで伝える。いつもの純太ならば、どんなにかすかな声で上げたものでも、ぼくの声を拾い上げてくれた。それなのに、今は、ぼくのその言葉を聞いてくれなかった。
「――芝山か?」
 純太の口から、突然、その名前が出される。何を言おうとしているのか思いつかなかった。……何が、実波だと言いたいんだろう?
「あいつに、何か言われたのか」
 どう返して良いのか、分からなかった。
 純太の言葉は間違ってはいない。ぼくが純太に逃げずに向き合おうと決めたのも、実波がそう決意させてくれたからだ。ただ、実波がそのことについて直接なにか言ったわけではない。だから、純太の言葉に素直に頷くことは出来なかった。原因を探られたら、それは確かに、実波なのだけれど。
 肩を掴む両手に、更に力がこもる。痛みに思わず喉を逸らすと、かすかに、悲鳴にも似た音が漏れた。純太にそれが聞こえていないはずはない。けれども、手を緩めてくれるどころか、まるでその小さな悲鳴が、ぼくの返事になったというように、低く呻く。
「……っ、あの野郎」
 その声を聞いた瞬間、痛い、という苦しみが、怖い、という怯えにすり替わった。
「おかしいと思ったんだよ。おれのこと急に避けるし、変な無理しだすし。最初は、また美由紀のやつがいい加減なこと言いに行ったのかと思ってた。だけど、違うよな、真幸。あいつじゃないよな」
 何が、実波なのか。純太はぼくの最近の態度を、やっぱり怪しく思っていた。それはそうだろう。今まで、ずっといつも一緒にいて、ぼくは純太に甘えて、頼り切りだったのだから。純太が傍にいてくれるから、他に何もなくても平気だったのだから。そんなぼくが、どうして急に純太を避けるようになったのか。
 それは他の誰のせいでもない。純太が、ぼくと一緒にいることを望んでいないと知ったから、だよ。
 締め付けられているのはぼくの軟弱な両肩だ。けれども、まるでそこではなく、首筋を、喉が締め上げられているように、息が苦しかった。声にして何か伝えることは愚か、まともに呼吸をすることも出来ないぼくを見下ろして、何故だか、純太は低く笑った。
「おまえがおかしくなったの、芝山のせいだろ」
 ちがう。
 ちがうんだ、純太。ぼくはおかしくなんてなっていない。実波がぼくを変にしたんじゃないよ。
 心の中では、必死にそう反論した。顔を見られたら、ぼくがそう思っていることが分かられてしまう。絶対に、純太にそのことを悟られてはならないと思った。うつむいて、奥歯を食いしばる。痛いのは平気だ。今は思わず手に力が入ってしまっているだけで、純太はぼくを苦しめようとしているのではないはずだ。我慢していれば、じっとそれが終わる瞬間を待っていれば、いずれ解放してもらえる。そう、自分に言い聞かせる。
「あんな奴に関わるな。あいつは、おまえのことなんて、何も分かってないんだ。だから、何でも勝手なことが言えるんだよ」
 ちがう、芝山実波は違う。知らないでいてくれるからこそ、見えるものがあるんだ。勝手なことじゃない。だって彼は、ぼくに。
「馬鹿だな、真幸」
 だって彼はぼくを、痛い目に遭わせたくないと言ってくれたよ、純太。
 伝えたいことはたくさんあったし、それが上手く伝えられれば、変わるものがたくさんあると思った。
 ぼくは、こんなぼくが嫌いだ。だから、変わらなくてはいけないと思った。
 実波はそのことを、教えるわけでも強要したわけでもない。ただ、ぼくにそのことを気付かせてくれたのに。
 肩を掴んでいた手が、少しだけ緩む。同時に、締め付けられていた痛みもわずかだが軽くなった。
「真幸はほんとうに、馬鹿だ」
 まるでいつも、ぼくが純太にそうしているように、耳元で囁かれる。
 声ではない、吐息に近いその言葉に、背筋が震えた。実波がぼくの身に起こす、あの舌を絡めた時の震えとは、全く違う。言葉も何もかもがとても優しいのに、その真ん中にあるものは決して笑みを浮かべていない。
 ぼくが震えていることに気が付いたのだろう。純太は耳元で小さく笑った。
「おまえはそのままでいいって、いつも言ってるだろ。ずっとおれが傍にいてやるから、だから、余計なことは考えなくてもいいんだ」
 締め付けていた手が、両肩に回されて引き寄せられる。さっきとは打って変わって、柔らかい優しいその動作に、何故だか肩を強く掴まれている時よりもずっと、胸が苦しくなった。息を吸うことが上手く出来ず、肺に上手に酸素を送ることが出来ない。短い呼吸だけを繰り返していると、純太が背中を撫でてきた。夢に怯えるぼくを、痛みに眠れないぼくを、何度も慰めてくれたのと全く同じ手だということは、身体が理解していた。それなのに、呼吸はいつまでたっても楽にならなかった。苦しくて、身体を支えていられなくなる。倒れ込むと、純太の胸にそのまま受け止められた。背中に回された手が、ぼくをなだめようと優しく撫でて、さすって、あやしつけるようにそっと叩く。
「な。辛いよな。……おまえはいつだって、こうやってひとりで苦しんできたんだよな。おれは、全部知ってるから。――だから、真幸はもう、何も考えなくていいんだよ」
 首筋に、何かが触れたような気がした。その瞬間、とても純太の顔が近くにあったようにも感じられたから、もしかして、ぼくの喉に純太が触れてきたのかもしれない。実波がぼくにそうしたように、喉元に、唇を重ねてきたのかもしれなかった。
 けれどもそれは冷たくて、どんな感情もぼくの心に巻き起こさなかった。だからそれは、口づけではないのだと、ぼくは息苦しさにぼんやりする意識の中で、妙に冷静に考えていた。あれは違う。実波がぼくにくれたものが、そうだというのならば。
 今ぼくに落とされた、あんな痛いものはきっと、キスではないのだろう。
 鼓動が耳元で激しく鳴る。身体の震えが止まらず、息を吸うことも吐くことも出来ない。怖い。怖い、怖い、怖い、怖い。駄目だ、この人の前で声を上げては駄目だ。声を出しては駄目だ!
 悲鳴が漏れそうな口元を手のひらで覆い、指先を噛む。純太は片方の手でぼくの背中を撫で、もう片方の手を、指ごと声を噛み殺そうとしているぼくの手のひらに重ねてきた。まるで、ぼくが封じようとしている声への戒めを、更に強固にしようとしているかのようだった。
「芝山のことは、おれに任せろ」
 そう言って笑う純太の顔は、ぼくが知っているものにとてもよく似ていた。
 夢の中で、ぼくを怒鳴って、髪の毛を引っ張るあの人に、とてもよく似ていた。
 あれは純太じゃない。あれは別の人だ。そんなことは、よく分かっている。それでも、そこに浮かぶ表情が同じだった。眠るときに度々ぼくの夢に現れる、目蓋の裏側に焼き付いたその顔。
 それに、似ていた。

 
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