index > novel > キミノコエ(20)



= 20 =

 どうしてだかは分からないけれど、ずっと忘れていたことがあった。

 中学生の頃だ。
 その当時のぼくは、純太以外に親しい友人もいなかったし、今と同じように、いつだってひとりでいることが多かった。それはぼく自身がそうなることを望んだ結果だから、何も不満はなかった。ただ、今以上に、担任の先生たちはいつだってぼくについて注意を払ってくれていたように感じた。そういう時期だと言ってしまえばそれまでなのだろうけれど、ぼくがイジメに遭っていないか、学校に来ることが辛くないかどうか、毎日のようにぼくに確認を取り、そう心配してもらっていた。
 だから、その時のクラスメイトの顔も、ぼんやりとしか思い出せない。名前を言える人なんて、ほんとうに少ない。
 その人の名前も忘れてしまった。何度もぼくに話しかけて、うつむくぼくの顔を覗き込んできて、黙り続けるぼくを何度も指差して笑ったその同級生のことを、ぼくはほんとうに今の今まで、綺麗に忘れてしまっていた。
 ぼくは彼のことが苦手だったし、どうして何度もぼくのことを構ってくるのか不思議でたまらなかった。何を言われても反応を返さないでいると、そのことに腹を立てて乱暴なことをしてくることもあった。耐えられないほど程度の過ぎたものではなかったし、ぼくの存在は、そんな風に扱われても仕方のないものだと、自分でもそう思っていた。だから、毎日、彼が何を言ってきても、何をしてきても、それをただ黙って受けているだけだった。
 そのことを、特に苦痛だとも思っていなかった。そのくらいはされて当たり前なのだろうな、と、ぼくは自分のことを、少し離れたところから、そう見ていた。
 けれど、相手にとっては、それは余計に腹立たしいことだったのだろう。まるで歌うように楽し気だった、彼がぼくの名前を呼ぶ声は、次第に棘を持つようになっていった。ぼくの無反応に舌打ちをして、意味もなく机や椅子を蹴るようになった。
 なんだか、何かに似ている。そこまでのことも、そして、彼がぼくにしてきたことも、全く別のものによく似ている。
 ぼくはその、名前すら思い出せない彼に、引っ張られて大人しく後に付いていった。何かをされるのだな、とは思ったけれど、ぼくには抵抗という手段が思いつかなかった。何をされるのか分からないけれど、あまり酷いことではないといいなと思いながら、彼に引きずられて行ったその先は、何部かは忘れたけれども、運動部の部室だった。テスト前か何かで、その日は部活のない日だったのだろう。誰もいない小さな部屋の中には、壁一面に更衣用のロッカーが並んでいた。
 ぼくが強引にでも彼の手を振り払わなかった理由が、今ならなんとなく分かる。きっとぼくは、彼のことを心の奥底で、自分でも意識できないほどの深いところで、彼のことを受け入れ始めていたのだ。どれだけ拒もうとしても、それを無視してこちらの世界に身を乗り出そうとする彼のことを、戸惑いながらも、少し嬉しく感じていたのかもしれない。
 だから、大人しくされるがままになっていた。掴まれた手を解かれて床に投げ出されても、ぼくはただ黙って彼を見上げるだけだった。……何だろう。これは、ほんとうに何かにとてもよく似ている。
(「……おまえ、……、なんだって?」)
 久しぶりに、彼がそんな風に楽しそうに話すのを聞いたのを、思い出す。
(「おまえ、暗くて狭いところが怖いんだって?」)
 言うなり、ぼくは手を引っ張られて、背中を押されて、そして。……そうだ、どうして忘れていたのだろう。
 ぼくはそのまま、ロッカーの中に押し込まれた。まるであの時、もっと小さな頃、車のトランクに詰め込まれた時とまったく同じように。その時から背も伸びて、成長していたはずなのに、それでもぼくの身体は簡単に狭いロッカーの中に入ることが出来た。
 何が起こったのか、よく分からなかった。突き飛ばされた背中が痛いな、とぼんやりと思いながら、次第に自分の周囲の薄暗さが身体に染み込んできて、ますます、よく分からなくなった。自分がどこにいるのか、何をされたのか、今何が起こっているのか、全然分からなかった。
 ロッカーに鍵はかけられないのを知っていた。だから、きっと、そこから出るのは簡単なことだったのだろう。彼もそう思ったはずだ。
 だから、ぼくが何も言わないし、いつものように何の反応も見せないことに失望したように、舌打ちだけを残して行ってしまった。遠ざかっていく足音が聞こえなくなっても、ぼくはそのまま、動けずにいた。
 暗くて、狭い所が怖い。彼は一体、誰からそのことを聞いたのだろう。その条件を満たす場所にぼくを放り込めば、いつもよりもぼくに衝撃を与えることが出来ると知って、早速それを試したのだろうか。ぼくに、暗くて狭い所が怖いのか、と尋ねてきた声は弾んで聞こえた。
 きっと彼は、失敗した、と思って、失望しているだろう。ぼくが泣き叫んで、出して欲しいと嘆願するとでも思ったのだろう。嘘を教えられたのか、と、その情報に対する舌打ちだったのかもしれない。
 けれども、その情報は間違っていない。確かにぼくは、暗くて、狭い場所が、怖かった。
 その中に詰め込まれたその瞬間に、彼のことも他のこともすべて忘れて、何も考えられなくなるほどに。

 夜になってもぼくが家に帰らないことを心配して、大人たちがぼくを探してくれた。
 ロッカーの扉が外から開けて貰えない限り、きっとぼくは、いつまででもその中で固まって、身動き取れないままでいただろう。きっと何時間でも、たとえ一日でも、ずっとそのままでいただろうと思う。
 はっきりとは覚えていない。けれども、後になって母さんかお医者さんか、誰かから聞いたことには、ぼくは酸欠に近い状態で、意識もほとんどないまま、悪い夢を見た時のように手のひらを噛んでいたらしい。今でも手のひらに、ひときわ目立つ痕を見つけることが出来る。きっとそれが、その時に噛んでいた痕なのだろうと思う。 

 ぼくはそのまま入院して、一週間もしないうちに退院した。
 けれどもそうやって、次に学校に行った時には、もう、あの同級生は教室からいなくなっていた。ぼくが居ない間に何があったのか不思議でたまらなかったけれど、誰に尋ねることも出来なかった。
(「……かわいそうに」)
 けれども、ぼくは確かに、その言葉を覚えていた。
(「おれは許さないから」)
 彼がぼくの肩を抱いて、優しく笑って、こう言ったのを、その時のぼくは、確かに覚えていたはずなのに。
(「おまえをこんな目に遭わせた奴を、おれは許さないから」)
 どうしてそのことを忘れていたのだろう。それは、ぼくが、忘れたいとそう願ったからだろうか。
 そのほうが、都合がいいと、そう思ったからだろうか。
 そう言えば、実波にそう言われたことがある。実波の言葉が、ぼくにとって都合の悪いことだったから、だから、ぼくは怒ったのだろう、と、そんな風に彼が勘違いをしたことがあった。
 それも、そんな理由から、なのだろうか。
 純太は優しい人でないといけないから。いつだってぼくを守ってくれる人のはずだから。
 だから、ぼくにとってその記憶は、とても都合の悪いものだったのだろう。あの時、ぼくは確かに、純太のことをひどく怖いと思った。
 ああ、そうだ。だから、あんな風に思ったんだ。
 だから、逆らってはいけないと、そう思ったんだ。
 名前も思い出せない彼のことを、純太がぼくから見えないところへ消してしまったのだと、ぼくはその頃、本気で信じていた気がした。ぼくにとって、純太は何でも出来る、王様のような存在だった。昔も、それから、今も。
 
 目を覚ますと、隣には誰もいなかった。
 自分の部屋ではないけれど、とてもよく知っている部屋。その中で、ひとりきりだった。
 いつの間に、眠ってしまったのだろう。記憶を辿っても、今いるベッドに入ったことを全く思い出せなかった。
 自分の襟元に触れてみる。冷たい指で撫でられた感触を思い出して、血の気が引いた。純太に、この痕のことを聞かれて、それから。
 それから、答えられないぼくを見下ろして、純太はいつものように笑って、……そうだ、そして一言、まるで何事もなかったかのように、こう言ったんだ。
「今日、泊まってくよな」
 ぼくの意思を尋ねているわけではない。強く、ぼくにそう確認してくる声。それは命令じみた、とても強い力を持っていた。 それに頷くことも、首を振って断ることも出来なかった。きっと、ぼくがどう反応を見せても純太にとっては同じだろうと思った。
 あれほど必死の思いで告げた言葉も、声でさえも、彼には届かなかった。
 それなら、もう、どうすればいいのか、全く思いつかなかった。
 ただ、逆らっちゃだめだよ、と、幼いぼく自身の声だけが、空しく心の底で反響するだけだった。
 時計を見ると、もうお昼に近い時間だった。隣で寝ていたはずの純太がいないということは、ひとりで起きて、学校に行ってしまったのだろうか。どうして、ぼくを起こしてくれなかったのだろう。
 純太はいつだって、こう言う。おれは自分がやりたいようにしかしない、って、口癖のように何度もそう言う。だったら、それは、ぼくに対しても同じなんだろう。ぼくに対して、純太は自分がしたいようにしかしない。他の人にはぼくのことを悪く言う一方で、ぼくに優しくしてくれたり、ぼくが美由紀について何か言うのを好まなかったり、……ぼくが純太の助けが必要ないと声にして告げても、それを受け入れてくれなかったり。
 やっと分かった。純太はほんとうに、自分のやりたいようにしか、しないのだ。
 枕元に、きれいに畳まれたぼくの制服と鞄が置いてあった。昨日おばさんが乾かしてくれたものだろう。貸してもらったままだった純太の服を脱いで、それに着替える。
 階下に降りると、居間にいたおばさんがぼくを見て、あら、と眉をひそめた。
「駄目じゃない真幸くん、寝てないと」
 そう言われてぼくは、納得のいかない顔をしていたのだろう。
「だって、大丈夫なの? あ、お医者さん行く?」
 おばさんはぼくの体調が平気なのかどうか、確認してきた。それはおそらく、純太がそういう風に言ったからだろう。きっと、ぼくは具合が悪いから、だから今日は学校を休むと、そんなことを言ったのだろう。それでぼくを起こさずに、自分だけ学校に行ってしまったのだ。
 『へいきです』
 メモにそう書いて、見せる。
 『いまからがっこうにいきます』
「……大丈夫なの? 顔色、あんまり良くないけど」
 ぼくが無理をしているのではないかと、心配そうに尋ねてくるおばさんに何度も頷く。顔色が冴えないとしたら、それは体の具合が悪いからではない。心配なことが、たくさんあるからだ。それは、大人しく寝ていたって治まるものではない。
 食欲がないから、と言って断ろうとしたけれど、何かお腹に入れて行かなければ駄目だと押し切られて、遅めの朝食を食べさせてもらう。食欲がないのは嘘ではなくて、実際そうだった。だから、何か出してもらっても食べきる自信が無かったけれど、おばさんはぼくのそんな所もよく理解してくれていた。ぼくがあまり、ものを食べられないことをよく知っているから、泊まりにきたり食事をご馳走してくれる時は、いつでも適切な量で用意してくれる。朝ご飯に、とおばさんが出してくれたのは、小さなパンと、温かいスープだった。
「純太がね」
 食卓に、ぼくと向かい合うように おばさんは座る。ぼくがちゃんと食べるかどうか、そもそもほんとうに学校に行っても大丈夫なのか、確認を取ろうとしているようにぼくをじっと見たあとで、ふいに口を開いた。
「真幸くんがおかしい、って心配してたの」
 純太の名前に、呑み込もうとしたパンが喉につかえる。
「心配っていうのとはちょっと違うかしら。……なんか、怒ってるみたいだった。ケンカでもした?」
 ちがいます、と口にしながら、首を振る。
「そうよね。ケンカなんて、無理よね。ごめんね、真幸くん」
 するとおばさんは何故だか、ぼくに謝ってきた。なにが、ごめんね、なのだろう。
「純太はああいう性格だから。きっと真幸くんに、いろいろ我慢させてると思うの」
 心からそれを申し訳ないと思っている、と言いたげな口調でおばさんはそう言って、ひとつため息をついた。なんだか、可笑しかった。それはいつも、ぼく自身が自分のことをそう思ってきたことだ。ぼくはこんな人間だから、きっと純太にいろいろ我慢させているのだろう、と思って、ずっと申し訳なく思ってきた。それなのに、おばさんは全く逆のことを言う。
 そんなことはない、と伝えたくて、また首を振る。おばさんは何も言わず、ただ微笑むだけだった。笑った顔は、純太にとてもよく似ている。その笑顔を見て、気が付く。ぼくは純太が、こんな風にやわらかく笑う顔を、もう随分と長い間見ていない。……ぼくが、彼に険しい顔をさせている。
 ぼくは、いつだって、勝手に相手の気持ちを、こう思っているに違いない、と決めつけていた。もしかしたらそれが間違った推測かもしれないなんて考えもせずに、一度決めつけてしまったら、それを疑うこともしなかった。安田先生はぼくのことを面倒な生徒だと思っていて、嫌われているだろうと思っていた。クラスの皆にとって、ぼくはいてもいなくても関係のない幽霊のような存在だと決めつけてきた。
 芝山実波も、ぼくのことが嫌いで、腹が立ってしかたないのだろうと、ずっとそう思っていた。誰も、そんな風にはっきりとぼくに告げたわけではないのに。
 ぼくはいつだって、自分ひとりで何もかも決めてしまうことで、それらのことから逃げ続けてきた。だから、純太との関係も、こんなものになってしまった。
「真幸くん、ほんとうに大丈夫?」
 ごちそうさまです、と手を合わせたぼくに、おばさんはなおも心配そうに、再度そう尋ねてきた。それに頷いて、ありがとうございました、と頭を下げる。
 ぼくは大丈夫だ。だから、学校に行かなくてはならない。
 頭の中で、また、逆らっちゃだめだよ、と声が響いた。それを払うために、首を振る。 駄目だ。ぼくは弱くて、なんの力もないかもしれないけれど。けれども、もう、逃げては駄目だ。そうじゃないと、また、純太は。
 美由紀のことも心配だった。顔を見に行って、直接ごめんと謝りたい。純太と喧嘩をさせてしまったことについても、これまでのことについても、昨日おばさんにそう告げられたのと同じように、声に出して謝らなければならない。
 はっきりとそうだと決まったわけではないけれど、目覚めた時からずっと、嫌な予感がして頭を離れなかった。違う、今日の朝からじゃない。この不安はずっと、はじめて純太が実波の名前を口に出したときからずっと、ぼくの心の隅にあったものだ。それが今になって、他の何よりも大きく、ぼくの心の中に広がっている。よくないことが起きる。きっと、怖いことが起きてしまう。
 だからその前に、純太を止めなくてはならない。
 声に出して自分の意思を伝えれば、何か変わると思った。ぼくのその考えはひどく浅はかで、結局なんの意味も無かったかもしれない。自分に何が出来るか、もう分からないけれど、それでも。もう、何もしないままでいるのは嫌だった。
 不安そうに見送るおばさんにもう一度頭を下げて、靴を履く。
 傘立てに置かせてもらっていた、黄色い傘を取る。この傘を、実波に返さなくてはいけない。日光が差し込んでいるから、今日は雨ではないようだ。
「あ、その傘」
 実波に貸してもらった傘を手にしたぼくを見て、おばさんが、なにかを納得したように言った。
「やっぱり、真幸くんのだったのね。なぁに、随分と可愛らしい傘。誰に貸してもらったのかしらね?」
 ……仕方がない。どこからどう見ても、女物の傘なのだから。おばさんはどうやら、ぼくが、それを女の子から借りた物だと誤解したようだった。真幸くんも大人になったのね、などと感慨深く呟かれて、さらに誤解の方向が違っていることに気付く。ぼくに好きな人でもいて、この傘は、その人から借りたものだと、そう思っている。
 違いますと首を振ろうとしたけれど、あながち、それが外れてもいない。この傘は、ぼくが、実波から借りたものなのだから。だから、ありがとうと言って、彼に返さなくてはならない。早く顔を見て、声を聞いて、彼を確かめたかった。この胸を埋めてしまいそうな黒い霧を、そんなものは幻なんだと、ぼくにそう気付かせてほしかった。
 何度目かになる、いってきます、を小さく呟く。扉を押し開けて、家を出た。
 中途半端な時間だから、通りには人通りは少なかった。もし誰かが、ぼくと擦れ違っていたとしたら、きっと。こんなにいい天気なのに、黄色い傘を右手に握りしめて、思い詰めた顔をして走るぼくの姿はきっと、ひどく奇妙なものに映っただろう。
遅刻になるとか、授業の途中に教室に入れば、みんなの注目を浴びることが嫌だとか、普段のぼくなら考えて気を重くしただろうものごとは、なにひとつ浮かんでこなかった。ただ、学校までの道を、ひたすらに走った。

 息が切れて、足がもつれそうになって、何度も転びそうになった。自分の体力のなさに腹を立てながら、それでも足は止めなかった。一秒でも、早く着かなくてはならない。そうしなければ、きっといろんなことが手遅れになってしまう。根拠のない確信だけが、ぼくを学校へ急がせた。いろんなこと、の内容は考えられなかった。思いつかないのではない。そんなことを考えるのが嫌だった。
 とにかく、少しでも早く、実波の声が聞きたかった。昨日、あんな風に過ごしたばかりなのに。どうしてたった半日の時間が、こんなに世界を変えてしまうものなのだろうか。
 一刻も、はやく。もつれる足を前に進めようとして、ふと、思いつく。その途端気が緩んだのか、右足の力が抜けて体のバランスが崩れた。よろけて、すぐ傍のブロック塀に手をついて体を支えながら、制服のポケットの中を探る。……無い。これはおばさんが昨日、洗って乾かしてくれたものだから、仕方がない。塀にもたれたまま、鞄の中に手を突っ込む。底のほうに、それらしきものを見つけて引っ張り出した。あった。
 電源の入りっぱなしになっていた携帯電話を開いて、登録された電話番号を探そうとする。指が震えるのと、誰かに電話をかけたことがないから、手順がよく分からずに手間取った。携帯電話、とは言っても、ぼくはこれまで、メールの機能しか使ってこなかったから。適当にボタンを押すと、発信履歴が表示される。画面には誰の名前も番号も並んでいなかった。
 自分から誰かに電話するのは、これがはじめてだった。ようやく、アドレス帳、という項目を見つけて、そこのサ行に進もうとする。他の人にしてみればひどく簡単なことだろうのに、ぼくにとってはそれだけのことが、とても難しかった。
 サ行の項目には、たったひとりしか登録されていなかった。その文字を目にしただけで、少し、気分が落ち着く。大丈夫、これで彼に電話をして、いつものようなあの調子のいい声を聴ければ、それでもっと落ち着ける。気の早い安堵の息を吐いて、呼び出したその番号に電話を入れようと、指を発信ボタンに乗せた、その瞬間。
 まるで見計らったようなタイミングで、手のひらの中で、小さな電話は着信を告げるために震えだした。思わず電話を落としそうになって、危うく受け止める。
 もしかして、と思って、期待した。だから、相手も確かめずに、そのまま電話に出た。
 きっとまた、ぼくが休んだから。それで、前みたいに、風邪でも引いたんだろって、あの人を馬鹿にするような声で、きっとあの声が笑ってくれるのだと、そう思った。
「……真幸?」
 けれども、違った。
「今、お袋から連絡あったんだけど。おまえ何考えてるんだよ、そんな状態で学校来るなんて。今どこにいるのか知らないけど、いいからすぐ帰って、今日は休めよ」
 耳慣れた、けれどもぼくが望んでいたのとは別の声が、とても優しく、ぼくをそう諭してきた。
 何を言っているのだろう。ぼくが学校に行けない状態だなんて、そんなおかしなことを言う。それは全部、純太が決めたことだろう。
「真幸、聞いてるよな。……おまえはそんな馬鹿な奴じゃないもんな?」
 馬鹿じゃない、というのが、どういう意味なのかはよく分からないけれど。でも、純太の言うことを素直に聞かないことが馬鹿だというのなら、確かに、ぼくは馬鹿なのだろう。純太は明るくて、皆に好かれていて、だから味方も多いかもしれない。ぼくと純太がまったく正反対のことを主張したとしても、圧倒的に純太を支持する人のほうが多いだろう。その純太はいつだって、口癖のようにこう言い続けてきた。真幸のことはおれが守るって。おれの言う通りにすればいいんだ、って、いつでも、何についてでも、ぼくに何度もそう言い続けた。ぼくにはそれが嬉しいものだったから、疑うことなんてしたことがなかった。
 けれども、ぼくが嬉しかったのは、守るというその言葉ではない。純太の言う通りにしていれば、全てから守ってもらえるという、その言葉が嬉しかったんじゃない。
 ぼくが嬉しかったのは、それが純太がぼくにくれた言葉だったからだ。純太がぼくに笑って、ぼくの体の内に溜まった嫌なものをすべて打ち消してくれるように、明るくそう言ってくれたからだ。
 純太の言うことを聞くのはぼくにとって当たり前だった。それに従っていればもう、何も怖いものはないと信じてきた。
 それでも、ぼくはその狭い世界の、外の景色を知ることが出来た。だから、それを知ってしまったらもう、どんなに努力したって、以前のぼくには戻れない。
 今の、こんな風に考えるようになったぼくを馬鹿だと言うのなら、それで構わない。
 誰に、どれだけたくさんの人に愚か者だと笑われても構わない。
 たとえこの世界のすべての人に馬鹿だと言われても、きっと、ただひとり、それに首を振ってくれる人がいる。……ぼくを認めてくれるかどうかは分からないけれど。それでもきっと、こんなぼくを否定しないでいてくれる。いいんじゃねぇの、なんて、どうでもよさそうな軽い調子で、芝山実波はぼくを見てくれる。
「――や、だ」
 ただでさえ簡単ではないのに、ずっと走り通しだったから、それだけの短い言葉でも、声にするのはひどく困難だった。それでも、何とか、音にすることは出来た。純太にだって、きっと伝わったはずだ。昨日と、同じように。
 どんな言葉が返ってくるかと思い、耳を澄ます。空気が震えるような、耳障りな音が耳に響いてやまない。不快なその音の正体が、自分が呼吸する度に喉から漏れるものだと気付いた頃、純太の小さな笑い声が聞こえた。これも、昨日と、同じだ。
「そうだよな。馬鹿なのはおれだったよな。おまえに電話するなんて。……おまえは喋れないのにな。……な、真幸」
 伝わらなければ、それは声ではない。この不快な呼吸音と同じ、ただの意味のない雑音でしかない。純太が欲しいものは、こんなものではないのだ。
 それはもう、嫌というほど分かっていた。それでも何が正解なのか分からない。だからせめて、無意味だと知っていても、同じことを繰り返すしかない。もう一度、ちがう、とそう言葉にしようとすると、まるでそれを見越したような純太の声に遮られた。
「分かってる。おれも、悪いよな。おれも確かに、良くないところがたくさんあった。そうだな、真幸だけを責めるのは間違ってる」
 それまでと、声の調子が変わった。ほんのさっきまでは、抵抗を覚えたぼくへの苛立ちを隠せないような、そんな小さな棘が混じっていたのに。妙に穏やかなその声は、ぼくがこれまでに聞いたことのない、まるで何かを諦めたような声だった。諦めたとかぶりを振って、もう怖いことはしないから近づいておいでと、そう手招きしているような、すぐそばから呼ばれているような声。
「分かった。昨日からずっと、おまえ調子悪そうだったから、勝手に休みってことにしたけど、余計なお世話だったんだな。今、学校向かってるんだろ。……気をつけて来いよ」
 電話は、それで切れた。

 純太は優しい。いつだって、とても優しかった。
 いつから、その優しさを怖いなんて、そう思うようになってしまったのだろう。ぼくが偶然、純太が美由紀にぼくについて話していたのを盗み聞いてしまった、その時からだろうか。……もっと、前からのような気がする。はっきりそうだと気付かなかっただけで、その気持ちはいつだって、ぼくの中にあったような気もする。
 それをもう、気のせいだと笑い飛ばすことは出来ない。それはとても危険なことのように思えた。
 純太の電話が切れてすぐに、実波に電話をしてみた。コール音を10回数えたところで、留守番サービスに繋がった。メッセージをどうぞ、と促す無機質な声に、何も残さずに電話を切る。
 時計を見る。……まだ、授業中だ。
 だから出られなくても仕方がない、と自分に言い聞かせて、また、ぼくは走り出した。

 ぼくが学校に着いた頃の、もう四限目の授業があと五分ほどで終了してしまう、そんな中途半端な時間だった。焦って転びそうになりながら昇降口で靴を履き替え、どうしようか悩む。このまま教室に行くと、ちょうど授業が終わる頃合いだ。そうなったら、そのまま先生に、遅刻のことや体調のことをいろいろ尋ねられるかもしれない。それに時間を取られるのが嫌だった。
 自分のクラスの靴箱を見る。転入生だから、芝山実波の出席番号は、サ行であるにもかかわらず一番最後だ。そこを確認して、彼が登校していることに安堵する。今頃、退屈そうに授業を受けているのだろうか。そうだ、もしかしたら、居眠りをしているのかもしれない。それで、ぼくが電話をしたことにも気付かないでいるのかもしれない。きっと、そうだ。
 実波のことも、美由紀のことも心配だった。だけど美由紀の顔を見たいと思ったら、彼女からぼくの所に来てもらうか、ぼくから会いにいくか、どちらかをしなければならない。さすがに、純太のいる傍で、美由紀に昨日あったことを聞くことはとても出来ない。
 迷ったまま立ちつくす。もう、あとわずかな時間で、昼休みだ。
 実波は今日も、いつものように屋上で昼休みを過ごすのだろう。そうだ。だったらぼくも、そこで彼を待っていればいいんだ。
 『おくじょうにいます』と、屋上への階段を駆け上りながら、実波にメールを送る。やっぱりメールの方が、電話を掛けるのよりもずっと簡単だな、なんて、そんなことを思った。メールアドレスは、昨日教えてもらったばかりだ。なんとなく気恥ずかしくって、何も送っていなかったけれど、……こんなことなら、もっと早い内に、アドレスを教えてもらえば良かった。そんな後悔さえ覚えた。たぶん、これで彼に会うことが出来ると思って、気持ちに余裕が出来たのだろう。
 美由紀にも同じようにメールを送ろうかな、とも考えた。それ以前に、彼女が今日も無事に学校に来られているのか、そのことを確認しなくてはならない。階段を上りきって、一旦足を止める。一気に駆け上がったので、息がとても苦しい。今すぐに座り込んでしまいたいと思うほど、もう足に力が入らなかった。自分の体力の無さをつくづくと思い知らされる。こんなみっともない姿を見られたら、また、実波に笑われてしまう。
 携帯を握りしめたままの右手で、コートの上から左胸の辺りを押さえた。心臓が激しく打っている。息を吸って、吐く。
 大丈夫だ。ぼくはもう、大丈夫だ。声だって出せるし、なにより、そんなぼくを知っていてくれる実波がいる。実波に助けてもらいたいのではない。もうすぐに、会える。そうすればもっと強くなれる。純太にも、何度だって自分のほんとうの気持ちを伝えることが出来る。そんなぼくを、実波に見て欲しい。
 扉を開けた。冷たい外気が流れ込んでくる。気が付かなかったけれど、今日は、風が強い。屋上のコンクリートに足を一歩踏み出すと、鋭く吹いた風が、耳元でびゅうと鳴った。
 鳴いて、渦巻いて、そのまま、耳の中に風が入り込んだような気がした。とても冷たい。身体のすくむほどの冷気が、そこから全身に伝わる。内臓も血液も冷えて、指先が麻痺したように硬直した。
 ……これは、なんだ?
「真幸」
 どうして、この場所で、この声が聞こえる?
 ここは実波の場所だ。ぼくが、一緒にいてもいいのかなと、いつでも少し遠慮してしまうほど、実波のお気に入りの、静かな場所なのに。
 ここに存在する音は、遠ざかって小さく聞こえる世界のたてる音と、実波の声だけなはずなのに。
 さっき、電話で、この人はなんと言っていた?
(「今、お袋から連絡あったんだけど」)
 そうだ、……おかしいじゃないか。だって、授業を終えるチャイムは、まだ鳴らない。授業を受けて教室にいるのなら、おばさんからの連絡を受けることも、そしてそのことについてぼくに電話をすることも、出来るわけがないじゃないか。
 ぼくが学校に行った、と、メールか何かで、こっそりと授業中に、おばさんから聞いたのかもしれない。
 そしてその後、ぼくに電話をしてきたのなら。
「……早かったな?」
 純太はきっと、こんな風に、ずっと、ここでぼくが来るのを待っていたのだ。

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