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第三章 「糸」 |
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11. 千年の庭(前) ……荒れ果てた野をひたすらに進んで、ようやくそれらしきものが見えたのは夜半のことだった。出立したのが朝まだきであったのに、数刻も必要あるまいと軽く言った養父の部下たちのことを、内心で罵る。 人里離れた山裾に建つその屋敷は、さながら荒屋といった風体だった。取り囲む塀もところどころ穴が開き、中を覗きみることが出来るし、門などほとんど崩れかけていると言っても過言ではない。何の守りにもならなさそうな朽ちた木戸に、異様なまでに大量に貼られた呪符だけが、ただならぬ雰囲気を醸し出している。 ここは、鬼の住処だ。 養父である人は、内裏に仕える役人という、地位ある立場の者だった。家柄もお上の覚えもめでたく、いずれは大臣に採りたてられるだろうと皆に囁かれている。それほどの人物であるのに、決して驕らず、彼のような下々のものにもいつも目を掛け、慈悲の心を忘れることのない人でもあった。身よりの無い、決して良い風には言われぬ彼を引き取り、自分の養子として育て、教育を授けてくれた。特に、武具の扱いには実の息子の誰よりも長けていると褒めてくれて、それ故に、養子として招かれた一族の者からは、その腕を買われて、内密にしか行えぬ仕事を任されることが多かった。冠を戴くことは決して許されぬ身の上であるから、他の息子たちのように、表舞台で養父を助けることは出来ない。だからこそ、この身を影にやつして、光の届かぬ場所で立ち働くことが出来るのではあるが。 彼が今、こんな僻地に出向いているのも、養父から頼まれたためだ。いつもならば、仕事を命じる時に、直接あんな風には言ってこない。常に傍らに控え侍る実の息子たちや、取り巻きの犬のような男共が、彼のところに話を持ってくる。直に養父から任された、特別な役目を与えられて、ここに出向いた。 しかしそれは、これまでに与えられたことがないような、奇妙な命令だった。 大切な儀式を迎えるために、その日が来るまでとある人を守ること。 ……用心棒ならば、これまでも何度も任されたことがある。奇妙だと感じたのは、その後に付けられた条件だった。決して血の一滴も零させることなく、傷ひとつ付けずに、定められた日までお守りすること。 守るのならば、その相手に傷を付けないよう言われるのは当然のことだろう。しかしその、念の押しようが不自然だった。 聞けば、依頼してきたのは養父と浅からぬ交流のある、高名な呪術師の一族であるという。そうしてその、守るべき相手だというのも、その一族の者らしかった。彼らは、近頃台頭してきた新しい勢力に追われるようにして都から去ったが、それまでは、殿上人から絶大な支持を得て栄華を誇っていたのだとか。関係のない話なので、余り深くは聞かなかった。 それだけの力を持つのだという者たちが、どうしてわざわざ、外部の者を頼るのだろう。それも、寄りにも寄って自分のような人間に。養父にそれを尋ねてみたが、呆れるような答えが返ってきただけだった。 彼らの占いによって、選ばれたから、なのだという。 お守りするべき呪術師が住むという屋敷は、おかしな場所に立っていた。 祟堂一族といえば、彼にも聞き覚えのあるほどの家で、その血に連なる者が暮らしているとは思えぬほど寂れた、古く汚れた建物だ。しかし、養父に予め聞いて、それが敢えてのことであることは知っていた。ここに住まう者は、一族の爪弾きものなのだという。呪術師としての力は強いが、それを正しく使えぬ痴れ者なのだと、養父はそう言っていた。それ故に、一族の人間からこの僻地に幽閉されている身らしい。 鬼、と、そう呼ばれているらしいことも。 強すぎる力を持って生まれたこの家の主は、それ故に一族の者から畏れられ疎まれ、ずっと隔離されてきた。 しかしそれも、もうすぐ終わるらしい。それが、彼が依頼されてきた「儀式」の日だ。なんでも、この荒屋に住まう者には、その儀式において大切な役目があるらしい。そうしてそれを無事に果たすことが出来たのならば、それより先は一族の中に再び迎えられるとのことだった。 守る、とは言われたが、果たして、何から守るというのだろう。そもそも、この屋敷に出入りするものなど居そうにない。門に貼られている大量の呪符は、入る時に剥がさざるを得ないが、こんな物無くても誰も入り込もうとはしないだろう。物盗りが忍び入るにしてはみすぼらしいし、住処を持たない者がねぐらにするには、場所が辺鄙だ。脅かすものも誰も来ないだろうが、施しを貰えるようなものも誰も来ない。 血も肉も損なうことなく、来るべき日をその人の傍で過ごす。こんな、荒屋で。 ひどく簡単な、単純な話であると、そう思っていた。 (「……誰もいないのか」) 呪符を剥がすようにして木戸を開ける。この封印は、祟堂の一族によって為されたものなのだろう。中に足を踏み入れて、外観と同じように荒れ果てた庭を進む。草木は枯れ果て、夜の闇の中でみても何の色もない侘しい庭だと分かった。養父の家の庭は、季節によって美しく色とりどりの花を咲かせている。 ぼう、と、目の前に淡い明かりが浮かぶ。見れば、女房装束の女が、手に行灯を持っているようだった。 (「夜分遅くに、済まない。わたしは、門倉の家から寄越されてきた、」) 自分の来訪の目的を告げようとして、しかし途中でその言葉は止まる。 女だと思ったものは、ただの装束だった。袖口から出た手が持つように、行灯の光は宙に浮いてはいる。けれどもその装束からは、ひとの首も、頭も、手も出ていなかった。 (「……これも、呪か」) 彼を案内するように先に立つ女房装束の首辺りに、見れば小さく紙切れが貼り付けられている。それになにか文字が書かれているのが見えた。あれで、操っているのだろう。 大人しくその後に付いて歩きながら、ふと、これほどの力を持っているのならば、特別な力など何も持たない者に頼らずとも、自らの身を守ることなど簡単なのではないか、と思った。 明かりを持つ装束が、動きを止める。ここから先はひとりで進めとでも言うように、わずかに袖が持ちあがり、行灯を掲げたのでそれを受取った。庭の広さに対して、小さな屋敷だった。上がり込み、明かりの灯る縁廊下を歩むと、すぐにその家の主らしきものが待つ部屋に辿りついた。庭に面した部屋で、明るければ眺めはさぞかし良かろう。そんなことを思いかけて、しかしあの庭の荒れようでは、目を楽しませるものなど無いだろうと考えなおした。 (「……失礼いたします。御案内をいただき、有難うございました。少々、驚きましたが」) こちらに背を向けている主に、礼を言って父から預かった書状を差し出そうとする。 (「門倉より参りました。あなた様の傍にお仕えする命を預かっております」) (「……門倉?」) まるで眠りから覚めたばかりのような、頼りない声で、そう尋ね返される。その声の幼さに驚きつつも、顔には表わさずに、はいと頷く。 (「あんな狸が、わたしに何を寄こすというのだ。狸の遣いなら、豆狸か」) (「は……」) 大義そうに、横たわっていたその姿勢から身を起こす。屋敷の主はこちらを見て、ふむ、と何事か考える様子であった。 (「豆狸というほど可愛いものにも思えぬな。何者だ、おまえ」) (「門倉は、わたしの養い親に御座います。……養父をご存じなのでしょうか」) (「知らん。……が、知っている。狸に似ているだろう」) (「はあ」) 確かに、丸く肉の付いた顔や身体付きは、狸に似ていないこともない。それよりも、目の前の家主らしき人物が、話を聞いて想像していたのとはまるで違うことに戸惑っていた。まだ十を過ぎた程度の子どもだとは、誰も言わなかった。 (「わたしのことは、ユキとお呼びください。養父も、家の者も、皆そう呼びます。お名前をお聞きしても宜しいでしょうか」) (「何故に?」) (「あなた様をお呼びする為です。それとも、祟堂様とお呼びした方がよろしいでしょうか」) 子どもなのに、可愛げのない態度を取るその少年に、そんな風に聞く。するとこちらの言おうとしたことを理解出来ないようにしばらく考えられてから、やがて、呟くように答えた。 (「サクラ」) そう答えた時だけは、妙に素直な、幼い声と表情だった。 いずれ訪れる「儀式」のために大切な役割を持っているのだという呪術師は、まだ年端もいかぬ子どもであった。 サクラは語れば大人のような物言いをし、その年に不釣り合いなほどの知識を持っていた。それなのに、ユキの遣ること為すことを、後に着いて歩いてそれは何をしているのだと始終尋ねてきた。それに答えると、納得したのかそうでないのかも分からない顔をして、またふらりと離れて行く。 この屋敷に来てから、数日経った頃のことだった。ユキが荒れ果てた庭をどうにかしようと、暇に厭かせて枯葉を集めていると、珍しくふらりとサクラも庭に降りてきた。本家からおくられるのか、サクラはいつも着るものだけは上等なものを着ている。それが汚れることも気に介さず、ユキが掃除をする姿を遠くから何も言わずに眺めていた。放っておいて、ひとりでそれを続ける。 やがてそちらの方を振り向くと、サクラはまた別の方を見ていた。枯れた木を見上げるようにして、僅かに背伸びをして、何かを見ている。何事にも心を動かさない印象のある子どもが、何に興味を引かれたのかと好奇心を覚え、それに近づく。 サクラは木に張られた蜘蛛の巣に掛った蝶を見ていた。黄色い羽の小さな蝶で、どうにかしてそこから逃げだそうと忙しなく羽を揺らしている。サクラはその様を、じっと見ていた。 手を伸ばして、その蜘蛛の巣から蝶を剥がしてやる。驚いた顔をして、サクラはユキを振り返った。その手のひらに、黄色い蝶を乗せてやる。糸が絡まって、うまく飛べないのか、蝶はそこで羽を揺らすだけで飛び立とうとはしなかった。 (「……この庭は、どうして手入れしないのですか」) 目を丸くして、手のひらに乗る蝶を見ているサクラに、以前から気になっていたことを尋ねてみる。 (「何故?」) (「何故と言われても。庭は、美しく整えるものです。この木など、皆、桜の木ではないですか。春になれば、さぞ美しく咲くでしょうに」) (「……ユキは、桜の花が好きなのか」) (「そうですね。嫌いな者は少ないと思いますが、……あなた様のお名前と、同じ花ではないですか」) 思いついてそう言ったものの、サクラは何も言わず、黄色い蝶を手のひらに乗せて、じっと見ているだけだった。 翌日、目を覚ますと、突然目の前に何かが降ってきた。慌てて飛び起き、傍らに置いていた刀に手を伸ばす。 と、それに驚いたように駆けて逃げていくサクラの衣の端が目に入った。何をしていたのだと呆れるような思いで、顔に降ってきたものを指で摘み上げて見てみた。白地に、淡い紅色が差した、小さな花びらだ。それが、何枚も辺りに落ちている。 (「桜?」) この季節に、こんなものをどこで手に入れたのだろうか、と不思議に思いながら、その白い花を拾う。 もしかしたら、ユキが、桜の花を好きだと言ったからか。まさかとは思うが、黄色い蝶を助けた、その礼のつもりだろうか。 (「……調子が狂う」) 何かをしたことで、こんな、益体もない礼を与えられることは、これまでになかった。 サクラが鬼の子だと一族の者に倦厭される所以は、時々目にした。手遊びをするように紙に小さな印を付けるだけで、それはまるで生きているもののように自在に動き回り、サクラが命じた通りの動作をした。最初にこの屋敷に訪れた時の案内役をさせたように、身の回りの世話はすべて、あの中身のない女房装束たちにさせていた。いくら幽閉されているとは言え、供の者のひとりも付けずに子どもをこんな僻地に追いやることが不思議だったが、サクラにとっては物心ついた時からのことであったらしい。そのことに、特になにも思うところはないようだった。物言わず、命じた通りに働く装束たちには、ユキの世話役を言い使っているものたちもいるらしい。言葉を語ることのないものたちだから、確認を取ったわけではないが、毎日食事の支度をして床を整え、この屋敷の主の客人としてもてなしてくれている、ようだった。最初の頃はその異様な姿に不気味さを覚えたものの、見慣れてくると、何も思わなくなった。養父の屋敷にも下働きのものが多くいる。それと、どこが違うのだろうかと、そんなことさえ思うようになった。都の貴族たちは、身分の低いものたちを人間として扱わない。ユキも、養父の後ろ盾こそあるものの、門倉の屋敷の中にいてさえ、姿を見ると眉をひそめられ、不要なものだと扱われることが度々だった。 サクラはそうではない。おそらく、これまでの時間をずっとこの僻地で過ごしてきたためだろう。ユキのことも、そもそも他人という存在が珍しいらしくはあるが、卑しい出自のものであると疎ましく思うことはないようだった。ユキが食事を取る時も、その一挙一動をじっと見ているように、何をするでもなく傍にいて離れなかった。サクラは滅多にものを食べない。必要がないのだと、そんな風に言われた。 予想していた通り、この幼い呪術師の住まう屋敷には、その存在を脅かすものなど欠片も現れなかった。日々、眠りから目覚めたら庭や荒れた屋敷を手入れしては、鬼だと呼ばれる子どもと時を過ごす。これまでに得たこともないような、穏やかで何もない時間だった。 どこから調達するのかは知らないが、装束のみの女房たちは、まるで貴い人にするように、酒までユキに注ごうとする。そこまでされるのは身に余るように思え、断ったが。何をするでもない毎日を続けることが、次第に自分の中に意味を持ち始めていることを考えながら盃を傾けていると、その様を眺めているサクラの目に気付いた。 (「……召されますか」) そう尋ねてみる。驚いたようにわずかに目を丸くして、それでも主は小さく頷いて、ユキが差し出した杯を両手で受け取った。映り込む自分の姿を見つめるようにじっとその中を見つめて、やがて、まるで猫の仔のように舌先だけで舐めてみる。思っていたような味ではなかったのか、怪訝そうな顔をして、ユキに盃を戻した。 その顔が可笑しくて、つい、笑ってしまう。 (「なにがおかしい」) (「お許しください。……可愛らしいお顔をなさるので」) 自分がそのような言葉を誰かに向けることがあるとは、終ぞ、思うこともなかった。 雨の降らない日が続き、作物が育たず皆が困るだろうと何気なく口にすると、サクラは何やら虚空を爪弾くような動作を見せたかと思うと、たちどころに雨を降らせた。 あなた様に出来ぬことはないのですかと尋ねると、おそらく無いだろうと返された。子どもじみた言葉ではあったが、笑って否定出来るものではないことは、それまでに目にしたもので嫌というほど分かっていた。 ただし、この屋敷には、門に貼られていた呪符だけでなく、至るところに外側から様々な結界が張り巡らされているらしい。だから、その中にいる限りは、自由に力を振るえないのだと、主はそう教えてくれた。 それでも、ユキの養父のことを知っている、と語ったことがあるように、外の世界のことでも、知りたいと望むことならば、手に取るように知ることは可能らしかった。 (「それではあなた様に、分からぬことなどないのですか」) ふと思いついて、そう尋ねてみたことがある。 サクラはユキの問いには答えず、以前にユキが助けた黄色い蝶が再び庭に飛んでいるのを見つけて、屋敷の中からそれを目で追っていた。あれはあの時の蝶なのかもしれないし、あるいは、また別のものなのかもしれない。 ユキには分からないが、きっとサクラにならば分かる。 (「……すべてのことをご存知なのならば、どうか教えてくださいませんか」) だから、これまでに誰にも口にしたことがないような言葉も、知らぬうちに流れるようになっていた。 (「わたしは、何故、まだ命があるのでしょう」) (「……ユキ」) (「なんの意味があって、おめおめと、ひとり生きているのでしょうか。お教えくださいませんか、サクラ様」) (「すべての物事を知って、人間が壊れずにいられると思うか」) それはひどく莫大で、小さなひとの頭では受け止めきれぬほどなのだと言って、サクラはまた、ぼんやりと庭を見た。 (「だからわたしは、それを消した。すべてのことが可能だということは、忘れることも出来るということだ」) この身体は小さい、と言って、そんな自分を嘲笑うような目をする。日頃からそうではあるが、いつもよりずっと子どもらしくない物言いだった。 (「わたしはこの世に生まれ落ちる前にすべてを見て、そうしてすべてを忘れた。……だから、何も知らない」) 許せ、と、珍しく、そんなことを言う。常ならぬ、感情を滲ませる、哀しげにすら聞こえる声だった。 いいえ、とそれに首を振る。主に対して、失礼な問いを投げかけてしまったのはこちらの方だ。その小さな手を取って、自らの非礼を詫びようとした。 (「……これは、どうされました?」) そうしてその時に、初めて気付く。サクラの左手の小指に、傷跡が残っていた。傷自体はとうに癒えているようではあったが、指先の皮膚に引き攣れたような痕がある。小さな手はまるで凍えているように冷たくて、それ故に一層、その傷跡が痛ましく感じられた。 サクラの左小指には、爪が無かった。 (「生まれた時からのことだ。案ずるな」) そう言ってサクラは笑った。それでも、何故だかそこから目を反らせなかった。すべてを知ったけれど、そのままでは壊れてしまうから、それを忘れた。出来ぬことなどないけれど、一族のものにはその力ゆえ疎まれて、このような僻地にただひとり閉じこめられている。生まれた時から、ずっと。 この幼な子は、すべてを持ちながら、何も持っていない。まるでそれが、欠けている小さな爪に象徴されているように思えてならなかった。 (「ユキ」) そんなことを考えるな、と、まるでこちらの心の内を見透かすように、サクラは小さく名を呼んでくる。それには応えず、痛ましい傷の残るその指先に、恭しく一度口付けた。 ユキのその仕草に、サクラは声を立てて笑った。 サクラは幼く見えるが、もうじき十五になるのだという。……死んだ、いちばん末の兄弟が生きていれば、ちょうどそのぐらいの年だったろうか。 相も変わらず、日々は何事も起こらないまま続いていく。その「儀式」というのがいつ行われるのかは、教えられていなかった。サクラに尋ねてみたところ、知らぬ、と笑われるばかりだった。 (「その時が来れば、あの家のものたちが迎えに来る。奴らは、それを心待ちにしておるからな」) 語るその声は、淡々としていた。大切な役目があって、その任を果たせば、この鬼の子は一族の元へと帰ることが出来るはずだ。祟堂の家の者たちにとっては重要であるらしい「儀式」は、サクラにとってはそうでもないのだろうか。少なくとも、それを心待ちにしている様子はなかった。 そうしてまた、ユキ自身も、そうだった。穏やかに流れる時間に忘れそうになるが、こうしてこの主の傍に居るのも、すべて、それが養父より受けた命令だからだ。サクラが祟堂の屋敷へと戻れるのならば、もう、このような役は必要ないだろう。そうなればもう、この人は、ひとりきりではないのだから。 (「……何をなさっておいでなのです?」) その主が、床いっぱいに広げた白い布に向き合う姿を見つけて、不思議に思い声を掛ける。何かを書こうとしていたらしく、珍しく、手に筆を取っていた。 (「残しておくものがある。後に、入り用になるやもしれぬ故に」) そう答えながら、墨で布一面に、少しずつ線を引いていく。手伝えることも無さそうであったので、布の外に控えて、その様を見守っていた。 何を描こうとしているのかは、その経過からはまったく見えなかった。が、完成したらしく主が満足気に息をついたのを見ても、やはり、理解出来なかった。 (「……これは?」) (「見て分からぬか。詮方ない、小さく納めようと思うとこうなるのだ」) (「申し訳ありません。まったく分かりません」) 正直にそう伝える。そこに描かれていたのは大きな円と、そうして無数に伸びた線だけだった。それが複雑に絡んでいるのは分かるが、それ以上のことは何も分からなかった。 (「詞で築こうとすると、大変な手間になる。これはその代わりだ。いずれ、役立つこともあろう」) (「役立つ……何に使われるおつもりです?」) ユキがそう尋ねても、サクラは答えなかった。 その絵を描いて以来、サクラは臥せることが多くなった。元々、何をするでもなくユキの後をついて歩く程度のことでしか動こうとはしていなかったが、それすらもしなくなった。身を起こすのも億劫そうに、床に付いたままぼんやりと庭を眺めるようになった。 「儀式」の日を迎えるまで、血の一滴も損なわずにお守りするように、という命を思い出す。瞬きひとつをするのも重たげに息を吐くその様は、何らかの病を思わせもした。しかし何か対処するべく動こうとしたところで、当の本人に首を振られてしまうだけだった。 (「……何もせずともよい。おまえが恐れるようには、ならない」) そうは言われたものの、不安になった。だから、訪れてからこれまで一度も出ていなかったこの屋敷を出て、門倉の家まで戻った。 養父は留守にしていたが、その息子がひとり居て、偶然、顔を合わせてしまった。ユキの顔を見て、嫌そうな顔をされるのはいつものことだから、頭を下げてその姿を見送った。命じられた仕事があるのだから早く立ち去れ、とそう言い残された。 そんなこと、言われなくとも分かっている。養父がいないのであれば、頼れる相手は他には居ない。結局、市でいくつか薬草を買って、また遠い道を歩き、あの小さな屋敷へ戻った。 その晩、薬湯を飲ませようとすると、主は明らかに、嫌そうな顔をした。必要ないと言い張ったが、こちらが頑として譲らなかったので、渋々とそれに口を付けた。好んで飲みたいものではないことは分かるが、それでも口に合わなかったらしく、一口以上は飲もうとしなかった。 (「もう要らぬ」) (「駄目です。あなた様はお食事をまったくなさらないのですから、せめて、これだけはお飲みください」) (「嫌だ」) (「子どものようなことを仰らないでください。……そうだ、全部飲み終えたら、御褒美を差し上げます」) 子ども扱いしているのはおまえではないか、とサクラはまだ不平を言ったが、それでもユキの言ったことが気にはなるらしく、息を詰めて、残る薬を一気に飲み干した。 (「飲んだぞ」) 恨めしそうな顔で、主は空になった器を見せる。苦笑しながら、それを受け取った。 (「無礼を言って、申し訳ありませんでした。……ほんとうは、あなた様への土産のつもりだったのですが」) (「それは何だ?」) それは、胸に抱えていた。門倉の家から戻る時に、ふと目について買い求めたものだ。懐からそれを差し出して渡すと、幼い呪術師は不思議そうな顔をして、色々な角度から眺めていた。 (「扇です。美しい絵が描かれていましたので。……ほら、こうして広げるのですよ」) 言って、それを開いてやる。中に描かれた絵を見て、サクラは、ほう、と声を上げた。 絵柄は、桜の花が咲く春の庭を描いたものだ。白い花びらが散る中を、いくつかの蝶が舞っている。それを広げて、今はまだ何もない庭に重ねるようにして、サクラに見せる。 (「この庭を、いつかこんな風に、沢山の花と蝶で満たしましょう。そうすれば、あなた様も寂しくない」) (「……寂しい?」) その言葉の意味が、サクラには分からないようだった。 この幼い鬼の子は、何も知らない。 (「約束します、サクラ様」) サクラはそれから、いつでもその扇を持ち歩くようになった。薬を飲ませても、体調は余り良くなる様子もなく、やはりそれ以後も臥せっていることが多くなった。 それでも、床の中でも、いつでもそれを広げて、そこに描かれた庭の絵を眺めていた。 この屋敷に訪れて、どれほどの日が経っただろうか。サクラの他は、物言わぬ女房たちしか居ない静かな場所で時を過ごしているせいか、いつの間にか、それを数えることも忘れていた。外部から訪れるものも何もないから、外の物事を告げてくるものもいない。ただ、庭だけはいつまでも寒々しく荒れていて、そこだけが、今はまだ春が訪れない季節であることを教えてくれる。 (「……そんなところに居ては、お身体を冷やします」) その、まだ色のない庭に立つ衣の色を見つけて、中に戻るように声を掛ける。 サクラは庭の木の根本に立ち、枯れた枝を見上げていた。 (「何を見ておいでだったのですか」) 呼びかけに答えない主に、庭に降りて隣に並ぶ。尋ねると、サクラは木を見上げたまま、小さく呟くように答えた。 (「花が咲くところを」) (「……花?」) その言葉に、思わず、目を凝らす。それでも、どこを探しても、蕾のひとつも見付けられなかった。ひとの目には見えぬ花を、この人は見ているのだろうか。 (「……時が経てば、花開く。そう、先のことではない。もう」) そう言って枯れた木を見上げる主の目に見えているものは、ユキには見えない。同じことの繰り返しのような時間を過ごしていた中で、サクラがそのように未来の話をするのは、はじめて耳にした気がした。 ……それはまるで、長く続いたはずのその穏やかな日々の、終わりを告げるようでもあった。
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