= 1 = ひとが笑う声は好きだ。とても、安心する。 「真幸、これ」 差し出された紙を受け取り、ありがとうという気持ちを込めて、頭を下げる。 「いいって、おれが勝手にやってることなんだから。それよりおまえ、あんな奴の言うことなんて、気にすんじゃねぇぞ。あいつら、おまえのことなんて、なんにも分かってねぇんだから」 幼馴染みの川里純太の声が、特に好きだった。力と明るさに満ちて、なによりとても心が落ち着く。怖いことなどなにもないのだと、その声を聞くだけで思える。 「……? あ、分かってるよ、おばさんには言わねぇから」 言葉にして伝えなくても、こちらの表情を読み取って、そう笑ってくれる。 純太はぼくに笑ってくれる。駄目な奴だと、罵ることもせずに。 そのままの自分でいてもいいのだと、今のぼくを肯定してくれる。 純太の笑う声が、とても好きだ。ぼくもあんな風に笑えたら、純太のように、誰かの悲しみを慰めてあげられるだろうと思う。それはとても、素晴らしいことだと思う。 ひとが笑う声が好きだ。耳にすると、ふっと心が軽くなる。 ぼくはもう、笑うときにどうすれば声が出るのかを、忘れてしまったけれど。 純太がわざわざ職員室まで受け取りに行ってくれたのは、進路希望についてのプリントだった。ぼくと純太はクラスが違う。それでも、受け取りそびれたことを打ち明けると、何も言わずに職員室まで行って、代わりに担任の先生のところまで取りに行ってくれた。 ぼくは担任の安田先生が苦手だった。それは先生の方でも同じことなのだろう。そう思うから、近づくのが嫌だった。問題のある、扱い辛い生徒だと、そう思われていることはよく分かっていた。 身体的には何の障害もないのに、喋ることの出来ない生徒。 ぼくは声を出せない。 そしてそのことは、喉にも声帯にも、そのための器官に問題があるからではない。すべて、精神的な原因からだった。 だからこそ、教師たちもぼくの扱いに困っている。 どう接するのが正解なのか分からずに、皆、甘えるなと厳しく叱咤したり、辛かったねと同情したり、様々な対応をしてきている。安田先生は、態度は後者のタイプだけれども、実際のところぼくに対しては、あまり良い思いを抱いてはいないはずだ。 それは彼が体育教師であることも関係しているかもしれない。健全なる魂は健全な肉体に宿る、と豪語しているのを聞くたびに、ぼくは身の縮む思いを味わっている。辛いようなら休むんだぞ、とそう声をかけてきながらも、甘ったれが、と瞳の奥で罵られているのを感じる。 だからこうして、プリントが一枚、ぼくの分だけ足りなかったりする。足りませんと、声に出すことが出来ないことを知っていて、安田先生はわざと、そうなるように配る。 それはことあるごとに、ぼくの担任である彼に向けられる、「あの子はかわいそうな子だから、優しくしてあげなくてはいけませんよ」という慈愛に満ちた人々からの言葉への、ささやかな反発なのかもしれない。そう思うからこそ、嫌われて辛いというよりも、厄介な自分を背負い込ませてしまって申し訳ないという気持ちのほうが強い。 職員室まで行かなくてはならない。元はといえば自分が悪くて、どうしようもないと分かっていることでも、それでもやはり、安田先生の前に立つのは怖かった。背はそれほど高くないけれども、がっしりとした身体つきは、とても力がありそうだ。太い腕は、見ているだけで少し震えてしまうような、剥き出しにされた暴力そのものに見えた。 ぼくは安田先生が、怖い。だから、一緒に帰ろうと迎えに来てくれた純太が、代わりに貰いに行ってやると言ってくれて、とても安心した。 ほんとうはこんなことではいけないと分かっている。悪いのはぼく自身なのだから、そしてそのこともちゃんと自覚しているのだから、安田先生に向き合うのはぼくでなければいけない。そのことも、分かっている。それでも純太がそう申し出てくれて、とても、安心した。 帰り道、隣を歩く純太の耳元に顔を寄せ、そっと、ありがとう、と囁く。 純太は少し、くすぐったそうに首をすくめながら、ぼくの頭を軽く叩いて、笑った。 ぼくはもう、十年以上も声をたてて笑っていない。他にも理由は色々あったのだろうけれど、最終的にぼくの声が出なくなったことをきっかけに、両親は離婚をした。兄弟もいないぼくは、今は母さんと二人で暮らしている。 純太と仲良くなったのは、ぼくの母さんと、純太のお母さんが高校時代からの友人だったからだ。離婚以後、特に川里家の人々には親子ともども助けられてきた。優しく面倒見の良い純太のお母さんは、仕事で家を空けがちなぼくの母さんの分まで、ぼくのことを気に掛けてくれる。 たまたま純太の部活が休みの日だったので、一緒に帰った日のことだった。お袋も顔を見たがってるから寄ってけよ、と誘われるままに、ぼくは純太の家にお邪魔した。 玄関で出迎えてくれたおばさんは、ぼくの顔を見るなり、あらまあ、と相好を崩した。にこにこと満面の笑みを浮かべて、久しぶりね、と言ってくれる。ぼくはその言葉にも、頭を下げて答えることしか出来ない。 おばさんはそれを気に留めた風もなく、純太に向けて言う。 「あんた、七坂さんから電話があったけど。携帯掛けても出ないからって、心配してたわよ。謝っときなさい」 七坂。聞き覚えのあるその名前にぼくが純太を見ると、何故か、彼は不機嫌そうな顔をしていた。七坂美由紀。確か、純太と同じクラスで、バスケ部のマネージャーをやっている女子生徒のはずだ。純太の帰りを待っている時に、話しかけられたことがある。目の大きな、自然な栗色の髪がとても綺麗な子だ。覚えている。 「……あら、真幸くん、聞いてないの? 純太、その七坂さんって子と付き合ってるのよ」 付き合う。 ぼくがその言葉に驚いて、知らなかったと数回頷くと、背後で舌打ちする音が聞こえる。 純太だ。……振り向くと、険しい顔をして、おばさんを睨んでいる。余計なことを言うな、という目をしていた。 ぼくに、聞かれたくなかったのかな。 いつからお付き合いをしているのかは知らないけれど、純太の口から、その七坂さんの話を聞いたことはない。否定しないのだから、おばさんが嘘を言っているわけでも、誤解しているわけでもないのだろう。ということは、純太は敢えて、ぼくに黙っていたのだろうか。なんだか少し寂しいけれど、純太のことだ。自慢するようで、嫌だったのかもしれない。ぼくはこんな風だから、女の子と仲良くなるのも難しい。だから、そんなぼくに、彼女が出来たと報告することを、残酷だと感じたのかもしれない。 「部屋行こうぜ、真幸」 ムスッとした表情のまま、純太はそう言い残して階段を上っていってしまう。 ぼくはおばさんに小さく頭を下げて、その後に続いた。 純太はぼくの幼馴染みだ。いつだって、声の出ないぼくを助けてくれ、庇ってくれ、そばにいてくれた。だからぼくは純太になら、少しだけ、話すことが出来る。純太を除くと、ぼくが喋ることの出来るひとは、母さんだけだ。それでも、喋るといっても、はっきりとではなく、囁くようなかすかな声しか出すことが出来ないのだけれども。 純太はベッドの上に鞄を放り投げ、制服のポケットから携帯を取り出した。ディスプレイを見て、先程と同じように、また舌打ちをひとつ。『七坂さんから電話があった』と、さっきおばさんが言っていた。それを確認しているのかな。 つい、純太の動作をじっと見てしまう。そんなぼくに気が付いて、純太は申し訳なさそうな声で謝ってきた。 「……黙ってたのは、悪いと思ってる」 それは七坂美由紀のことだろう。ほんとうに、二人は付き合っているのだな、と思うと、なんだか不思議な気分だった。でも、そういえば、放課後、一緒にいる二人をよく見ていたような気もする。バスケ部のレギュラーとマネージャーなのだから、部活の話をしているのだなと思って、それまでは気に留めたこともなかった。一体、いつから付き合っていたのかな。純太があの子のことを好きだったなんて、全然気が付かなかった。幼稚園からの幼馴染みなのに、そんなことに気が付けなかった自分に、少しあきれる。純太はいつだって、ぼくの、些細な表情の変化を見逃さずに捕らえて、気にかけてくれるのに。 「でも、別に、わざわざおまえにまで、言うことないかなって思って」 純太はそう続けた。ぼくは慌てて、怒ってなどいないと伝えるために、首を横に振る。 いつから、とか、彼女のどんなところが好きなの、とか、聞きたいことはいろいろとあったけれど、どれも口にすることは出来ない。そんなことは、純太がぼくに『わざわざ言うことではない』と決めたことと同じように、わざわざ尋ねるべきでもないことだろう。それに、なんだか、心に針でも刺されたように、鋭い小さな痛みがあった。ちくちくと、悲鳴をあげるほどではないけれど、どこか悲しい気分になってしまって、ぼくは何も聞けなかった。その代わりに、純太が手にしたままの、シルバーの携帯電話を指差す。 電話、しなくていいの。 声とはとても呼べない囁きでそう尋ねると、純太は苦笑した。 「あいつ、いっぺん電話すると長いから。……どうせ夜に掛けるから、いいよ」 その笑顔に、針が、また深く心を刺す。ああ、そうか。この痛みは。 「なんで女って、あんなに喋ることあるのかな」 迷惑そうな言葉だったけれど、浮かべる表情と声は、それを裏切って、どこか嬉しそうだった。七坂美由紀との付き合いは、純太にとっても楽しいものなのだろう。そう感じ取って、ぼくは自分の胸の痛みの正体を悟る。それは寂しさだ。 純太はいつだって、そばにいてくれた。ぼくが駄目になっても、それまでと変わらずに優しくしてくれた。困っていれば助けてくれて、痛いことからも怖いことからも、すべて守ってくれた。 ぼくは純太が大好きだった。いつだって、純太はぼくのそばにいてくれた。 けれども、そうだ。いつまでも、そうやって守ってもらうわけには、いかないんだ。 純太はぼくとは違い、明るくて、人をひきつける快活な魅力に満ちている。 いつだって人に囲まれていて、その全てに笑顔を向けている。 だから、こんなぼくにも、ずっと手を差し伸べ続けてくれていた。 そんな純太に彼女が出来るのは、ごくごく自然なことだ。 さみしいなんて思ってしまうのは、ワガママだな。 その日、それ以上七坂美由紀の話題が出ることはなかった。 けれどもぼくの心に刺さった針は、いつまで経っても、抜けてくれる様子はなかった。
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