鬼さんこちら |
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8 そこにあったのは、白い壁の、一軒の洋館だった。まるで隠れるように、他のところよりも少し背の低い木に囲まれている。茂った葉が、通りがかりのものの目から、その白い壁を隠しているようだった。よく見つけたな、と、感心したように順が息をつく。古びてはいるが、しっかりとした、頑丈そうな造りの建物だ。 「……、っ、……」 何故だか、その建物の全貌を最初に目にした時、ずきりと、音がしそうなほど強く、鋭く頭が痛んだ。 「擁?」 「なんでもない。……なんだろ、ここ。キャンプ場の、管理小屋には、あんまり見えないけど」 どちらかというと、ホテルや、別荘とでもいったほうが相応しそうな外観ではあった。外から見る限りでは、三階建てで、ずらりと並んだ窓の数を見ると、部屋数もそれなりにあるのだろう。窓にはすべて、白いカーテンがかかっていて、部屋の中の様子は見えなかった。 緑色の蔦が絡まって、まるで最初から、そういう植物のようになっていた鉄の門があった。開いたままになっているそこから、敷地の中になるのだろう、開けた場所に立ち尽くす。四人で、目の前に建つその洋館を見上げた。 「たぶん、違うだろうな。どちらかというと、廃墟に近いように見える」 辰巳が静かにそう言う。 「順、車をここに置かせてもらったらどうだ。あの状態で走るのはよくないだろうけれど、このくらいの短い距離なら、なんとかなるだろ」 「……そうだな。あのまま、道塞ぐみたいに置いておくわけにもいかないし。ちょっと、取ってくるよ」 「誘導する。……擁、巧介とふたりで、ここで待ってて。荷物は置いておくから」 館の玄関には、車寄せ、と言うんだっただろうか。屋根が付いていたので、持ってきた荷物を、取り敢えずそこに積んでおいた。降り出したまま、弱くなる様子のない雨から逃れるために、擁もその中に入り、濡れた頭をふるふると振って、水滴を落とした。 「ほら」 突然、なにか柔らかいものが頭に被せられる。驚いて固まっていると、その柔らかいものの上から、がしがしと大きな手のひらで髪の毛を撫でられた。 「使えよ。風邪引くぞ」 巧介が、タオルを載せてくれたのだ。いつの間に荷物から取り出したのだろうか。彼は濡れたTシャツの裾を絞って、着替えたい、と、不快そうに眉を寄せている。 「中、入れたらいいのにな」 受け取ったタオルで、有難く頭と顔を拭く。濡れた長袖が肌に張り付く感触は気持ちが悪かったけれど、我慢できないほどではない。ぶつぶつと何か言いながら、館の玄関の方に歩いていく巧介についていってみた。 「……鍵、閉まってやがるな」 今はもう、使われてはいないのだろうか。試しに巧介が入口らしき、大きくて立派な扉を押してみる。最初は開かなかったようだが、何度かがちゃがちゃと押したり引いたりを繰り返すと、鍵が甘くなっていたのか、きぃ、と軋んだ音を鳴らして、開いてしまった。 「お、開いたぞ」 「巧介! なにやってるんだよ」 開けただけではなく、巧介は当然のように、そこから中に入ろうとしている。慌てて、呼び止めた。 「勝手に入ったらまずいだろ。誰か、住んでたらどうするんだよ」 「そん時は素直に謝りゃいいだろ。携帯の電波届かないから、電話貸してくれって、そう頼めばいいんだよ」 「けど……」 擁が何を言っても、巧介は聞いてくれなさそうだった。鍵の開いた玄関から、まるで自分の家に帰ってきたように、そのまま中に入っていってしまった。門の方を振り向くが、あの位置からここまで車を持ってこようと思うとなかなか大変なのだろう。順と辰巳は、まだ戻ってきていなかった。 どうしよう、と迷いながらも、開いたままになっている玄関から、その館の中を覗き込む。見た目だけでなく、中身も洋風なのだろう。玄関ホールには、靴を脱ぐような場所が無かった。広い吹き抜けの空間になっていて、正面に、二階へ上がるための大きな階段が見える。巧介はどこに行ってしまったのかと思ったが、玄関ホールの左手の方に、奥の部屋へ続く廊下があるのだろう。そこから、ちょうど戻ってきたらしいところだった。 「誰もいなさそうだぜ。すっげぇ、そこら中蜘蛛の巣だらけ」 探検でもしている気分なのだろうか。彼は覗き込んでいる擁の姿を見つけて、どこか楽しげに笑った。 「誰もいない?」 「人の気配はしないし、何より、水道とか、ガスを使ってる感じもなかったしな。あっちに台所があったんだけど、荒れまくってて、食べるもんも何も置いてなかったし。ちょうどいい、ここでしばらく、雨宿りさせてもらおうぜ」 言うなり、巧介は一度外へ出て行き、車寄せの下に置いてあった荷物を、館のなかへ運び出す。勝手にそんなことをしてもいいのだろうか、と思いながらも、擁はそれを手伝い、何個か荷物を運んだ。中には、釣りの道具や、辰巳が星を見るために持ってきたのだろうか、天体望遠鏡のようなものまであった。……楽しいキャンプになるはずだったのに、どうして、こんなことになってしまったのだろうか。せめて、雨が止めばいいのに、と思い、荷物を全て運び込んでから、再び玄関の外に出る。 順の車が、ゆっくりと、門をくぐるところが見えた。 タイヤの空気が抜けている、と言っていた。そのせいだろう、車が走るたびに、がたがたと派手な音がしている。この館に、なにか、それを修理出来そうなものがあるだろうか。車庫のようなものは見あたらなかったが、表からでは見えないだけで、裏手の方に回ってみれば、あるかもしれない。後で、順たちにそう提案してみようか。 そんなことを考えていると、瞬間、辺りが真っ白に点滅した。 「……!」 思わず、息を詰めて、その場に立ちすくむ。光に遅れて、鈍い振動を伴う、雷の音が空気を震わせた。かなり、近い気がした。びりびりと震える空気に、耳の奥がじんと痛むほどだった。 「擁、大丈夫? ……あれ、開いたんだ、戸」 車を出て駆け寄ってきた順に、うん、と頷く。 「巧介が、無理矢理開けた。……荷物、中に入れてあるから。しばらく、雨宿りしようって」 「不法侵入だな」 助手席から降りてきた辰巳が、冷静に、巧介の行為にそう名前を付ける。……確かに、その通りだ。 「無人なのか?」 「うん、さっき辰巳が、廃墟って言ってたけど。ほんとに、そんな感じ。巧介がさっきからあちこち見て回ってるみたいなんだけど、人の気配はなさそうだって」 擁がそう説明しながら、取り敢えず、順と辰巳を玄関ホールの方に案内する。内装を目にして、彼らふたりも、感嘆とも驚愕とも付かない声を上げた。 「すごいな、……映画のセットみたいだ」 順がきょろきょろと辺りを見回して、そう言う。確かに、その通りかもしれない。 「ホラー映画、だな」 辰巳がそう続ける。子どものように楽しげな巧介や、どこか興奮した様子の順とは違い、辰巳はいつものように、波のない静かな水面のような目のままだった。そんな彼に、安堵のようなものを覚え、思わず傍にいく。すると辰巳は、擁のそんな表情に気付いたのか、まだ少し濡れている髪の毛を撫でてきた。 ……いつもなら逃げてしまうその仕草が、今日は何故か安心する。振り払うことはせずに、彼のするにまかせた。 「雨、止むかな」 「どうだろうな。雷まで鳴りだしたし」 そんなことを話していると、いつの間にか上へ上がっていたらしい巧介が、正面の階段の上に姿を見せた。 「お、おまえらも来たか。どうだった、車?」 「なんとか、ここまでは持ってこられたよ。でも、あれで走り続けるのは、ちょっときついと思う。修理に来てもらうか、それか、新しいタイヤを持ってくるかしないと。石か何かで、傷入っちゃったみたいだ」 階段を下りてくる巧介に、順がそう説明する。それを深く考えもせずに、どうしたらいいのかな、などと思いながら聞いていた擁は、ふと、小さな違和感に駆られた。 さっきは、タイヤには、傷がないと言っていなかったではないだろうか。 「擁、どうかした?」 「……ううん、なんでもない。ちょっと、疲れたかも」 こちらの表情に、なにか表れていたのだろうか。順が不安そうに、そう尋ねてきた。出来るだけ自然に、ほんとうにただ疲れただけなのだと思われるように答える。きっと、そんなの、大した問題じゃない。さっきは、突然のことでみんな動揺していたのだし、その時に傷に気が付かなくても、おかしなことではないだろう。よく見ないと分からないような、小さいけれど、致命的な傷なのかもしれないし。きっと、そうだ。自分に、そんな風に言い聞かせる。 「ああ、ごめん。そうだよな。山に入るまでも、一回も休憩取らなかったし。ここの持ち主の人には悪いけれど、しばらく、どこかで休憩させてもらおうか」 「それなら、二階の方あがってこいよ。そんなに荒れてない部屋もあるみたいだし、結構、いい感じだぜ」 順の提案に、巧介が二階を指し示した。すっかり、色々なところを見て回ったらしい。呆れたように、しょうがないなぁ巧介は、と笑いながら、順は一度床に置いた荷物をふたたび手に持ち、階段を上り出す。 「おれたちも行こう、擁。……こんなことになって、悪かった」 「ううん、おれの方こそ。辰巳なんて、せっかく、キャンプ場貸し切りにしてくれたのに」 残りの荷物を持って、擁も、階段を上がる。隣に並ぶ辰巳が謝ってきたので、慌てて、そう返す。 「気にしなくてもいい。もともと、おれも、あまり人の多いところは好きじゃないから。だから、擁の気持ちも、少し分かる」 「……ありがと」 彼らしくない、まるで順のような、優しい言い方だった。それに少し戸惑いながら、どうにか、言葉を返す。 「擁、ひとつ聞いておいて」 すると辰巳が、わずかに声をひそめた。内緒話のような、囁くような低い声。 歩調が遅いのは荷物が重いのかと思っていたが、どうやらそうではなく、わざと、順たちと距離を置こうとしているようだった。不思議に思い、素直に、少し彼に近づく。 「順と巧介の、どちらとも、あまりふたりだけにならない方がいい」 しかし、そんな囁きで告げられたのは、予想もしていないようなものだった。 「え……」 「おれの考えすぎかもしれない。それでも、なにか、嫌なものを感じる。出来るだけ、おれのそばを離れないで」 「どういう、ことだよ」 「おかしいと思わないか?」 「おかしいって、何が」 思わず声が大きくなりかけて、辰巳に目線で注意される。先を歩いていった巧介と順は、もう階段を上りきって、二階の部屋を次々と覗いていっている。こちらの様子を気にかけている風でもなかった。 辰巳は更に声をひそめながら続けた。 「こんな、妙な廃墟のすぐ近くで、あんな風に車を停めなくちゃいけない事態に陥るなんて。……そう思わない?」 「……偶然だよ、そんなの」 「そうかな。……そうかもな。ごめん。変なことを言った」 ほんとだよ、と、それに、冗談めかして笑う。 「辰巳は、本の読み過ぎだ」 おかしなことを言い出す辰巳は、擁と同じように笑おうとしたらしい。それでも、その途中で、やはり何事かが気に掛かるような、そんな目をして、順と巧介のほうを見た。 「そうだね」 気のせいに決まっている。車が停まってしまったのは、タイヤの空気が抜けてしまったせいだ。それに、この建物が森の中にあることを発見したのは、他ならぬ擁自身だ。タイミングなんて、何事においても全て、偶然の積み重なりみたいなものだろう。そんな些細なことを気にするなんて、辰巳らしくないと思った。 ここにいるのは、擁が信じることの出来る、ほんのわずかな人間だけだ。家族すら擁を見捨てた時に、諦めずに、探そうとしてくれた。信頼して、大事にしたいと思ってやまない、友達。 だから、そんなことを考えてしまうなんて、ほんとうに、その手の本に毒されすぎている。 ……タイヤの傷。ふと、その言葉への違和感を思い出したけれど、小さく首を振って、それを追い払う。まだなにか言いたそうにも見えた辰巳を、もう見ないようにして、彼より先に足を進めた。 階段の、最後の段を上りきる。背後でふと、辰巳がまた、呟くのが聞こえた。 「……馬鹿」 誰に言ったものかは分からない。その声に、何故だか、理由も分からないまま、寒気を覚えた。
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