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旅のみちづれ


 手を引かれて、砂浜を波打ち際まで歩く。靴の足裏に、砂を踏む感覚が柔らかかった。
 一歩踏むたびに、さらりと流れていく、細かい粒の砂だ。裸足で歩いても、気持ちがいいだろうなと思った。
 波が寄せて返す音を聞きながら、しばらく何も話さず、暗い夜の海を見ていた。
「……懐かしいな。子どもの頃、眠れない日があると、よくこうしていた」
「え、……そうだったんですか」
 海を見ながら、ぽつりとそう呟いた神生さんを見る。彼は笑って、そうだよ、と頷いた。
「おれは、この辺りの出身なんだ。もう、人はたぶん、ほとんど住んでいないだろうけど。おれの昔住んでいた家も、今はないし」
「そうなんですか」
 気の利いた言葉を返せないで、そんなことしか言えなかった。けれども神生さんはそんな小さなことにこだわる人ではない。うん、と笑顔を見せて、それから、たくさん話をしてくれた。
 砂浜に並んで座って海を見ながら、波の音と、柔らかい彼の声だけを聞いていた。
 いろいろな話を聞いた。神生さんの子どもの頃のこと、ここで、どんな風に遊んだのかということ。近くにあった学校といえば、小学校と中学校が併設されているほんとうに小さなものだけで、だから必然的に、高校に進学するときに町の方へ出たこと。その時に、もう漁をやめることになった家族と一緒にここを出たこと。
 この静かな場所が嫌いだったわけではないけれど、町の生活にはすぐに馴染んだこと。友人もたくさん出来て、恋人だって何人かいた。勉強はそれほど努力しなくても、要領がよかったのでいい成績を取れた。ひとと話すのは得意で好きだったし、大学まで出て、すんなりと希望の仕事に就くことが出来た。
 そうして、今の日々がある、ということ。
 ……まるで、別の世界の話を聞いているようだった。誠はといえば、小さな頃から大人しく、人と接するのが苦手だった。当然のように子どもの頃はいじめられたし、身体ばかりが大きくなった今でも、バイト先のロッカーに、くだらないけれどどうしても笑い飛ばすことの出来ない言葉が落書きされたりする。
 この人にはきっと、そんな経験はないのだろうなと自然とそう思えた。人からそんな扱いをされることなく、そして同時に、決して、人をそんな風に扱ったりしない人だろう。それは嬉しいことだ。誠はこの人が好きで、そして、好きな人が平穏に、誰も恨むことなく恨まれることなく日々を送っているのなら、それ以上の幸せはないだろう。それなのに、心のどこかで、そのことを悲しく思った。
 彼のような人と、自分のような人間には、差があり過ぎる。
 誠がそんな風に考えてしまっていることが、顔に出てしまっていたのだろうか。並んで座ってからは離していた手を、また神生さんの冷たい手に握られた。
「皆木くん。皆木くん、おれはね」
 それまでと変わらない、優しい声。そのはずなのに、それは少し、寂しそうにも聞こえた。波の音のせいだろうか。言葉を挟んだりはしないで、ただ彼の声を聞く。
「これまで生きてきて、自分は幸せ不幸せで分類すると、ずいぶんと幸せな部類に入るのだろうなんて、そんなことを考えてきた。やろうと思うことは大体、運が良かったんだろうね、大概上手くいった。あんまり、困ったり悩んだりすることがなかった。欲しいと思うようなものはすぐに手に入ったし、嫌だなと思うことには、ほとんど遭遇してこなかったから」
 聞く人が聞けば、それはかなり腹が立つ言葉だったかもしれない。でも誠には、少しもそんな風には感じられなかった。神生さんが話しているようなことは、神生さんにとって当たり前のことなのだ。だから、自慢しているような素振りはまったく見えなかった。それどころか、どこか、そんな風に生きてきた自分を遠くから見ているような、知らない何かのことを語る人のような、冷ややかなものすら感じさせた。
「……皆木くんは覚えてるかな。店の新年会だったと思うけど、珍しくお酒を飲んだことがあったよね」
 それに頷き返す。今年の新年会のことだろう。誠はお酒が飲めない。飲めないというよりは、美味しいと思えないのであまり飲みたくない。けれどもその時は、そんな誠のノリが悪いと叱られてしまって、他の人たちにもそうだそうだと言われてしまって、頑張って、飲んだ。慣れていないので、すぐに悪い方向に酔っぱらってしまった誠を介抱してくれたのも、神生さんだった。
「あの時、きみのこと、面白いなって思ったよ。いつもそんなことを考えていたのかって、いろいろ感心させられた」
「……おれ、何話したんですか」
 神生さんに感心されるようなことを話した記憶がない。きっと酔っぱらってしまって、その部分の記憶がきれいに飛んでしまっているのだろう。あまりに恥ずかしいことだから、脳が覚えていることを拒否したのかもしれない。どちらにしても大変だ。
 ひとりで慌てる誠を見て、神生さんは、内緒、と笑った。
「もっと普段から、こんな風に、自分の思ってることや考えることを言ってくれればいいのにな、と思った。すごくユニークで、他の人にはない視点とか、自分の世界を持ってる。きみは自分のこと、もしかしたら、つまらない人間だってそう感じているのかもしれないけど、でも」
 神生さんは一度そこで言葉を切った。でも、のあとに続く言葉を聞きたかった。彼が、誠について、何を言おうとしているのかを早く知りたかった。けれども、神生さんはまるで、何かを待っているようにじっと誠を見ているだけだった。
「……ああ、そろそろ、時間かな」
「時間?」
「そう。ほらね」
 そう言って神生さんが誠のポケットを指さすのと、そこに入れっぱなしにしていた携帯電話が震えるのとはまったく同時だった。普段から、いつでも携帯をマナーモードにしているから、震えただけでは、メールか電話か、それが誰からのものかも分からない。神生さんとの話を途中にするのは嫌だったけれど、彼が、ほら、と促すから、仕方なく手に取った。長く震えているから、電話らしい。
 出る前に、誰からなのか、画面の表示を見る。……アルバイト先の、店長の名前が出ていた。こんどこそ、何か、やらかしたのだろうか。こんな時間にわざわざかけてくるくらいなのだから、よほどの急用なんだろう。それも、おそらく、よくない方での。気が重かった。しかし、無視するわけにもいかない。
 誠を見て微笑んでいる神生さんに、一度小さくすみませんと謝ってから、通話ボタンを押した。
「……はい、皆木です。……はい。……え?」
 出た途端、叱られるのだと思っていた。これまでに何度もそうだったように、店長は機嫌の悪い時は、誠にことさらに厳しく接する。普段は何も言わないような些細なことにも、日によって他のバイト仲間の前で呼び出され、延々注意を受けることもあった。それは誠の付き合いの悪さや、なかなか上手に世間話が出来ない、そんな性格が影響してのことだと、分かってはいるが。今も、また何かで怒られるものだと思い込んでいた。
「どういう、こと、ですか」
 だから、相手の声がひどく静かで、暗かったのに、まず戸惑った。けれども、ぽつりぽつりと話される店長の言葉に、すぐに、そんなことは忘れた。だって相手が、それほど、おかしなことを言い出したからだ。
「だって、その人、いま」
 今、一緒に、ここにいるのに。誠がそう言いかけた言葉を遮り、店長は事務的に、明日の仕事の後にみんなで行くから、だからそれなりの用意をして来い、と言って、それで電話を切ってしまった。
 なんの、冗談だろう。
「……ごめんね、黙っていて」
 店長の声は大きくはなかった。だから、少し離れている神生さんには、その会話の内容なんて聞き取れなかっただろう。それでも彼は、まるで、すべて聞こえていたように、そんな風に謝ってきた。どこか、悪戯が見つかった子どものような、ばつが悪そうな顔をしていた。
「ほんとうのことを話そうかと思った。でもそれじゃ、皆木くんを怖がらせるだけかと思って」
「やめてくださいよ。神生さんまで、変なこと、言わないでください。店長とグルになって、おれをからかって。そんなの嫌だ。そんなの嫌だ、神生さんが、」
 暗く沈んでいた店長の声に、誠も引きずられそうだった。だからそれに抗おうとして否定する声が、みっともなく上ずって裏返った。
「……事故に遭って運ばれた病院で、さっき息を引き取った、なんて」
 だから、明日は喪服を用意して来い、だなんて。これは、なんの冗談だろう。その人はいま、こうやって、誠のすぐ傍にいるのに。突然、なんの思いつきかは知らないけれど、誠の家を訪れてくれて、それでこうしてふたりで海までやってきたのに。彼が幼い頃過ごしたのだという、この海に。
「運が悪かったんだよ。おれは一応、ちゃんと青信号で道を渡ったんだけど。相手がよそ見をしてたらしくて」
 何が起こっているのだろうか。店長の言うことが信じられなくて、だけど神生さんが言いだしたことは信じなければならないような気がして、それが嫌だった。誠の手を取る手の冷たさ。こんなに柔らかく、優しく笑う人なのに。
「あまりに突然のことだから、その時のことはよく覚えてはいないんだ。だから、痛いとか、苦しいとかはそんなに無かったよ。だから大丈夫」
「なにが、大丈夫、なんですか……!」
「うん。ほんとだね。もう大丈夫じゃなくて、でも、そのおかげで今おれはここにこうしていられるって言うのかな。身体はほら、病院にあるけど」
 幽霊みたいなものなのかなぁ、と、自分でもよく分かっていないような口ぶりで、神生さんは笑う。どうして笑うのか、分からなかった。だってもしそれが、信じたくないそのことがほんとうなのだとしたら、神生さんはもう、いないのだ。明日、黒い服を着て、お別れを言いに行かなくてはいけない。そうしたら、もう、二度と会えない。
 こんなに悲しいことは、他にはないだろう。
「……ごめんね。おれも、どうしてこうなったのかは、よく分からないんだけど。でも、気付いたら、事故に遭ったすぐ近くの場所で、ぼんやり立ってたんだ。それで、じゃあ、皆木くんに会いにいこうと思って」
「どうして?」
 口を開いたら、わけの分からないことを叫んでしまいそうだった。歯を食いしばって、うつむく。泣きそうな顔を、神生さんに見られたくなかった。
「車が凄いスピードでこっちに向って走ってきた、そのすぐ後くらいかな。多分、派手にぶつかって、それで頭を打ったか何かなんだろうけれど。気がついたら、真っ白なところにいた。何もない、すごく眩しい、真っ白な空間だった。おれはそこに、ただ立ってて……そうしたら、どこからか、声が聞こえた」
「声?」
「そう。あれは誰の声かな。よく覚えていないけど。でもね、その声が、こんな風におれに言った」
「……なんて?」
 神生さんはそこでしばらく黙った。やがて、誠が好きな、あの笑顔を浮かべて、続ける。
「『あなたの生涯には、なにひとつ幸せはありませんでした。あまりに可哀想だから、最後にひとつだけ、望みを叶えてあげましょう』って。誰だろうね、そんなことを言うのは。神様かな」
「まさか、それで?」
「そう。おれはきみに会いたかったんだ、皆木くん」
「どうして……」
 どうして、こんなことが。どうして、この人がそんな目に。どうして、最後のひとつだけの望みで、誠の名前が出てくるのか。たくさんの「どうして」があった。どれも誠のほんとうの気持ちだった。頭の中も心もぐちゃぐちゃで、何も考えられなかった。
「さっき、言ったよね。お酒を飲んだきみが、いろんなことを話してくれたって。皆木くんはどうやら、完全に忘れてしまってるみたいだけど。あの時きみは、もう、べろんべろんに酔っ払っていて、最初は辛そうだったけれど、しばらく横になって休んでいたら、ちょっとは楽になったんだろうね。おれが自分から話しかけなくても、たくさん話をしてくれた。自分がどうして、本屋でバイトをしてるのか。どんな本が好きなのか。普段、バイトの他の子たちと、あんまりうまくいってないとか。いつか自分でも、小説を書いてみたいと思ってることとか。あと、それと」
 そんなにたくさんのことを、この人にさらけ出してしまっていたのだ。すっかり、記憶からは抜けている。小説を書きたいことなんて、誰にも、打ち明けたことはない。言ったところで、おまえみたいなつまらない奴が書いたものなんて、つまらないに決まっている、と鼻で笑われて終わりだ。
 他の誰でもない誠自身が、誰よりもそのことを分かっていた。
「……それと、こんなことを言っていた。『次に生まれ変わったら、おれは神生さんみたいな人間になりたい』って」
 それは、誠の真実の気持ちだった。この人に、憧れていた。他者としても、理想とする、自分の姿としても。こんな風になれたらいいなといつも思っていた。そばにいる人をみんな幸せに出来て、関わる人に、誰ひとり、嫌な思いをさせない。神生さんのようになれたら、どんなにかいいだろうと思ってきた。まさかそれを、よりによって当の本人に、面と向かって言ってしまうなんて。
「その時は、おれも、笑って済ませちゃったんだけどね。でも、だからかな。真っ先に、きみのことを思い出したのは」
「『最後』、の?」
「そう。ああ、これは大変だな、って、そう思って」
「……なにが、大変なんですか」
「だって、言っただろ。おれはずっと、自分のことを、幸せなやつだと思ってきた。欲しいものは何でも手に入って、やりたいことは全部やれていた。幸せってこんなものなんだろうなって、ずっと、そう思っていたんだ。でも」
 それまでずっと、微笑みを崩さなかった神生さんの表情が、はじめて、少しだけ揺らいだ。これまでに一度も見たことのないような顔だった。悲しそうな。少し何か言えば、簡単に、崩れてしまいそうな、そんな弱い表情だった。
「おれの生涯には、なにひとつ幸せはなかった、んだってさ」
 見ていられなくて、思わず、その頬に手を伸ばして触れていた。誠も、さっきから泣きそうな気分のままだ。神生さんが、自分と同じようなそんな顔をするのが、何故だか妙に愛しかった。ほんとうなら、好きな人には、悲しい顔なんて、させたくないものだと、そう分かってはいたけれど。
 触れた頬は冷たかった。手のひらで包むようにして、温めようとする。それでも、いくら熱を移そうと思っても、そこはずっと冷たいままだった。
「だから、きみはそんな風に思ってはいけない。こんなものになりたいなんて、そんなことを考えては駄目だよ」
 頬に触れた誠の手の上に、神生さんが自分の手を重ねる。最初から冷たかったその手は、かつてはどんなに温かかっただろうと、そんなことを考えた。
「……でも、おれは」
 白い頬がやけに目につくと思ったら、いつの間にか、雲に隠れていた月が顔を出していた。透き通るほのかな弱い光が、その姿を白く浮き上がらせるように照らしている。もう、会えなくなる。何故だかそう思った。
「おれは、あなたがいて、幸せでした。生きるって、つらくて、嫌なことばっかりだけど。でも、神生さんを見てると、そういうの、忘れられた。ひとりになると、またつらかったけど。でも、おれは」
 だから、そう告げるのに、迷わなかった。
「おれは、あなたが、好きだったから」
 言ってしまうとそれは、自分でも驚くほど滑らかに、あたりまえで、当然のことのように伝えられた。
 神生さんはしばらく、まるで驚いたように、目を大きく開けて何も言わなかった。やがて、声をたてて笑って、冷たいその手で、誠を冷たい胸に引き寄せた。
「もっと、きみとこうして話していれば、おれの生涯に何の幸せもないようなことは、なかったかもしれないね」
 惜しいことをした、と言って、神生さんは笑った。
「ありがとう。こんな、何もないおれを、好きでいてくれて」
 腕を回され、抱擁される。目を閉じて、息を吐く。幸せだった。
「おれの人生に、きみがいてくれてよかった。元気で、誠くん」
 その言葉のおしまいに、唇の辺りに、冷たいなにかが触れた気がした。
 それが、最後だった。

 ……次に目を開けると、そこは自分の部屋だった。なんとなく、そうではないかと、そんな気はしていた。
 時計を見ると、まだ、二十三時を少し過ぎたあたりを指している。けれど濡れていたはずの洗い髪はすっかり乾いていて、なにより、玄関にあった靴をひっくり返してみると、細かい砂粒がたくさん落ちてきた。
 ずいぶん、短い、旅だった。
 涙が一粒、床に落ちる。せめて、明日からは。
 せめて明日からは、長い旅のことを、考えよう。これから、先のこと。
 幸せは、もう知った。だからもう、なにもない誠ではない。やっぱり、つらくて、嫌になることばかり、あるだろうけれど。涙を拭って、裏返していた靴を、元に戻す。それでも、絶対に、忘れない。
 だから、これからの長い旅路にも、きっと、一緒にいられる。

 ポケットの中で、携帯電話が震えた。


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