= 22 = 泣いているのは、誰だろう。 (「おかあさん、おかあさん、どうしよう、どうしよう、おかあさん」) ……何があったのかな。あんなに慌てて、口早に繰り返している。ずいぶんと激しく動揺しているらしい、子どもの泣く声が聞こえる。 (「どうしよう、おかあさん。おれのせいだ、おれのせいだ、どうしよう……」) 何をしたんだろう。そんなに、思い詰めたような声で、何をそんなに、自分を責めているんだろう。 (「おれのせいだ。おれのせいだ……! どうしよう、おかあさん、まさきが死んだら、どうしよう……!」) 自分の名前がその泣き声の中に含まれていて、ようやく、声の主に思い至る。ああ、そうか。また、あの時の夢を見ているのか。 あれ以来、幾度となく繰り返し見てきた夢の一部ではあるけれど、その中でもぼくは、この風景が一番嫌いだ。自分が痛い目に遭うだけなら、まだいい。確かに辛いし、気持ちのいいものではないけれど、だけど、昔も今も、傷つくのはぼくだけで済んでいた。 だけど、この景色は違う。ぼくがあんなことになったせいで、ひたすらに自分を責めている小さな泣き声が止まずに続いている。 それをずっと、嫌だと思っていたのに。どうして、気付いてあげられなかったのだろう。 繰り返して自分を責め続けるその子に、そんなことないよ、と誰か言ってあげて欲しいと、思っていた。 夢を見るぼくを置き去りにして、情景は先に進む。 (「そんなこと言わないの。大丈夫だから。ね、純太。きっと真幸ちゃん、助かるから」) 誰かがそばにいるのだろう。泣きやまないその子に向けて、そう言っている。 (「おれのせいだ。おれが、ひとりで帰れなんて、あんなこと言ったから、だから」) (「純太、……ね、大丈夫だから。大丈夫だから」) (「どうしよう……」) あとは、言葉にならずに、しゃくり上げる幼い声。 ……ぼくはいつも見るこの夢の、この部分が、いちばん嫌いだった。 痛い。 どこが痛いのかよく分からない。全身を、隙間無く痛みが埋め尽くしている。 「……真幸の親父さんは、雑誌の編集者だったんだ。もう随分昔に潰れた出版社の出していた、俗っぽい雑誌だった」 さっきまで夢で聞いていたはずの声が急に大人びて、すぐ近くから聞こえる。声のする方を見ようとして、目蓋を開こうとしたけれど、怠くてそんな小さな力も出なかった。 「おれのお袋と、真幸のお袋さんは仲が良かったけど、親父さんとは数回顔を合わせたことしかなかった。でも、今でもよく覚えてるよ。こんにちはって頭下げたおれのこと、ものすごいつまらなさそうな顔をして、ちょっと見ただけだった。子どもが嫌いな人なんだって、後で誰かから聞いた。お袋だったかな。……それとも、真幸からだったかな」 目を閉じたまま、その声に耳を傾ける。純太の声だ。 「真幸が誘拐されたのは、あの人が書いた記事が原因だったんだよ」 その傍には、一体誰がいるのだろうか。純太は、近くにいる者に対して説明している。ぼくの父さんについて語る純太の声は落ち着いていて、あまり聞きたい内容ではないけれど、心が安らいだ。疼くような痛みが、かすかに和らいだような気さえする。とても、好きな声だ。 「その時はおれも子どもだったから、詳しいことは全然分からなかった。大人たちは誰も教えてくれなかったし、言っても仕方のないことだった。だから、大きくなってから、自分で調べた。あの人は、記事をでっちあげたんだ」 淡々とそう語る純太の声に、割り込むものは何もない。耳を澄ましても、息をつく音ひとつ聞こえない。相槌を打つ声も、先を促す声もない。 「中学校の教師が、自分の生徒に売春を強要している、みたいな記事だった。その記事には目に黒い線が入った、でもそれだけしか隠されていない写真が一緒に載せられていた。おれがその学校の生徒なら、絶対、その写真に写っているのが誰か簡単に分かった。そんな写真だった。……だから、でっちあげとは違うかな。真幸の親父さんは、ほんとうにその男がそういうことをしているって確信していた。だから、あんな写真を載せたんだ。それは正義感からやったことだったのかもしれない」 周りには誰がいるのだろう。ぼくは一体いま、どこにいるのだろう。どこかに横になっているのが分かる。身体にかかる軽い重みは、多分、布団か何かだろう。左腕だけがそこから出されているようで、少し肌寒かった。直に空気に触れているのだろう。その空気は鼻につく、よく知っている匂いがする。消毒液の匂いだ。 「あの人は自信家で、プライドの高い人だったんだと思う。きっと、その雑誌の仕事だって、好き好んでやっていたんじゃない。もっと違う、自分はこんなところにいる人間じゃないって、ずっとそんな風に思っていたんだろう。焦りもあったんだ、多分」 「……で、結局、その写真の男は、何の罪もないのに晒し者にされた、ってわけ?」 やっと、純太のものではない声が聞こえる。周波数の高い、意思の強さをそのまま音に表したような、しなやかな声。七坂美由紀の声だ。 よかった。そう、安心する。姿が見えたわけではないから、そんな風に安心するのは気が早いのかもしれないけれど、少なくとも声は、元気そうだ。それに、美由紀のその声には、訥々と語る純太を慰めるような響きが込められているような気がした。彼女がそんな気遣いを持ってくれる、余裕がある証拠だ。そのことに、安堵する。 そうだよ、と声に出して肯定することは純太はしなかった。その代わりに、頷くか何か、音のともなわない動作でそれに答えたのだろう。 ぼくもその答えを知っている。 父さんが写真に撮って、記事にしてしまったその人には、ほんとうに何の罪もなかったんだ。 自分の受け持っているクラスの女子生徒が、ずっと学校を休んで、それなのに繁華街に入り浸っていることを心配していた、生徒思いの先生だった、らしい。何度も学校帰りにその生徒を探して、悩みがあるなら自分に相談してくれればいいとか、こんな所ばかりに来ていては将来のためにならない、とか、頑張って説得を続けていたらしい。 ぼくの父さんはその様子を見ていた。ふたりが話している内容も聞かず、男の人ではなく、話しかけられていた女の子の方に、後になって事情を聞きに行った。そのことを思うと、ぼくは今でも哀しくなる。……ほんとうに、あの人は悪くなかったのに。きっと、真面目で、いい人だったんだろうのに。 それなのに、あんな血走った赤い目をした、とても怖い人になってしまった。いろいろな物事が、あの人をそんな風に変化させてしまった。 ぼくの父さんに、さっきの人に何を言われたの、と尋ねられたその女の子は、もううんざりしていた。何にそんなにうんざりしていたのかは予想するしかない。世の中とか、男の人のことだとか、いろんなことに、嫌気が差していた子だったのだろう。たとえどんなに真摯な態度で自分の生きるべき道を説かれても、それもまたうざったいもののひとつだとしか思えなかったのだろう。 だから、その子は父さんに、こう答えた。お金をあげるからって、しつこく誘われて困っている、って。 あの人は自分の学校の先生なのに、そんな風に見られているなんてとてもショックだ。だからもう学校に行きたくないのに、それなのにこんなところにまで追いかけてこられて困っている、って。 父さんはそれを疑いもしなかった。酷い話だと思ったのもあるだろう。その男の人を許せないと思った、その気持ちも本物かもしれない。ただ、それ以上に、いいことを聞いた、と思ってしまった。それはその時の父さんが、まさに待ち望んでいたような情報だったから。自分をもっと高いところに引き上げるために必要なもの。もっと力があるのだと、自分の存在を示すものが欲しかった。そんな自分を照らし出す光を集められるものを、父さんは待ち望んでいた。 だから、手にしたそれを、光だと錯覚してしまった。 父さんは次の日も同じ場所で待ち伏せて、女子生徒の話を詳しく聞いて、その子に話かけている先生の写真を撮った。面白がったのだろう、女の子は詳細に嘘を作り出してくれた。それこそ、社会的な問題だとその写真を掲げられるほどの、センセーショナルな話題になり得る嘘。 あとは、簡単だ。 「記事の載った雑誌が発表されて、すぐにその教師は身元が割れてしまった。勿論学校にも、生徒にも、その親にも話は広まって、……事実の確認なんて後だ。その噂を処理するために、学校を辞めさせられた。噂はどこまでも広がる。家族も、仕事も、それまで築いてきた信頼も、みんなみんな、簡単に無くなってしまった」 仲の良い家族だと評判だったらしい。その人がどんなに否定して、どんなに奥さんや娘さんがそれを信じたとしても、噂は広まる。漂う悪意には重さがないのに、それでも柔らかいものを少しずつ押し潰してしまった。ぜんぶ壊れてしまった、と、あの人は繰り返し呟いていた。ぼくの父さんのせいで、何もかもが壊れてしまった、って。 だから父さんのことも、同じように壊してしまうんだって、何度も何度も、ぼくに向けてではなく、ただ何もない虚空に向かって、繰り返していた。 「その男はずっと真幸を狙っていたわけじゃないんだ。ただ、何でも良かった。あの人に苦痛を与えられるなら、何でも構わなかったんだ。自分と同じような思いをさせられれば、何でも良かった。……ただ、その日はたまたま、真幸が、学校から、ひとりで、帰っていたから」 「……純太」 言葉の終わりが、不規則に途切れる。もうやめて、と言ってあげて欲しかったけれど、美由紀の声は、ただ彼の名前を小さく呼ぶだけだった。そんな、懺悔をしてほしいわけじゃない。純太、ぼくはさっき言っただろう。純太が悪いのではないんだ。 美由紀の声には、そっと撫でるような優しさが含まれていた。けれども、純太はまるでそれを振り払うように、言葉を先に続ける。 まるで、自分にそんなものは相応しくない、と、差し出された優しさを突き返そうとしているような、感情を押さえ込んだような声だった。 「真幸が殴られて、引きずられるみたいに車のトランクに詰め込まれるところを、たまたまそこを通った人が見ていたんだ。だから、警察に通報が行って、その人が車のナンバーもしっかり控えていてくれたから、真幸はすぐに助け出された。その男も同時に逮捕された」 ぼくが車に乗せられて連れて行かれたのは、あの男の人の家だった。大切だったものが何もなくなってしまった、空っぽになってしまったその家で、あの人がぼくに何をするつもりだったのかは分からない。きっと、あの人自身にも分からなかっただろうと思う。ただ、ぼくの父さんへの復讐を思うばかりで、他に何も思いつかなかったんだろう。 車がその場に着くとすぐ、ぼくはトランクから、放り込まれた時と同じ乱暴さで引っ張り出されて、そのまま家の中に引きずられて、奥まった暗い部屋に連れて行かれた。畳敷きの部屋で、床には薄い布団が敷かれたままになっていた。そこから、次の記憶が急に暗くなる。元々暗かったその部屋の中にいたはずなのに、次に、更に深い闇が続く。ああ、そうだ。……そのまま、首の後ろを掴まれて、今度は押し入れの中に放り込まれたんだ。 「おれの家に連絡があったのは、その何時間も後だった。夕食の時間になっても家に帰ってこない真幸が、うちに来ていないか、って、真幸のお袋さんから電話があったんだ。おれは真幸と一緒に帰らなかったから分からないって答えた。警察に電話したのはおれのお袋だった。……真幸の母親は、うちの親がどれだけ言っても、自分からは警察に電話しようとしなかったんだ」 そこで、純太の声が少し冷たいものになる。純太はぼくの母さんのことが、あまり好きじゃない。 「警察には、先に誘拐した男の車についての通報が行っていた。だからすぐに、それが真幸だってことになった。慌てて、うちの親が真幸の両親を連れて警察に行こうとしていたから、おれも一緒に付いて行くって言い張った。やめなさいってお袋には言われたけれど、大人しく家にはいられなかった。でも、家を出る直前になって、警察じゃなくて病院の方に行くように電話が掛かってきたんだ」 ぼくは押し入れの中に入れられて、それで、しばらくは大人しくしていた。大人しく、というよりも、自分の身に何が起こったのかよく分からずに、呆然としていた。暗闇に目が慣れてきて、身体のあちこちの怪我がだんだん痛くなってきて、そのうちに段々、恐怖が募ってきた。自分がどこにいるのか、これから何をされるのか、少しずつ、じわじわとそんな不安が暗闇の向こうから迫ってきた。顔を上げると、押し入れの中の暗い壁に、あの赤い目がふたつ、宙に浮かんでぼくを見ていた。それから逃れようと思ったけれど、そこはとても狭くて、すぐに背中も伸ばした手も壁にぶつかって、どこにも行けなかった。赤い目は何も言わずに、瞬きひとつしないで、ぼくをじっと見ていた。とても怖かった。怖くて怖くて、それから逃れたくて必死だった。 ……だから、悲鳴を上げて、助けてと馬鹿みたいに叫んで、壁を叩いてしまったんだ。 「真幸はそれほど酷い怪我をしていたわけじゃなかった。ただ、ショックが大きいだろうって、医者はそんな風に説明してくれた」 ぼくが壁を叩いて、叫んで喚いたから、その人は確かに、ぼくを閉じこめていた押し入れを開けてくれた。 でも、開いたそこにあったのは、闇に浮かんでいたのと全く同じ、ふたつの赤い目だった。 「おれは真幸には会わせて貰えなくて、結局、そのまま帰ったんだけど。……な、芝山」 突然その名前が出て来て、ぼくは閉じた目蓋のまま、ひそかに驚く。芝山実波。もしかして、実波もいてくれないだろうかという期待はあった。だから、そのことに驚いたのではない。純太が彼に向けて呼びかける声が、とても弱かったからだ。あの、剥き出しの敵意が感じられないその音の響きが、ただ不思議だった。 「真幸がその時、目を覚ました時、そばにいた警察に何て言ったと思う?」 実波の声が聞きたかった。けれども、彼は何も言わない。それはそうだ。純太も、何か明確な答えを希望して問いかけたわけではないのだろうから。おそらく、実波は黙って首を振るか、それとも、純太を無視したのだろう。 代わりに聞き返したのは、美由紀だった。 「なんて言ったの?」 「ランドセルを知りませんか、って」 「ランドセル?」 「『ぼくのランドセルをしりませんか』って。目を覚ましてから、ずっとそのことを気にしていたらしい」 「ちょっと、待て」 純太の言葉を止めた、それは確かに、実波の声だった。 「こいつは、その誘拐された時のショックで声が出せなくなったんじゃねぇのかよ」 「……そんなに単純な話じゃないんだ」 実波の声だ。 今すぐに起きあがって、手を伸ばして、その頬に触れたかった。声はいつもと同じように聞こえるけれど、どこか、怪我をしたりしていないだろうか。酷い目に遭ったわけでは、ないのだろうか。動かない身体がもどかしかった。 「警察が助けた時、真幸は気を失って床に倒れていたらしい。その口にガムテープが貼られて、声を出せないようにされていた」 美由紀のものか、実波のものかは分からない。どちらかが、まるで納得したような息を漏らす。それを、違う、と否定するように、純太は声を低くして続けた。 「どういうつもりでされたことなのかは分からない。けれど、真幸はその時、口の中に一杯詰め込まれていたんだ」 小さな悲鳴のような声がした。美由紀のものだ。……純太が何を言いたいのか、察したのだろう。 「細かく切り刻まれたランドセルの皮が、喉を塞ぐほど、口に詰め込まれていたんだ」 純太の声も、辛そうだった。あまり、聞いていても楽しい話ではない。それを語る方だって、同じだろう。ましてや純太は、ずっと自分のことを責め続けていたのだから、きっとぼくについて何を話すにしても、それは少なからず痛みを伴ってしまうものだろう。 もうやめて、と、どちらでもいいから、純太を止めてあげて欲しかった。ぼくのことを知られるのも嫌だけれど、あんなことについての記憶を、他の人に分けたくはないけれど、それ以上に、純太が可哀想だった。 だけど、たとえ、もうやめて、とどちらかが言ったところで、純太はそれを聞き入れてはくれないのだろう。 「真幸が今でも、あんまりものを食べないのは、きっとそのことが原因なんだと思う。口に何かを含むのが、たぶん怖いんだろう。飴とかガムなんかは、絶対食べないし」 「蜜柑は平気そうに食ってたぞ」 実波の声がそう割り込むけれど、純太はそれには答えず、無視する。 「きっと真幸が、声を上げたから、そんな風にしたんだろうな。それにしても、ランドセルをあれだけ細かく刻むのは、そう簡単なことじゃないはずだ。それをわざわざ、きっと真幸の目の前で、やったんだ。……近くに包丁が転がっていたらしい。真幸が声を出せなくなったのには、いくつも原因があると思う。それが、ひとつめだ」 ぼくはその嫌悪感を覚えているだけで、その人が目の前でランドセルを切り刻んでいたのをはっきりと覚えているわけではない。けれど、目を覚ましてすぐ、ぼくのランドセルはどこに行ったのだろう、と不思議がる程度には、記憶に残っていたのだろう。今でも、そのことを思い出すと、口の中にびっしりと何かが詰まっているような気がして、吐き気がする。何も口にしていない時でも、その感触が長い間消せずに、ものを食べるのが下手になった。今では、わりと楽になったけれど、純太はぼくのことをとても心配してくれているから、ぼくが強がっているのかもしれないと危惧し続けているのだろう。 「真幸の怪我自体はそんなに酷くはなかったから、簡単な検査をするだけで、あとはそのまま家に帰ったらしい。病院に残るか、それとも家に帰るか、警察や医者が、真幸の精神状態のことを考えて、どうしたいか、真幸自身に尋ねたんだ。真幸は迷わずに、家に帰ることを選んだ。……警察は馬鹿だ。どうして、真幸の父親のことに気付いていたのに、家に帰らせたりしたんだ。そういう状況に置かれた子どもが、自分から逃げられるわけないだろう、ほんとうに馬鹿だ、あいつら」 「……純太? どういうこと?」 「虐待される子どもは、いくら辛い目に遭っても、それでも家に帰りたいって言うしかないんだよ。そんなことも知らないで、あいつらのせいで」 純太の声に、熱が籠もる。感情の高ぶりをそのまま表すように、語気が強くなり、それまで説明調だった言葉も、声の大きな呟きのようなものに変化する。 「……こいつ、身体に結構、傷の痕残ってるもんな。そういうことか」 実波の声がする。ぼくのすぐ近くにいる。ぼくを見ているのだろうか。反応を返したかったけれど、痛みに負けて、少しも身体が動かない。ぼくの身体はどうなってしまったのだろうか。 「よりによって、警察は真幸の母親に、細かいことを聞きたがった。だから真幸は、父親とふたりで家に帰らなきゃいけなくなった」 最初は、お袋さん、とか、親父さん、という風に、まだ情を込めて呼んでくれていた。それが、母親、父親、という、ただの役割を示す単語に切り替わっている。純太が抱いてきた苦々しい思いが、それだけでぼくに十分に伝わるようだった。 「真幸の父親は、普段からささいなことで子どもに手を上げてた。それに加えて、状況は父親にとって最悪だった。やっと、いい記事が書けたと思ったのに。これで、もっと高みへ上れると思ったのに、とんだ番狂わせだ。誰が一番悪いのかなんて、分からないしそんなこと今になったら関係ない。だけど、その時の真幸の父親が思っていたことなんて、ただひとつだ。――誘拐した男は警察に逮捕された。きっと、すべての事情を話すだろう。そうなったら、自分の記事が捏造だったことも、きっと明らかになってしまう。もう自分はお仕舞いだ。……それは誰のせいか?」 そうやって、順序立てて説明されると、ぼくにも父さんの思考が嫌というほど理解出来た。 そして、あの時何度も呟いていた言葉の真意を知る。 母さんはいなかったけれど、それでも、家に帰ると気分が少し落ち着いた。眠くなって、ぼくの方を向いてくれない父さんに、小さくおやすみなさい、と声をかけて、そのまま眠ってしまった。 ぼくがいつも父さんに怒られるのは、静かにしろ、が一番多かった。だから、静かに。いつだってあまり大きな声や音を出さないようにするのが決まりだった。そうするぼくを、母さんも、いい子ね、と褒めてくれた。 だから、あんな風に父さんがぼくを叱ったのは、ぼくがその決まりを破ったからだ。 (「おれは悪くない」) 夢を、見てしまった。 あの暗い、狭い、押し入れの中に閉じこめられた夢だ。暗闇の中に浮かぶふたつの赤い目玉と、その外にあった本物の赤い目と、それから、ぼくのランドセルの夢を見てしまった。 だから、声を上げてしまった。悲鳴を上げて、泣いて、怖くて、目を覚ましても電気が付いていなかったから、自分が今どこにいるのか分からなくて、まだあの中にいるのかと思って、ただ声を上げて泣いた。 父さんは、すぐにぼくの泣き声を聞いて、駆けつけてきた。 ――おとうさん。 すごく嬉しかった。なんだ、夢だ。よかった、ぼくが見ていたのはただの夢だ。もうだいじょうぶだ。 ――おとうさん、こわい夢、みたの。 安心して、それでもすぐに泣きやむことは出来ずに、しゃくり上げながら、来てくれた父さんにしがみつこうとした。父さんがぼくに触られるのを特に嫌がっていたこともすっかり失念していた。ただ安心させてほしかった。自分のことしか、考えられなかった。 父さんが手を上げた。その手で、ぼくを受け止めてくれるのだと思った。 (「うるさい!」) だけど、違った。 その手はぼくの頬を張り飛ばした。 (「うるさい、うるさい、うるさいうるさい! 黙れ、この……っ」) 倒れたぼくを踏みつけて、何度も足を蹴り下ろされ、頬を叩かれて、そして、 (「おれが何をしたって言うんだ……畜生、おまえのせいで」) (「みんなみんな、おまえの、せいだ」) 首を、締められた。 「あとは、どんなことがあったか、なんて、だいたい想像がつくだろ」 純太以外の誰も、何も言わなかった。 「真幸の母親を、警察から家まで送るついでに、おれとお袋は真幸の家に行った。……そこで真幸を見たとき、正直なところ、もう駄目だと思った。もう死んでるって思った」 薄情な話だよな、と、純太はひとり自嘲するように笑う。誰も、それには続かない。 「でも、生きてた。……助かった。一週間ぐらい寝込んで、次に目を覚ました時には、もう、声が出なくなってた」 誰かが、ぼくの首筋を撫でた。誰の指だろう。脈拍を確認するように、頸動脈の上で一寸指を止め、そしてそのまま、顎の下、喉仏の上あたりを、指先でくすぐるように撫でてくる。まるで、猫をあやすようなその指に、それが誰のものなのか、気付く。……こんなことをするのは、実波しかいない。 「……み」 「お」 やっと、身体が少し、動いた。首を持ちあげようとして、その瞬間、今まで自分の身体を支配していた痛みが何処から来るものなのか知る。後頭部だ。頭が、痛い。それよりは弱くはあるけれど、同じように、背中も痛かった。なんだろう。どうして、こんなに、いろんなところが痛いのだろう。 「み、な」 「馬鹿、喋んな。おれのこと、分かるか?」 瞬きをひとつする、それだけの簡単な動作でも、頭に振動が伝わり、激しく痛んだ。声も、うまく出ない。力が入らなくて、今までのようなかすれた音になってしまう。 そんなぼくの顔を見てか、実波は顔をしかめて、そして聞いてくる。 分かる。芝山実波だ。ひとつ頷くと、実波は次々に、美由紀と、純太を指差した。それに合わせてぼくが頷くと、安心したように実波も頷く。 「おまえ、階段から落ちて頭打ったんだよ。とりあえず検査は終わって、今のところは特に問題ねぇみたいだから。……医者呼ぶから、ほら、まだ痛ぇんだろ、寝てろよ」 階段。……ああそうか、純太と話していて、それで、取っ組み合いみたいになって。それで、ぼくが階段から落ちたんだ。 寝ていろ、と実波はぼくにそう言ったけれど、知りたいことがたくさんあった。せっかく目が開いたんだ、それを確認してからではなければ、また目を閉じる気にはなれなかった。 まずは、実波。ぼくの寝ているベッドの一番そばで、いつかの保健室の時のように、だらしなく椅子に座っている。ぼくを見ているその顔の、頬が少し腫れていた。口の端に怪我をしているようで、血の出たような、そんな痕が見られた。 「けが、したの」 「そいつに殴られたんだよ。いいから、寝てろって」 「……だい、じょぶ?」 「大丈夫だよ、こんくらい。おまえは人のことになると大袈裟だよな。自分の方がよっぽど危ねぇ癖に」 ……いつもの調子だ。そいつに殴られた、と、実波は純太の方を指差したけれど、純太は何も言わなかった。 実波はぼくの頭を触ろうとして、そして、それはまずいと気付いたのか手を止め、そのままナースコールのボタンを押す。 元気そうだ。よかった。 次に、視線を巡らせて、美由紀を見る。実波とは少し離れたところに、やはり同じように椅子に座っている。傍らに、純太が立っていた。 「春日くん」 ……彼女には、実波のように、どこも怪我した様子はない。いつもの、きれいな美由紀だった。 その傍に立っている、純太を見ようとした。けれども彼は、ぼくが視線を上げるより先に、美由紀の手を取って、半ば強引に立ち上がらせ、そのままぼくに背を向けてしまう。 「美由紀、出るぞ」 「え、ちょっと、なに」 「いいから来い」 ……行ってしまった。純太の表情を見ることは出来なかったけれど、さっきまで、ぼくのことについて話していたのと比べてずっとトーンの低い声だった。 呆れたように、実波が笑う。 「あいつ、すげぇ狼狽えてたよ。おまえに見せたかったくらい」 それは純太のことだろう。実波の話は、聞く者に分かりやすく出来ていないから、こちらでそれが何を言っているのか考えなければいけない。たぶんそれは、ぼくが階段から落ちた時のことを言っているのだろう。 「おれと七坂が、ふたりであいつを探してた時に、七坂の携帯にあいつが電話してきたんだ。……まず、救急車呼べって、普通、そう思うよな。だけどあいつはそれどころじゃなかった。どうしよう、おまえが死んだらどうしようって、そればっかり言ってた」 ぼくはその光景を、よく知っている。 純太に謝らなくてはいけないことが、また増えてしまった。また彼を、あんな風に悲しませてしまった。 「慌てて病院に電話して、それでおまえらのところに行った。さっきの川里の話じゃねぇけど、おれもその時、思いかけたよ。……おまえが死んじまったんじゃないかって」 そこで実波は、言葉を詰まらせた。しばらく、何も言わない。 ぼくも何か言おうとしたけれど、上手く、声が出なかった。 「この馬鹿」 実波がぼくを見る目が、気のせいか、少し滲んでいるように見えた。 「ばかやろう、またあした、って、そう言ったのはおまえだろ。その次の日に、なんかこんな、訳の分かんねぇことになってんじゃねぇよ」 訳が分からないのはぼくだってあまり変わりはない。でも、その言いがかりじみた彼の言葉が、胸に染みた。 「……ご、めん」 「ごめんで済むか、おまえ痛いの嫌なんだろ、そう言った次の日に自分から痛い目に遭ってんなよ」 「だから、ごめん。……あの、かさ、かえさないと」 「ごめんで、済むか。傘なんてどうでもいいんだよ、ばか」 「……ごめん」 手を伸ばして、彼の頬に触れようとした。その少し腫れた箇所を撫でたかった。うまく動かない右手は、実波の頬に届く前に、彼の手に掴まえられる。それは驚くくらい、温かかった。この部屋は少し寒いな、と、改めてそんなことに気付くくらい、ぼんやりとした熱が伝わる。 「……ありがとな」 実波が、そう呟いた。何のことを言っているのか分からず、しばらく彼の顔を見上げる。ふて腐れた子どものような顔。昨日もこんな顔をしていた。それも、同じ言葉を口にしている時だ。どうして、素直にありがとうを言えないのだろう。どうしてこんなに捻くれた表現をされているのに、彼の気持ちが伝わってきて、嬉しいのだろう。 「これ、取り返してくれただろ。朝、あいつと揉めた時、気付かねぇうちに取られてたんだな」 これ、と、実波は、銀色の携帯電話を取り出して見せた。 やっぱりそれは、実波の手にあるべきだ。あるべき所にあるべきものがあって、それだけのことが、とても嬉しくて、少し誇らしかった。自分にも、出来た。笑って実波を見上げる。 「みなみ。……実波」 繋いだ手を、そっと、自分の方に引き寄せ、頬に当てる。温かい。心地よい。とても、大切だ。 「みなみ」 きみは、ぼくの声を、猫が鳴くようだと言った。けれど、ちがうよ。今、気が付いたけれども。 猫の鳴き声に似ているのは、ぼくの声じゃなくて、むしろ、きみの名前そのものだろう。 その音の連なりが、仔猫が鳴くような、そんな響きを持っているんだろう。それなのに、そのことに気付かないのだろうか。ほんとうに、ぼくの声で呼んだ時にしか、そんな風に思わないんだろうか。……だったら。あんまり、誰かから、名前を呼ばれないのだろうか。 ぼくで良かったら、いくらでも、何度でも、呼んであげられるのに。ぼくの声が好きだって言ってくれた。あの言葉が、とても嬉しかったんだ。 ぼくもきみの声がとても好きだ。ぼくの名前を、いい名前だと褒めてくれた。ぼくも、きみの名前が好きだよ。 ……実波。きみのことを思うことが出来たから、頑張れた。純太の影に隠れていたような、そんなふうなかたちで、きみと一緒にいるのは嫌だったから。一緒にいるのなら、隣に並んで、同じものを見て、同じだけの風を浴びていたいから。 声に出して、言ったつもりはなかった。 けれども実波は、分かってるよ、とでも言いたげに、やけに神妙な顔をして、一度、ぼくに頷き返してきた。
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