= 24 = 呼ばなくても来るだろう、と、実波は面白くなさそうにそう言った。純太のことだ。 「昨日はあいつも、もの凄い、いろんな意味で参ってるみてぇだったからな。今日はちょっとは落ち着いただろ」 「きのう、純太と、けんかしたの」 気になっていることだったので、聞いてみる。 「喧嘩じゃねぇよ。あいつがいきなり殴ってきたんだって。おまえまた何か言ったんだろ」 「いってない。みられた、だけ」 「何をだよ」 「……みられた、の」 口に出して言うのが恥ずかしかったので、そこまでしか言えなかった。実波はしばらく、何のことかと頭を捻っていた様子だったが、やがて思い至るものがあったのか、それ以上は、何も聞いてこなかった。 「一緒に風呂でも入ったのか」 次に何を言うかと思ったら、そんなことだ。ちがうよ、と首を振ると、実波は不満そうに、またおかしなことを言ってきた。 「どうせ、小さい頃は一緒に入ったりしてたんだろ」 それはほんとうのことだったから、その通りだと頷く。だって幼馴染みなのだから、そのくらいは当たり前だろう。実波がそんなにつまらなさそうな顔をすることではないと思うけれど。 「いっしょに、おふろ入ったり、したいの」 「だから、おまえは、真面目な顔で、やたらとそういうこと、言うんじゃねぇって何回も――」 言ってるだろ、と言いかけたのだろう実波の言葉を、固い音が遮る。続けて、二度鳴るその音は、病室のドアがノックされた音のようだった。くっついていた実波が離れて、誰か来たぞ、と、呟く。 支えてくれるものがなくなってしまって、上半身がふらふら揺れた。病院のベッドには、横側に少しだけ低い柵のようなものが付いている。それを掴んで、身体を支えた。手のひらから伝わる金属の感触から、ひやりとした冷気が伝わる。 どうぞ、と、外まで響くような声は出せなかった。ノックの主も、それを期待していたわけではなかったのだろう。ややあって、静かにドアが開いた。 現れたのは、純太だ。実波の言った通りだ。呼ばなくても、来てくれた。今日は美由紀は一緒ではないのだろうか。純太も今日は部活の練習も何もない、休みだったのだろう。彼が着ている紺色のパーカーは、この前、制服を雨で濡らしてしまった時に、これを着なさいとおばさんが貸してくれたものだった。やっぱり、あれはぼくじゃなくて、純太のものだ。そんなことを思う。あたりまえだけれど。 「……川里」 純太はぼくをちらりと見て、それから、すぐに傍の実波に目をやった。驚いた様子も、眉を不快そうにひそめることもしない。そうだろうと思っていた、と、自分の予測が当たっていたことを確認したように、一度小さく頷いた。実波のほうでも、純太が来ることは分かっていたようだった。それでも、昨日殴られた恨みとか、そういうものからだろうか、低く名前を呼ぶその声は、警戒するような、唸り声に似ていた。 純太はそんな実波のことは無視して、ぼくの方に近付き、両手で抱えるほどの、大きな紙袋を掲げて見せた。 「これ、お袋から。……少しは楽になったか?」 うん、と頷く。紙袋の中身は、ぼくの着替えとか、身の回りに必要なものを用意してくれたものだろう。一番上に、どういうわけか、女性向けの週刊誌が乗っていた。 「いや、おれは止めとけって言ったんだけど。お袋が、真幸が退屈してたら可哀想だからって、その辺にあった雑誌引っ掴んで」 後で何か、下の売店で買ってくるよ、と、恐縮しているような調子で純太は付け加えた。そこまで気を遣ってくれなくてもいいと首を振って、笑う。 でも、純太はぼくの顔をじっと見るだけで、笑顔を返してはくれなかった。 「真幸。気分が大丈夫なら、話したいことがあるんだ」 足下に紙袋を置いて、純太はぼくを見つめたまま、静かにそう言った。 承諾の意を示すために、ぼくも何も言わずに頷いた。 「おれ、席外すか」 「いい。おまえがいた方が、真幸は落ち着くだろうから。……それに、責任を取れ」 立ち上がりかけた実波を、純太が制する。 「責任?」 「……昨日は悪かった。いいから、おまえも、居てくれないか」 静かに、そう頼んでくる純太に、実波も拍子抜けしたような顔をして、また椅子に座り直す。 純太も座ったらいいのに、とぼくは椅子を指差したけれど、首を振られた。 立ったまま、純太はそっと、口を開いた。 「おまえが父親に殺されかけて、その後また入院することになった、その時の話だ」 それは昨日、純太が美由紀と実波に話していたことの、続きに当たるのだろう。 何か、話したいことがあると、純太は言っていたのだと言う。謝りたいことがある、と。 「死にかけてるおまえを見つけたのは、おれと、お袋だよ。おまえの母親は、錯乱状態のあいつを宥めようと必死になってて、おまえのことは見もしなかった。よく覚えてる」 純太は、実波を見ていない。かと言って、ぼくを見ているわけでもない。 昨日も、きっと、こうだったのだろう。あれは誰かのためではなくて、純太が自分自身のためだけに、語っていたのだ。その声の調子はどこか、懺悔をしようとする人のもののように重苦しかった。すべてを自分の中から引きずり出して、他人の目に晒そうとしている。まるでそうすることで、なんてものを抱えていたんだと、なんらかの反応を貰いたがっているように。純太の表情は沈痛さえ帯びている。きっと彼が望んでいるのは、同情や憐憫のようなものではない。純太はむしろ、叱責や罰を求めている。そんな、気がした。 そしてそれこそが、ぼくの見つけた、最後の鍵だ。 「誘拐されてから、ずっと真幸の顔を見られずにいた。……それなのに、やっと会えたその時には、もう、死んだような状態になってた。おれはものすごく後悔した。何度も……今でも、そのことは、後悔し続けている。おれが、サッカーに誘わなかったから。それどころか、おまえがいるとチームが弱くなるから付いてくるな、なんて、そんな言い方して、おまえをひとりで帰らせたんだ」 「でもそれは、あれなんだろ、たまたまその日がそうだったってだけで、どっちかって言うと……その当時の状況で考えれば、おまえがどう動いてたって、こいつはそんな目に遭ってたような気がするぞ」 実波が、珍しく、純太を庇う。 ぼくもそう思う。あの人は、父さんの書いた記事によって貶められてしまった人は、たとえその日純太がぼくをひとりで帰らせなかったとしても、いずれは何らかの行動に出ていただろう。それどころか、もし純太が一緒に帰っていたら、その危害が純太にまで及んでいたかもしれない。それはとても怖い想像だった。 ぼくはそのことについて、純太のせいだ、なんて、思ったことはなかった。けれどもそれは、ぼくの考えだ。 「……おまえにそんな風に言われるようになるなんてな」 自嘲気味に笑って、純太は首を振る。 「誰がなんと言おうと、おれの中で、真幸があんな目にあったのはおれが原因だった。真幸を病院に運びながら、ずっと、頭の中はそんなことで一杯だった。どうしようって、何がどうしようなのかよく分からないまま、ただずっと、ひたすらに繰り返してた。どうしよう、って」 その時のことは覚えていない。父さんに撲たれて、蹴られて、そしてうるさいって首を絞められた。苦しくて、何度もやめてと、喉に食い込むその手を外してもらえるように懇願した。けれどもその手に加わる力は、弱まるどころかひたすらに強くなるだけだった。ぼくをじっと見下ろして、ぶつぶつと何か呟き続けていた父さんの顔が、だんだんぼやけて、苦しくて、痛くて、怖かった。 「真幸は、覚えていないだろうけれど。病院に着いて、救急車から降りる時に、おまえは一度、意識を取り戻したんだよ」 ……ちがうよ、純太。ちゃんと、覚えている。思い出した。 だから、純太が何を言いたいのか、分かる。 「じゅんた、もう、いい」 これ以上は言わなくてもいい、と、そう伝えたかった。純太の気持ちは想像することしか出来ないけれど、もしそれが自分だったら、きっととても、辛くて、苦しい。ぼくが、実際に目に見える傷を負った、そんな分かりやすい苦しみとはまた違う。誰にも見えないまま、誰にも気付かれないままに、ずっとひとりで、耐えてきたのだろう。 だから、それ以上言わせるのは、とても残酷だと思った。もういいよ、と止めようとするのに、純太は聞いてくれない。 「――その時、真幸の傍にいたのはおれだった。すぐ隣にいて、どうしよう、真幸が死んだらどうしよう、って、ぐったりしたままのおまえの手を掴んで離せなかった。でも、真幸は目を覚ましたんだ。ぼんやりとだけど、目を開けて、おれのことが分かったんだろう。おれの方を見て、いつもみたいに笑ったんだ」 そうだ、覚えている。 純太がぼくの方を見ていた。手が強く握りしめられていた。痛くて、苦しくて、もう終わればいいと思っていた。だって、どうすればいいか分からなかったから。ぼくを誘拐したあの人にも、そして父さんにも、どうしてこんなことばっかりされるのかなって、何もかもが嫌になっていた。 それでも、純太の顔を見ると、素直に、嬉しいと思った。ああ、純太だ。そう思った。だから、笑ったんだ。 「そして、真幸は口を開いて、おれの方を見て、それで、何か言おうとした。だからおれは」 純太は一度、そこで言葉を止める。 そして、自分の両手をぼんやりと見下ろして、虚ろな声で、続けた。 「――おれはこの手で、真幸の口を塞いだ」 ……そう、だ。 その時のぼくが、純太に何を言おうとしたのか、それは覚えていない。ただ、きっと他愛もないことだっただろうと思う。じゅんちゃん、と、ただ単に、呼びかけたかっただけかもしれない。 けれどもその純太の両手で、強く、ぼくの口は塞がれた。 大切な大切なランドセルのこと。赤い目玉のこと。うるさいと怒鳴る父さんのこと。一度が、一瞬にして蘇った。 「真幸はそのまま、また、静かに目を閉じてしまった。……あとは、おまえも覚えている通りだよ。一週間、おまえはそのまま眠り続けた。目覚めた時には、もう、声が出せなくなっていた」 淡々と語られるそれらの言葉たちは、まるで悲鳴のように耳に反響した。 「……なにもかも、おれのせいなんだ」 「なぁ」 純太の吐き出すようなその声に、飄々とした実波の声が割り込む。 「なんでおまえ、そんなことしたんだよ」 怒っているわけではないのだろう。ただ、純粋に疑問に思っているようだった。純太が、ぼくの口を塞ごうとしたその理由が見つからないのだ。 「怖かったんだ」 それに対して、純太は驚くほど素直に答える。 「真幸に、おまえのせいだって、そんな風に言われるのが、嫌だったんだ……」 だから、どうしよう、だったのかもしれない。こんな風に、ぼくが感じるのはおこがましいかもしれないけれど。 純太はぼくが口を開けば、罵られると思っていた。おまえのせいだって。おまえがひとりで帰れなんて、そんなことを言うからぼくはこんな目に遭ったじゃないかって。許せないと、ぼくが純太に対して、そう怒りを吐き出すと思った。 それが純太にとっては、いちばん、許せないこと、だったのかもしれない。 「おれはその時からずっと、それを恐れ続けてきたんだ」 だから傍に置いておいた。大事だし、それに何より、声を出してはいけない。どこで、誰に、その封印を解かれるか分からない。 目を離してはならない。もともとそれは、ひどく脆くて、危険な存在であるのだから。撫でるつもりの人があったとしても、その弱い皮膚は、触れればたやすく赤く腫れる。そんな昔のことは忘れろと、無責任に言ってのけるような輩があったとしても、その弱い心は、そう言った相手ではなく、その通りのことを実践出来ない己を責めて苦しむ。 傍に居なければならない。見守らなければならない。何よりも、自分自身の、心の安定のために。 声を許してはならない。そうなればきっと、あの瞬間に封じ込めたままの、自分への呪詛がそこから溢れてくる。 「おれのせいだって、おまえの声で、そんな風に言われるのが、何より怖かったんだ……」 ――純太はずっと、そんな気持ちを、抱えて、いたのだ。 「純太」 声を出せなくなったのは、確かに、ぼくの傷の一種かもしれない。 だけど、こう言ったのは、純太自身じゃないか。ぼくが声を出せなくなったのは、ぼくが自分を守るために、そうするために必要だったんだ、って。そうしないとぼくは自分を保つことが出来なかったんだ、って、純太はそう言って、何度もぼくを慰めてくれたじゃないか。 純太はぼくの口を塞いだ。 だから、声を出したら駄目だよ、って、ぼくに、そう、気付かせてくれたんだよ。 赤い目のあの人も、父さんも、ぼくが静かに、いい子にしていれば、あんなことしなかったかもしれない。あれはぼくが、声を出してしまったから。だから、うるさくしてしまったから。そうだ、声さえ出さなければ、もう大丈夫だ。 そうすれば、ぼくはもう、あんな怖い目に遭わないのかもしれない。 そのことに気付かせて、ぼくに生きる道を与えてくれたのは、確かに、純太だったんだ。 「じゅんたは、いつだって、ぼくをたすけて、くれたよ」 それに、もう、ひとつ。 「純太が、そうやって、おしえてくれた、から」 周囲の大人たちが、寄ってたかって、ぼくに、言わせようとしたあの言葉が、ぼくには嫌だった。 おとうさんは悪いひとです、ぼくを虐める怖いひとです、と、ぼくにそう言葉にして認めるように何度も詰め寄られた。そうすることが何より大事だって、みんなそう言った。ぼくがそれを認めなければ、ぼくは救われないって、そう言われ続けた。 「声をださなければ、いいって、おしえてくれたから」 ……でもぼくは、どうしても、それを、口にしたく、なかったんだ。 だからぼくは、純太に、救われた。声を出せなくなったから、もう、その言葉は言う必要がなくなった。 ぼくがそんな風に思っていることを、純太に、分かって欲しかった。 「だからぼくは、きょうまで、生きてこられた。……じゅんた、きいて」 ぼくがいくら拙い言葉を尽くしても、彼が今まで抱き続けてきた重みを、完全に取り去ることは出来ないだろうけれど。 「ぼくは、しあわせ、です」 それでも、分かってほしいことがあった。純太にだけじゃない。実波にも、美由紀にも、純太のお母さんにも。そして、ぼくの両親にも。 ぼくの名前は、父さんと母さんの名前を、ひと文字ずつ貰っている。まことのさいわい、だと、実波がそう呼んでくれた、いいなと言ってくれた、この名前。 今、たとえば、おまえは授かったその名にふさわしい人間で在るかと問われたら、 「……ほんとに、しあわせ、です」 誰にでもいい。ぼくに関わる人やもの、全てに、ぼくは、そう答えたい。 その幸せはぼくには身に余るほどに、世界に満ちている。こんなにも、自分のことを考えてくれる人が存在してくれていることを、心から、とても幸福なことだと思う。 「だから、ね」 純太のおかげで、ぼくにここにいればいいよと、安心出来る場所を与えてくれたおかげで、もう傷なんてどこにも残っていないほどに癒えた。怖いものや痛いもの、すべてから守ってくれた。 「いままで、ずっと、守ってくれて、ありがとう」 声を閉ざしてしまえばいいのだと、ぼくに生き延びる方法を教えてくれたのも、純太だ。 そうなれば、ぼくだって生きることを許してもらえるかもしれない。そんな風に、希望を与えてくれたのも、純太だ。 改めて、心の底から、思う。ぼくはほんとうに、純太に助けられた。純太のおかげで、今こうして生きていられる。 だから。 「これからも、なかよく、して、ほしい」 まだまだ、これからだから。今日まで助けてもらった分を、少しでもいいから、そのお礼をしていかなければならない。 だから、やり直すのではない。一緒に、前に。 かちん、と、固いものが外れて、落ちるような音が聞こえた気がした。純太がぼくを見ていたその表情が、くしゃりと歪む。どうしよう、と泣いていた、幼い頃の彼は、きっとこんな顔で泣いていたのだろう。そう思わせられるような、表情だった。そのまま、すぐに何も言わないままにうつむいてしまう。 誰も何も言わない、何の音もしない静けさの中、耳を澄ます。……何の音もしない。あれは、やっぱり、鎖に繋がれた、足枷の外れた音だったのかもしれない。 枷を、外すことが出来たのかもしれない。そうであればいいと強く願っていた、その時。 華やかな電子音が、沈黙を破った。数秒鳴って、すぐに、途切れる。 それまでうつむいたままだった純太が、顔を上げる。ポケットから携帯を取り出す。純太に、メールでも届いたのだろう。ちらりと画面に目を走らせて、純太はまるで、意を決したように、勢いよく音を立てて、二つ折り式の携帯を畳む。 まるで、しょうがないな、と、そんな風に、優しくぼくのわがままを受け入れてくれる時のように、肩をすくめてから。 「……真幸」 純太がそれまでの空気を振り切るように、打って変わって明るい声で、言った。 「美由紀も来たみたいだ。下まで迎えに行くついでに、売店行ってくるよ」 そこで一旦言葉を止める。 ぼくの方を見て、微笑む。 「……何か、欲しいものは?」 ないよ、と、いつものように首を振ろうとして、気が付く。……やっと。 「――お、菓子」 「分かった。いつものやつでいいか」 「う、ん」 やっと純太が、ぼくの声を、求めてくれた。嬉しくて、そのことに気付いたら、とても、いらない、なんて言葉では答えられなかった。 純太はぼくの言葉を受け止めて、一度笑って頷いて、そしてそのまま、病室を出て行った。 「おまえは甘いぞ」 実波が、いつものように面白くなさそうに、感慨に浸っているぼくにそう言ってきた。 「おれの仇取るくらいの心意気を見せろよ。グーで一発殴ってやればよかったんだ。おまえが、おれにしたみてぇに」 と、不満そうにそう続ける。そういえば、そんなこともあった。体育館倉庫に引っ張り込まれた時のことだ。今はとても、懐かしく感じる。随分、遠いところまで来た。そんな気さえする。距離としてはむしろ、元居たところに戻っているのに。また、病院にいるぼくと、それに会いに来てくれる人たち。同じ構図なのに、ずいぶん、遠くまで、来た。出発点に戻ってきたから、また、これから新しい道を歩いてゆける。 「あれは、みなみが、わるいから」 「……悪かったよ、反省してるよ、でもおまえ、気持ちいいのは好きなんだろ」 意地悪くそう言って、実波は笑う。 「痛ぇ、ちょ、やめろって怪我人、ばか、痛ぇって」 その得意そうな顔に腹が立ったので、実波の言った通りにグーで殴ってやる。拳の先から振動が伝わって、殴った自分がふらりとして、倒れそうになった。 「ほら、だから言っただろ」 呆れたように馬鹿にしながら、それでも実波はしっかり受け止めてくれる。 ……そうだ。いまだ。今なら、答えて、くれるかもしれない。 「みなみ」 「何だよ、危ねぇな、急に身を乗り出すなよ」 「実波にとって、ぼくって、なに」 「なんだよ、急に」 急なことじゃない。ずっと、知りたかったことだ。 声を出せるのならば、いつだって、答えてもらいたいと思い、胸に抱えていた問いだ。 「おしえて、なに」 肩の辺りを両手で掴み、顔も目もそらせないようにする。答えるまでは逃がさないぞと、そんな気迫を伝えるために、唇を結んで彼を見上げる。 すると観念したように、実波は口を開いた。 「……もう、言ってるよ」 そんな風に、答えられた。 記憶を辿ってみる。ムカつくとか、弱そうとか、訳わかんねぇとか、そんなことなら、嫌というほど言われたけれど。……そんな風に思う人間に、ああいうことをしたいと思うものなのだろうか。違う。また、はぐらかされているのだ。 だまされるものか、と、心もち視線を厳しくして、実波にもう一度詰め寄る。 「きいてない」 「言ってるって」 「きいて、な」 い、とぼくが繰り返すよりも一瞬早く、実波はぼくの両の耳を、左右のそれぞれの手のひらで塞いだ。音が消える。 こんなことが、前にもあった。こうやって、実波に、耳を塞がれて、それで、音が全部、遮断されて、 「な」 実波が、手を離した。これで分かっただろ、と、ひとつ息を吐く。 そんな風に耳を押さえて、彼が、ぼくに何か短い言葉を呟いたことがある。ぼくが学校を休んで、お見舞いに来て、猫の葬列の話をしたあの日だ。 あの時、実波がぼくに、なにか、言っていた。 その、短い言葉。 「……ず」 彼の表情を思い出す。ぼくを目の前にしているのに、ぼくを透かして、もっと深い別の何かを見つめているような、そんな目をしていた。それはよく覚えている。何をしようとしているのか分からなくて、音も聞こえなくて、ずっと、彼を見ていたから。 だから、実波がほんとうに、そう言っていたのか、唇の動きは思い出せないから、確信は持てないけれど。 あの、祈るような眼差し。届くのなら受け止めてみせろと、弱々しく挑発するような、かすかな微笑み。 今ならば、分かる。ぼくもきっと、そんな顔をしていただろう。雨の降る日、はじめて彼の名前を声に出して呼び止めることが出来たその時。ぼくにとって実波がなんなのか、そう伝えることが出来た日。ぼくの表情は、きっと、あの時に見せていた実波のものと同じだったと思う。それなら。 それなら、呟いた言葉も、同じだったと、思っていいのだろうか。 「ずるい、みなみ、ずるい……!」 「ずるくない。ああほら、だから危ねぇって、まだフラフラしてる癖に、そんな飛び撥ねんなよ」 「ずるい、ちゃんと、言って」 「ずるくねぇって。おれは同じこと何回も言うの嫌いなんだよ」 「ひきょうもの」 「何とでも」 そこでなんとなく、お互いに顔を見合わせて、笑った。 窓から差し込む光は、硝子一枚に遮られて、温かな陽気だけを部屋に注ぎ込んでくる。 もう、春まで、あと少しだ。 「春は、すき?」 「嫌いじゃねぇよ。……そういや、おまえ春生まれだっけ。誕生日いつなんだ?」 「しがつの、なのか」 「もしかして、あれか。クラスで一番最初に年取る感じだな。そんな顔してな」 南から吹く風が、雪を溶かす。……雪も、氷も。冷たいすべてが溶けたら、季節は、春だ。 冬は終わりだ。たとえ、これから先、ぼくが何度も覚えてきたような苦しみや虚無感に、また付きまとわれて、どうしようもなく辛くなったとしても。……その時は、そっと、手のひらに、頬に、その胸に触れさせてほしい。それだけの温もりを受ければ、ぼくはきっと、これから訪れるどんな冷たい風を受けても、やわらかな水を凍らせずに、心に満たすことが出来る。 がちゃりと元気のよい音を立てて、底抜けに明るい声が飛び込んでくる。美由紀と、それから、彼女を迎えに行った純太も一緒だ。買ってきたぞ、とでも言いたげに、漫画雑誌と、ぼくの好きなビスケットの箱を掲げて見せてくれる。 それに笑って、ありがとうと、伝える。 「春日くん、階段から落ちて頭打って声出せるようになったってほんと!? いま純太から聞いたんだけど」 「……川里、おまえって案外、いい加減なんだな」 「分かりやすくていいだろう。打ち所が良かったんだ」 「――みゆき、ちゃ」 「わ、ほんと! ほんとじゃない、凄い凄い、もっと喋って!」 「おい七坂、そいつ怪我人」 「……これからいろいろ、大変だな、真幸」 だいじょうぶ。 どんなことがあっても、たとえ負けても、打ちのめされても、しあわせは、いつでも、ぼくのすぐ傍に、 ぼくの中に、ある。 だから、どんなに辛くて厳しい冬がきても、きっと、 春はきっと、きみの声で、楽しい。
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