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鬼さんこちら
15

 しばらく、誰も口を開かなかった。まだ降り続いているらしい雨の音だけが、部屋に小さく流れてくる。
 順は部屋を出たきり、もう、30分も戻ってきていなかった。きっと、順のことだから、この際徹底的にあちこち見て調べて回っているのだろう。危ない目に遭わなければ、いいのだが。
「……遅いな、あいつ」
 残された三人の中で、最初に口を開いたのは、功介だった。順のことが気になっているのも本心なのだろうけれど、それ以上に、この沈黙に耐えかねたような様子だった。苛ついたように舌打ちをひとつして、功介は窓の外に目を遣る。
 誰も、なにも言わない。もともとマイペースで口数の多くない辰巳と、自分から何かを喋ることのない今の擁では、はじまる会話もはじまらない。これは普段からのことだった。順が周囲に気を遣う優しい性格だから、それをうまくまとめてくれているのだ。
 だから、順が欠けると、うまくいかなくなる。分かっていても、擁にはどうしようもなかった。今は、なにも出来そうにない。
「前から思っていたんだけど」
 沈黙の流れる部屋で、時折、雷の音が鳴り響く。最初に口を開いたのは、辰巳だった。
「擁は、順と付き合ってるのか?」
「……、え」
 まさかそんなことを突然言われるとは思っていたので、ぽかんと口を開け、間抜けな顔で彼を見てしまった。
 その顔がおかしかったのだろう。珍しく、辰巳は少し声をたてて笑った。
「違うのか。なんだ、てっきり、そうだと思ってたんだけどな」
「なに、言うんだよ。順には、ちゃんと、彼女だっているだろ」
 冷たく整った辰巳の顔立ちは、笑うと少し、印象を変える。笑顔というのは他者に気を許しているというサインであるはずだ。だから、本来ならば、それを向けられたものにマイナスの印象を与えるものではない。それなのに、癖なのだろう、わずかに首を斜めにして目を細める彼の微笑みは、どこか擁を不安にさせた。
 こんなこと、どうして急に言い出すのだろう。それも、今になって。
「別に関係ないよ、そんなの。好きなら」
「辰巳はそうかもしれないけど」
 けれど、順は違う。彼女を裏切ることは、決してしない。それぐらいなら、最初から付き合ったりはしないだろう。
「ふーん。違うのか」
 巧介までそんなことを言う。擁を笑わせようと思って、ふたりでこんなことを言いだしたのだろうか。だったら、趣味の悪い冗談だとしか思えなかった。それとも、冗談ではなくて、なにかこんな話を今しなくてはならない理由があるのだろうか。
 たとえば、そういう関係にあるのだと、誤解させるようなことを聞かれたとか、見られたとか。
(……まさか)
 考えて、自分でそれを否定する。そんなはずない。あれを手伝ってもらう時は、誰にも見られるはずのない場所を選んだし、そんな素振りをおもてに出したことはない。擁はともかく、順にとっては、決して他人に知られてはならないことだからだ。それは、上手くいっていたと思う。少なくとも、今この瞬間まで、それを疑ったことはなかった。
 辰巳はとても頭がいいし、巧介はとても勘がいい。擁には、とても適わない相手だ。それはあの事件が起こって、擁がこんなに弱くなってしまう前から、そうだったはずなのに。そのふたり相手に、隠し事が出来るなんて。
 寒気がした。どうして、一度も、考えてみなかったのだろう。
 言い返す言葉が、不自然に揺れる。内心の動揺を押さえ込もうとして、それでも上手くいかずに、いつになく声を荒げてしまった。
「そうだよ! だいたい、そんなの、順に失礼だろ」
「なんで? あいつは、おまえのこと好きだろ」
「そりゃ、友達として、そうかもしれないけど」
「ばぁか。違うって。ちゃんとそういう意味でだよ」
「……巧介こそ、馬鹿なこと、言うなよ」
 隣に座ったままだった巧介が、距離を詰めてくる。すぐ傍で、覗き込むように見降ろされ、落ち着かなかった。逃れるように離れようとすると、からかうような手で、ぐいと近くに引っ張られる。そのまま、肩を抱かれそうになった。
「やめろ、よ」
 言いながら、どうにか、巧介を引き離す。いつもと、様子が違った。さっきまでは、美味しいパンを食べさせてくれた、いつもの巧介だったのに。擁がひとに触れられることを嫌がることを分かっているはずなのに、まるでそんなことを忘れてしまったような、強引な仕草。まるで、さっき擁が考えたことが、正解であると肯定するようだった。どうして、急にこんなことをするのだろう。彼ら相手に感じるべきではない怯えが胸を支配しつつあるのを感じて、擁は身体を固くした。
「なんでだよ。いつも、順にはこれくらいさせてるだろ」
「順は、特別だから」
 それは本心だったが、決して、含むところのある言葉のつもりではなかった。ただ、他の人には恥ずかしくて言えないようなことも順なら知っているし、そのことを助けてもらっている、と、そんな意味での言葉だった。
「だから、順なら、だいじょう、……ぶ」
 つい、深く考えずに言ってしまった。けれど、それまでは擁をからかうような顔をしていた巧介が、その言葉を聞いて、口元を歪めた。怒ったようにも、笑っているようにも見える、そんな曖昧な巧介らしくない表情だった。ゆっくりと、目の色が変わったような気がした。闇のように濃い、擁の知らない目をしたまま、巧介は笑う。
「……馬鹿じゃねぇの、おまえ」
 冷たい声だった。友人のこんな声を聞いたことがなくて、擁はそれだけで額に冷や汗が浮かびそうになる。
「さっきのあの写真。おまえ、ほんとうに、あいつじゃないって信じられるわけ?」
「何、言って」
 写真。思い出したくもない、そこに映されていたものがまた蘇ってくる。叫び出しそうになるのを、どうにかこらえた。あれは、辰巳がすべて処分してくれた。
 どうして、そんなものの話を、またするのだろう。あれは、この中にいる誰かの仕業ではない。絶対に、そうであってはならないのに。
「おまえがさっき倒れてた時、あいつ言ってただろ。おまえが見つからなくて一度この部屋まで戻った、って。それ、おれと辰巳と合流するより前の話なんだぜ。他の3人に見られないうちに、この部屋にあんなもんばらまいておける奴がいるなら、あいつしかいねぇんだよ」
 ちがう、と反論しようとして、舌がもつれて何も言えない。全員の荷物を広げてみよう、という巧介の提案に、順は激しく怒っていた。この中にそんなことをする人間がいるはずがないから、そんな疑うようなことはするべきではないとそう言っていた。擁も、そう思う。……思いたかった。だから、荷物の点検なんてしなくていい、と言った。
「きっと今頃、見られると都合の悪いもん処分してんじゃねぇの」
「そこまで頭悪くないだろ、順も」
 吐き捨てるように言った巧介に、辰巳が冷ややかに口を挟む。
「やるのなら、最初から全部、ちゃんと考えて実行してる。そういう奴だろ」
 けれどその辰巳も、順を疑う巧介の考えを否定するつもりはないようだった。
「やめろよ……」
 こんな話、してほしくない。いるはずがないのだ。この三人の中に「嘘つき」も、あの手の主も。
「ふたりとも、そんなこと言うなよ。順のわけがないだろ。他の誰かならともかく、順だけは違う。絶対、ちがう!」
 だからその考えを取り消して、この話はもうやめてほしかった。誰でもいい。この三人でなければ、他にどんな人間が擁に悪意を持っているのだとしても構わない。誰か擁のことが嫌いで、消えてほしいほど憎んでいる人間がいるのだ。そいつが、今日もここまで後をつけてきて、こんなことをしたのだ。もう、それでいいではないか。
 だから何事もなかったように、いつものように、明日の朝まで時間が過ぎるのを待てばいいのだ。擁は、そのつもりで口にした言葉だった。
「ああ、そう」
 巧介の声が、突然、トーンを低くする。その声に、ぞくりと鳥肌が立った。怖い、と、直感的に身体を少し退く。それを、がっしりとした両手で肩を掴まれ、動けなくなった。
「おまえ、そんな風に思ってたんだ?」
 苛立っているような、落胆したような、そんな言い方だった。ちがう。そんなつもりで、言ったことではないのだ。順のことを疑いたくないのと同じくらい、巧介のことも、辰巳のことも、信じたいと思っているのに。
 口を開いて、それを伝えなくてはならない。それでも、まるで今にも殴りかかってきそうな、乱暴な気配を漂わせた巧介に詰め寄られて、擁は身動きが出来なかった。身体が、過去に受けた暴力の記憶を思い出して、小刻みに震えていた。
「こっちは、こんなに、おまえのこと考えて、気ぃ遣ってやってんのに。おまえが怖がらないように、嫌がらないように、あのことを思い出さないように、って。……でも、おまえにとっては、おれは、疑われてもしょうがない程度の奴ってことなんだな」
「巧介、……、違、っ……」
「なにが違うんだよ。そんな、怯えた顔してさ。その通りですって認めてるようなもんじゃねぇか」
 違うともう一度首を振る。それでも、もう巧介には、擁の言葉など届いていないような気がした。
 これは、巧介じゃない。いつも、ぶっきらぼうで、粗暴そうに見えるけど、実は誰よりも人のことを気にかけていて、見えないところでも誠実に力を尽くそうとする、擁のよく知る友人ではなかった。
「いいよ。そんなに、おれが犯人だと思いたいなら、お望み通りにしてやるよ」
「な、っ……、や、め」
 掴まれた肩を、そのまま、突き飛ばされる。倒れて、起き上がろうとするより先に、また強い力で、上から押さえ込まれてしまう。
「ほら、辰巳。そんなところで見てないで、おまえもこっち来いよ。ずっと、触りたかったんだろ」
 意地悪な笑みを浮かべて、巧介が辰巳を呼ぶ。それまで、巧介を止めることもせずにただ静かに傍観していた辰巳が、ひとつ息を吐いた。
「好きなだけ、触れよ。どうせ、もう、散々やられてるんだし」
「……可哀想に。巧介がひどいことばっかり言うから、こんなに怖がっちゃってるじゃないか」
 何が起ころうとしているのか、理解出来なかった。辰巳の冷たい指が、擁の頬を撫でる。
「怖いよね。血の気が引いて、真っ白になってる。可哀想に」
 言いながらも、彼はくすくすと笑い、両手のひらで擁の顔全体を包んで、額を寄せた。
「上手に言い訳しないといけなかったね。巧介は、順のことが、あんまり好きじゃないから。根っからの善人だから、ああいう、偽善的な人間のことは鼻につくんだろう」
「うるさい、おまえにとやかく言われたくねぇよ。この変態」
 巧介の言葉を否定せず、辰巳は薄く微笑む。靴を脱いでベッドに上がり、擁を背中から抱き締めてきた。いつも、擁が危険な目に遭いそうな時はいつでも、さりげなく助けてくれたその腕が、今は明らかに、別の意図で、擁を捕まえている。辰巳は擁に頬擦りをして、満足気に深い息を漏らした。
 巧介は擁の足の間に割って入るように身を乗り出し、そのまま、腰を押さえこんできた。
「やめろ、よ」
 怒鳴って、それを振り払おうとした。それでも、出た声は弱々しく、払おうとした腕は、動きすらしなかった。記憶の中にある恐怖と、これから起こることへの恐怖で震える身体を、どうすることも出来なかった。
 巧介は低く笑う。
「なに拒否ってんだよ。初めてじゃねぇだろ、何もかも」
「や、……やだ、いやだ、……っく、は……!」
 肌に触れられる嫌悪感に、全身が総毛立った。ジーンズと下着とを一度に乱暴に下ろされて、内腿を掌で軽く叩かれる。声を上げて、背中を逸らす。こんなこと、大嫌いな、はずなのに。
「擁、キスして」
 頬を撫でていた辰巳の手が、擁の首を横向かせる。そのまま、すぐ近くにある、辰巳の顔に引き寄せられた。彼の細い眼鏡のフレームが目蓋の上に触れたかと思うと、唇に、柔らかい熱が押し当てられる。
「ん、……っ、」
 合わせた唇から、辰巳の吐息が擁の中に流れ込んでくる。嫌悪ではない震えがぞくぞくと全身を走り、耐えきれずに息を漏らそうとすると、その隙間から割入る舌で、口内を内側から舐められた。捻挫した足に包帯を巻いてくれた、あの器用な指を思い出す。どこをどんな風に触ればいいのか、的確に心得ている。息をすることも出来ず、身体を小刻みに震わせた。
「は、……、ぁ!」
 何がどうなったのか、分からなかった。突然に強すぎる感覚に襲われ、強く体が跳ねる。辰巳から与えられているような熱が、空気に直に触れていた下部にも絡みついている。しばらく分からなくて、そして分かった瞬間、脳味噌が凍りついたような、ひどい悪寒に見舞われた。辰巳に口を吸われているように、巧介が、擁の足の付け根に顔を埋めて、そこを口で愛撫していた。 
「ほら、すっげぇ悦んでる。前から思ってたんだけど、おまえって、絶対、マゾだよな」
 時折口を離しては、聞きたくもないような、そんなことをいちいち言われる。心では拒絶して、否定しているのに、身体がそれを裏切っていた。こんなこと、順とも、したことがないのに。キスも、口で、されるのも。
 それなのに、身体が、順にされている時と同じような反応を見せている。それが、何故だか順への裏切りのようで、わけもなく悲しかった。
「忘れてるなんて、嘘だろ」
 剥き出しにされた下肢のすぐ近くに顔を寄せられているので、喋る言葉に合わせてかかる息が、肌への刺激になる。辰巳に唇をいいようにされながら、それでも目だけで巧介を見た。
 さっきまでの、どこか凶暴な光は、少し落ち着いている。代わりに、どこか痛む人のような、辛そうにも見える目をしていた、気がした。
 それでも声は、変わらず意地悪だった。
「ほんとは全部、覚えてんだろ。なぁ、擁」
 口腔内をさんざん蹂躙して、気がすんだのだろうか。辰巳が唇を離して、また、頬擦りをはじめる。小さな子どもがお気に入りのぬいぐるみを抱えているようなその仕草が、端正な容貌の彼に不似合いで、どこか不気味だった。
 巧介を見る。また、擁の方を見ていた。舐めていた口を離して、聞こえるか聞こえないかの声が、こんな風に言うのが分かった。
「ほんとは、全部、覚えてるんだよな……」
 その言葉を最後に、巧介は喋るのを止めた。噛みつくように、深く、くわえ込まれる。わざとなのだろう、音を立てながら強く吸われ、まるで痛みのないまま、食べられているようだった。包むような茫洋とした感覚と、先の方を舌の先端を尖らせて突く様に舐められる、針を刺すような鋭い感覚の、そのふたつを交互に与えられて、もう、身を捩ることしか出来なかった。
「や、やぁ、……っあ、……あぁ!」
 解放されることしか考えられなくなって、湧き上がる強い衝動のまま、全身を大きく震わせた。出すことしか、考えられなかった。
「この、嘘つき」
 擁の吐き出したものを、そのまますべて口で受け止めた巧介が、笑う。
「……っは、なにが、『特別』だよ。誰でもいい癖に」
 笑う彼の口の端に、白いものが滲んでいた。それを巧介が自分の指に取り、強引に擁の口の中に突っ込む。舐めろよ、と言われ、その通りにした。なにも考えられなかった。
 辰巳が、擁を後ろから抱いたまま、耳元でくすくすと笑っていた。
「擁、見て」
 低い声で、そう囁かれる。巧介の指を舐めながら、その声に従い、彼が指差す方を見た。部屋の、入り口。扉が開いていた。
 立ち尽くした順と、目が合った。
「……なに、やって、るんだよ……!」
 いつの間に、戻って来ていたのだろう。そうして、いつから、見られていたのか。
 不思議と、慌てる気持ちはなかった。だって、逆だ。擁がずっと心配して、恐れていたのは、こんなことじゃない。
 順といつもしていることを、巧介や辰巳に知られたら、どう思われるか、それがずっと怖かった。今の四人の関係が壊れると思っていた。けれど、違った。
 そんなもの、擁があると思っていただけだ。最初から、そんなもの、なかった。
「なんで、そんな顔、するの?」
 泣きそうだった。そういったものが嫌いで、怖い癖に、覚えたものを忘れない。いつでも、射精した後は、自分の身体が自分のものでないようで、居心地の悪さにいたたまれなくなった。けれども今は、心まで、自分のものではないようだった。だったら、今、こうやって順に笑いかけている自分は、いったい、なんだろう。
「いつも、順と、してることじゃないか」
 嫌いになればいい。こんな擁の姿を見て、呆れて全部嫌いになってしまえばいい。
 そうすれば、もう、あんなこと、一緒にしなくても、よくなる。
 順は何も言わなかった。擁から目を逸らさず、言われたことも起きていることも、全て焼き付けようとしているようにしばらく動かず、やがて、弾かれたように、背を向けて、また部屋を出て行ってしまう。
 擁が頭を冷やしていたタオルが、ベッドの上に落ちていた。辰巳がそれを拾って、擁の額に滲んだ汗を、丁寧に拭ってくれた。

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