= 2 = 教室にいると、ぼくは幽霊になる。存在を認められた幽霊だ。 現国の時間、テキストの朗読はぼくを飛ばして、後ろの席の生徒が指される。 数学の時間だけ、前に出て黒板に答えを書かされることがある。それなら、声がなくても、ぼくでも授業に参加出来る。けれどもそんなことは時々で、たいがいの授業で、ぼくはただ黙ったままだ。 ノートを取る手は他の生徒と同じように動かすことが出来る。だから黙って、ひたすら板書に専念する。 授業中ならそれでいい。休み時間になると、ただぼんやりするか、本でも読むかしないと時間は流れていかない。十分かそこらの時間は、ぼくにとって五十分の授業よりも、よほど長く感じられる。 六限が終わると、ぼくはすぐに帰り支度をする。 純太は部活があるから、帰りは別だ。練習が終わるのを待っていてもいいのだけれど、そうやってぼくの帰りが遅くなることに、母さんはあまりいい顔をしない。だからいつも、授業が全部終わると、ぼくは逃げるように教室を後にしていた。 その日も、いつものようにすぐに帰ってしまうつもりだった。 鞄に必要なものを詰めていると、左隣の近い位置から、誰かがぼくの名前を呼んだ。 「春日くん、お客さんだよ」 その声に驚いて、そう言ってきた女の子を見る。ぼくの隣の席に座っている子だった。 お客さん、と言って、彼女は教室の入り口を指し示した。てっきり純太かと思ったけれども、そうではなかった。 そこに立ち、ぼくをじっと見ていたのは、華奢な、栗色の長い髪の女の子だった。 七坂美由紀。 隣の席の子に頭を下げて、ぼくを見つめてくる美由紀に近づいた。 「あなた、ほんとに、喋れないの」 ぼくを呼んだらしい美由紀の前に立つと、いきなり、彼女はそう言ってきた。 少し低い位置から見上げてくる瞳は大きくて、髪と同じように、少しだけ茶色がかっていた。それはとても綺麗だったし、挑み掛かるようにぼくを見てくる彼女は確かに可愛かった。教室に残っているクラスメイトたちが、興味深そうに向けてくる視線を感じる。 高校に入学しても、ぼくには、純太以外に親しい友達は出来ていない。人との上手な付き合いかたが分からない上に、どうしても、喋れないことで相手に気を遣わせてしまうのが嫌だった。だから、クラスにも学校にも、純太以外に親しい人はいない。そんなぼくが誰かに呼び出されたのが珍しいことなのだ。そして、それだけではなく、ぼくを呼んだ美由紀は、立っているだけで人目をひく、華やかな雰囲気に包まれた女の子だった。そこに存在しているだけで、意識させられずにはいられないような、強い引力にも似た魅力のある子だ。その空気や存在感は、純太のものによく似ている。 この子は純太に相応しいと、そう思った。 「ねぇ、喋れないの。どうなの、聞こえてはいるんでしょ」 真っ直ぐにぼくに向けてくる視線も言葉にも、なんのためらいもない。けれども、美由紀が尋ねてきたことは、最近では滅多に、面と向かっては言われることが少なくなっていたことだったので、ぼくは一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかった。 ぼくが黙っていると、彼女はひとりで何やら納得した様子で、数回頷いた。そして、続ける。 「春日くんって、純太と幼馴染みなんでしょ。あたし、その純太と付き合ってるんだけど」 そのことなら知っている。美由紀と同じように、頷く動作でぼくはそれに答えた。美由紀は不愉快そうに眉を寄せる。何かに腹を立てている人の表情だ。 「純太から、春日くんのことはよく聞いてるの。昔とても怖い目にあって、そのショックで声が出せないってことも、何度も聞いてる。だから、その分を、純太にフォローして貰い続けてることも聞いてる」 まくしたてるように言って、美由紀はそこで一旦息を吸う。 「純太はとってもいい奴よね。優しいし、面倒見もいいし、困ってる人を見たら放っておけない奴よね。だから、あたしから言うんじゃ駄目なの。純太に分かってもらうには、あたしからじゃなくて、春日くんから言ってもらうしかないの」 早口に、一息でそう言い終えて、美由紀はキッと視線を一層強める。 「だからお願い、春日くん。いい加減、純太を解放してあげてほしいの」 その一言だけ言い終えると、美由紀はクルリときびすを返し、廊下を駆けていってしまった。残されたぼくに、野次馬していたらしいクラスメイトの交わす言葉が、小さく届く。 「なに、あの言い方。ひどい」 「でも、あの子、あれなんでしょ。川里くんの彼女なんでしょ? だったら、あたし、気持ちわかるかも」 「……だいたい春日って、ほんとは、声出せるんでしょ? だって、川里とは喋ってるじゃない」 耳を押さえたくなったけれども、そうしようと動き掛けた手を止める。 ぼくは今、どんな顔をしているだろう。心臓の鼓動の音が、とても大きく聞こえる。息が少し苦しい。 どうしよう。ぼくはどんな顔をしているのだろう。クラスの皆に、どんな情けない顔を晒してしまっているのだろう。考えると、とても前を向いてはいられなかった。うつむいて、床だけを見ながら、自分の席に戻る。鞄を掴んで、早足に逃げ出したい気持ちを押し殺して、ゆっくりと、出来るだけ自然な動きになるように意識しながら、教室を出る。 ぼくの背中に、多くの視線が付きまとうのを感じた。それを振り切るように廊下に出て、ひとつ、深呼吸にも似たため息を吐く。……どうしよう。頭の中には、その言葉しか浮かばない。どうしよう、どうしよう、どうしよう。 睨むようにぼくを見上げていた、美由紀の強い眼差しが、いまでもぼくを捉えているような、そんな気分になる。 (「純太を解放してあげてほしいの」) 向けられた、その言葉が耳に蘇る。ずきり、と、胸が痛んだ。それはこの間、純太から美由紀とのことを聞いたときと同じ箇所に発生した、同じ痛みのような気がした。それでも、その時には針で突かれたような小さな痛みしか覚えていないのに対し、今感じているのは、足下がふらつくほどの強い痛みだ。そうしたいと思っているわけではないのに、美由紀の言葉が、勝手に繰り返し繰り返し再生される。痛みは波形を作るように、解放という単語の部分で最も強くなった。痛い。苦しい。胸が詰まる。 (……っ) ふらつく足で身体を支えきれずに、ぼくはふらりとよろめいた。 倒れる、と、そう思った。けれども。 「よ」 ぼくの身体は、床ではない何かに受け止められる。ぽふん、と、しっかりとした質感をもった、何か。 それは聞き覚えのある声の持ち主の身体だった。 「川里のやつ、いつの間にあんな女引っかけたんだよ。キツそうだけど、結構可愛い子じゃん」 そう言って、バランスを崩しかけたぼくの肩を支えてくれる。最初にぼくを受け止めてくれたのは、どうやら、彼の背中のようだった。彼。……芝山実波。ぼくは純太以外の誰とも深く関わりを持たないから、クラスメイトの中に、好きだと思う人もいなければ、嫌いだと思う人もいない。 ただひとり、この、芝山実波を除いては。 ぼくはこの、何かある度に話しかけてくる、少し素行の悪さをうかがわせる彼が苦手だった。安田先生を怖いと感じるのとはまた別の意味で、声を聞くだけで怯えてしまう。 肩に触れているのは実波の手なのだと気が付き、ぼくは慌てて、それから逃れようと身体をずらした。服の布地の上からでも、他人に触れられるのは怖い。 実波は呆れたようにぼくの肩から手を離す。 「ま、可愛いで言ったらおまえも負けてねぇけどな。川里って意外と面食いなんだな」 言葉だけ聞けば、それは優しさだとか、そういったやわらかな感情を伝える台詞だった。けれども、違う。実波はぼくに、そんなことを言いたいわけではない。だって彼の、声は。 「……で、どうすんの、おまえ?」 実波の声は、いつもぼくを打ちのめす。いつだって一番、ぼくが触れないでいてほしいことをさらけ出し、目を背けるなと突きつけてくる。どんなに優しいふりをしていても、実波がぼくに向けてくるものは、徹底的に意地の悪い、事実だった。 「川里を解放してやってほしいってさ。どうすんの」 気が付けばいつの間にか、さっきの痛みは止んでいた。倒れ掛けていたところを受け止めてくれてありがとう、と、その気持ちを込めて、ぼくは小さく頭を下げた。そのまま、彼の前から逃げ出そうと、身体を少し退く。 実波は目ざとくそれに気付き、ぼくの腕を掴んだ。 「『昔とても怖い目にあって、そのショックで声が出ない』?」 馬鹿にしたような声。実波が口にしたのは、美由紀が言っていたことだ。ぼくが声を出せないこと、そしてそんなぼくを助けてくれている純太を、縛り付けてしまっていること。 「あれか、昔、イジメにでも遭ったとかか。それが今でもトラウマになってるとかかよ」 実波の声は、あまりに正直に嫌悪感を伝えていた。ぼくはいい。ぼくのことを軽蔑するのならば、全然構わない。けれども。 「……馬鹿じゃねぇの。馬鹿だよ。おまえも、川里も。なんでおまえみたいな奴、甘やかすんだっての」 けれども、純太のことをそんな風に言われるのは、許せなかった。 うつむいていた顔を上げて、実波を見る。ぼくより背が高い。多分、純太と同じくらいの背丈なのだろう。見上げる首の角度で、そう感じる。 「なに、その顔。怒った?」 廊下の窓から差し込む光で、実波の髪は茶色に透ける。明らかに手を加えられている髪が、いっそう淡い色に見えた。可笑しくてたまらないとでも言いたげな声に、ぼくは何も言わずに、ただじっと、実波を見上げる。 「言いたいことがあるなら、口で言えよ」 実波はぼくの視線を受け止めて、静かに口元だけで笑った。 「そんな、睨んだって分かんねぇよ。おまえ、ほんとは喋れるんだろ。川里に言うみたいに、おれにも、声に出して言ってみろよ。意気地なし」 それには答えず、ぼくは彼の前から逃げ出す。それ以上のことは聞きたくなかった。 実波が言うことは事実だと思うし、ぼく自身も、何度もそうしなければならないと自分に言い聞かせ続けてきたことばかりだ。正しいことなのだ。けれども、実波には。 目の前の彼だけには、言われたくなかった。 どうしてぼくがそこまで責められなければいけないのか分からなかった。いったい何の恨みがあるのかと、声が出せたのなら、そう怒鳴ってやっただろう。 ぼくが何をしたんだ。ぼくがおまえに、何をしたというんだ。どうしてそんなに、意地の悪いことを言われなくてはならないんだ。 ぼくに、あんなことまでしておいて。 「……バッカじゃねぇの」 背を向けて逃げるぼくに、背後でもう一度、実波がそう繰り返すのが聞こえた。
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