index > novel > かれてふるのはかれのはね > 糸/ 千年の庭(後)
第三章 「糸」 |
|
12. 千年の庭(後) その晩サクラは、眠りにつこうとするユキの元に訪れてきた。一時のことではあるが、曲がりなりにも主であるその人が、ひたひたと衣の裾を引きずって現れたのを見て、居住まいを正す。それに、呪術師はつまらなさそうな顔をした。 (「そんな顔をするな、休むのだろう、わたしのことは放っておけばよい」) (「そういうわけには参りません。どうなさったのですか、このような夜更けに」) (「……眠れない」) 秘密を打ち明けるように言ったその表情が、ひどく幼く見えた。 (「だから、ここに居る」) いくら主が求めたとしても、従者はそのようなことを許してはならないと、自分の身を弁えなければならないと思いはした。けれども、日のあるうちに見せた、枯れた木を眺めていた姿と重ねてしまうと、追い返すことも出来なかった。 (「……こちらへ」) この屋敷には、ふたりより他、なにものも居ない。それでも、誰にも聞かれぬように声をひそめて、その人を呼んだ。ひとりで休む時にそうしているように、寝所で衣に包まると、サクラも真似をするように、そこに潜り込んできた。 小さなその身体に譲るように、背を向ける。額を軽く押し当てられて、居場所を得て安堵したように、サクラが息をつくのが直に伝わった。 (「ユキ」) (「何でしょう」) そっと、囁くように名前を呼ばれる。背を向けたままで、それに応じた。すぐ傍に身を寄せる人が、細い指で探るように背中にしがみついてくる。まるで甘えているような仕草だった。 (「うたを、」) (「……歌?」) (「そうだ。わたしは知らぬ。おまえは知っているだろう、歌を、聞かせてくれ」) そんなことをせがまれるとは、思いもしなかった。 歌。かつて、幼い弟たちに、聞かせたことがあった。こんな風に、寝付けない夜に、安心させるように傍にいた。抱いてあやすように髪を撫でながら、何処で覚えたのかも忘れた古い子守歌を歌ったことが、あったような気もした。それはもう、雪に埋もれて、どこかに置いてきてしまった記憶ではあるが。 だから、聞かせてくれと頼まれても、首を振るしかなかった。 (「申し訳ありません。昔のことですので、忘れてしまいました」) (「知っているはずだ。このような、」) 呟いて、サクラはかろうじて聞こえるようなかすかな声で、ほんの少しだけ、歌ってみせた。その旋律を、確かに、知っていた。もう忘れてしまったはずだったのに。 (「ご存じなのではありませんか」) (「ここまでしか分からぬ」) 背中から聞こえる主の声は、完全に、むくれた子どものものだった。それに苦笑すると、サクラは覚えているらしい唯一の短い調べを、もう一度繰り返して口ずさんだ。それに続けるように、ユキも声を重ねる。幼い頃に耳で覚えた、古い言葉の、意味も分からない歌だ。もう自分の中になど残っていないと思っていたその歌は、それでも容易に蘇った。 (「ああ、そうだ……」) この歌だ、と、サクラは独り言のようにそう口にした。それきり、こちらの歌に耳を傾けているのか、あるいは眠ってしまったのか、もう何も言わなくなる。知っている限りの旋律を最後まで口ずさんでから、ユキも目を閉じた。背中にある小さな人の温もりが、弱々しくてどこか寂しかった。 (「……許せ、……」) 眠りに落ちる寸前、そう囁かれるのを、聞いた気がした。 目覚めると、もう傍らには、誰の姿もなかった。 (「……これは、」) それだけではない。目に見えるすべてが、これまでとは異なっていた。どれだけの時が経ったのか、もう忘れてしまうほどの日々を過ごしたはずの屋敷が、一晩眠って目を覚ます間に、まるで別物に変わり果てていた。磨き上げられて鏡のように光っていた床板が、いまは古びて朽ち果て、至るところに穴が開いている。折れて木端が覗いた柱や、積もった埃。屏風は破れて、元のかたちをほとんど失いかけている。異様なその風景に眉をひそめ、刀を抜く。無数に張られた蜘蛛の巣をいくつも破りながら、主の姿を探した。屋敷の造りは、ユキの知っているものとまるで同じだ。それでも、どこもかしこも荒れ果てている。いつもならば物を言わずに立ち働くあの女房装束たちも、いまはひとつも見えない。 (「サクラ様」) 焦燥に駆られながら探していた人の姿を、視界の先にとらえる。屋敷は完全に様変わりしているが、庭を見て、こちらに背を向けている主は、ユキの見てきたものと何も変わらなかった。そのことに安堵して、傍に寄ろうとする。 (「……、サクラ様?」) ゆらりと、まるで周囲の空気がそこだけ質量が異なっているように緩慢な動作で、サクラは振り向いた。ユキの方を見て、一度、重たげな瞬きを見せる。それは門倉の屋敷を出てより今まで、傍らで過ごした人に間違いはなかった。 それでも、どこか、違和感を覚えた。何かが、異なるような気がして、不安に捕らわれて足を止めた。 (「ユキか」) 嘲笑うように、その人は笑みを浮かべた。見よ、と、これまでに見たことのない、白い衣の袖を広げる。 (「時が来た。……もう、遊んでいられなくなった」) そう笑ったかと思うと、その姿は煙のように歪んでねじれて、消えてしまった。 息を呑んで、辺りを見渡す。どこにも、その姿は見つからない。あれだけ整え、綺麗にしたはずの庭も、まるで最初に訪れた時のように何もなくなっていた。 最初に訪れた時のように。そう考えた途端、頭に鋭い痛みが走った。 (「……最初?」) 門倉の養父から命じられて、遠い道を延々歩いた。木戸に貼られた無数の呪符を剥がして、立ちこめる不気味な空気に、いくら理由があるとはいえ、同じ一族の者をこんなところに閉じ込めておくとは、とそのことに呆れた。そうして、操られたものに灯を渡されて、この屋敷の、幼い主の元へ案内された。 記憶をたどるように、その時の順序をたどろうとする。すべて実際に起こったことであるのに、思い出そうとすると頭が痛んだ。鬼の子だと呼ばれる、呪術師を探す。確かにあの時、主はこの部屋から、ぼんやりと庭に目を遣っていた。その記憶を頼りに、破れた御簾を引き剥がす。 (「……来たか」) サクラはそこに居た。いちばん最初の時と同じように、まるで眠りから醒めたばかりのような、頼りない声。同じであるはずなのに、今はひどく幼く聞こえた。声の主の元に近づこうとして、目を疑う。 (「なんだ、その顔は。……それだけ、わたしが上手く遊べたということだな」) (「サクラ様、これは、一体」) 駆け寄って、その人の前に跪く。自分の見ているものが信じられなかった。こんなことが、どうして起こったのか分からなかった。 (「どうして、このような物に」) サクラは扇を揺らして、ユキのその狼狽ぶりが可笑しくてたまらないとでも言いたげに笑う。どうしてそのように笑うのか、ユキには分からなかった。 幼い主は、その小さな身体を四角く囲う、格子の中に閉じ込められていた。檻だ。 (「どうして、とは、おかしなことを言う」) 白い装束を着て、狭い檻の中に捕らわれるその人は、扇を閉じてユキに向けた。 (「思い出せ、間違っているのは、おまえだ」) その言葉に、頭痛が酷くなる。目を開いていられなくなって閉じると、そこに、映し出されるものがいくつもあった。門倉の家から遣わされてきたことを告げた時に、面白くなさそうな反応を見せたこと。戯れに盃を差し出し、怪訝な顔をするこの人を可愛いと思ったこと。扇を贈って、庭を飾る約束をしたこと。 欠けた小指にそっと唇を寄せて、この人が愛しいと思ったこと。 (「……そうだ。すべて」) 最初から、ずっとサクラはこの檻の中にいた。ユキはその前に跪いて、格子の間から伸ばされる細い指に触れていただけだ。 あの黄色い蝶は今も、サクラの傍を舞っていた。それでも、蜘蛛の巣は、庭の木ではなく、檻の格子に張られていたのだ。甘えるように身を寄せてきたことも、最後の晩の、歌も。 すべて、この人の見せる、幻の中で。 (「少しだけ、ともに夢を見て貰った」) まだ受け入れきれないユキに、サクラはそう呟いて、小さく笑った。 (「おまえには、悪いことをしたな。わたしの道楽に付き合わせた」) それも終わりだ、と、そう言って呪術師は正面から真っ直ぐにユキを見据えた。ふいにその瞳が赤く光ったように見えて、そこから目を反らせなくなる。力の入らない右手が、意志に反して、抜いたままの刀に触れる。終わり、という言葉の意味を直感で理解した。剣を手に取り掴もうとする己の手を止めたいと思うのに、赤い瞳がそれを許してはくれない。 (「さあ、果たせ。今こそが、おまえの定めの時」) (「何を、……」) (「意味を知りたいと言っただろう。それならば、これが答えということだ」) (「知りたくありません。こんな、」) 意志の力だけで、抵抗を続ける。この人を傷付けてしまうことなど、出来ない。今になってやっと、自分の受けた命令のことを思い知る。大切な儀式のための役目を果たす人を守る。……檻に入れてはいるが、万が一、その者自身が、自らに傷を負わせぬように。 (「奴らの好きにはさせぬ。おまえが今ここにあるのは、わたしが招いた故。……さあ、ユキ」) ユキを選んだのは、占いだと言っていた。しかしそれは、誰の占いだったのだろう。祟堂の一族にとって益となると出たのか。それとも、その占いすらも、この人が操って、導いたのか。 (「ひとを殺すのは、得意であろう」) 最後の言葉は、明らかに挑発だった。この幼い鬼の子は、何でも出来るし、何でも知っている。 だから、ユキがその名前のほんとうの意味に、何よりも触れられたくないことも、とうの昔にもう、知っているのだ。 (「兄弟殺しの、雪之下よ……!」) その名は、おそらく他のなにものよりも、強くユキを縛る呪詛となった。 その名を出した人の、小さな胸を刺し貫くことなど、手を下してしまえばひどく簡単だった。 (「……そう、だ」) 瞬間、絶望に襲われる。自分のしたことのはずであるのに、それは自らの意志に依るものではなかった。 意味、と、こんな時にその言葉を口にするこの人が、憎くさえあった。そんな意味ならば、欲しくはなかった。 (「よく、やった、……ユキ」) 刀は急所をわずかに外していた。それが、傷つけぬように守れと言われた養父の言いつけをこの後に及んでも守ったものなのか、それとも、サクラへの感情故のものなのかは、どちらとも分からなかった。 (「それでよい、これで、奴らの、」) 言葉を昇らせる度に、口端から赤い血が零れる。鬼の子などと、この人をそう呼んだ者は、一体なにを知っているのだろうと、そんなことを思って、格子の間から腕を伸ばそうとした。もう、自由に動く。それでも、ユキの手では、その隙間を通り抜けられない。小さく震えるその身体を胸に抱きたかった。強く抱いて、許しを乞い願いたかった。 (「お許しください。お許しください、サクラ様……!」) (「……恨むな、ユキ。すべて、最初から決められていたことだ。わたしの命は、奴らに呑まれるためのもの、」) ユキが傷付けた。この人を、短い刀で刺し貫いて、血を流して、苦しませている。きっとおそらく、もう助けられない。 (「恨めば、おまえは捉われる。……恨むな、……、庭、を、」) 狭い檻から逃れようとするように、サクラは指を伸ばし、庭の方を指差す。 蝶と花で満たそうと約束したあの庭は、まだなんの花も咲いていない。 その小さな身体は、最後に一度、わずかに身を震わせる。頭が揺らいで、倒れた。そうしてそのまま、もう二度と動かなかった。 温かかった手が冷たくなっても、そこから動けなかった。こんな檻に閉じ込められておけるなんて、ほんとうに十五とは思えぬほど、小さな身体だった。 あの黄色い蝶の羽が、ばらばらに千切れて足下に落ちているのを見つけて、それを拾い上げる。羽は乾ききっていて、触れたところから細かく崩れ落ちた。まるでもうずっと昔に死んでいたものが、風化したように。 この黄色い蝶はきっと、蜘蛛の巣から助け出したあと、すぐに死んだのだろうと、そう思った。それを、今さっきまで、この人の力で、生かされていたのだ。不可能なことはない、優れた呪術師であったのだから。 時が来れば迎えに来る、とサクラが言っていた通り、大勢の人間が、すぐに訪れた。 一度、門倉の屋敷に戻った時、息子のひとりに怪訝な顔をされたことを思い出す。早く行け、とそんなことを言われた。今ならば、それがどういうことなのか分かった。ユキばかりが、あの呪術師とともに、幻のうちで長い時を過ごしていたのだ。だから、外の世界にとっては、わずかな時しか経ていない。きっと、「儀式」までは、ほんの一日のことだったのだ。 中には門倉の養父の姿もあった。檻の中で事切れたサクラと、何も出来ずにその場から離れずにいたユキを見て、祟堂の者たちなのだろう、彼らは一様に、大切なその人の命がもう無いことに色めき立った。 その中でも養父は慌てふためき、この役立たず、と怒号を上げた。主から引き離され、そうして供に控えていた者たちに捕らわれた。どこかまた別の屋敷に連れて行かれ、そのまま鍵の掛る、牢に入れられた。 人殺しの雪之下、と、養父の傍にいつも侍っている息子の誰かが、そうやって嘲り声を上げるのも、遠くで聞こえた。 あの人を、殺めてしまった。だから、その罪で裁かれるのだろうか。それならば、甘んじて受け入れよう。この手は、人殺しの手なのだから。 ユキというのは、今の養父が与えてくれた名だ。ほんとうならば、雪之下が正しい。養父に拾われた時、雪に埋まっていて凍え死ぬ寸前だったからだ。その時に、ふたりいた弟はどちらも死んでしまった。元々の両親は旅芸人の一座の人間で、ユキたち兄弟も一緒になって町から町へ移動していた。それが、旅路の途中で野盗に襲われ、大人たちは皆殺されてしまった。どうにか幼い弟たちを連れて逃げ出したはいいが、季節は冬で、ひどく雪が降っていた。食べるものもほんのわずかしか持ちだせず、それでも自分のことは二の次で、弟たちに分け与えた。……それでも、ふたりとも、死んでしまったが。 サクラにせがまれて歌ったあの歌は、幼い弟たちに歌っていた子守唄だ。雪の中で、冷たくなっていく彼らを胸に抱いて、出来ることがそれしかなくて、歌っていた。 思い出して、呟くように牢の中でそれを歌う。低く流れて響く自分の声が、虚しかった。冷たい壁に背中を押し付けて、目を閉じて身動きせずにいると、まるで雪の中に居るようだった。 柔らかく吹く風に頬を撫でられた気がして、目を開く。 まるで、濡れた頬を慰められるような、あの小さな手のひらで包まれたような、そんな心地だった。 (「サクラ様」) どこから入りこんできたのか、桜の花びらが数枚、牢の中に舞いこんできた。また、季節外れの桜だ。 ふわりと一枚、小さな花びらが手のひらに乗る。 その瞬間、見たことのないはずの景色が、眼前に開けた。冷たい牢の床が、一面の、白い雪野原に変わる。頬を打つ風は冷たく、どんなに赤い血も凍らせた。幼い子どもにも慈悲なく吹き付け、熱を奪い、やがて生命の火を消してしまう。どうして、こんなものを見せるのか。これは、あの時の雪だ。だから、今よりも背の低い、身体の小さい、それでも別の名前を持っていた彼が、そこに居る。もう動かなくなった弟たちを両腕に抱いて、自分ももう動けなくて、倒れ込むように伏していた。その背にも雪は降り、まるで他から隠そうとでもするように、白く埋めていく。 (『……許せ』) かすかに、歌声が聞こえる。あれは、彼が歌っているのだ。もう力が出なくて、凍えていて、弟たちも死んでしまって。他になにも、もう出来なかったから。 (『許せ、ユキ』) その声に混じって、別の声が聞こえる。それは耳には聞こえなかった。それなのに、確かに、受け取った。まだ幼い、子どもらしさの消えぬ、あの人の声。 (『……おまえひとりしか、助けられなかった』) 声はそう囁く。その主の姿を探す。目を凝らして、影のように淡く漂う、主を見つける。 雪に埋もれて臥していた、小さな彼が、ふと顔を上げる。何かの気配を感じ取ったのか、それとも、呼ばれたのか。そうして、幻と、目を合わせる。 許せ、と、その人は確かにそう言った。覚えている。いまならば、すべて、思い出せた。そう言って、あの白い手を伸ばして、寒さに色をなくした唇に触れて、小さな欠片を含ませた。桜の花びらのような、薄い花色の、ほんとうに、小さな。 小指の爪。 (「……、っ」) 愕然として、我に返る。 そうだ。そもそも、生きていられたはずがない。弟たちが先に死んでから、何日も、ひとりだけ命があるなどと。最初から、おかしな、話だったのに。 この命は、与えられたものだった。最初の名と一緒に、父と母が与えてくれたように。あの人が、ああして、自分の一部を与えてくれた。 意味があり、その答えだと言っていた。それならば自分は、その望みに答えたのだろうか。……あの時、檻の中に居た人を、殺めた。それで、良かったのだろうか。 この身はすべて、あの人のために存在するものだ。命も、身体も。だから、もう、主を無くしてしまったから、どこにも行けない。居る意味など、もうない。 (「……、サクラ様」) 牢の鍵は、何故か開いていた。すべてのことを可能にする力を持つ人の前で、鍵など無意味なのだろう。 逃げ出すつもりではなかった。ただ、導かれているように、足が勝手に動いた。 見知らぬ屋敷の地下牢を出て、どことも知れぬ庭を彷徨う。木々は枯れていたが、庭はひとの手で整えられている。ふいに聞き覚えがある声がして、身を隠すこともせず、そちらに向かった。 (「……ほんとうならば生きたままが良かったが、仕方あるまい。あれは、奴の手駒か。夜叉子め」) (「申し訳御座いません。すべて、こちらの不徳の致すところです」) (「あれは夜叉子とは言え、仮にも本家筋だ。それを殺めた罪は軽くはない。死して、購わせよ」) (「どうせ、何かの役に立つかと思って拾った孤児です。祟堂様のご随意に」) そう言って笑い、追従する声は、確かによく知るものだった。間違うはずもない、門倉の養父のものだ。 ここは祟堂家の宗家だ。そうして養父と会話しているのが、その家の人間。 忘れた、とは、言っていたものの。……サクラはすべて、最初から分かっていたのだろう。 それならば何も知らぬのは、ユキひとりだったということだ。 歩き去る二人を追いかけようとして、丁度庭に出てきた若い男を捕まえる。祟堂の者らしい男は、酒を飲んでいるらしく強かに酔っていた。 (「今、ここで何をしている」) おぞましい、嫌な予感だけがあった。屋敷の方からは、華やかな騒ぎがここまで漏れ聞こえてくる。宴が、開かれているのだ。 (「夜叉子の死体を手に入れたんだよ。あんた、知らないのか。血やら肝やら、大事なところは本家の連中しか貰えないけどな、皮や髪の一本くらい、……っひ、…!」) 最後まで聞かずとも、それが何の騒ぎなのか、分かった。牢に入れられる時に刀は奪われていたので、男の首筋を掴み、地面に放り投げた。 (「鬼どもが」) 吐き捨てて、逃げて行く男の駆け込む先に目を遣る。祟堂の一族。 自らの一族の繁栄の為に、鬼の子を利用した。すべて、このような目的のためだけに、最初から。 強すぎる力を持って生まれた子どもを、夜叉の子だと呼び、あの僻地の荒屋に幽閉した。何重もの結界の奥に、更に、檻に繋いで。そうして時が満ちるまで、その力を限界まで、あの小さな身体の中で育てて、大きくして。 だから、大切に守らなければならなかったのだ。血の一滴も、肉のひと欠片も損なうことなく。それはすべて、一族のものたちへの捧げものである供物だったのだから。 雪の下で冷たくなって先に死んだ弟たちの身体は、餓えた野犬たちの餌になった。四肢を噛みちぎられ、子守唄を聞かせた耳も、鉤裂いたように奪われた。守らなければならなかったのに、何も出来なかった。 養父がユキを見つけた時には、弟たちはもう、肉の残骸になっていた。だから、彼らはそこで拾った子どものことを雪之下と呼んだ。雪の下で埋まっていた子ども。餓えた腹を満たすために、自分の兄弟を殺して、その肉を食べて生き延びたのだと、誰からかは知らないが、そう言われるようになっていた。 サクラも、同じ目に遭った。ユキが殺して、あの連中に、その身体を渡してしまった。 (「鬼の一族どもめ……!」) ひとの血を、肉体を、自分たちに取り込んで力にするために貪る輩など、人間では無い。 奴らは等しく、皆、鬼だ。 鈴の音がした。 『恨んではならぬと言うたのにな』 目を開くと、すぐ近くで、サクラがコウを覗き込んでいた。無意識のうちに掴んでいたのだろう、檻の格子を握りしめた手が固く強ばっていて、気が付いても、そこから指が剥がせない。 『ひとにはそれぞれの定めがある。……そなたがそうであるようにな、片羽の童。わたしは、わたしの定めに従ったまで』 千年前の、狩りの始まりを見てきた。 『より強い力を欲した祟堂の者たちが、禁じられた術で鬼の力を取り込もうとした。夜叉を乞い、それを赤子に宿して、育てる。そのための器として生み出されたのがわたしだ。……サクラとは、神座。花だと、あれは言うたが』 神を降ろすための座と書くのだ、と、サクラはコウに、そう教えてくれる。コウの名は、幸せという字を書く。父がそうあることを願って名付けてくれた。名前は存在を定めて縛るのだと、ヒカリにそんなことを教わったことを思い出す。 ユキは誰かに似ていると思っていた。捧に似ていて、そしてまた、キョウにも似ているのだ。それはつまり、彼らの始まりが、ユキだからなのだろう。「蝶」となった、門倉の一族。 ユキは単身、門を守るものの刀を奪い取り、そのまま祟堂の家の中へ駆け込み、宴の最中の人々を斬り捨てようとした。けれども、ひとりふたりを傷つけたところで、相手が多過ぎて、すぐにまた捕えられてしまった。 それを振り払い、逃げて、その途中で弓を射掛けられて、背中を撃たれた。導かれるように庭の奥へと逃げて、その奥に、小さな祠を見つけた。作られたばかりなのだろう、真新しい、ユキの頭ほどの大きさしかないような小さなものだった。 それが誰のためのものなのか、ユキにはすぐに分かった。自分たちの力として取り込むために、血も肉も、皮膚や髪の毛一本まですべて残らずに貪った、サクラの魂を鎮めるための祠だ。 骨の一片さえも残さずに取り込まれ尽くしたその子どもの代わりに、そこに祀られているのは華やかな絵が描かれた扇ひとつだった。 その小さな祠を抱えて、ユキは叫ぶように声を上げた。 (「おかわいそうに。お可哀想に、サクラ様。命も何もかも、すべてを奪われてもまだ、こんなに狭いところに、」) (「浅ましくも許しを乞うたことを、どうかお忘れください。我が君、あなた様は決して、奴らを許してはならない」) (「奴らを許してはなりません。あなた様を生あるうちは疎んじ恐れ、挙句の果てには死しても尚、辱めた。許してはなりません、決して。そして、このわたしも」) (「わたしのこの命が、あなた様から授けられたものであるならば、今、それをお返しします。ですから、どうか、サクラ様」) (「どうか、あなた様のそのお力で、未来永劫、」) 深手を負い、それでも彼は最後の命を振り絞り、強靭な力を持つ彼の主へと、それを乞うた。 (「わたしと、あの鬼どもの一族を、呪ってください……!」) 『祟堂の血が今でもわたしの随意に置けるのは、かつて彼奴らがわたしの一部をその身に含んだからこそ』 サクラが広げる扇は、あの華やかな絵が描かれたものだ。それを優雅に揺らして、招くような仕草を見せる。それに呼ばれたように、コウの肩に大人しく止まっていたあの蝶が、ふわりと舞った。 『千年の呪を乞う程度ならば、爪のひとつで十分に足りる。……あれは、そのつもりで授けたものでは無かったのだがな』 呪術師は輪郭の淡いその羽を愛でるように、手のひらに止まらせる。 『美しいだろう、ほんとうに』 ずっと続いてきた、「蝶狩り」。罪を購うための一族と、罰を受けるための一族。 最初の「蝶」として魂を捧げたのは、ユキだ。絡み合う糸の根元の、一番深い、底にいるもの。 鈴の音がして、また、視界が溶けた。今度は、黒く、闇一色に塗りつぶされた。 「……おはよう、大丈夫かな」 目を開けていることにも、最初は気付かなかった。ヒカリに覗きこまれて、頬を軽く叩かれる。あ、と口を動かすと、舌が強張っていて、うまく動かなかった。 「見た感じは、なにも問題なさそうだけれど。動けるかな」 ぎこちなく感じる腕を、少しずつ時間を掛けて起こす。その伸ばした手のひらの先に、絡む金色の糸が、まだ見えていた。繋がる、ただひとつの絆。 「……おれ、行かなきゃ」 それが正しいのかどうかは分からない。けれども、サクラが見せてくれた。千年の、一番最初。絡む根元の、底にあるもの。 ヒカリに助けられて、背中を起こす。外から差し込む光は、夕陽の色に赤く染まっていた。日没まで、もう時間がない。 だから今は、あの人のところへ、向わなければならない。
|
|
糸 / 千年の庭(後) < かれてふるのはかれのはね < novel < index