= 19 = 貸してもらった傘はどう考えても女物だった。 淡い黄色の地に、暖かい地方で咲いていそうな派手な花の絵が散りばめられている。それを手渡され、思わずじっと凝視してしまった。 「……これしかねぇんだ。姉貴のだよ」 趣味悪いよな、と嘆くようにひとつ息を吐いて、それでも実波はぼくの手にその傘を押しつける。実波の口から、姉貴、なんて言葉が出るのをはじめて耳にした。そうか、お姉さんがいるのか。 実波が差し出すその黄色い傘はとても高価なもののように見えた。どこかのブランドのものなのか、そういうことまでは分からないけれど、少なくともぼくが普段使っているようなビニール傘とは違うのは確かだ。そんなものを借りるわけにはいかない、と、そう首を振って断ろうとした。けれども実波は、それを強引にぼくの手に押しつける。 「傘は傘だろ。これ以上濡れてどうすんだよ。いいから、持ってけ」 洋服を貸してやる、と何度も実波には言われた。けれども、その言葉に従うことは出来なかった。どう考えてもサイズが違うし、それに、その行為に妙に後ろめたさを覚えてしまったから。濡れた制服は乾いたとはお世辞にも言えないけれど、それでも、家までなら我慢出来そうだった。 大人しく傘を受け取ったぼくを見て、実波は満足そうにひとつ頷く。 「風邪引くなよ」 そんな余裕がなかったから、実波の部屋の中はよく見ることが出来なかった。けれども、なんだか床の上にいろんなものが転がっていたような、そんな気もする。 それに反して、彼の家の玄関はひどく整然としていて、マンションの建物自体と同じように、清潔だけれど妙に生活感が感じられなかった。 帰るよ、と呟いたぼくを、実波は引き止めなかった。送って行く、と言ってくれたけれど、それも断った。なんだか、そこまでしてもらうのも、おかしい気がしたし、……それに、ひとりで寄りたい所があったから。 靴を履く。濡れた感触が気持ち悪い。このままでいたら、確かに、実波の言う通りに、また風邪を引きそうだった。 「……真っ直ぐ帰れよ」 実波は少し低い声でそう言う。まるで、ぼくの考えることなど手に取るように分かる、とでも言うような口ぶりだった。寄り道なんてしないで真っ直ぐ帰れ、なんて。ぼくが最初からそのつもりでないことに気が付いているのかもしれない。 けれども、自分で決めたことだから、その言葉に従うことは出来ない。実波に頷き返す代わりに、口を開く。 「……お、ねえさん、て」 長い間忘れていたことだから、あれは嘘だったのかもしれないと不安になり始めた頃だった。自分がほんとうに声を出せたのかどうか、それすらもあやうい感覚しか残っていなかったのだけれど、よかった。ちゃんと、口にすることが出来る。 そのことに安心して、実波を見上げた。 「お医者、さん?」 ぼくがそう聞いたことに、実波は軽く驚いたようだった。意外そうな顔をされる。 「なんで知ってんだ」 この子どものような顔がとても好きだと、改めて、そう思った。 答える代わりに、実波のその顔を見上げて笑う。ひとの笑う声が好きで、笑顔を向けられることが好きだった。それはとても安心して、ぼくの心を満たしてくれるものだったから。けれども、自分が誰かに笑うことについて、あまり考えたことはなかった。ひとに微笑んでもらうのではなくて、自分が笑いかけることで、こんなに気持ちが穏やかになるなんて、知らなかった。 それじゃあね、と、彼にもう一度笑いかける。明日は学校に来てくれるだろうか。そうしたら、また、いつものように屋上で昼休みを過ごすことが出来るだろうか。そのことを、ひどく心待ちにしている自分に気がついた。それは何も、今にはじまったことではない。きっと、それは、ぼくがそのことに気付く前から。美由紀に、そのことを指摘される前から、ずっと。 ぼくはあの時間を、とても、気に入っていたのだろう。 「……蜜柑」 気恥ずかしくなって、そのまま扉を開けて帰ってしまおうとしたぼくの手が掴まれる。 「蜜柑、ありがとな」 実波の声もまた、何かに照れたような、少しぶっきらぼうなものだった。 ぼくが持ってきて、ドアノブに引っかけておいた袋の中身。彼を倣って、お見舞いにと持ってきた蜜柑を、実波はちゃんと受け取ってくれた。 「ま、た」 振り向いて、ぼくを引き止めた彼を見上げる。 「また、あした」 学校で。 小さくそう言うと、実波もまた、笑って頷いてくれた。 少し小降りになったような気はするけれど、雨はまだ降り止んでいない。 実波が貸してくれた、黄色い傘を開く。傘が雨を弾く音さえ、違う。やはり、高価なものなのかもしれない。明日、学校に持って行って返せばいいのかな。たくさん描かれている濃いピンク色の花を、これは何の花だろう、とぼんやりと考えながら、実波の住むマンションを一度、振り返った。きっとこの色の傘は、遠くから見てもよく目立つ。 最上階の、彼の部屋あたりを見上げる。 遠くてよく見えなかったし、はっきりその部屋のその窓だと確信したわけでもない。 けれども、あの時閉められたままだったカーテンが、いまは開かれていることは、遠くても、よく見えた。 ポケットに入れたままになっていた携帯電話を取り出して、画面を見てみる。メールが二件届いていた。 ひとつは、母さんから。今日も遅くなります、ごめんね、という、いつもと同じような内容のもの。 そしてもうひとつは、未登録の、けれども、見覚えのあるアドレスから送信されたものだった。話したいことがある、と手紙でそう頼んだぼくに対して、どこに行けばいいの、と尋ねてきた、あのメールの主のものだ。 ぼくが今朝、大丈夫だったかどうか心配してメールを送った、七坂美由紀からの返事、だった。 思わず足を止める。メールの本文を確認するための、ボタン操作をする指が、躊躇いで少し震えた。美由紀のことが心配だった。純太に、ぼくからでは分かってもらえないことを説明してもらおうなんて、そんな厄介な用事を頼んでしまった。ずっと心配していたはずなのに。今この瞬間まで、彼女のことをすっかり忘れてしまっていた自分に気が付いて、愕然とした。美由紀のことばかりじゃない。ぼくは自分のことしか、考えていなかった。 『あんまり大丈夫じゃない。ちょっと、派手にケンカになったから、春日くんも気をつけたほうがいいかも』 ……それが、彼女の返信だった。 それは、いつのことなんだろう。昨日の夜、電話すると言っていたその時のことなのだろうか。 それとも今日、学校に行ってから、のことなのだろうか。 今朝、顔を合わせた純太は、いつも通りぼくに接してくれる純太だった。何も変わらない純太だった。 派手にケンカというと、一体、どんな風になってしまったのだろう。純太が女の子に手を挙げたりするようなことは考えがつかないけれど、……考えたくないけれど、今、美由紀の言葉を目にして、改めて今朝の純太のことを思い出してみると。 なぜだか、背筋が寒くなった。 『ほんとうにごめん』 雨のせいだろうか。あれだけ濡れたせいだろうか、指先が震えて、それだけの言葉を打ち込んでいくのにひどく時間がかかった。 美由紀には悪いことをしてしまった。ケンカ、の詳細が不安だし、彼女と純太の関係に、余計な傷を付けてしまったことが悔やまれた。なんて馬鹿なことをしてしまったんだろう。 『怪我とかしてない?』 迷ったけれども、どうしても気になったから、謝る言葉に付け加えて、そう尋ねた。祈るような気持ちで、送信完了を告げる画面を見つめる。そのまま、身動きが取れなかった。実波が貸してくれた傘が雨を受け止める音だけを聞きながら、その場に立ちつくしていた。 何も、そのつもりだったわけではない。すぐに返事が返ってくることを期待していたわけではない。 けれども、手のひらに伝わる振動が、ぼくのその硬直を解いてくれた。ポケットの中でずいぶん放っておいたにも関わらず、美由紀はぼくの送ったメールに、すぐに返事をくれた。 『ケガってほどじゃないけど、ちょっと、いろいろあった。あたしの言い方もまずかったんだと思う。』 美由紀のメールの最後は、こう続いていた。 『ごめんね、春日くんのこと、うまく言ってあげられなかった』 その言葉に、短く、息が漏れた。どういう気持ちが胸から迫り上がったのか、自分でも分からなかった。けれども、苦しいまでの強さで胸を満たした感情に、肩が震えた。 ちょっと、いろいろあった、なんて。……純太は彼女に、何をしたのだろう。何があったのだろう。言いにくそうにぼやかしてくれているけれど、そのことが逆に、起こったことの大きさを伝えてくれるようだった。 それなのに、ごめんね、なんて。 それを言わなくてはいけないのは、どう考えても、ぼくの方、なのに。 (「風邪引くなよ」) 雨の音の中、彼の声を思い出して、震えを止めようとした。 まだ、何も口に出せていない。ぼくはまだ、何もしていない。だから。 (「……真っ直ぐ帰れよ」) 実波、ごめん。 その言葉には従えない。このまま、家には帰れない。 ぼくには、やらなくてはいけないことばかりだから。 「……あら、真幸くん! どうしたの、ひとり? ごめんね、純太まだ帰ってないんだけど」 チャイムを押してすぐ、いつものようにおばさんは明るい声でぼくを出迎えてくれた。 「すごいずぶ濡れじゃない! とにかく早く上がって、ほら、いいからいいから」 すぐにぼくの髪や制服が濡れたままなことに気がついたらしく、おばさんは早口でそう言って、ぼくを家の中に引っ張った。そのまま背中を押されるように急かされ、お風呂場へ向かわされる。 「寒いかもしれないけど」 シャワーを浴びるように言われて、その言葉通りにする。濡れた制服を脱ぎながら、どうして一日に何度も脱いだり着たりするのだろう、と考えて、少しおかしな気分になった。実波があれほど外すのに時間をかけていたシャツのボタンは、不思議なほどに簡単に外せた。いろんなことを思い出しながら、熱いお湯を頭から被った。時間の感覚がよく分からないまま、しばらくそのままの姿勢で、ただじっとしていた。小さな頃から、何度も使わせてもらった浴室だ。それなのに、見慣れたはずのタイルの模様が、妙に目についた。こんな柄だったのか、と、今はじめて目にしたような錯覚に囚われながら、お湯を止める。 脱衣所には、おばさんが用意してくれたのだろう。純太の洋服がひと揃い置かれていた。着てみると、やっぱりぼくには少し大きい。同じように並べていたタオルで頭を拭きながら、おばさんの姿を探す。 「あ、駄目よ、こっち来なさい。ちゃんと髪も乾かさないと」 うろうろしていると、そんな風に見つけられて、居間に引っ張って行かれた。暖かい部屋の中で、更に付けられたファンヒーターの前に座らされる。 「制服、乾燥機にかけてるから。何なら泊まっていけばいいわ。どうせ、あの子、今日も帰り遅いんでしょう」 最後の言葉は、ぼくを気遣うかのように、柔らかかった。あの子、とは、ぼくの母さんのことだろう。 そこまで甘えてしまうわけにはいかない。首を振って、唇の動きだけでお礼の言葉を呟くと、おばさんは笑った。 「……純太の服、ちょっと真幸くんには大きいみたいね」 確かに袖も余るし、裾も余る。ぼくもその通りだと思って微笑み返すと、おばさんは少し、意外そうな顔をした。何か、ぼくは変な顔をしたかなと思っていると、まぁ、とため息をつくようにおばさんは呟く。 「真幸くん、そんな顔、出来るようになったのね」 そんな顔とはどんな顔だろうか。普通に、笑っただけのつもりなのに。 「あ、変な意味じゃなくて。……そうね。真幸くんは、昔からすごく頑張る子だったもんね」 ぼくが頭に中途半端に被ったままのタオルに手を掛けて、おばさんはそっと、力の加減に戸惑うような手つきで、ぼくの髪を拭いてくれる。幼い子どもにされるような動作だったけれども、それを恥ずかしいとは思わなかった。 「いろんなこと、すごく頑張って、乗り越えてきたのね」 そんな風に言ってもらえるのは嬉しかった。まるで撫でるようにぼくの頭を拭いてくれるおばさんの手と声に、気が緩んで涙が出てしまいそうだった。 ……けれども、違う。そんな風に言ってくれるのはとても、誇らしいけれど。 ぼくはまだ、ほんとうに乗り越えなくてはならないものを、目の前にしたまま立ち尽くしているのだから。 ぼくは純太に、謝らなくてはいけないと思っていた。 ずっと長い間、そばについていてくれたこと。そのせいで、多くのものを我慢させてしまったこと。ぼくが無意識のうちに、純太の好意に甘えるままに奪い去ってしまった多くのものごとについて、謝らなければならない。そう思っていた。 けれども、きっとそれだけでは、駄目だ。 これまでごめん、と、ぼくは確かに、彼にそう伝えた。でも、その言葉だけでは、結局何も変えることが出来なかった。何も変わらない、というのは少し違うかもしれない。ぼくがそう言ったせいで、純太は今まで以上にぼくに注意を払うようになった、ような気もする。芝山実波とぼくのことについて、あんなに冷たい声で口にするようになったのは、きっとぼくがそんな風に言ったことが原因だ。 ごめんなさい、という言葉では、純太を解放できない。 いったい純太は、何に縛られているのだろう。 どんな声で、彼をその鎖から、自由にすることが出来るのだろう。 ぼくは、それを見つけなくてはならない。見つけて、それを純太に差し出さなくてはならない。 謝るだけでは駄目だと、やっと、そう気付くことが出来た。 「……あ、帰ってきた」 おばさんがそう呟く声で、我に返る。 ぼくには聞こえなかったけれど、玄関の戸が開く音がしたのだろう。帰ってきた。それが誰のことか、なんて、聞かなくても考えなくても分かる。純太だ。 すぐに足音が聞こえて、やっぱり、と、聞き慣れた声がぼくに向けられる。 「傘、持って行かなかったんだろ。朝は晴れてたもんな」 純太はひどく上機嫌のように見えた。今日はいつも通り、部活があったんだろうか。その時に、七坂美由紀と何かあったのだろうか。それにしては、ぼくに話しかけてくれる声も笑顔も、あまりにいつも通りだった。普段通りすぎて、不自然さを感じてしまうほど明るい声だった。 「純太、あんたは大丈夫だったの」 「おれが学校出る頃には、もう止んでたから。真幸、おれの部屋行こう」 心配気に尋ねるおばさんには、ぶっきらぼうにそう返して、純太はぼくを呼んだ。その言葉にぼくが立ち上がったのを確認して、先に居間を出て行く。 「もう、ほんとに寂しいったらないわ、男の子なんて。純太ったら最近はずっとあんな感じなのよ。真幸ちゃんはこんなに可愛いのに」 つまらなさそうにぼやいてから、おばさんは苦笑する。真幸ちゃん、と、つい思わず、そう口にしてしまったのだろう。 いつ頃からだったか、おばさんはぼくのことを「ちゃん」ではなく「くん」と、そう呼んでくれるようになっていた。それはおばさんなりの気遣いなのだと思うけれど、ぼくにとっては、別にどちらでも構わなかった。この人がぼくのことを呼んでくれる声は優しくて柔らかくて、小さな頃から大好きだった。声だけじゃない。いつでも優しくぼくのことを庇ってくれて、もうひとりのお母さんのように甘えさせてもらってきた。純太に対してそう感じているのと同じように、ずっとそのことについても罪悪感のようなものを抱き続けてきた。 けれども、それはまるで、自分の傷跡を何度も確認するような、独りよがりの行為でしかない。自分は可哀想な、駄目な人間なんだと、だからごめんなさいと、何度も繰り返したって変わらない。 立ち上がったまま、純太の後に続かないぼくを、おばさんは不思議そうに見ていた。どうしたの、と首を傾げられる。 そんな仕草のひとつひとつまでも、ぼくのことを思ってくれている優しさに満ちている。ぼくはこの人が大好きで、こんな風に接してくれることに、とても感謝している。 だから、ぼくが実波に教えてもらった、ように。 「……、っ、あ」 彼に多くのことを伝えられたように、この人にも思いを直に口にしたいと思った。 ――ありがとう、ございます。 「真幸ちゃん」 けれども、うまく全部を音にすることが出来なかった。やっぱり、そう、すぐに何もかもが上手くはいかない。それでも、口にすることが出来た。ぼく自身の耳にも、そのかすれた囁きに近い言葉が届いた。 少しだけ離れた位置に立つおばさんにも、わずかでもいいからそれが聞こえればいいと思いながら、頭を下げる。 「真幸ちゃん……?」 おばさんの顔を見るのが恥ずかしかった。だから、そのまま、逃げるように純太の部屋に行くために、居間を出た。 届いたのか、それとも、なにも伝えられなかったのかは、ぼくには分からない。 けれども、ぼくの名前を繰り返し呟いたおばさんの声には、驚きと戸惑いが含まれていた、ように聞こえた。 純太はぼくを待っていた。 「お袋の奴、そんな適当な服貸すことないのにな」 遅れて部屋に入ったぼくを上から下まで見て、そんな風に笑う。そんな風に言わないでもいいのにな、と思いながら、気にしていないと首を振る。 「……しっかし、似合わないな」 あくまで純太は、機嫌が良さそうだった。純太の服を着たぼくを、面白そうに眺めているだけだ。 美由紀と、何かあったはずなのに。これまでのことで、なんとなく予測はついた。純太はあくまでも、ぼくを隔離するつもりでいるのだ。毒を持っていると吹聴した村人のように、ぼくに何も知らせないまま、全てを進めようとしているのだ。 「どうした、真幸。何か、嫌なことでもあったのか」 ぼくの表情を見て、純太がそう聞いてくる。けれども、それは心配している様子ではなく、むしろ何かを楽しんでいるような言い方だった。ぼくの言いたいことも、分かってしまっているのかもしれない。例えそうだとしても、おまえには何も出来ないだろう、と、まるで予め答えを封じているような尋ね方だった。 鞄も濡れてしまったから、それもさっきおばさんに預けて、乾かしてもらっている。その前に出しておいたメモ帳とペンをポケットから取り、それに文字を走らせる。 『みゆきちゃんのことをおこらないで』 「……真幸。おまえが優しいのはよく知ってる。だから、おれのことを気にしてるんだろ」 ぼくがメモ帳を見せると、純太はひとつため息をついて、そんな風に答えた。 ちがう。美由紀に伝えてもらいたかったのは、そんなことじゃない。 「おまえがあいつに気を遣う必要なんてどこにもないだろ。おれが言うことを信じられないのか?」 『あの子に言ってもらったことは、みんなほんとのことだよ』 少し苛立ったように言う純太に、ぼくも急いで文字を書いて、そう返す。いつものように囁けば早いのかもしれないけれど、それでは伝わらない強い気持ちを、せめてぼくの文字から知って欲しかった。力を込めて書いた、強い感情を表す、文字で。 『ぼくのことを信じてくれないのは純太のほうだ』 「美由紀に何を言われた?」 『あの子はなにもわるくない』 「あいつはどうしようもない奴なんだよ。おまえのことが気に入らなくて、邪魔だって言うんだから」 『みゆきちゃんはほんとうに純太のことが好きなんだよ』 震える声で、涙を目にいっぱいに溜めて、それでも純太が自分に嘘を付いていたことをゆっくりと受け入れた彼女のことを思い出す。美由紀はあんなに懸命に、純太のことを考えて、想っているのに。 その彼女のことを、どうしようもない、だなんて。嘘でも、ぼくに対する目眩ましだとしても、そんな風に言うのは可哀想すぎるじゃないか。 初めて、純太から美由紀のことを聞いた時。2人が付き合っているのだと聞いた時、ぼくは確かに寂しいと思ったし、純太を取られてしまったような気持ちにもなった。それからしばらく、長い間、美由紀のことを少しでも考えるだけで、胸が痛んだ。 けれども、今は違う。美由紀は、軽く馬鹿にするように否定していい子なんかじゃない。あの子は真剣に、純太のことを大切に想っているんだから。ぼくはそのことを知っている。彼女の想いを、痛みも苦しみも何も感じずに、純太に告げられる。 純太は何も言わない。視線が、少しだけ不安そうに揺らいでいた。 ぼくが書いた言葉についてなのか、それとも美由紀のことについてかは分からない。けれども純太には、何かは伝わったのだろう。そう信じたかった。 少しだけ、彼に近づく。長い足を折り曲げるようにして床に座るその隣に並び、これまで何度もそうしてきたように、唇を耳元に寄せた。 だめだよ、純太。 そっと、今度はそう囁きで伝える。 あの子に、やさしくしてあげなきゃ、だめだよ。 一度くすぐったそうに肩をすくめて、純太は軽く笑った。 ぼくがおかしなことを言っていると、そう言いたいのだろう。関係ない、と、そう突き放すような笑い方だった。 どうしてそんな風に笑うのだろう。確かに、純太と美由紀のことは、ふたりだけの問題なのかもしれないけれど。それに、ぼくが割り込むのは、間違ったことなのかもしれないけれど。そのことについては、ぼくは彼女にも、純太にも、謝らなくてはいけない。だけど、純太にも、悪いところがあるのだから。 美由紀の気持ちを、ほんとうに全部分かって受け止めてあげていないのは、純太が悪いのだから。 ねえ純太、あの子は、みゆきちゃんは、ほんとうに純太のことが心から大好きなんだよ。 ひとを好きになることは、きっといいことばかりじゃない。悪いことも付きまとってきて、そして、それは自分にだけじゃなくて、時として、周りの人にも何か影響を及ぼしてしまう。必ずしも、いいことばかりでは、ないだろう。 ……けれどもぼくは、そのことは、とても幸せなことなんだと、そう思う。 だって、ぼくにもその気持ちがあるから。それは自分でもまだよく分からない、きちんと掴まえられたわけでもない、ふわふわとした危ういものかもしれないけれど。けれどぼくは、自分の中にそんな風に温かくて心地の良いものを見つけることが出来たんだ。 だから、大丈夫だよ。ひとりでも平気だ。ひとりで立って、自分から、手を伸ばすことを覚えたから。 それを伝えなければと、今度こそ分かってもらいたいと思って、今日は、ここに来たんだ。 もう一度、純太に、少し近づく。 純太、ぼくはもう、大丈夫なんだ。だから、だからいままで、ありがとう。 「……真幸?」 声とは、言えないかもしれない。 けれどもぼくは、懸命にそれだけの言葉を、純太に向けて差し出すことが出来た。普段の囁き声よりも、少し大きいかな、という程度の、ぼくの言葉。その少しの違いに、純太なら、きっとすぐに気付くだろう。 「なに、言ってるんだよ、おまえ」 その全てを否定しようとするように、純太は笑って首を振った。 質の悪い冗談でも聞かされた、と、そんな風にでも言いたそうな笑みだった。 いつも、こうだ。ぼくがどう囁いても、それがほんとうのことだと、伝えることは無理だった。 だから、今日こそは、分かって欲しかった。 ぼくを見て笑う純太の顔を見上げて、一度、唾を飲む。 ここにはいない男のことを思い、自分の中に残る彼の感触を探る。実波。今ここにはいない、けれども、そんな遠く離れたきみにさえも、はっきりと聞こえることが出来るように。 「……っ、ぼ、くは……も、う」 息が詰まって、思うようにいかない。まるで自分だけが水の中にいて、必死にどこにもない酸素を求めて喘ぐような、そんな苦しさに似ている。声を出すのと、適切に呼吸することを平行させることが出来ない。胸が苦しくて、こめかみのあたりが鈍く疼いていた。 それでも、止めてはならないと思った。耳を澄ませて、じっとぼくの声の続くのを待っている、ぼくを見る、実波の眼差しを思う。 そうだよね、実波。いくら辛くても、苦しくても、ここで、止めては駄目だよね。 「……、だ、か、ら」 声を繋げるために、身体中に残る酸素をすべて掻き集める。純太がどんな顔をしているのか、把握することさえ出来ずに、それでも必死に、言葉を紡いだ。 「ぼくはもう、純太がいなくても、だいじょうぶ、だ、から」 それは確かに、ぼくの、声だった。 息が苦しかった。深呼吸して、もっとゆっくり息をしなければならないと意識ばかりが急いて、うまく息を吸うことも吐くことも出来なかった。息苦しさにむせながら、純太を見る。 確かに、声に出して、伝えられたはずなのに。 「……ずっと、気になってたんだよな。さっきから」 それなのに、純太の反応は、何もそれを反映させていないものだった。表情も声も穏やかで、妙に弾んですらいた。 ぼくを見て、とても優しく、微笑んでいた。 「――真幸」 微笑むままの純太の手が、ぼくを捕らえた。そのまま両肩を押さえられ、突き飛ばされるように床に倒される。背中と頭を打ったけれど、少しもそれを痛いとは思わなかった。そんなものを感じる余裕が、心のどこにも残っていなかった。他のことは何も感じられなかった。 目の前のこの人を怖いと思う以外、何を感じる余裕もなかった。 純太はぼくの両肩に乗せた手を床に滑らせ、倒れたぼくの目を直に覗き込むように身体を近づけてきた。 「な、真幸。さっきから気になってたんだ。教えてくれよ」 目を逸らそうとしたぼくを許さないとでも言いたげに、指先だけで、ぼくの顎を持ちあげる。もう、声を出そうとはしていないのに、それなのに息が出来ない。その部分が故障してしまったかのように、壊れた機械のように、空気を求めて短く喘ぐことしか出来なかった。首の後ろが痺れて、意識が朦朧とした。 触れる純太の指は、ひどく冷たい。そして、見下ろしてくる彼の目は、ぼくの肌から内部へ伝わり、何もかもを凍らせてしまうことも出来そうなほど、更に冷え切っていた。 それなのに、声だけが、異様なまでに穏やかで優しいままだった。顎に添えられた指が首を滑り、貸してもらった純太のものである洋服の襟元に割り込む。一瞬、頭が浮くほどに強くその布地が引っ張られ、ボタンがひとつ、弾けて飛んだ。 冷たい空気と指が、引っ掻くように強く、ぼくの鎖骨を撫でた。 「これは何だ?」 問われて、かすむ意識の中、背筋に戦慄がはしる。息が吸えなくて、痺れた頭でも、純太が何を言っているのか、すぐに分かった。そこにあるのは熱と、あたたかさに包まれた幸福の痕だ。 やさしく静かな声が、不思議そうに、無邪気さすら感じる柔らかさで撫でて、何かと尋ねてきたもの。 それはさっき、実波がぼくに残した、彼の触れた痕、だった。
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