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第一章 「蝶」 |
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5. 籠唄 誘拐をしてしまった。 冷静になって考えてみれば、自分のしたことは、誘拐以外のなにものでもない。 雨は降り止まない。先程までの、雷をともなうような、叩きつけるような激しいものではなくなり、幾分は穏やかになっていたが、それでもまだ上がる気配はなかった。 扉を開け放ち、狭い門のように空間の開けた塀をくぐる瞬間、捧は足を止めた。躊躇うような、拒否される前触れのようなその感覚に、コウは掴んでいた手をことさらに強く握りしめ、そのまま手を引いた。 「コウ」 抗われることは、なかった。 「……コウ」 どこへ行ったらいいのか、分からなかった。こういう時に頼れる人もいないし、現金の手持ちもない。それでも、この不気味な家以外の、どこかへこの人を連れて逃げなければならないと、そう思えてならなかった。一体なにから逃げなければならないのか、得体の知れぬ焦燥感だけが胸いっぱいに広がって、息が苦しいほどだった。 開け放った裏口の扉を閉めて、しばらくだけ進む方向に迷いながら、それでも捧の手を取ったまま、自分の家の方角へと足早に急ぐ。他に行く場所が思いつかなかった。幸いなことに、というべきか、祖母はしばらくの間、留守だ。同居人も、いない方が多い。事実上、コウしかいないような家だ。 「コウ、どこへ行くんだ」 少し遅れて、コウが手を引くままに着いてくる捧の声が、思考に割り込む。細かく続く雨音の中でも耳に響くその声に振り向き、安心させるようなつもりで笑った。 「おれの家」 「コウの家?」 「そう。……あの家に比べたら、狭いけど、でも、今は、他に誰もいないから」 「コウの、家」 コウの言った言葉をそう繰り返して、捧は目を細めた。糸のように細い雨が降りしきる中、その笑みがとても温かく感じられて、思わず繋いだ手に力を込める。 ……やっぱり、連れ出して、よかった。心の中で、そう呟く。 この人を、離したくない。 玄関には灯りはなかった。下宿人がまだ帰っていないらしいことに安堵し、鍵を開け、捧を中へ招き入れる。 からからと乾いた音を鳴らして戸を閉めて、また再び鍵を掛けると、雨音が遠ざかった。 ふたりとも、ずぶ濡れだった。真っ暗な玄関のタイルの上に、まるで降り続く雨の名残のように、服や髪から滴が落ちる。 「捧さん、上がって」 もの珍しそうに、暗い玄関を見回している捧に、そう声をかける。明かりがないので暗いままだが、すぐ傍にいる人の気配や様子は分かる。コウの制服と同じく、捧の紺色の着物も雨に濡れ、元の布地の色よりも更に濃い色になっていた。眼鏡にも水滴が付いてしまっている。 「風邪引いちゃう。着替え……えっと、確か、お祖母ちゃんの教室用のものがあったはずだから」 「教室?」 「うん。おれのお祖母ちゃん、着付けの先生なんだ。この家で教えてるし、男の人が来ていたこともあるから、たぶん、捧さんの着られるものもあると思う」 頷く捧の手を引き、居間へと案内する。花羽の家でコウが最初に通されたもののように、来客用に特別に作られた部屋ではなく、日頃から食事をしたり、その後なんとなくだらだらとテレビを見ていたりする、そんな大して広くもない部屋だ。板敷の台所と続いた間取りになっていて、居間の畳に寝転がっていると、台所仕事をする祖母の背中がよく見えた。幼い頃、何故だかそうしていると心が落ち着いた。ほとんど外で遊ぶこともせず、そうして居間でぼうっとしてばかりいる子どもだったと、コウのことを祖母はそんな風によく言う。 せいぜい食事を取る程度で、祖母が留守にしてからはほとんど居間を利用することはなかったので、散らかってはいない。蛍光灯の白い光に照らされる室内の様子を見回している捧に笑いかける。自分がいつも居る場所にこの人の姿があるのが嬉しくて、心が弾んだ。 「ちょっと待ってて」 ずっと繋いでいた手を離す瞬間、捧はかすかに不安そうな面持ちを見せた。それに、大丈夫だから、と言い聞かせるようなつもりでもう一度笑って、ぺたぺたと、濡れた足で床を歩く。 洗面所でタオルを取って、居間へ戻ると、捧は濡れた髪から水滴をしたたらせるままに立ちつくしていた。 相変わらず、眼鏡にも雨粒が付いたままだ。自分でそれを拭き取る様子もない。 ただ、じっと、コウの一挙一動を見守るように見つめている。濡れたまま立ちつくすその姿があまりに心もとなくて、思わず子どもに対するように接してしまった。 「捧さん、風邪引くよ」 タオルを被せて、そっと、髪を拭いてやる。捧が随分と背が高いので、自然とコウの方が背伸びするかたちになってしまう。自分と比べてみて、180くらいかな、と相手の身長を考えた。年は、いくつくらいなんだろう。とても落ち着いているのに、それなのに時々、まるで幼い子どものような振る舞いを見せる。その、均衡の取れていない危うさに、何故か胸が痛む。 されるがままに頭を拭かれながら、じっとコウを見ていた捧が、やおら口を開いた。 「コウも、濡れてる」 「おれはいいから。あ、そうだ、お風呂。お風呂沸かすよ。それで、体あっためよう。それと着替えだ、着替えも探してこないと」 「……コウも」 「わ」 「風邪をひくと、辛いだろう」 捧の髪を拭いていたタオルを取り、今度は捧がコウの髪を拭く。 その手つきは慎重で、そろそろと、まるで怪我人かなにかを扱うように、やんわりとタオル越しに触れてくる。まるで撫でるような緩い手つきに触れられる度に、それまで胸に重く残っていた後悔が、薄れて消えていく。 「……捧さん」 「うん」 「ごめん」 「どうして」 「おれ、捧さんを、無理矢理連れ出した」 してはいけないことをした。自分の居場所はここなのだと、そう静かに言い切る人を、勝手な気持ちのままに連れ出してしまった。それはきっと、いけないことだ。けれども。 「……どうしても、おれと、一緒にいて欲しかったから」 「うん」 「だから、ごめん」 「いいよ」 タオル越しに頭を撫でていた捧の手が、コウの頬へと滑る。雨に降られ、冷え切ったその手のひらに触れられているのに、不思議とそれはとても熱く感じられた。濡れたレンズ越しに見る捧の目は、深い色をしている。あの目には、自分がどんな風に映っているのだろうか。一番深い、奥のところまで、コウの姿が届いているだろうかと思う。あの雨の日、はじめてその姿を目にしたその瞬間、コウの心の底まで捧が入り込んできたのと同じように。 「おれも、コウと、一緒にいたい」 「……それは、どうして?」 「どうしてかな。自分でも分からない。何かに、こんな風に強く気持ちが動いたことはない。……それでも、ずっと、忘れられなかった」 「おれも」 「夢にも見た」 「……おれも」 どうにか、喉の奥から、絞り出すような声でそれだけ呟く。捧がまるで、それは良かった、とでも言いたげに微笑んだので、それ以上顔を見ていられなくて、うつむいてしまう。前髪から雨の滴が落ちて、畳にいくつか小さな染みを作った。 捧はそのまま、下を向いたコウの頭を、何も言わずに撫で続けてくれた。 風呂は、先に捧に使ってもらった。 「よかった、ぴったりだね」 祖母の教室の片づけは、コウもよく手伝っていた。だから、どんな着物が、どこに仕舞われているのか、だいたいのことは把握している。男物の着物は決して多くはなかったが、それでも捧に着せられるものは見つかった。 何種類か適当に見せると、彼はそれまでに着ていたものと似たような、暗い色合いのものを選んだ。 コウが急いで風呂から上がると、捧は畳に座り込んで、先程コウが天気予報を見るために付けていたテレビを見ていた。行儀良く正座しているのに、身を乗り出すようにして、張り付くように見入っている。天気予報はもう終わっていて、いまはニュースが放送されている。選挙が近づいているらしく、何人かの政治家を順に取り上げていて、コウにとってはそれほど食い入るように見るような、面白いものには思えなかった。 「捧さん」 「……、コウ」 もう一度名前を呼ぶと、ようやく、コウが戻ってきたことに気付いたらしく、齧り付いていたテレビから顔を離し、安堵したような笑みを見せる。洗い髪がまだ濡れていた。傍に寄って、家に帰った時のように、タオルで拭いてやる。 「名前を知っている人たちの顔を、たくさん見た」 心地よさそうに目を細めて、コウに髪を拭いてもらいながら、捧がそんな風に言葉を漏らす。何のことかと思いかけて、ニュースのことだろうかと気付く。 「ご飯、食べようか」 コウがそう言うと、捧は、うん、と頷いた。 夕食は、例の大量の豆腐の残りと、祖母が作り置いてくれたものを適当に食べた。捧に嫌いなものはないかと尋ねてみたところ、ないと答えられる。箸の使い方がとても綺麗で、思わず見惚れた。コウもまったく同じものを食べているのに、目の前でそんなに綺麗な食べ方をされると、まるで違うものが並んでいるように見える。それなのに、時折テレビの方に目をやっては、その綺麗な手つきのままで、しばらく動きを止める。また、見入っているらしい。ニュースはまだ続いていて、画面には今日の株価が映されていた。選挙のニュースの時も、どこかの水族館でイルカの赤ちゃんが生まれたニュースの時も、どんな画面でも、同じような表情で、じっと見ていた。どうやら、内容はともかく、テレビの画面そのものに興味を引かれるらしい。 「テレビ、普段は見ないんだ」 そう尋ねると、捧は画面からコウに視線を戻し、否定するでも肯定するでもなく、小さく首を傾げた。 「おれの場所には、ないものだから」 言われて、確かにあの部屋には置かれていなかったことを思い出す。テレビだけではなくて、他にも、何もなかった。 「捧さんは、いつも、何をして過ごしてる?」 そのなにもない部屋を自分の居るべき場所だと受け入れて、他を必要としないこの人が、どんな風に時を過ごしているのかが気になった。これまでも、ずっと、あの屋敷の中に暮らしていたのだろうか。あの大きな屋敷の方が本家なのだろうけれど、あんな、どう見ても部屋数が余っていそうな建物があるのに、わざわざ隠すような小さな離れにひとりで住むなんて。 捧はコウの問いかけには曖昧に微笑むだけで答えず、変わりに、同じことを聞き返してきた。 「コウは?」 「おれ?」 「そう。……コウは、いつも、何をしている?」 聞かれて、戸惑う。コウの普段していることと言ったら、学校に行って、帰ってきて、寝て起きたらまた学校に行く、それの繰り返しだ。学校の授業は面白いとは思わないし、仲良くしている友人もいない。たまに清川が、こちらの意志も聞かずに家に来いと誘ってくるぐらいで、毎日同じことばかりだ。 「学校に行っているんだろう。未月と、同じところだ」 「うん。でも、ついこの間まで、顔も知らなかった。すぐ隣のクラスに居たみたいだから、向こうは、もしかしたらおれのこと知ってるのかもしれないけど」 コウのその言葉を聞いて、捧は小さく息を付く。少し綻んだ口元が、まるで、何かに安堵したように見えた。 その後も、ひとつふたつ、言葉を交わしながら静かに食事をした。綺麗な箸使いをする手に惹かれて見ていると、何度か捧と目が合い、目を細めて微笑まれた。 その度に、呼吸を忘れて、喉の奥が詰まって、とても熱かった。 「……ご飯を、食べたら」 食事の前に、下宿人に電話をして、今夜は帰ってこられそうかと聞いてみた。無理だと言われ、そう、と素っ気なく答えながらも、心が少し弾んでしまったことを気付かれなかっただろうか。コウから下宿人に電話を掛けることは滅多にないので、何か変わったことがあったのかと、相手の声が不安そうな響きを帯びていた。鍵をどうしようかと思っただけだと伝えると、しっかり施錠して寝なさいと念を押された。言われなくても、もう、そうしている。誰かが、コウの盗み出したものを取り返しにくるかもしれないのだから。 「おれの部屋に、行こうか」 「コウの部屋?」 そう、と頷く。花羽の家から、他にどうすることも思いつけないままに、この人を連れ出してしまった。誰もいない場所に行きたかった。誰の目も、手も届かない場所に。それが自分の家の、自分の部屋だというのは、なんだかおかしな気もしたけれど、他にコウが行けるような所はない。 コウの部屋、ともう一度繰り返して、捧はあの子どものような、どこか危うさを漂わせる無邪気な笑みを浮かべる。 捧の真似をして、慣れない正座をした足の先が、じんと痺れて、少し痛い程だった。 コウの部屋は狭い。もともとは祖母の息子に当たる人が、幼い頃に子ども部屋として使っていたという小さな部屋だ。その人がこの家を出てからコウが使わせてもらうようになるまでは、物置のようにして使われていた。その名残か、今でも古びた箪笥がふたつ並んでいる。そのことを今までに何とも思ってこなかったが、捧の手を引いて、部屋にふたりきりになると、さすがに少し窮屈さを覚えた。朝、出た時のままに畳に敷きっぱなしだった布団に、行儀が悪いと思いながらも、座布団の代わりにそこに座ってもらう。他に、居てもらえるような場所がなかった。 他にあるのは、これも昔この部屋の主だった人が使っていた机と、あまり中身の入っていない背の低い本棚くらいだった。捧は目を細めて、部屋のあちこちを眺めている。 「ここが、コウの部屋」 「うん。散らかってて、ごめん」 床には脱ぎ散らかした寝間着も転がっている。隠すようなつもりで捧と向かい合いに座り、興味深そうに部屋を見回している捧を見上げた。部屋が狭いので、自然と、互いの膝が接触しそうなほどに近くなる。空気を入れ換えるために少しだけ開けた窓から、いまだ降り続いているらしい、雨の音が聞こえた。 その音に、ふと、はじめて捧を目にした日のことを思い出す。雨と、白い羽の蝶と、そして、 「……傷」 花羽未月が言っていた。 (「あの傷は、姉さんだろう」) 紙の蝶を打ち付けた、あの庭の持ち主。未月の姉とは、おそらく、コウが雷雨の中に見た髪の長いあの女に間違いないだろう。だとしたら、捧を傷つけたのも、同じ人物だということなのだろうか。釘を手に、コウを見て笑っていたあの女の目を思い出す。あれは、人間を見る目ではなかった。もっと別の、壊しても構わない何かを見つけた、衝動を持て余していた者の表情だ。思い出しただけでも、背筋が冷たくなるような。 思わず呟いたコウにも、捧は微笑みを浮かべたままだった。 「まだ、痛む?」 「血は出たけれど、縫うほど酷くはなかった。痛みは、よく分からない。いまは、大丈夫だ」 自分のことなのに、よく分からないという言葉を使うのがおかしかった。けれど、笑う気にはならなかった。自明のことであるはずのことが、ぼんやりと霞んでいて、うまく形を把握することが出来ない。そう感じることがどんなものなのか、コウには分かる気がしたからだ。 「刃物か何かで、切られた?」 縫うほどではなかった、ということは、刃がかすめた程度で済んだということだろうか。それにしても、あれだけ血が流れていたのだから、痛みも軽くはなかったはずだ。コウがそっと手のひらで傷のあたりをなぞると、捧はまるでそれがくすぐったかったように、かすかに笑った。 「刃を向けられるとは、思わなかった。花羽は、弓の一族だから」 「弓?」 「そう。花羽の狩りは、弓矢で射る。……刃で狩るのは、黒い羽だ」 独り言めいた呟きを漏らす捧を見上げる。深い色の目と、狩り、というその言葉に、わけもなく、何故か不安になった。傷跡から手を離し、捧の首筋に両腕を絡ませ、甘えるように肩口に顔を埋める。こうして身体を触れ合わせると、捧の細身の身体が決してコウのようにただ痩せているわけではないことがよく分かる。受け止められる胸も腕も、安心出来る確かな強さを持っている。このような体付きが、あの小さな離れに座り込んでいて作られたものではない気がして尋ねてみると、淡々とした調子で答えてくれた。 「おれも、未月と一緒に弓を教わったから」 「……花羽未月と?」 「ずっと静かに籠もっているばかりでは、不健康だから、と」 あの敷地の中には、そのための場所もあるのだと捧は教えてくれた。あれだけの土地ならば、何があってもおかしくはない。 花羽の家のことを話す時、捧の声と目は少し色を変える。わずかに鈍く曇って、その内にあるものを見せまいとして隠そうとする。それでも、コウの髪を撫でる手だけは、変わらずに柔らかく優しい。 「おれのことよりも、コウのことを話して」 他にも色々と聞こうとコウが口を開きかけたところで、先に捧にそう言われる。 「そんなの、なんにも、面白くないよ」 「どんなことでもいい。家族のことや、学校のこと、何でも」 「家族は、いない」 反射的に、そう口にして、それを取り繕うように、慌てて付け加える。 「ほんとうの親は、おれが生まれてすぐに、死んじゃった。だけど、お祖母ちゃんが引き取ってくれて、ずっと家族として育ててくれた。血のつながりは何もない、ただ、おれの両親が、この家に部屋を借りていて、お祖母ちゃんはここの大家さんだったから」 自分のことを、こんな風に誰かに話すのは初めてで、どう言い表せばいいのか、そもそも何を言えばいいのか分からなくて、思いつくままに口にする。捧は、静かに微笑んで耳を傾けてくれている。 「おれがまだ小さい頃、新しく、部屋を借りる人が来た。その人はいまでも、ここに住んでいる。捧さんより、もう少し年上になるのかな。おれのこと、弟みたいに思ってるみたいで、よく構ってくれる」 以前も、捧にそんなことを話したことがあるような気がした。自分の中に、煙のように漂うばかりのものを集めて言葉にするのは難しい。それでも、一度口を開くと、まるで解放を待ちかまえていたかのように、次から次へと溢れ出てくる。 「他のみんなが笑うところでおれは笑えなかったし、他のみんなが泣くところでも、おれは泣かなかった。楽しいとか、嬉しいとか、そういう、みんなが当たり前に持ってるものは、どこで手に入るのか、分からなかった。……だから、家以外では、いつもひとりでいた。おれはそんなどうしようもない奴なのに、それでも、お祖母ちゃんも、下宿してる人も、とても優しくしてくれる。でも、おれはそれが、」 捧は何も口を挟まず、時折頷くだけの相槌を打つ。自分の声が語る言葉が、わずかに遅れて頭に響く。自分がそんな風に感じていたなんて、こんなにはっきりと自覚したことはなかった。 「おれはそれが、すごく居心地が悪かった。小さい頃から、みんなが優しくしてくれるのが、すごく苦手で。こんなのは駄目だって、ずっとそんな気がしてた。どうしてだかは分からないけれど、ずっと駄目だと思ってた。だから、」 清川のことを捧に話すのは、さすがに少し躊躇われた。軽蔑されるかもしれないと思うと怖かったが、今はそれ以上に、知られたい気持ちの方が強かった。 「だから、おれのことを支配してやるって男に会って、すごく安心した。身体も心も、いつも、起き上がれないほど酷くしてくれる奴が現れて、やっと、正しく扱ってもらってる気がした。……すごく、安心した」 そこでようやく、言葉が止まる。呼吸する間も惜しんで喋り続けて、息が苦しかった。捧がどんな目をしているか気になって、顔を上げる。 「コウは、その男と一緒にいて、幸せになった?」 すると思いがけず、そんなことを聞かれる。幸せ、という言葉がよく分からなくて、しばらく考える。 「違う。少しも、幸せじゃない。痛くて、気持ち悪いだけだ」 嫌だった。けれども、それが必要だった。他のものは、自分には過ぎたものばかりだったから。だからそんな風に、負の方向にバランスを合わせないと、自分が壊れそうな気がしていた。これ以上、何がどう壊れるところがあるのか、自分でも分からないまま、ただ、そんな引き算にひとりで必死になっていた。 うつむいたまま顔を上げられずにいると、そうか、と、捧が呟く声が降ってきた。 「可哀想に」 これまでに耳にしていたものと何も変わらない、穏やかで、耳に心地よく響く声だった。 それを聞いて、肩の力が一気に抜ける。眼窩と鼻の奥が熱くなって、こみ上げるものを押しとどめるようなつもりで、捧の首筋に顔を押し当てた。髪もまだ乾ききっていないし、湯冷めしたのか、触れた箇所から、ひやりと肌が冷えた。温めたいと思い、両腕を強く背中に回す。この人がいればいいと、それだけを強く思った。 「コウ」 応えるようにコウの背を抱いて、捧がそっと囁く。舌でくすぐるように耳を撫でられ、耳朶を優しく噛まれる。しばらく、その愛撫に目を閉じて身を委ねる。口腔のほのかな熱に、思わず息が何度も漏れた。 「おれは、コウが欲しい」 耳元で囁かれた、その低くかすれた声に全身が震えた。捧の、眼鏡の硝子越しの瞳を見上げる。深い色をしたその目は、どこか哀しそうにも見えた。思わず、名前を呼ぶ。 「捧さん」 「はじめて、コウを見たときから、ずっと欲しかった」 「……欲しかった?」 「どうしても、欲しくなった。ずっとそのことを考えていたら、他のことを、なにも考えられなくなった。頭の中に、コウのことしか無くなって、……触って、撫でて、おれだけのものにしたくなった」 触れたい。そのすべてを、知り尽くしたい。他の誰の手に囚われることもないように、自分のものだけにしたい。 (「よく分かってないくせに。まともに感情もないくせに、そんな偉そうなこと言いやがって」) 捧が呟くその思いを、コウも知っている。 (「おまえに、そんなこと、出来るはずないだろう。何も欲しいと思わないくせに」) 投げつけられた清川の言葉を思い出す。何度も投げつけられ、何度も思い知らされた、コウの負の符号。 (「何も欲しいと思わないくせに」) ……もう、違う。 同じものが、コウの中にも、ある。 答える代わりに、コウの方から口づけた。捧が口にしたその言葉に、コウも同じ気持ちでいることを、声にして伝えるよりももっと鮮やかに、口うつしで教えたかった。 唇と唇を合わせ、少しずつ、重なる部分を広げていく。相手の舌先を自分の方に招き入れて、その一部を奪って返さないようなつもりで、甘く噛む。少しでも力を抜けば、そのまま崩れ落ちて溶けてしまいそうなほど強い感覚に、身体の先端がぴりぴりと震えた。 「だから、コウ」 コウの両頬に手を添え、どこか痛みを堪えるような表情のまま、静かに、捧は微笑んだ。 「おれの、恋人になって」 答える言葉は、必要なかった。
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